笑顔は心の特効薬

ももじり

絶望と出会いの物語

 いつも通りの景色、いつもど通りの電車、何気ない日常は何も意識せずとも過ぎて行く。いつも通りの駅で降り、いつも通りの改札を人の流れに身をまかせ抜けて行く。


 いつもと違っているのは———そう、違っているのは気持ちだけ。周りの人間、つまり他人から見ればいつもと何も変わらない日常だ。違うのは俺だけだと———そう思うのはただの自意識過剰なのかもしれない。


 今日、人間は本当に恐ろしいものなのだと知った。遅過ぎたんだ。もっと早く気づいていれば、もう少し目を向けていれば、と電車の中で何度思っただろうか、それすらも覚えていない。


 世の中は理不尽だと言う人は世の中に何人いるだろうか。多くの人が他人や組織あるいは社会のあり方そのものに疑問を抱き、嘆き、吐き出した嫉妬を飲み込み押しこらえて生きているだろう。


 ——どうしてあいつだけ———上司だからってなんでも言いやがって——


 しかし、本当の被害者は嫉妬される側の人間であることを根底では理解しているのもまた人間だ。


 俺もそういう人間だった。能力のある人間、才能があると謳われる人間、そういった人たちを支えているものは生まれながらの力ではなく、後天的に身につけたもの、つまり『努力』であると。そう思っていた、そう思っていたんだ——今日までは。


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 俺は今日会社をクビになった。所謂いわゆるリストラされたのである。前触れはなくそれは突然に訪れた。


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 俺は今日会社に着くと、上司に会議室に来るように言われた。カバンをデスクに置き、ネクタイを整え、少しの緊張とともに会議室へ向かった。俺は、会議室の前で一度呼吸を整えてから、一度——コンコン——とドアを叩き、ドアノブに手を伸ばした。


「失礼します‥‥」


 挨拶をしてから俺は顔を上げた。


 部屋の中にいたのは俺を呼んだ張本人であるはずの上司ではなく、会社内では1日に一度見るか見ないか分からないほどの人物だった。だが、俺はこの人物について知っている事があった。それは例の上司よりもこの会社において高い地位を築いているという事である。この人物に対する例の上司の態度、言葉遣い、その全てが俺に対する態度の何倍も丁寧なものであったことから推測できる。

 俺は、目の前の人物から向けられる視線、部屋の雰囲気、視界に入るもの全てから不安を煽られるような錯覚に陥った気がした。その人物は何も言わずただ手招きをして、俺を椅子に座るように促した。


 年齢は50歳ほどで白髪の多い人だった。近くで顔を見たことがなかったため、いざ見てみると、俗にいうオーラのある人という感じの印象であった。


 席に着くと沈黙が続いた。とてもとても長く感じられたその空気は鉛のように重い。


「何か‥‥用件でしょうか」


 一向に喋りだす気配がないので、こちらから聞いてみることにした。何を言われるだろう、ダメ出しだろうか、それともねぎらいの言葉でもくれるのだろうか、あるいはいつものように新しいプロジェクトの企画についての資料制作を頼まれるのだろうか、それとも———


「君は明日から会社に来なくていい」


 ——君、は、明、日、か、ら、会、社、に、来、な、く、て、い、い——


 何故だろう。刹那の間にそう何度自問自答したことだろう。何故俺がクビになったのかという問いではない。クビを宣告されて驚くことのなかった自分自身の感情のに対してだ。自分でも薄々気づいていたのかもしれない。企画の資料制作ばかりの毎日。同期の同僚とは雲泥の差だった。


 デスクの荷物をダンボールに詰める俺。そんな俺を蔑むような目で見る同僚や上司。その全てが作る出す雰囲気を心地良いとまで思ってしまう俺は末期だろうか。俺は少しばかり後ろ髪を引かれるような気持ちで会社を後にした。


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 電車に揺られている間に何度もフラッシュバックする言葉。それはクビの宣告ではない。


 ——お前‥‥人生終わったな——


 会社からの帰り際、偶然エレベーターで出くわした同僚に言われた言葉だ。その同僚とは初め同じプロジェクトで共に頑張っていた。居酒屋で酒を飲みながら将来の抱負を語り合ったこともある。しかし、その同僚とはそれきりだった。そして今日、彼が俺へ向けた目は以前のものとは随分と違ったものだった。嘲笑を含みながら言い放った言葉はクビの宣告なんかよりも、もっともっと重くのしかかってきた。


 ——27歳男性無職——


 確かに人生終わってるな。同僚の言った通りだと思った。自嘲してしまうほど実に哀れな人間だと思った。27歳にして貼られたこのレッテルは俺をどのように縛り付けていくのだろうか。まだ分からない。分かりたくもない。どうにか気分を晴らすことが出来ないかといつもと同じように本屋へ向かう。


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 改札を抜けて徒歩15分、いつもの道、いつもの景色、しかし、今日は夕方ではなくまだ11時だ。昨日も訪れた本屋。空の様子が違っているだけでまるで隣町の本屋に来たような気分になる。駐車場には車が少し止まっている。自転車はそこそこだ。しかし、夕方に比べるとずいぶん少ない。当たり前か。平日のこの時間から来客が多い方がおかしい。また自嘲が溢れる。


「いらっしゃいませ〜」


 店内に入ると同時にアルバイトであろう若い店員の威勢のいい声が響く。その若さが今の俺には眩しくも腹立たしくもあった。


 店内では、雑誌を立ち読みする人、文学小説を凝視する人、あるいは文房具を選んでいる人など、それぞれが思い思いの時間を過ごしていた。俺は迷わず漫画コーナーへ向かう。漫画コーナーには一人の女性がいるだけで他は誰もいなかった。俺は今購読している漫画の最新刊なら全て発売日に揃えているので、気になっている漫画や、友人に勧められた漫画を手にとって暇をつぶす。そうやってダラダラと時間を過ごそうとしていた時、一冊の漫画が目についた。気になっていたわけでも、誰かに勧められていたわけでもない。しかし、なぜかその漫画に意識が引き寄せられた。それを手に取ろうとしたその時———


「あっ‥‥」


 同じ漫画を取ろうとした女性が驚きの声を漏らす。俺はあまり驚かなかった。その女性は22歳くらいの見た目で、黒いスーツを着ていた。就活生だろうか、少し疲れている様子でその目の下にはうっすらとクマがあった。しかし、顔立ちは整っていて薄すぎず濃すぎずのメイクは彼女の魅力をとても引き出しているようだった。


「すみません!!どうぞ!」


 彼女はその漫画を手に取り俺に差し出した。


「別にいいよ、特に買うつもりもなかったから」

「そうですか‥‥あれっ?」

「どうかした?」


 彼女は俺のことをまじまじと見つめ何か考えるようなそぶりを見せた。


「あ、‥‥なんでもありません!」

「あの、‥‥漫画好きなんですか?」

「まあまあかな。趣味を聞かれたらそう答えるくらいは好きだよ」


 会社———その言葉を使うのに抵抗を覚えた俺は苦笑いをしてみせた。なぜか恥ずかしくなってきた。今日会社をクビになったなんて初対面の女性に言えるはずがない。彼女がどういう反応をするのか———少し怖い気もした。悲観的な自分。しかし、彼女はそんな俺の言葉を聞いて少し間を置いてから満面の笑みを顔に広げ俺の瞳を覗いた。吸い込まれるような感覚、味わったことのない感覚、初めての感覚。見ていると負の感情を全て忘れられるような気がした。


「私も漫画大好きです!家ではいつも漫画を読んで過ごしてるんですよ」

「そうなんだ。オススメの漫画とかあるの」

「えっとですね‥‥私のオススメは‥‥」


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 どれくらい時間が経っただろう。彼女との会話はとても楽しかった。気づけば俺はずっと笑顔でいた。思い出したくない現実から離れられる気がした。そんな時間も終わりを迎える。


「あの、すみません‥‥あと20分で到着する電車に乗らないといけないので」


 彼女は手を合わせ、ごめんなさいと言って頭を下げる。


「とても楽しかったです!ありがとうございました!」

「こちらこそ‥ありがとね‥‥」


 俺はニコッと笑ってみせる。そうして俺と彼女は本屋を後にする。建物を出たところで彼女は振り返り俺の方に顔を向けた。


「あの、‥‥明日もここでお話ししませんか?今日と同じ時間で‥‥」


 俺は一瞬返事に困る。明日は水曜日だ。普通のサラリーマンがその時間に暇なわけがない。しかし、俺は迷いを押し殺し返事をした。


「いいよ。なら今日と同じ時間にこの本屋で‥‥」

「はい!わかりました。ではまた明日!」

「うん、また明日‥‥」


 彼女は笑みを浮かべた後、振り返り足早に俺の家とは逆方向、つまり駅の方へ向かっていった。彼女は俺が平日であるのに暇であることに何も追求してこなかった。俺は少しホッとしていた。見栄を張りたいだけなのかもしれない。しかし彼女であっても会社をクビになったことを言い出す気にはなれなかった。特に用事もない俺はまっすぐに家に帰ることにした。


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 歩き始めて約10分、俺は家に到着した。3階建てのアパートでワンルーム。一人暮らしには十分だ。鍵を開け中に入ると、俺は真っ先に冷蔵庫を開けビールを手に取ると、荷物を放り投げソファに腰をかける。——プシュッ——缶ビールを開ける音が部屋に響く。部屋の電気はつけずテレビの光だけが視界の頼りになる。ビールを飲みながら考え事をする。そう、彼女のことだ。あの笑顔が頭から離れない。明日のことを考えるだけで楽しい気分になる。彼女は思ったよりも随分明るい性格だった。話していてとても心地良かった。両親への連絡、荷物の整理、やらなければいけないことを全て放棄し、俺は明日寝坊しないようにアラームを設定した。


 ダラダラと酒を飲んでるうちに陽は沈みテレビ番組はバラエティ番組が多くなっている。外が暗くなっていくとともに俺の意識は朦朧としていく。俺はテレビを消すと、ベッドに横になる。すると5分もしないうちに俺の意識は夢の中に沈んでいく。


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 ——チロチロリン———チロチロリン——


 アラームの音が鼓膜に届く。同時に意識が覚醒していく。スマホを手に取ると時刻を確認する。9時45分———スマホをソファに置くと、風呂に入るため、俺は重い腰を上げた。昨日は風呂に入ることさえ忘れ寝てしまった。時間にも余裕があるので入念に体を洗い、いつもより長い時間湯船に浸かった。風呂から上がると俺は私服に着替えた。久しぶりの私服だ。最近はスーツしか着ることがなかったが故に、着るのを少しためらったが、心機一転スーツからは一旦離れることにする。自分の身の丈にあったシンプルな服装に着替えた。ラフすぎるかもしれないと思ったが、本屋に行くだけだと言い聞かせクローゼットを後にする。そのあとは特に何かすることもなく、食パンを一枚食べてから家を出発した。


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 家を出たのは10時45分———女性との待ち合わせには15分前には集合場所に到着しておいた方が良いのだろうか。高校生以来彼女がいない俺はその辺の知識には疎い。歩き始めて約10分、待ち合わせの本屋に着いた。彼女はすでに到着していた。彼女は俺に気づくなり手を振り、こっちだと言わんばかりに手を振った。


「ごめん、お待たせ」

「いえいえ〜、私も来たところです!」

「というのは嘘で〜、15分は待ちましたからね?」

「ごめんごめん、こういうの慣れてなくて」

「女性を待たせたらいけないんですからね?」


 彼女は意地悪にそう言うが、顔は笑っていて楽しそうだった。


「今からレストランでご飯でもどうですか?」

「歩いて行けばちょうど良い時間だと思いますよ」

「そうだね、じゃあ行こうか」

「はい!」


 特に断る理由もなく、俺は彼女とレストランい向かうことにした。レストランに向かっている途中は、昨日と同じように漫画の話で盛り上がっていた。空は少し暗い。そういえば天気予報は曇り時々雨だったか。そんなことを考えながら歩いていると20分ほどで目的地のレストランに到着した。俺たちは店内に入ると、店員に案内されしての席に着いた。ガラス窓に面している開放的な席だった。席に着いたちょうどその時、窓の外では俺たちの到着を歓迎するかのように雨が降り出していた。


「何食べます?何か好きな食べ物とかあるんですか?」

「ん〜‥‥ハンバーグ‥‥かな」

「プッ‥‥なんか子供みたいですね」


 彼女はまたあの笑顔を見せて笑った。いつまでも見ていたいと思う。好きになってしまったのだろうか。まだわからない。1つ分かることがあるとすれば、それは一緒にいるととても落ち着くと言うこと。彼女は俺の今の心情をわかっているのだろうか。そんな気がする。俺の個人的なことは何も聞いてこない。今思えば名前だって聞いてこないし俺も聞いていない。聞くつもりもないが———


「そうかな〜、じゃあ君のおすすめにするよ」

「おすすめですか〜、それならペペロンチーノですかね〜。ここのペペロンチーノすごく美味しいんですよ!」

「わかった、じゃあ俺はペペロンチーノにする」

「私もそうすることにします!」


 店員を呼んでオーダーを済ませると、彼女は何か含みのある顔でこちらを覗いていた。


「あの‥‥最近何か不幸なことでもあったんですか?」


 彼女は本当に俺のことを全て知っているのではないかと思ってしまう。不幸なこと。ピンポイントすぎて内心だが少し怖くなった。


「どうしてそう思ったの?」

「だって昨日からすごい顔ですよ本当に。地獄を見たような顔してます」

「マジか‥‥そういえば昨日から鏡見てなかったな。確かに不幸なことはあったかも」


 彼女になら話してもいいかもと思った。そんな思いもちっぽけなプライドが邪魔をして言葉にはならなかった。


「私でよかったら相談に乗りますよ。力になれるか分からないけど‥‥」


 彼女と目があった。彼女は真剣に俺の話を聞こうとしてくれていた。そんな彼女の思いが俺の気持ちを包み込んでくれるような気分になる。しばらく感じることのなかった温かい気持ち。自然と言葉は出てきた。


「詳しくはいえないけど聞いてもらっていいかな‥‥」

「もちろん!話してくれるだけでも嬉しいので」


「昨日少し嫌なこと‥‥いや、かなり嫌なことがあった。何があったかはいえないけど。そのせいで今はどうすればいいかわからないんだ」


 会社をクビになったことはもちろんショックだったが、それよりも人間という生き物の冷たさが俺の心を蝕む。これから何を信じて生きていけばいいのかが分からない。そんな思いばかりが頭の中を支配する。


「俺はこれから何を信じて生きていけばいいんだろうね。人を信じれなくなっちゃったよ」


 苦笑が溢れる。昨日の朝まではこんなじゃなかった。いつもの1日が始まり、いつものように生活するのだと思っていた。でも現実は違った。まだ信じられないけれどそれが真実だ。


「信じなくていいんじゃないですか、別に」

「えっ‥‥」


 しばらく俺の話を聞いていた彼女が口を開いたと思えば彼女の口から出た言葉は思いがけないものだった。


「信じる価値のない人を信じようとするなんて時間の無駄ですよ。きっと」

「じゃあ俺は一生一人で生きていくしかないのか?」


 一生一人の人生なんておそらく俺は生きていけないだろうと思う。今までの人生なんだかんだ人に頼りっぱなしの人生だった。だからこそ今回の会社のクビは俺にとって大きなショックとなったのだ。


「違います!!」


 今日会ってから一番大きな声量だった。少し周りの視線を感じたが。そんなことはどうでもよかった。


「信じる価値のある人だけ信じればいいってことです!これから生きていく中できっとあなたの支えになるような人、あなたを信じてくれる人がきっと現れるはずです。だから!‥‥だから‥‥そんな人に出会ったら勇気を持って信じてみてください!」


「そんな人が現れるとは思えないよ」


「‥‥どうしてですか」


 思い出したくもない。一度は信用していたのに裏切られた。あいつの笑った顔だけは絶対に忘れない。結局あの思いをするなら初めから信用しなければよかった。だから———


「信用した人間に裏切られたからだよ。信じてたのに‥‥」


「そうだったんですか‥‥それでも‥‥それでも絶対信頼できる人は現れるはずです」


「どうして言い切れるんだよ」


 根拠のないことを言ってきた彼女に少しイラついて強く当たってしまった。最低だと思う。自分は相談に乗ってもらっている側なのに。それでも彼女は表情を変えない。どうして彼女はこんなにも俺に対して真剣に向き合ってくれるのだろうか———


「私があなたを信じているからです。昨日あなたと話していて思ったんです。この人は純粋な心を持っているんだって。漫画の話をしていた時、最初は遠慮してたけど話をしているうちにどんどん自分から話してくれて、とても楽しかった。本当に漫画が好きなんだなって、そう思ったんです」


 初めてだった。ここまで真剣に思いを伝えてくれる人は。ただただ嬉しかった。こんな自分を信頼してくれる人がいることが、目を見て話してくれることが、俺のことを信じてくれることが。自分はここまで真剣に人と向き合ったことはなかった。向き合おうともしなかったんだと思う。そんな俺に彼女は大切なことを教えてくれた。俺はなんと言えばいいかわからなかった。だからこそ今自分が心から思っていることを言おうと思った。


「ありがとう」


 自然と顔が笑顔で満たされた。それと同時に目頭が熱くなる。心のわだかまりが解けていくような感覚になる。彼女はそんな俺を見て満面の笑みで覗き込むように微笑む。あぁ、彼女と出会えてよかった。本当に良かった。


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「それじゃあ‥‥またいつか!」

「そうだね。またいつか」


 あれからたわいもない話をしていたらかなりの時間が過ぎていた。あんな言い合いをした後なのにな。やっぱり彼女との会話は楽しい。いつの間にか雨も降り止んでいた。時刻はもう5時ごろだろうか。昼間よりも人が増えた気がする。


「さようなら!」


 彼女は振り返ると駅の方向へ足を向けた。名前も知らない女の子。笑顔が素敵な女の子。いつも明るい女の子。なんだか寂しいような苦しいような感情が湧いてくる。俺は彼女を好きになっていたにかもしれない。こんな気持ちいつぶりだろうか。連絡先くらい聞いておこうとは思った。でも、今彼女に寄りかかれば俺は一生ダメな人間になってしまう気がした。


「‥‥あ、あの!」


 今彼女に一番伝えたいこと。今心はすごく晴れ晴れしている。言葉は考えずとも出てきた。


「本当に本当に‥‥ありがとう」


 彼女は振り向くと満面の笑みで微笑んだ。吸い込まれるような笑顔だった。何もかも忘れられるような笑顔。いつまでも見ていたい笑顔。俺も自然と笑顔になっていた。彼女はもう一度振り向くと駅へと向かっていった。


 明日からはどうなるかわからない。でも、精一杯生きてみようと思う。彼女のように。いつか自分のような人になったとき自信を持って相談に乗ってあげられるように。


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 私は今日会社をクビになった。クビを宣告された時は何を言われたのか理解できなかった。冷たい声だけが耳に入る。デスクに戻ると周りから視線を感じる。それもそうだろう、いきなり荷物をダンボールに詰め始めたんだから。その空気に耐えられず足早にオフィスを出ようとした時、私と同じようにダンボールを抱えて出て行く人を見かけた。あの人もクビになったのかな。私はいつも行っている本屋へ向かった。嫌なことがあった日はいつもここに来る。店内に入って漫画コーナーで時間を潰していると、さっき会社で見かけた人と偶然出会った。彼はすごく深刻な顔をしていた。本人は気づいていないのだろうか。彼も漫画が好きみたいだ。会話はとても楽しかった。会社をクビになったことをその時間だけは忘れられた気がする。電車の時間が来たので帰らないといけない。私は彼に何かお礼をしたいと思った。彼にしてあげられること。考えた結果思いついたのは彼の心に寄り添ってあげることだった。おせっかいかもしれないけど思い切って誘ってみる。彼はすぐに返事をくれた。私が相談に乗ってあげるはずなのに少し明日が楽しみになった。


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 目覚めるとすぐさま準備を始める。いつもと違った化粧をしたり、服を念入りに選んだり。どうせ彼は気にもしないんだろうけど。少し馬鹿馬鹿しくなった。少し早めに家を出ると彼よりも先に着いた。少しすると彼がやってきた。私は特に何も考えていなかったのでレストランに行こうと提案した。すると彼も賛成してくれた。レストランにつきオーダーを済ませると、私は彼に相談に乗りたいと伝えた。するとやっぱり彼は深刻な顔をした。それでも諦めずにいると彼は少しずつ話してくれた、今の思いを。自分のことを言われている様だった。私はそれを聞いて、今まで言ったことのない様なことを彼に言った。自分に言い聞かせる様に。


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 私の言葉がどこまで響いてくれたかは分からない。でも、少しでも彼の心の支えになってくれればいいと思う。彼と別れて駅へ向かおうとしてすぐ、なぜか涙がでできた。一粒、また一粒と。彼のこと好きになっちゃったのかな。そのまま駅へ向かおうとしたのに、彼は私を引き止めた。こんな顔見せられるわけない。私はいつもの笑顔を作る。彼に笑顔を見せるのは何度目だろう。最後の最後で偽りの笑顔なんて嫌だけど。私は自分にごめんなさいと言い聞かせ振り返る。彼を見るとまた泣きそうになる。だから彼のことが見えないくらいくしゃくしゃの笑顔で彼を見た。気づかれてないかな。私今どんな顔だろう。そのやり取りもつかの間、私はもう一度振り返ると駅へと歩き始めた。今までにないほど大粒の涙とともに。

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