土の香り
逢雲千生
土の香り
雨が降ると思い出すのは、日常では嗅ぎ慣れない土の匂い。
雨によって柔らかくなった土が、暖かく湿った空気に混ざり、独特の香りを立たせるのが苦手だった。
空はまだ薄暗い。
まだまだ止みそうにない雨音を聞きながら、
あれはまだ、自分が学生の頃だ。
馬鹿をするには大人で、落ち着くには若い年頃だった私は、しょうもない仲間とつるんで遊び歩いていた。
都会から少し離れた場所に住んでいた自分は、これといった娯楽の無さに飽き飽きしていて、勉強もろくにしないまま、
都会と呼ぶには建物が少ないあの場所では、男にとって絶交の遊びがあった。
女性の社会進出というものが新聞で取り上げられ、少しずつ治安も良くなり、都心では女性の一人歩きも増えてきた頃なので、馬鹿な男が考えつく遊びなど、決まって女性絡みの事ばかりだ。
あちらのグループでは、女性を百人ナンパした。
こちらのグループでは、二百人の女性と付き合った。
そんなしょうもない張り合いをするのは可愛い方で、私がいたグループは、お
あの日は、昼頃から、天気が良くない日だった。
暇つぶしに始めたナンパはうまくいかず、雨が降りそうだからと、道を歩く人もまばらだった。
いつもならば酒を買い、誰かの家で
仲間の一人が失恋したからだったのか、それとも、母親が男と浮気したという、誰かの昔話を聞いていたからか。
妙に荒れた空気が、グループ内に
「おい、何かねえのかよ」
グループのリーダーがそう言うと、腰の低い奴らはみんな、顔を見合わせて
機嫌の悪いリーダーを相手にすれば、誰かしら怪我をすると知っているからこその態度だった。
しばらく様子を
そのまま夜になった。
私が入っていたグループの
さすがに今日は、ナンパなど無理だろうと諦めかけた時、道の向こうから女性が見えた。
片手には買い物袋を下げ、二十歳くらいの女性が近づいてくる。
学生なのか、それとも社会人か。
普通の服装なので判断しづらかったが、成人していることはわかった。
浮き足立つメンバーに先立って声をかけたのは、リーダーだった。
不安そうな顔で歩き続ける彼女を口説こうと、しつこいくらいに声をかけ続けた彼だったが、やはりうまくいかない日はうまくいかないものだ。
しつこいとばかりに、肩に触れた男の手をはたき落とした彼女は、足早にその場を立ち去ろうとした。
またフラれたな。
慣れた様子で、彼女が去る姿を見るつもりだったが、一瞬で彼女が消えた。
驚いて立ち上がると、同じように立ち上がったメンバーが悲鳴を上げた。
「リーダー。あんた、何やってんすか」
いち早く声を出したのは、グループの
視線を落とすと女性は倒れていて、買い物袋の中身が周囲に散乱している。
何があったんだと考えていると、リーダーは無言で女性の肩を掴み、仰向けにしてのし掛かった。
彼が何をしようとしているのか。
そんな事を頭で理解するより早く、これはまずいと体が動いた。
数人がかりで彼を引き離すが、力任せに振り払われて元に戻ってしまう。
自分の状況を理解した女性が悲鳴を上げると、リーダーの手は、女性の体から首へと移動した。
このままでは危ない、早く止めなくては。
そう思ってリーダーを引き離そうとするが、びくともしない。
動けない若手を怒鳴って手伝わせるが、本気になった男一人を動かすことは
古参メンバーが正気に戻させようと声をかける。
怒鳴るような声と、震える声が混ざり、しだいに女性の声が、か細くなっていく。
何度も何度も、彼を引き離そうと力を込めると、ようやく彼は女性から手を離した。
全員の荒れた息が聞こえ、自分も若手達も肩で息をする。
最後の力でリーダーを引っ張ると、簡単に動かすことが出来た。
一人が女性に声を掛ける。
動かないリーダーは仰向けのままで、女性も仰向けのままだ。
これは警察沙汰だな、と頭を抱えたくなった時、女性に声を掛けた男が悲鳴を上げた。
「し、死んでる……!」
何を言っているのか、わからなかった。
どういうことだと、私は女性に近づいて顔を覗きこむと、彼女は目を半開きにして、口をわずかに開けたまま微動だにしない。
これはまさか、と思い、鼻と口に手のひらを当てて確認するが、息は無かった。
リーダーを見ると、彼は両手で顔を覆って震えている。
彼もわかってしまったのだろう。
自分が女性を殺してしまったことを。
救命の知識など無かった私達は、どうすることも出来ず、ただ呆然と彼女を見つめるだけだった。
しばらく経っただろうか。
古参の一人が立ち上がると、近くの家まで走って戻ってきた。
手には、シャベルと
「おい、そっち持て」
別の古参に言われて、女性の両脇を持つと、抱えるように持ち上げた。
それからは、あっという間のことだった。
慣れた手つきで古参達は女性を車に乗せ、近くの山まで行くと、車で
辺りは暗く、登り慣れていなければわからないほど狭い道を、運転手は簡単に進んでいった。
到着したのは山の上で、木々の間から小さな灯りが見える。
かなり上まで登ってきたようで、人の気配どころか、獣の気配すら感じられない場所だった。
「いいか、出来るだけ深く掘れよ。浅く掘ると獣に見つかるからな」
そう言われて、シャベルを持たされた。
若手と中堅で大きな穴を掘らされ、
慣れない作業で汗だくになり、これ以上は無理だというところで穴は完成した。
「よし。お前らは車に戻ってろよ」
古参達に言われ、私達は車まで戻った。
リーダー達が何をしているのかなど、みんなわかっているのだろう。
無言で席に座る彼らの顔は、罪を犯したことを受け入れた罪人のように真っ青だ。
きっと自分も同じ顔をしていたはずだ。
震える手を無理矢理押さえ、肩も震わせてうつむく。
リーダー達が戻ってくるまで、誰も何も言わない。
いや、言えないのだ。
ここで声を出したら、罪悪感に押しつぶされてしまうのは明らかだったからだ。
リーダー達は戻ってくると、黙っていろだとか、これで共犯だとか、ドラマで聴くようなセリフは言わなかった。
ただ無言でこちらを見ると、疲れた顔で前を向いただけだった。
それから間もなく、私がいたグループは警察に捕まった。
殺人の件ではなく、仲間の一人が薬に手を出していたからだ。
ずいぶん前からだったことと、当時騒がれていた薬物だったこともあり、関係ない私達も捕まり、別の件で服役することになってしまったのだ。
幸いにも、私は裁かれる罪が軽かったため、短い期間で済んだが、古参達と一部の若手は暴行事件が見つかり、長い間お世話になることとなった。
他の奴らは、それなりの期間を刑務所で過ごすと、二度と悪い事はしないと反省したらしい。
薬で捕まった男は今も服役していて、あと数年ほど刑期が残っていると、数年前に噂で聞いただけだ。
私はと言うと、今は家庭を持って別の町で暮らしている。
自然豊かな町で、妻の実家が農家という事もあり、時々畑仕事を手伝ってはいるが、そのたびにあの日の事を思い出してしまう。
半開きの目で息絶えた彼女は、今でも行方不明のまま、冷たい土の中に埋まっている。
事件としては時効だが、家庭を持ち、家族というもののありがたさを知った今、警察に自首しようかどうか悩んでいる。
湿った山の土は、独特の香りがしていた。
今住んでいる家の裏手も山で、風の向き次第で何度でも思い出してしまう。
そのたびに、いや、雨が降って匂いが濃くなるたびに、罪悪感で悲鳴を上げたくなるのだ。
子供達は大きくなり、娘は卒業を機に家を出て行く。
そんな、めでたくも悲しい日に降った雨は、上がる前から私に罪悪感を与えてきたのだ。
荷物を積んだトラックが門の外で待っている。
妻と別れを惜しむ娘に近づき、頑張れよと声を掛けると、娘は涙ぐんでうなずく。
引っ越し業者が娘を呼び、しばらくの別れだと目を潤ませた時、娘が言った。
「あのね、お父さん。ずっと聞きたかったことがあるんだ」
珍しく言いよどむ娘に、「どうしたんだ、改まって」と笑って言うが、彼女は言いにくそうに何度もうつむき、妻に心配されている。
何かあったのかと尋ねると、娘は違うと首を振った。
引っ越し業者を待たせているので、娘もこれ以上は引き止められないと思ったのか、業者の男性に謝って時間をもらうと、私を真っ直ぐ見てこう言った。
「あのね、お父さん。どうしていつも、知らない女の人といたの?」
「……なに?」
妻が私を見た。
知らない女とは誰のことだ。
私は浮気などしていないし、妻以外の女性と会うのは会社くらいなものだ。
「何を言っているんだ。私が浮気でもしていると言うのか」
冗談を言うな、と怒った声で答えるが、娘は納得できないようだ。
「何言っているのよ。お父さんみたいな
妻は笑うが、たまりかねた娘は、涙目で私を指さした。
「嘘っ。だってお父さん、いつも女の人と一緒じゃない。朝も夜も、家にいる時はいつもそう。お父さんがいない時には、寝室にいるのだってわかってるんだからね」
こぼれた涙に、妻も驚いた顔で私を見た。
だが、私には本当に身に覚えが無かった。
それに、家にそんな女がいれば、誰かが気づくはずだ。
義父母もやってきて、泣く娘をなだめるが、不思議そうな顔で私を見るだけだ。
すると、待っていた業者が来て、時間が無いと娘に伝えると、泣き続ける彼女を乗せて行ってしまった。
いったい何の事だ。
女性など知らないし、家族は誰も見ていないという。
私も知らないことを、なぜ娘は知っていたのだろうか。
子供のいなくなった家は静かで、娘の言葉に衝撃を受けた妻も、見た事が無い女性を疑うことは無かった。
孫が泣いていた理由を聞いた義父母も同じで、あれから家中を探したが、女性を見つけることは出来なかった。
今日から家族四人の生活が始まる。
お風呂から上がって、先に眠った義父母の部屋を通り過ぎると、夫婦の寝室へと歩いて行く。
今度の休みは、妻と出かけようか。
いいや、それとも、四人で出かけようか。
そんなことを考えながら寝室のドアを開ける。
ベッドで雑誌を読んでいる妻に声を掛けようと。顔を上げると、時間が止まるほど背筋が凍り付いた。
知らない女性がいる。
娘は、そう言っていた。
そんな人に心当たりは無い、と思っていたが、実は一人だけあった。
しかし、そんなはずはないと黙っていたが、今はもう誤魔化すことすらできない。
不思議がる妻の斜め上を見たまま、私は凍ったように体が動かなくなった。
全身が泥まみれで、うつむいたままの女性は、忘れられない服装でベッドの脇に立っている。
ゆっくりと顔が上がり、忘れられない顔が私を見た。
半開きの目に、わずかに開いたままの口。
腫れた顔で私を見る彼女は、ゆっくりと笑った。
土の香り 逢雲千生 @houn_itsuki
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