会い変わらず物語

藤井 狐音

会い変わらず物語

 桜の枝が、そよそよと揺れていた。

 手を振っているみたいだ、と僕は思った。その下で、同輩たちが集まっては写真を撮っている。帰ろうとする僕を、気に留めるよう人はいない。

 びゅうっと、強い風が吹き抜けた。花びらの幕が、彼らを覆う。僕は数歩も離れた校門の外で、それを見ていた。

 疎外感が、腑に落ちる。僕がこうして人里に降りてくるのは、この三年に限ってのことだ。僕が少年でいられるのも、これまでになる。

 端からわかっていたことだ、傷は浅い。それでも、惜しい人の一人はいた。最後に、言葉を交わしておきたくなるような人が。


 ——その人は、校舎の奥の奥、閉館した図書室の裏口に寄りかかって、のんびりと文庫を読んでいた。

「こんなところにいていいのかい?」

そう訊いたのは彼女のほう。君こそ、と僕は応える。

「私は帰れないのさ。これを読み終えるまでは」

 彼女が読んでいたのは、古典の全集だった。なんで今なんだろう、何かの課題だろうか? 怪訝に思っていると、彼女は一言でその疑問に答えた。

「延滞図書」

卒業するその日まで返さないやつがあるか、と僕は半ば呆れる。

「読もうと思って借りたとしても、いざ読む暇ができてみるとその気じゃなくなってる、なんてこともあるものでね。また読みたくなる時が来るのを待っているうちに、ずいぶんな日が経っている——それは本に限ったことでもない。いろんなことができないうちに、今日が来てしまったな」

 君はないかい? と彼女は本を閉じて僕に尋ねた。やり残したこと。あまりないかな、と僕は答えた。

「高校生活に望んでいたのは、勉強だけだったから。付き合いも思い出も、卒業したら続きはない。それが虚しくて、友達だって作らな——」

「嘘つき」

僕の言葉を遮る、彼女の口角が上がる。

「ああいや、嘘はついていないのかな。結果論か。でも、いずれにせよ、ここに来たのは紛れもなく、惜しい縁があったからでしょう?」

見透かされたような耳触り。君ばかり僕を知っている、そんな隔たりが胸を締めつける。

「……関わらなきゃよかったかな」

自分から惹かれてしまったのに、そんな言葉が嫌味になるはずもない。彼女も、できっこないよと言い切った。

「そんな器用な人間、そうそういないよ。それとも人間はここ三年が初めてかな? なら覚えとき、惹かれるって気持ちに、避けようも、防ぎようも、目の背けようもないってね」

 かくいう私も——と言いかけて、彼女は口をつぐんだ。口元に文庫を据えて、意味ありげに視線を向けてくる。そこまで言っておいて、続く言葉を誤魔化せるわけもない。

「探しにも来なければ、呼び止めもしなかったのに?」

「そういう別れもまた一興。……まあ、君が来てくれて安心した自分もいるけど」

そう言って、彼女は再び文庫を開き、紙の上に視線を落とした。

「君は、もう私と会うことはなさそうだよね」

顔を上げず、自明のことのように彼女は言った。

「何でだろうな……きっと、会いたいとは何度も願ってくれるのに。結局、会わないことをよしとする。君はそんな生き方をしそうだ」

 僕は、そうとも違うとも言わなかった。ただ、

「また会いたいよ」

とだけ、それだけ伝えた。


 彼女の予想した通り、僕はそれから会いたいという気持ちを抱え続けて、けれど決して会うために行動を起こすことはしなかった。

 代わりにすることといえば、ただ山中の池の水面に、少年の顔を浮かべるだけだ。知る由も変わっていくだろう、あの人の姿は、そこには映しえなかった。


 あれから五年も経れば、僕はもう老齢だった。

 木の幹で喚く声は物寂しいものに替わって、草陰からもささやかな音色が聞こえ出している。暦の上では九月にあたる頃だろうか。いつもの水辺も、そろそろ僕に馴染む色合いと趣に移ろいだす。これからは、僕もまた枯れてゆくときだ。

 池のほとりに出てくると、何やら慣れない異臭が鼻をついた。匂いのするほうへ視線をやると、脇に倒れた木の幹に、人間が一人腰かけているのが見えた。その人は、コンビニの袋を傍らに置き、手指に挟んだ小さな棒切れを咥えては離して、白い煙を吐いていた。

 嗅覚が塗りつぶされ、全身が灰色にまみれそうな厭な心地に、僕はたまらず身を翻した。けれど、いざその場を去ろうとすると、なんだかその人影のことが気にかかって、結局僕は倒木のほうへと歩を進めた。

「んあ——」

こちらの気管を冒すような呼気とともに、その人は声を漏らした。おや、おやおやと口先で感嘆しながら、空いた手を僕の額に伸ばしてくる。

 撫でる手が、いたく弱々しいと思った。上目遣いにその表情を覗いてみると、頬も、耳も、白目もひどく赤らんでいた。かすかに浮かんだ穏やかな笑みが、かえって悲痛に感じられた。

 しばらくして、その人は僕の頭から手を離すと、もう片手にあった小さな棒の先を指で潰して、ジーンズのポケットから取り出した革の容器にそれをしまった。それからまた僕に手を伸ばそうとして、

「……触っていいんだっけか」

と呟いた。

「まあ、いいか——今さら気にすることでもなし」

そう言ったものの、その人は再び僕に触れることはしなかった。ただ、小さく手招きをしたので、僕はその足元に寄り添って、そこで丸くなった。ここまで近付いてようやっと、女の人の匂いを感じた。どこか、懐かしい匂いだった。

「ふふ、いい子だ——」

満足げに、彼女は上体をゆっくりと揺らす。

「可愛い子だ——無防備な、子だ」

ふと、その目に哀れむような色が浮かんだ。

「——誰にでもそんなではダメだよ、なぁ」

その声音が、ひどく胸を締めつける。

「なぁ……でもさ、そこにいてほしいんだ。身勝手だって、わかってるけど」

何も答えない。眠ったように、ただ自分に顔を埋めている。

「ふふ——ありがと」

感謝されるようなことは、していない。


「これは君が、私の言うことをわかってくれているように思うから、あえて言うんだけどさ——君には私の言葉なんて伝わらないだろうと思って、これから勝手な話をする」

「昔——といってもまだ片手で数えられるうちだな、その昔にね、少年が一人いたんだ。そいつがどんな奴だったかは、まるでほとんど覚えていない。一つ確かなのは、私によく懐いた奴だったな。私が自分のことをしていると、あいつはふらりとやってきて、私の背後で鬱陶しくもいったりきたりしてるんだ。ある種気色悪いっちゃそうだったが、覚束ない小動物みたいで愛おしくもあった。ただ具体的に何をしていたかというと、そういう濃い記憶はまるでないんだ」

「いやまあ、あいつがどんな奴だったかなんてのはどうでもいいんだ。大事なのは、あいつが私によく懐いてたってことと、私もまた誰のことを考えるといえば、あいつのことばっかり考えてたってことさ。私のほうもひどくてね、あれから五年、ずっと自分の股ぐらを守ってきたくらいだ。唇も、舌も、手のひらもね」

「もう冷えきってたんだろうな、私は。知れずして、人の体温を求めてたんだ。タガを外すのに、アルコールほど都合のいいものはない」

「ああそう、ついこの間ね、同窓会があったんだ。高校のさ。私のところにも、便りが来てね、あるいはと思って行ってみたんだ。いや、本当にそれだけだったのか、今となっては疑わしいんだけどね」


 彼女は傍らの袋へ手を伸ばすと、金色の缶を取り出して、そのプルタブを弾いた。さっきとは違う臭気が、辺りに漂う。

 自分も喉が渇いた。池の縁までいって、頭を突き出す。

「——ははっ」

ふいに、背後で渇いた笑い声がした。

「あいつが見えるや」

 彼女を顧みて、また向き直って、水面を見ると、そこには少年の顔が映っていた。


びゅうっと、強い風が吹き抜けた。

「……嵐が来る」

そうしようと思うより早く、口が動いた。僕はすっかり、少年に戻っていた。

「死にに来たんだ」

まるですれ違った応答を、彼女は返した。

「台風が来ると、ニュースで言っていた。これじゃあおちおち、酒も飲んでられないな」

さっきのは聞き間違いか、それとも幻聴かな、次に耳にした言葉は会話の体を成していた。


 僕は、手近な洞穴のほうへと歩き出した。


   *


《台風XX号の影響により**山への経路の一部で土砂崩れが発生し、通行できない状態となっています。復旧の目処は立っておらず、最低でも一週間を要する見込みです……》

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