終章
終章
蘭は、大井川線に乗っていた。
初めは金谷駅で、古ぼけた気動車に乗って千頭駅へ。それだけでもかなりの山の中を走るのだが、千頭駅から、さらに井川線に乗り変えようとしたときには、この上にさらに山へ行くのかと、肝をつぶしたくらいだ。こんな不便な電車に、水穂をのせて、接阻峡温泉というところまで連れて行ったのか!と、蘭は、怒りがわいてきてどうしようもなかったのである。
「お客さん。」
名物車掌さんと言われている、一寸歳を取ったおじいさんが、蘭に声をかけてきた。
「何でしょう。」
「切符を拝見させていただきます。」
蘭は、そういわれて、急いで財布の中から切符を取り出した。大井川線には、自動改札機を置いてある駅が少ないため、こうして、社内で切符を拝見というのは、当たり前のようにあるのだが、どうも蘭は、この作業になじめない。
「お客さん、ブスッとして、いったいどこに行くんですか。」
切符を切りながら車掌さんが、そんなことを言った。
「い、いやあ、その接阻峡温泉というところで降りるんですがね。」
と、蘭が言うと、
「ははあ、温泉旅行ですか。あそこは、いいお湯ですよ。なんでも、肌がつるつるになりますので、若返りの湯と言われて、女性のお客様に大評判です。お客さんは、もしかすると、車いすに乗っていらっしゃることから、なにか湯治の目的で接阻峡温泉に行かれるんですかな?」
と、べらべらとしゃべりだす車掌さん。蘭は、ちょっと、不愉快だった。
「いやあ、そういう訳ではないんですけどね。ちょっと、親友に用がありまして。」
「ははあ、そうですか。じゃあ、仲のいいお友達と一緒に、温泉巡りでもするおつもりなんですね。もし、介護タクシーが必要なら、ぜひ大鉄タクシーにお電話をください。直ぐにワゴン車で、駆け付けます。」
そう言って、車掌さんは、切符と一緒に、大鉄タクシーの連絡先を渡した。どうもこの鉄道では、お客さんは全員、観光目的で来ているという様に、定義されてしまっているようだ。
「あのねえ、そういう意味ではないんだけどなあ、、、。」
蘭が、思わずそう言いかけると、
「まあ、いいじゃありませんか。接阻峡は、山奥の、秘伝の湯ですよ。思いっきり楽しんでくださいね。もうすぐ、この大井川鉄道、井川線で、一番の名物であります、奥大井湖上駅に到着しますからね。」
と、車掌さんは、次のお客さんの方へ行ってしまった。しばらく山の中の駅を彷徨するように電車は走って、
「まもなく、奥大井湖上駅に到着いたします。御降りの方は、車内にお忘れ物、落とし物のございませんように、御降りください。」
と、アナウンスが聞こえてきた。ほかの乗客、と言っても、一人か二人しかいないけれど、彼らも、いよいよ来たぜ!とカメラを出したりし始める。
駅に到着する直前、電車はトンネルに入った。とても暗くて長いトンネルだ。しかもこの電車はよくある電車よりも車体が小さいため、何だかくらい坑道を一人で探検しているような、そんな物寂しい感じがしてしまう気がした。
急に電車は明るいところへ出た。長島ダムに到着したのだ。周りは、湖が広がっている。水は澄んでいて、陽光に照らされてキラキラと輝いている。その湖に垂れ下がるように周りに木が生えていた。ほかのお客さんたちは、一斉にシャッターを切る。そして、湖の万真ん中にある半島に、電車は停車した。特に観光案内所があるわけでも無いのだが、お客さんたちは、急いで、電車を降りて行った。たぶん、次の電車に乗って、帰るつもりなのだろう。
「はあ、、、恐ろしい。まるで桃源郷だ。こんな場所に、水穂を連れて行ったのか。」
周りのお客さんたちは、この湖上駅の美しい景色に感動しているようであったが、蘭は、訳の分からない、おそれの渦に巻き込まれた様だった。こんなに美しすぎるほど美しい場所に行ったら、余計に、現世から遠のいてしまう事は疑いない。この桃源郷のような駅から先は、もしかしたら、色究竟天が待っているのかも知れない。
そんなところに行かせるのはまだ早い!必ず取り戻してやる!と蘭は思った。
がったん!と音がして、電車が動き出した。またもう一つのトンネルと潜り抜けて、接阻峡温泉駅に
到着する。トンネルを抜けた先は、本当に色究竟天なのだろうかと蘭は不安で仕方なかったが、駅は、タクシーも何台か止まっている、普通の温泉街の駅という感じだった。
蘭は、先ほどの車掌さんに電車から降ろしてもらって、タクシー乗り場を教えてもらった。既に、一台タクシーが待機していたため、運転手に手伝ってもらって、タクシーに乗せてもらう。運転手に行先を聞かれて、蘭は亀山旅館と迷いなく答えた。
亀山旅館は、駅から少しタクシーで走ったところにあるという。タクシーに乗りながら、周りの景色を見渡した蘭であったが、特に変わったものはない。ただの山岳地帯にある温泉地だ。駅前には、森林露天風呂とかいう、大きな旅館も立っているし、公共の温泉施設もあって、人がにぎわっている。なんだ、ここは色究竟天ではなく、普通の人たちがやってくる、温泉街だ。桃源郷は、あの時だけだったか。と、蘭は大きなため息をついた。
「良かった、ほっとした。」
と、思わずため息をつくと、
「何ですか。ほっとしたなんて変なこと言いますね。お客さん年寄りみたいですねエ。」
と、運転手がカラカラと笑って蘭に言った。
「い、いやあ、前の奥大井湖上駅とぜんぜん違う感じなので驚いてしまった。」
蘭が言うと、運転手は、
「ああ、時折年配のお客さんを乗せると、そういうことを必ずいわれます。ま、あの駅が、素晴らしすぎるというだけの事です。私らは、いつでも変わらず業務を続けてますよ。ははははは。」
と、言った。蘭は、それでよかったと思う。地元に住んでる人まで、この駅を称賛したら、この地に住んでいる人は皆、天人のように見えてしまうかもしれなかった。
「はい、ここですよ。亀山旅館。」
運転手は、亀山旅館と看板のある、建物の前にタクシーを止めた。そして、蘭を素早く下ろしてくれた。蘭が、帰りもお願いします、とお願いすると、運転手は、領収書に書かれている番号に電話をくれといった。蘭は、わかりました、と言って、亀山旅館の正門をくぐった。
亀山旅館は、やや大きいだけの旅館だ。特に複雑な構造もしていない。最近建て直したばかりなのか、まだ新しそうで、すごくきれいな感じの建物だった。とりあえず、車いすで玄関まで行くことはできた。こういう施設は、バリアーフリーになっているから、侵入するには、比較的簡単なのだった。
「こんにちは。」
と、蘭は、玄関の戸をガラッと開ける。ちょっと高齢の仲居頭のおばさんが、玄関を掃除していた所だった。
「あら、ご予約のお客様でございますか?」
「いや、こちらに泊っている、磯野水穂さんという人に会わせていただきたいのですが。」
蘭は、仲居頭のおばさんにぶっきらぼうに言った。
「ああ、すみません。水穂さんなら、今は誰にも顔を合わせないことになっていますが。」
仲居頭のおばさんは、そう答える。
「顔を合わせないって、」
「ええ、そう言われております。これ以上悪化させないようにって、旦那様の仰せ使っておりますので、それは守らなければなりませんよ。」
仲居頭のおばさんは、平常心と変わらないような言い方でそういったのだが、蘭はその言い方が、妙に気に障ってしまうのであった。
「一体どういうことですか?もしかして、今までよりさらに悪くなったとか?」
蘭が聞くと、
「そんなこと知りませんよ。泊っているお客さんの事をぺらぺらしゃべる何て、できやしません。一体水穂さんたちに、何のようなんですか?」
と、おばさんは、そう答えた。
「とにかく奴に会わせてくれ。そして、支払いは僕がするから、今日限りで、富士へ帰らせてくれるか!」
面食らった顔をするおばさんは、何が何だか分からない、という顔をした。
「とりあえず、旦那様に聞いてきます。そこでお待ちくださいな。」
逃げるように、おばさんは、中に入っていく。
数分なのだが、何十時間も待たされたような気がする。蘭は、じれったい思いをして、この旅館の主人、弁蔵さんがやってくるのを待った。ようやく弁蔵さんがやってきた時には、イライラし過ぎていて、車いすの車輪をたたいたりしていたのだった。
「何ですか、蘭さん。こんなところまで、乗り込んで来たりして。」
「その答えくらい、弁蔵さんが知っているんじゃないですか?」
蘭は、弁蔵さんに詰め寄った。
「仰ることが分かりませんね。僕が何をしたというんです。僕たちは、いつも通り、ここで旅館をしているだけですよ。」
「とぼけないでくださいよ。水穂をここでかくまっているじゃありませんか。水穂を、僕に返してください。奴には、こんな不便な場所は、ふさわしくありません。」
「其れはできませんね、蘭さん。」
と、弁蔵さんはいった。
「僕たちは、蘭さんの下に居たら、間違いなく悪化するだろうからと思って、だから、水穂さんをッこっちで預かっているだけの事ですから。蘭さんは何か勘違いをしているのではないですか?僕たちは、水穂さんに危害を加えるとか、そのような事は、全く思いません。それに、ここはどうして不便なところなんですかね?電車もあるし、タクシーもちゃんと走っているじゃないですか。蘭さんの住んでいるところと、対して変わらないのではありませんか?」
「ないものは医療機関ですよ!そういうモノが、あいつには、必要なんです。あいつには、そういうところに、理解のある病院に行かせないと!」
「蘭さん、それはどうでしょうか。理解のある医療機関何て、そんなものはないでしょう。水穂さんはどこに行っても、笑いものにされるだけですよ。僕たちは、そういうことは、させたくありませんので、ここにいさせてあげたほうが、一番じゃないかと思っているんです。蘭さん、誰でも体をよくしてもらって、健康で長生きという事が、一番幸せかとは限りませんよ。どんな身分の人だって、しあわせになれるか、という事は、あり得ない話ですよ。」
「じゃあ、僕は、この思いをどうしたらいいのでしょうか。僕は、水穂に、生きてほしいと思っているのに。それでは、いけないのでしょうか。あいつは、この世から消えたほうが、いいという事は、あり得ない話だと思うんです。この世に必要のない人なんて、いないじゃないですか。みんな、なにかしら、役目があって、そのまま生きているんじゃないですか。例え、重病で一日寝たきりの人であっても、生きていたほうが、しあわせでしょうに。そうじゃないんですか。僕は、その気持ちを、あいつに伝えてやりたいんですよ。」
「そういう気持ちがおありなら。」
弁蔵さんは、蘭に言った。
「水穂さんをそっとしておいてやってくれますか。水穂さんは、蘭さんが知っている以上に、苦労して生きてきた人です。蘭さんは、生きていれば幸せだといいましたが、それは、平民として暮らしている人にしか当てはまらない言葉ですよ。水穂さんは、まず第一に、幸せになってはならない身分だったんですから。蘭さん、困っている人を、いい方向にもっていこうとしたって、相手の方は迷惑であるという事もあるんですよ。蘭さん、水穂さんを何とかしてやりたいという気持ちがあるのなら、どうか、手を引いてくれませんか。そして、水穂さんをそっとして置いてやってください。蘭さん、そういうことだって、世の中にはあるんです。そういう事です。だから、蘭さん、水穂さんが、人種差別との戦いのような人生に、自ら終止符を打つまで、しずかに、そっとしてやってくれませんか?」
弁蔵さんが、蘭に心を込めて言っても、蘭は、まだ、その事を、考えていた。いや、どんな奴でも、しあわせになっていいはずだ。みんな、この世から消えたほうが、幸せになれるんだというが、それは絶対に間違いである。それよりも、与えられた時間を精一杯生き抜くほうが、絶対に正しいはずだと蘭は思っていた。それはもしかしたら、蘭が、幼いころに受けた教育の、影響なのかも知れなかった。西洋の自己肯定感を強める教育に、しっかり漬かっていた蘭は、そういう考えに固執してしまうのだろう。
「蘭さん、お願いします。もう考え直して、帰ってくれませんか?水穂さんはそっとしておいてあげるべきだと。」
弁蔵さんがそういうと、
「旦那様!旦那様!ちょっと来てもらえますか!直ぐにタオルか何か持ってきてください!」
仲居の一人が、奥の間から走ってきた。
「どうしたんですか?」
と、弁蔵さんが聞いた。
「水穂さんがまた急に咳き込み始めて、」
仲居はそう答えを出す。
「わかりました。タオルはリネン室にあるのを何本か持って行って。」
「ほうらみろ!」
弁蔵さんがそういうと、蘭はすぐにそれに付け込んだ。
「いくらアンタたちが、そうやって、世話をしても、それでは、水穂を良くしてやることなんてできないじゃないか!もし、こういう時に病院だったら、良い薬や、医療器具などもたくさんあって、すぐに適切な処置をしてくれるんだぞ!」
弁蔵さんは、そんな蘭を尻目に、急いで仲居さんと一緒に部屋の中へ戻っていってしまった。蘭は、こういうときに、歩ける人間だったら、すぐに弁蔵さんの後を追っかけて、部屋にはいれたのになあと、地団駄を踏んで悔しがった。ようし、こうなったら、この方がいい!と思い至って、車いすからわざと落ち、手で這って、亀山旅館の中に入って行く。
「ほら、水穂さん、しっかり。大丈夫ですよ。ゆっくり吐き出して。」
花村さんが優しく背中をさすってやっていた。
「やれやれ、特に悪いものは出しているわけではないんだが、何よりも、この寒さが、身に染みるのかな。」
杉三は、口笛を吹きながら、そういうことを言っている。
「失礼いたします。どうですか、大丈夫ですか?」
弁蔵さんが、タオルをもって、部屋に入ってきた。花村さんがそれを受け取って、ほら、と水穂さんの口下へタオルをつける。
「大丈夫ですよ、ちゃんと吐き出してくれましたから。」
花村さんが優しくそういう事を言った。そういって、花村さんは、口の周りについた、血液をふき取った。
「まあ、仕方ないですよ。冬ですもの。寒いですし、なかなか、部屋から出て気分転換という訳にもいかないでしょう。それで、かなりストレスたまって、疲れているんだと思います。私たちも、眠らせてあげるしかできないですけど、少なくとも、富士よりは、過ごしやすいんじゃないでしょうかね。」
花村さんがそういって、にこやかに背中をさすってやりながら、そういうことを言うと、水穂さんの咳き込む音もだんだん小さくなっていった。
「良かった。富士に居るより、治まるのが速くなったな。それだけでも進歩だぜ。」
と、杉ちゃんがにこやかに言っている。
「ちょっと、あなた、そんなに汚れた手で入って来ないでください。そもそも、車いすで入ってくる方が、よほど合理的何じゃありませんの?」
と、外で、長居頭のおばさんがそういうことを言っている声がする。一体誰だよ、と、杉三と、花村さんは、顔を見合わせた。
「うるさい!水穂はどこにいる?奴に会わせろ!」
「やれやれ、蘭のやつ、奥大井まで来ちゃったのね。本当に、おかしなやっちゃ。本当に大事なことは何か、全く、わかってないんだからな。」
そとで、でかい声でそういっている蘭の声を聴きながら、杉三が、はあとため息をついた。花村さんも、水穂を布団に寝かしつけながら、全く困りますね。と小さな声で言った。
「奴はどこにいる!奴はどこだ!」
しまいには怒鳴りつけるような言い方で、蘭は仲居頭のおばさんに言った。その顔に、恐怖を感じたおばさんは、思わずここです、と水穂たちが泊っている部屋のふすまを指さした。蘭は、なんとかして、ふすまに手をかけ、怒り任せにふすまを開ける。
「み、水穂!帰ろう!こんなところじゃなくて、もっと医療設備のいいところでしっかり治してもらおう!お前を、こんな桃源郷みたいな、恐ろしいところに、いさせたくないよ!其れよりも、現実世界でしっかり生き抜いていけるように!」
蘭は、水穂さんが寝ているベッドに近づこうかと思ったが、花村が塞いでいたのでそれはできなかった。
「いや、無理だね。そとの世界には、きっと水穂さんを優しく見てくれる人はいないよ。それよりも最期こそ、静かに眠らせてやるべきなんじゃないのかよ。蘭は、そこを、ちゃんと見てないんだ。」
「蘭さん、感情に振り回されてはいけません、時には、それと相反する態度をとらなければならないこともあるんです。」
杉ちゃんと花村さんが、そういうことを言うが、蘭は意思を曲げなかった。
「うるさい!もし、水穂が身分が低いという事なら、こう解釈することだって、出来るはずじゃないか。水穂、お前は、身分の高い僕に従ってもらう。だから、一緒に、富士へ帰るんだ!帰ったら、財力のある僕が、お前の医療費とかみんな出してあげるから、お前はすぐに設備の整った病院に行ってくれ!」
「そんなものいらないよ。」
水穂は、しずかに言った。
「蘭は、うるさいんだよ。いつでもどこでも何をするにも。」
「お前は、こんなところで、一生を終えるつもりなのか?誰にも看取られることもないかもしれないのに!」
蘭は、思わず声を荒げるが、
「其れで僕たちは、当たり前の事なんだよ。」
と、水穂はまた細い細い声で言った。
「それでもお前を放っておけない。だって、僕たちは、親友じゃないのかよ。身分にも関係なく、親友じゃないのか。それを助けるのは当然の事でしょう。なんで、それを、拒絶するんだよ。」
蘭が改めてそういった。
「蘭さん、親友という言葉を使いましたけど、それに便乗して、自分のエゴを表現しているだけではありませんか?」
花村さんが、そういうと、蘭は、自分を支えている手で、床をガーンとたたいた。そして、そのまま床に突っ伏して、、男泣きに泣いた。
「わかったよ。蘭。」
細い声で水穂さんが、そういう。窓の外を冷たい風が、蘭たちをあざ笑うかのようにヒューイとなっていた。
岬の灯台 増田朋美 @masubuchi4996
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