第三章

第三章

ブッチャーは、嫌な予感がしていた。蘭さんに、あんなことを言ってしまったのを、とても後悔した。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。俺ももうちょっと、しっかりしなければなあ。そうして、ブッチャーは、自分を責めた。

多分、蘭さん、水穂さんの事を知ったら、すごい勢いで詰め寄ってくるだろうな。俺は、蘭さんの怒りに耐えられるかなあ。ブッチャーは、それだけでも、気持ちが震えた。

「おい!ブッチャーいるか!ちょっとおしえてくれ!杉ちゃんも水穂も一体どこに行ったんだよ!」

ああ、やっぱり来てしまったか、、、。ブッチャーは、体が震える。

製鉄所の玄関に、段差があればいいのにと、思わずには居られなかった。上がり框などあれば、上がるのに躊躇して、もうちょっとその間に頭を冷やしてくれるはずなのに、、、。製鉄所には、上がり框がない。だから、怒ったまま、蘭は、一気にブッチャーがいる中庭迄、入ってきてしまったのである。

「何ですか。蘭さん。せめて車輪くらい、拭いてから、こっちへ来るようにしてくれませんかね。」

ブッチャーが、急いでそういうと、

「うるさい!そんな事は後でするから、とにかく教えてくれ。杉ちゃんも水穂も、いったいどこへ行ったんだよ!」

蘭は、怒りたって、ブッチャーに言った。

「俺は奥大井へ行ったことしか知りません。転地療養が必要だからと言って、俺たちは、その通りにさせただけです。」

「転地療養だって!明治時代じゃあるまいし、そういうことは、病院でするもんだろう。そもそも、奥大井何て、なんであんな不便なところにやったんだよ。お前たちは、水穂を厄介払いしたいのか!」

「もう蘭さん、そんな事は毛頭ありませんよ。それに、奥大井は不便なところでもなんでもありません。奥大井は、自然がたくさんあって、療養には、ちゃんと使えるところですよ。だって、ここには、受験生ばっかりで、みんなイライラしているし、水穂さんもこれでは、ゆっくり休めないだろうと思ったから、俺たちは、奥大井に水穂さんを行かせたんです。だって、利用者さんたちも、不安定だし、水穂さんも、発作ばかりおこして、ここではとても休めませんよ。その、どこが悪いというんですか。」

「うるさい!そんな変な理屈、倫理的には通らないぞ。そういう理由をこぎつけて、結局は、あいつをここから追い出したんじゃないか!そんなことを言うのなら、もっと設備の整った病院に入れてもらって、しっかり見てもらう様にしてあげるのが、常識ってもんだろう?」

ブッチャーがいくら言っても、蘭はそう言ってきかなかった。どうしてそう蘭という人は、本当に頑固なのだろう。

「何を言い合っているんですか。蘭さんは、こちらに来てはならないと、言われているんじゃなかったんですか。どうしてこっち迄、わざわざ来たんです?」

ガラッとふすまが開いて、黄土色の着物に、千鳥紋のついた黒い羽織をつけていたジョチさんが、そんなことを言いながらやってきた。

「あ、お前、お前がここにいるという事は、お前が水穂を、厄介者扱いしようと思ったんじゃないだろな!貴様にとっては、単に島流しにしただけだと、思っているんだろうが、僕にとっては大事な親友を失ったという事になるんだぞ!」

と、蘭は、そういうことを言って、ジョチさんに詰め寄った。

「島流し何て、何をおかしなことをおっしゃるんですか。おかしいのは蘭さんの方ですよ。僕たちは、水穂さんを厄介者扱いしたわけでも無いですし、島流しにしようとしたわけでもありません。ただ、水穂さんは、ここに居たら、安心して療養できないでしょうからね。だから、もっと静かな、奥大井に避難させたんです。それだけの事ですよ。」

ジョチさんは、冷静な顔をしてそういうことをいうが、蘭は、まだ納得しなかった。

「それに、水穂さんに転地療養を勧めたのは、僕ではありません。あなたは、僕が水穂さんを追い出したようなことを言っていますが、提案者は、花村さんだったんですよ。」

「花村さんだって!」

蘭はまた声を上げた。蘭からしてみれば、あの地味な顔つきをしている男が、そんなことを持ちだしてくるほど、知恵のある男であるなんて、思いもしなかった。

「ちょっと待て。あの、家元が、なんでそういうことを言うんだよ!」

「もう蘭さん、花村先生まで悪人呼ばわりしないでください。花村先生は、水穂さんが心配だから、転地療養を勧めたんです。決して、蘭さんが想像するような、悪い人ではありませんよ。」

蘭の話にブッチャーがそういったが、蘭はまだいきり立っていた。

「なんでどいつもこいつも、役に立たないことをするんだよ。奥大井何て、二度と返ってこないような場所に行くのではなくて、もっと医療設備の整った病院に、入院させてあげるとか、そういうことをするべきなんだ。ここに寝かせているだけでも、可哀そうで仕方ないのに、奥大井という交通の便んも悪く、医療機関も何もないところにやるなんて、一体何を考えているんだ!」

「蘭さん、そんなことを言ったら、奥大井の人たち、怒りますよ。俺たちだって、水穂さんに生きていてほしいから、奥大井に行かせたんでしょう。」

ブッチャーは、急いでそう言った。

「うるさい!お前たちがしていることは、あいつの寿命を縮めることだ。そうじゃなくて、もっとちゃんとした病院、そうだなあ、例えば、東京の大規模な総合病院とか、そういうところに行かせてやるべきじゃないのか!」

「それをしたって、何もならないのは、蘭さんがよくわかっていることじゃないですか。水穂さんが、抱えている事情のせいで、病院にかかってもいい加減な扱いしかされてこなかったのは、水穂さんの様子を見れば、わかるでしょう。」

ジョチさんが、蘭を窘めるように言った。

「そうなってしまうから、もう、安全なところで、しずかに過ごさせてやることが一番なんですよ。まあたしかに、あなたには、気の毒かもしれませんけど。でもですね、水穂さんには、もう時間などないってことは、確かなんですから、残りの時間くらい、奥大井でゆっくり過ごさせて上げることが、一番なんじゃないかと思います。」

「うるさい!お前のいう事なんて、信用できるもんか!僕は、お前と違って、お前と同じ立場だったら、水穂になんとしてでも治るように言い聞かせる。そして、いい病院に連れて行って、あいつをそこで治療してもらって、また、ピアニストとして、ゴドフスキーの曲を弾いてもらう様に、促してやりたい!そうすることが、生きているという事だと思うから!」

と、蘭は、ジョチさんの言葉に激してそう言い返した。

「何を言っているんですか。蘭さんそれはね、蘭さんのように、何不自由なく裕福で、財力がある人だからこそ、出来る事ですよね。」

ジョチさんは、一つため息をついた。

「財力何て、関係ない。要は、人間誰でもみな同じだ。誰でも、生きるという事は放棄しちゃだめだ。与えられた人生、最期の最期まで、力を出し切って、生き抜くのが勝ちなんだよ!」

蘭は、哲学的な話を始めた。

「ええ、それは知っていますよ。しかしですね、蘭さんが仰ることは、みんな、御金がある身分の人だけが、いい恰好したくて言うほら話だ。よく考えてみてくださいよ、蘭さん。水穂さんは、良くなったとしても、果たして楽しい人生を送ることができると思いますか?できないでしょう。だって、水穂さんに課されているものは、低い身分の人間として、人種差別の嵐に会う事です。もし、回復して、また生きるという事は、それをもう一回体験するという事になるんです。果たして、彼はそれを、望んでいるでしょうか。それよりも、もう二度と、体験したいとは、思わないと思いますよ。僕たちも、そう思うから、花村さんの意見に従ったんです。蘭さん。もう少ししっかり考えなおして下さい。生きるという事は、かっこよく生きるという事が全部じゃないんですよ。其れよりも、死ぬことによって、長年の負担から、解放される人のほうが、はるかに多いんだ。そういうことくらいわかってあげないと、蘭さんは、水穂さんと分かり合う事は、永遠にできないでしょうね。」

ジョチさんは、蘭に、水穂さんが抱えている歴史的な事情を、一生懸命説明したが、蘭はそれでも、水穂さんに生きてほしいという気持ちの方が、勝ってしまうのだった。

「蘭さん。人間どうしてもだめなことだって、有るんですよ。一生懸命がかっこいいと言える人ばかりとは、限らないんです。そういうことだって、わかってあげなくちゃ。水穂さんは、いつまでたっても、安心して逝くことはできませんよ。」

ジョチさんの説得で、蘭は、その時はとりあえず黙った。ブッチャーは、蘭がそうなってくれたことを、納得してくれたのだな、と思ってしまう。

「蘭さん、だからそうやって、ワーワー騒がないで下さい。俺たちは、水穂さんが、危なくなったら、すぐに奥大井に行くようにすると、花村先生と約束してあります。良いじゃないですか、そういう風に、水穂さんが静かに過ごせるようになるんだったら。」

ブッチャーは、そういうことを言った。という事は、病院に行っても無駄なのだという事を、蘭に悟ってもらいたかった。

「それに、病院に連れて行って、医者や看護師に、冷たい扱いを受けるよりかは、水穂さんの事を理解してくれる人たちの、暖かい介護を受けたほうが、水穂さん自身ものんびり構えていられると思いますよ。」

ジョチさんがそういうことを言った。確かにそれはそうだ。部落民が病院に行ったら、こんな汚い人が、入院してきて、今年は羽振りが悪いって、嫌な顔をされることだろう。そして、十分な医療を受けさせるどころか、邪見に扱って、余計に水穂さんはつらい思いをする。それから解放させるには、海外の医療機関に行かせるしか、方法はない。結局、日本にいる限り、水穂さんは人種差別から逃げるという事は出来ないのである。

「でも、奴はどこへ行ったんだ。それだけは教えてくれたっていいじゃないか。そこに連絡するわけでは無いけど、知っておくだけでも、一寸違うんじゃないのか。」

蘭は、そういうことを言う。まだ懲りないんですか、とジョチさんは呆れていたが、ブッチャーは、教えてもいいかなと思った。

「まあ、蘭さん。一応、教えておきますが、それで何かしようとはしないでくださいよ。あくまでも、頭の中に留めておくだけにしておいてください。」

ブッチャーがそういうことを言うと、

「そうか!どこに行ったんだ!」

と、蘭は、すぐにブッチャーに詰め寄った。

「もう蘭さん、じゃあ、一度だけ言いますから、これだけにしてくださいよ。水穂さんは、杉ちゃんと花村さんと一緒に、弁蔵さんの亀山旅館で療養してますよ。」

「本当だな!」

蘭は、特にメモも何もしなかったが、それだけははっきり記憶した。弁蔵さんの亀山旅館。

「さて、蘭さん、もう波布とマングースの勝負はここまでにしましょう。勝負を続けていると、受験生さんたちが、うるさがるでしょうから。今年は、受験生の利用者が多いのでね。中には、東大を受験しようという人だっているんですよ。」

ジョチさんがそういうと、

「そうだな、今日は、引き分けだ。でも、東大を受けようなんて、すごいじゃないか。東大なんて、素晴らしいところだよ。」

と、蘭は言った。本当は、東大を受けるのをやめさせたいと思っていたブッチャーなのだが、蘭がそういって喜んでいるのを見ると、一寸がっかりしてしまうのだった。

「是非、その子に合格したら、お祝いさせてくれと言ってよ。」

蘭さんはやっぱり、高学歴で、裕福で、水穂さんがしてきた苦労何て、これっぽっちもわかっていないんだな、とブッチャーは思った。水穂さんが、なんのためにゴドフスキーを弾かなければならなかったのか、それを知ったら蘭さんは、卒倒してしまうだろうな、とも思った。


一方そのころ。奥大井の亀山旅館では。

「はいはい。大丈夫ですからね。ほら、慌てずにゆっくり吐き出して。」

花村さんが、水穂さんの背をさすって、そういうことを言っていた。水穂さんは、激しく咳き込んでいる。花村さんは、大丈夫ですよ、落ち着いて、何て声掛けをして水穂さんの背中をそっとたたいてやった。

「水穂さん、大丈夫ですか。昨日出したものがいけなかったんでしょうかね。肉も魚も使わなかったんですけどね。何がいけなかったのかな。」

弁蔵さんが、タオルをもって部屋に入ってきた。花村さんは、弁蔵さんからそれを受け取って、水穂さんの口元に当てた。そうするとほぼ同時に、水穂さんの口から、赤い液体があふれ出た。

「よしよし、これで大丈夫でしょう。無事に吐き出してくれましたよ。後は、鎮血の薬を飲んで、しずかに休んでいましょう。」

花村さんが吸い飲みを水穂さんの口に無理やり入れて、中身を飲ませた。これでやっと咳は治まって静かになり、水穂さんは布団に倒れ込むように眠ってしまった。

「すみません。僕の不注意で。昨日は、肉魚は一切出さなかったんですけどね。牛乳も出さなかったし。それとも、醤油が原因だったのかな。あと、思い当たる食品は、何だろう。」

弁蔵さんはそういうことを言っている。それはまるで、自分が悪くて、申し訳ないという気持ちの顔をしていた。

「いいえ、大丈夫ですよ。これからは私も、気を付けて、当たる食品は除外するようにしますから、弁蔵さんはいつもと同じ料理を作って下されば。」

花村さんは、そういって弁蔵さんを励ましたが、

「そうですが、一応これでも板前ですから、料理の事は責任を負わないといけないんですよ。」

と、弁蔵さんは言った。

「でも、仕方ないでしょう。どんなに気を付けても、調味料なんかに、当たる物質が入っていることは、よくある事ですよ。それに、こういう方の料理は、なかなかできないのではないですか。そういう人を扱った経験もなかなかないでしょうし。」

花村さんは、そういうのであるが、弁蔵さんは、一寸落ち込んだままだった。

「おーい、大丈夫かい。」

山菜を取りに出かけていた、杉ちゃんが、部屋に戻ってきた。仲居頭のおばさんと結構馬が合うらしい。結構、楽しそうな表情をしている。

「杉ちゃん、杉ちゃんはいつでも明るいね。こっちは水穂さんが心配でしょうがなかったよ。」

弁蔵さんがそういうと、

「へへーん。バカは何時までも明るいのさ。でもおかげで、仲居頭のおばちゃんに手つだってもらってな、今回は珍しい山菜がいっぱい取れたぞ。今日はこれで、おかゆ作ってやるからよ。楽しみに待ってろや。」

杉三は、カラカラと笑った。

「なんだ。寝ちゃったのか。まあ、こういうことは、よくある事として、それだけにして片づけろ。こんなことでいちいち振り回されていたら、僕たちも、気が参ってしまうぞ。」

「そうですけどね。せっかく奥大井に来てもらったんですから、なるべくなら、発作を起こさず、静かに過ごしてもらいたいと思うんですけどね。それが実現できないと、がっかりしませんか?」

杉ちゃんのその態度を見て、弁蔵さんが言った。

「いやいや、あったことはあったこととしてな、それにどう対処するか、だけを考えていればそれでいいのさ。それに環境も何も関係ないよ。」

「そうですか、、、。」

弁蔵さんは、一寸複雑な気持ちだったが、そうするしかないと考えなおした。

「わかりました。これからも、食材には十分気を付けますから。」

とりあえず、それだけを言っておく。


一方、製鉄所から戻ってきた蘭は、自分はブッチャーや波布に言い負かされてしまったのではないかと思い直す。あの時は、奥大井に行ったという事は聞いたけど、やっぱりこれは波布が、自分を陥れるために、きれいごとを並べたのではないかと、疑いを持ってしまったのであった。

あの時、波布が言った事は、本当の事だろうか。そんな、消えたほうが楽なる人生なんて、本当にあるだろうか。例えば、ピアニストの久野久子だって、自殺をしなければ浮かばれない人物の、代表選手と言われていたが、彼女だって、ドイツ留学をすぐに取りやめ、日本は、無理して近代化しなくてもいいと警告を発する人物に早変わりすればいいと、蘭は思っている。わざわざ、ホテルの窓から、飛び降りて自殺する必要はない。ほかにも、自ら人生を閉じた人物はたくさんいるが、そんなことしなくても、助かるのではないかと思われる人物である事が、大半だと蘭は思っていた。

水穂だって、人生を今閉じなくてもいいはずだ。そんなことしなくたって、まだ、生きていていいはずだ。蘭は、その理屈と、自分が水穂に生きていてほしいと勝手に思い込んでいる思い込みとが、交錯していることに気が付かなかった。

そうだよ。水穂だって、わざわざ今、自分の人生を閉じる必要はない。また、ピアニストとして、楽しい人生を送れる方法はいくらでもあるはずである。それに、自ら生きることを放棄するよりも、人種差別があったとしても、戦い続けたほうが、よほどかっこいいと蘭は思っている。

だから、奥大井何て所にやらないで、ちゃんとしたところにいってもらいたい!いや、行くべきなんだ!と、蘭は思った。

そして、周りのやつも、みんな水穂が逝ってしまうを止めようとしない。それも間違いだ!と蘭は思う。だから、取り戻さなくっちゃ。僕だけが、そういう事ができるのなら。

確かに波布が言う様に、自分は金持ちだ。だから、その金を水穂に少し分けてやることだってできる!もし、そいつができないのなら、できるやつがしてやるという、選択肢もある!

蘭は、ある事を決断した。そして、タブレットを取り出して、富士駅から亀山旅館までの、行き方を調べ始めた。先ず、東海道線にのって、そして大井川鉄道に乗って、千頭駅で降り、そこからアプト式電車に乗って、接阻峡温泉駅に行けば、弁蔵さんたちの亀山旅館にたどり着けるという事を知った。



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