第二章
第二章
「おはようございます。昨日は冷えましたね。」
杉三たちが泊っている部屋に、弁蔵さんが入ってきた。昨日は、あの後、水穂さんを布団に寝かせると、水穂さんは、気持ちよさそうに眠ってしまったのだった。後で、弁蔵さんが、仲居さんに聞いた話によると、杉ちゃんたちは、夕食を食べた後、近くの温泉会館に行って風呂を借り、そのあと亀山旅館に戻ってきて、すぐ寝てしまったらしい。テレビが嫌いな杉ちゃんだから、有料放送も何も見なかった。そんな事しかしないので、つまらないお客さんだと仲居さんたちは言っていたような気がする。
「ご朝食の用意ができていますから、食事何処に来てください。」
弁蔵さんが言うと、花村さんは、ああ、わかりましたと言った。
「ご気分はいかがですか?朝食の用意ができていますが?」
と、弁蔵さんは、水穂に聞いたが、もう少し眠らせてあげてくださいと、花村さんが止めた。水穂
さんは、ベッドの上で静かに眠っている。
「昨日から、気持ちよさそうに眠っていらっしゃいます。昨日の夕ご飯もおいしそうに食べておられましたし、発作も起こしていません。よほど、気持ちいいんでしょう。」
花村さんは、かけ布団をかけなおしてやった。それを聞いて弁蔵さんもほっとする。
「そうですか、それはよかった。何よりも、安心して過ごしてくださるのが、一番ですからね。これで
暫く安静にして、発作がでなくなってくれればいいと思うんですけどね。」
弁蔵さんは、ちょっとため息をついた。
「安定した状態が、続いてくれればいいですよね。」
「ええ、それをクリア出来たら、立って歩くことも、できるようになるのではないかと思います。暫くは、このままゆっくりと眠らせてあげましょう。」
「そうですね。じゃあ、朝ご飯は、もう少し後にします。」
弁蔵さんは、部屋を見渡すと、杉三の姿がないことに気が付いた。
「あれ、杉ちゃんは?」
思わず聞いてみると、
「ああ、山菜を取りに行くと言って、先ほど仲居頭さんと出かけました。なんでもお昼には、台所を借りて、山菜のおかゆを作って、水穂さんに食べさせると張り切っています。」
と、花村さんは、言った。そういえば昨日も、明日一寸出かけたいといっていたと、弁蔵さんも思い直した。
「そうですね。食べ物を探しに行くなんて、杉ちゃんは、どこへ行っても杉ちゃんですね。実を言うと、金谷駅からこっちへ来るまでの間、僕は水穂さんの事が心配で、仕方ありませんでした。」
弁蔵さんは、思わず本音を言ってしまった。実はそうだったのである。
「と、申されますと?」
花村さんが相槌を打つと、
「ええ、水穂さんの様子から見て、前より悪く成ったのではないかと。電車の中でいろいろお話しようかと思っていましたが、水穂さん、もう疲れ果ててしまっているようで、なんだか辛そうというより、苦しそうでしたよ。何かわけがあったのではないかと、心配でたまらなかったですよ。」
「そうですね。確かに、少しもよくなる気配がないのは認めますよ。それどころかますます弱っていくようです。もう少し、水穂さんにも、良くなろうという意思が持てたらいいと思うのですけど、それはほとんどありませんしね。もうこういう時はしかたないかなと、私も思っていましたが、こちらへ来たら、また変わってくるのではないでしょうか。奥大井には何よりも、美しい自然がありますし、時間の流れが、また違うような気がしますから。次元がゆっくり流れるような、そんな気がします。ここのほうがのんびりとしていて、私たちには、暮らしやすいのかもしれません。」
弁蔵さんと花村さんは、そんなことを言いあって、お互いの顔を見合わせた。
「そうですか。奥大井のことを、そんなに褒めてくださって、ありがとうございます。こちらも、連れてきてよかったと思いますよ。願わくは、水穂さんが、もう少し良く成ろうとしてくれることを願います。」
「ええ、これだけ美しいところですもの。水穂さんの考え方も変わるかもしれませんよ。それに、富士市で水穂さんの世話をしていた人たちも、少し休みを得られて、楽になるんじゃないですか。」
「ああ、ブッチャーさんたちですね。確かにそうでしょうね。代わりになれますように、僕たちが一生懸命おもてなししますので、水穂さんが早く回復しますように祈るばかりです。」
同じころ、製鉄所で、水穂が長らく使用していた布団を、物干しざおにかけようとしていたブッチャーは、
「へっくちょーい!」
と、大きなくしゃみをした。思わず、布団を落としてしまいそうな大きなくしゃみだった。
「ブッチャーどうしたの、風邪でもひいたの?」
通りがかりの、東大受験生の利用者がそんなことを尋ねた。
「い、いや、理由は分からないけど、くしゃみが出てしまった。」
そんなことを言うと、彼女は持っていた鞄を開けて、チリ紙を一枚ブッチャーにくれた。
「ああ、悪いねえ。こんなものくれるなんて、君は優しいんだな。そういう優しいところ、もっとほかの場所で発揮してくれればいいのに。受験勉強なんて、どこにも発揮できる場所はないだろ。それじゃあ、砂を噛むような体験をしているだけだよ。」
「ほかのところって、今は大学受験勉強に集中しなくちゃ。それができなきゃ、いい人生は、送れないわよ。砂を噛むような体験じゃなくて、本当に大事なことじゃないの。」
ブッチャーがそういうと、彼女はすぐ言った。
「いやいや、そんなことないさ。東大なんか出たって、他人に冷たくて、すぐ八つ当たりをするような奴じゃ、人間としてだめだ。そうじゃなくて、君はそうやって、すぐにてを出してくれる、優しい気持ちを持っているのだから、そっちを伸ばすべきじゃないのかな。そういう優しいところは、東大では得られないよ。東大をこのまま目指し続けていたら、君のその優しさが全部失われてしまうような気がするんだ。それじゃあ、いやじゃないか。」
ブッチャーは、彼女にそういうのだが、
「でも、やっぱりあたし、東大へどうしても行きたい。」
と、小さな声で彼女は言った。
「まあ、ユックリ考えてみてくれ。少なくとも、俺の経験では、良い大学を出ている奴ほど、他人に冷たいとか、変な風に理屈をこねまわすことが優しさだと、勘違いしている奴ばかりだよ。それは、なぜそうなってしまうかは知らないが、俺はそういう人ばっかり見ている。君には、そうなってもらいたくないな。」
ブッチャーは、もらったチリ紙で鼻をかんだ。
「そうねエ、、、。」
頭をひねって考える彼女。
「まあ、いい大学に行くのと、幸せになるのはまた違うんだ。それを勘違いしてしまうと、大変な目に合う事もあるんだよ。」
ブッチャーは彼女ににこやかに言った。
「現に、すごい学歴があっても、本当に視野が狭くて、碌な考えを持てないという奴だっているからね。学歴と、幸せになるのは関係ないんだ。逆に、底辺の大学に行ったとしても、充実した素晴らしい教育が受けられたという人も、いるんだよ。どっちのほうが、幸せになれると思う?」
「そうねエ、、、。本当は、東大に行ったほうが、一番幸せだと思うけど。」
「そうかなあ、東大は頭の良い人ばかりで、変に優しいと踏み台にされたりして、傷ついて、心がおかしくなった奴も、俺は知ってるよ。他人を踏み台にして、のし上がってきた人ばかりの環境だからね。そういう人ばっかりだから、君みたいな優しい人は、すぐに犠牲者の方に回ってしまうんじゃないかなあ。」
確かにそれはそうだった。東大と言えば、どこの高校でもトップクラスの秀才ばかりだ。彼らはいつも、自分の順位の事だけを考えていて、他人のことなど考えないで、がんじがらめに生きてきた、という人ばかりである。
「もう一回、考え直してくれないか。いい大学へ行くことだけが幸せじゃないんだよ。それよりも、君の強みは、さっきも言った通り、俺にチリ紙をくれるような、そういう優しいところだよ。それを生かした分野で勉強してもらうほうが、よほど幸せになれるから。それに、いい大学を出たやつが、必ず偉くてすごい奴だとは、限らないんだ。変な風に自分を偉いと解釈して、変な権力欲の塊みたいになってしまう奴だっているんだよ。いや、そういうやつのほうが多いかもしれない。俺は、君に、そういう風になってもらいたくない。」
ブッチャーが心を込めてそういっても、彼女は、下を向いたままだった。
「そうね。ブッチャーの言う通りかもしれないけど、あたし、東大が一番幸せだという考えからどうしても抜けられない。やっぱり、そういうところに行ける人は、みんなすごい人のように見えるもの。もし、ブッチャーが言うように、いい大学行っても偉くなれない人が本当にいるのであれば、あたしはその人の顔を見て、本当に存在すると納得できてから、変更したい。」
はあ、とブッチャーはため息をついて、布団をバシバシとたたいた。ごめんね、と言って、彼女は、再び受験勉強に戻ってしまった。
一方、蘭の方は、日増しに嫌な予感がしつつあった。妻のアリスはいつもと変わらず、産婆の仕事をこなしているのだが、それが蘭に取っては、けっこう怪しいことなのであった。それに隣の杉ちゃんは、いつまでも帰ってこない。旅行が好きな杉ちゃんであっても、全く自分に連絡をよこさないで、旅行に行ってしまう、というのが、蘭は気になってしょうがなかった。
「何やってるのよ、蘭。」
今日も、朝ご飯を食べながら、ぼんやりと考え事をしていると、アリスの声がした。
「ほら、早くご飯食べてって言ってるでしょ。さっきからテレビも見ないでぼんやりと。」
蘭は、アリスに言われて、すぐにお茶を飲み込んだ。
「うるさいな、暫く、考え事くらいさせてくれよ。」
「そうはいっても、あたしこの後仕事もあるのよ。今日は、相談がある妊婦さんもいるんだし。考え事って言ったら、蘭の事だから、杉ちゃんの事でしょう。そんなに他人の心配しなくても、ちゃんとしているから、大丈夫よ。」
と、アリスは、直ぐに蘭の器を片付けてしまった。
「お前、なにか知っているのか?」
その顔を見て、蘭は、直ぐにいった。
「何か知ってるって杉ちゃんの旅行好きは、皆知っているじゃないの。きっと、この気ぜわしい富士市から離れて、しずかな場所にでも行きたくなったのよ。それくらい、そっとしておいてあげればいいでしょう?」
そういうアリスは、ちょっとあきれた顔をして、蘭に言うのである。
「おい、お前。静かなところって言ったな。そうすると、具体的にどこだ。伊豆とか、北海道とか、そういう所だろうか?」
蘭は、その静かなところでピンときた。
「まあ、そういう感じかしらね。」
「ちょっと待て。北海道に、杉ちゃんが、行けそうな場所ってあっただろうか。ああ、あの、留萌の、なんとかという片腕の男の家だろうか。」
蘭は、すぐにこういう事を言った。
「蘭は、すぐにそういうことを言うんだから。もう気にしないで置けばいいじゃない。あんまりね、杉ちゃんに、どうのこうのというのは、しないほうがいいわよ。」
しかし、こういう事で止まらくなってしまうのが蘭である。
「でも、留萌に行ったとしても、誰か付き添いが必要だ。その付き添いが誰なのか。片腕の男が、杉ちゃんの付き添いになれるとは思えないだろう。それに、北海道のJRは、あまりバリアーフリーが
しっかりしてないし。一人で行ったという事は、あり得ない話だろうなあ、、、。」
「もう、蘭、いい加減にして。蘭もはやく、刺青の仕事した方がいいんじゃないの。暇だからそういうことを考えるんじゃない、蘭は。」
と、アリスは呆れた顔をして、蘭にそういうのであるが、蘭はまだ考えるのを続けるのであった。
「それだけじゃない。北海道もそうだけど、伊豆だって、バリアーフリーの意識には乏しい。箱根という場所もあるが、箱根は今、台風の影響で、電車が不通になっているはずだし、、、。」
また、テーブルに肘を付けて、そういう蘭を見て、アリスはがっかりとした顔をした。
「もう、蘭は、なんで杉ちゃんの事を考えると、すぐにそうやって止まらなくなっちゃうのねエ。それでは、困るわ。早く朝ご飯食べて、仕事場へ行ってもらえないかしら。」
蘭は、やれやれとため息をついた。
「そういうこと気になるんだったら、蘭が自分で確かめてくれば!」
アリスは、そう言いながら、頭をフリフリ部屋を出て行った。
「よし、それなら、そうしよう。」
蘭は、すぐに実行に移すことにした。
急いでスマートフォンを取り、ブッチャーのスマートフォンへ電話をかける。
「もしもし。」
ブッチャーの声が聞こえてきて、蘭は急いでブッチャーに、
「おう、ブッチャー、一寸聞きたいことがあるんだけど。」
と、話を切り出した。
「あのさ、杉ちゃんどこに行ったのか、教えてくれないかな。」
ブッチャーは、ちょっと困ったような感じで、
「其れはですねエ、、、。」
と、言葉を濁した。
「ブッチャー、何か知っているんじゃないか。頼むから、杉ちゃんがどこに行ったのか、教えてくれ。どこかへ観光旅行にでも行ったのか?それとも、どこか海外にでも行ったのか?」
蘭は、すぐに、ブッチャーにこういうのである。
「俺も知りませんよ。俺が、知っているのは、杉ちゃんが、暫くこっちを留守にするので、よろしく頼むと言っていただけです。」
ブッチャーもアリスと同じことを言うのか。それでは、自分の事は、もうどうでもいいという事か。
「そうじゃなくて、杉ちゃんがどこに行ったのか、本当に知らないのかい?」
「知りませんよ。俺は。俺は知りません。杉ちゃんがどこへ何しに行ったなんて、あんまり気にしない方がいいですよ。蘭さん。」
そういうブッチャーに、蘭は、思わず、
「ブッチャーさ、少し足してあげるから、もうちょっと、教えてくれないかな。よろしくお願いします。」
と、言ってしまった。
「蘭さん、変な事は言わないでください。俺は、口が曲がっても、言いませんよ。」
ブッチャーそういうが、
「な、いくら出すか。それは君が決めていい。その分だけそっちの講座に振り込むよ。それとも、現金書留で送った方がいいか?」
と、蘭は、話をするのをやめなかった。
「もう、蘭さん。変な事はしないでください。いくら金持ちの蘭さんでも、そういう手には乗りませんよ。」
ブッチャーがそういうと、蘭は、
「いや、いくら払えばいいか言ってみてくれ。それに応じて、振り込みか、現金書留か、どうするか決めるよ。」
と、もう支払の話を始めるのだった。ブッチャーは、困ってしまって、こういう時には、蘭は止まらなくなってしまう。もう、そうならないようにするために、若しかしたら、答えを教えてしまう方がいいのかもしれない、という気がしてしまった。
「蘭さんは、答えをいうと、すぐに誰かに話してしまうほど、口が軽いですからね。それでは、俺には、話すことはできませんね。」
というブッチャーだが、蘭は、
「確かに口の軽い男だが、今回の事は、誰にも言わない。だから教えてくれ!頼む!」
と、しつこいくらい言った。
「もう、仕方ないですね。蘭さん、本当に誰にも言わないでくださいよ。杉ちゃんなら、水穂さんと一緒に、奥大井の接阻峡温泉に行きました。何処に泊ったとかは、俺は知りません。」
ブッチャーは、仕方なくそこだけ言った。
「蘭さん、もういいですか。俺、一寸今からクリーニング屋さんに行かなければならないんですよ。」
「あ、ああ、すまん!」
と、蘭は、急いで電話を切ろうとしたが、
「ちょっと待て。水穂をどうやって奥大井迄連れて行った!」
と、でかい声で聞いた。ブッチャーは、
「蘭さんうるさいですね。俺は知りませんよ。ただ、奥大井で、水穂さんを療養させたらいいと提案があって、それに従って動いただけです!」
と、むきになって、電話を切ってしまった。
「待ってくれ!直ぐにそっちへ行くから、まだ、コインランドリーにはいかないでくれよ!」
蘭は、電話口でそういったが、電話は、ぷーぷーとなるだけであった。
すぐに支度をしようと蘭は思った。その日は刺青の予約など取りやめにして、直ぐに製鉄所に出かけて行った。
その日の昼食時。
「よし、うまくできたよ。山菜一杯入っておいしいよ。」
弁蔵さんが、土鍋のふたを開けると、杉ちゃんの作った、山菜のかゆがたくさん入っていた。勿論白がゆだが、大量の山菜のせいで、緑色のようになっている。
「ほら、おきろ。ご飯だぞ、いつまで寝ているの?」
と、杉三は水穂をゆすって起こした。
「よく眠れましたか。じゃあ、食事することはできますね。」
花村さんがそばでにこやかに笑っていた。杉ちゃんが水穂の口元に、おかゆのはいった匙を持ってきた。
「ほら、食べろ。」
そう言われて、水穂は、おかゆの入った匙をくちに入れた。弁蔵さんは、若しかして吐き出してしまうかな、と思ったが、水穂は、しずかに、それを飲み込んだ。
「よし。もう一口食べてみろ。急いで食べないで、ユックリ食べるんだぞ。」
と、杉三にまたお匙を差し出されて、水穂はまた中身を飲み込む。
「食べられるじゃないですか。よしよし、これでは、きっと、完食できますよ。」
弁蔵さんは思わず驚いて、手をたたく。
「どうですか、おいしい?」
花村さんがそう聞くと、水穂は黙って頷いた。
「せっかく杉ちゃんに作っていただいたんですから、ご飯を食べた感想でも、言ったらどうですか。どうですか、水穂さん、特にないですか?」
と、花村さんが促すと、
「おいしい。」
の一言だけ水穂さんは言った。
「其れならよかった。これからも、しっかり食べて、食べられるようになってくださいね。」
と、弁蔵さんが言うと、水穂さんは、はいとしっかり頷く。よかったよかった、これで、おいしく食べてくれた、と、杉三たちは、うれしくなって、ほっと顔を見合わせるのであった。
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