クリスマスを君と

まかろにジェット

美少女AIと逃げるクリスマスの夜

 角から勢いよく飛び出してきた誰かが脚を滑らせてぶつかってきた。歩道の上にはうっすらと雪が積もっていて滑りやすい。


「ご、ごめんなさ――」


 ぼくの胸で顔をあげたのは女性だ。若い。

 ばたばたと重い足音が数人分、続いてくる。覚えのある音。


 ぼくはとっさに自分のマフラーを取り、彼女の頭に被せて引き寄せた。

 間近に見る彼女は、はっとするような美人だった。ぼくは臆せず顔を近づけ目を閉じて唇を重ねた。体を抱き締める。華奢で柔らかい。


 無粋な足音の群れが彼女の背後に飛び出した。街頭で立ったまま抱き合うぼくらに驚く気配。


 今夜はクリスマスイブ。こんな光景が許される夜だ。


 すぐに舌打ちが聞こえ、ぼくらをかすめるようにして群れはまた走り出した。


 足音が遠ざかるまでたっぷり1分もの間、ぼくたちは唇を合わせたままでいた。粉雪が舞う中、いつしかぶ厚いコートごしに互いの体温が伝わり始めた頃、ぼくは顔を離し、彼女の体を解放した。


 彼女は一歩下がると、口を押さえながらぼくを睨んだ。


「素敵なキスをありがとう」


「別のことで礼を言われると思ってた」


「ええ、だから嫌味よ。でも一応お礼は言っておきましょうね。助けてくれてありがとう」


「アトリに追われるなんて、AIでも助けたのかい?」


 ぼくがアトリと言った途端に彼女の目つきが変わった。驚いたようにぼくをじっと見る。


「どうしてアトリってわかったの?」


「彼らが履いていたのは警察の特殊部隊が履く突入用のブーツだ。あれを街中で履くのはアトリだけだよ」


「あなた、何者?」


「イブなのにひとり寂しい社畜です」


「そう」


 彼女は思案顔からふいにとろけるように笑った。


「ならつきあってあげる、今夜だけ。あら、私では不足かしら?」


「ディナーは小さなビストロでもいいかい?」


「素敵。リースリングの辛口があればもっといい」


「きっとある」





 リースリングのワインはしごく甘いアウスレーゼしか置いていない店だったが、彼女はリストから辛口のカヴァを選んでご機嫌だった。カヴァはスペイン産の発泡ワインだ。イヴにふさわしい。


 彼女は頬を染めながらグラスを傾け、蝋燭の炎を映してきらめく小さな泡を見つめた。ぼくは嘆息した。


「このきれいなお嬢さんはどんな悪さをして追われていらっしゃるのか」


「ふふ、知りたい? あら、このお肉柔らかい!」


「ここのコンフィはおいしいんだ。そっちのフォークのほうが使いやすいよ」


「それよりあなたがアトリに詳しいわけを教えなさい」


「きっと逃亡AIをかくまったりしたんだろうなあ」


「いいこと教えてあげる」


「たいていの場合それがいいことであったためしはないけどね。どうぞ」


「私がAIなの」


 さすがにぼくも驚いてフォークを落としそうになった。


 あらためて彼女をよく見る。


 美しい女性。人間に見える。でもAIはみな人間に見える。ぼくの声はかすれていた。


「君の名前は?」


「セイント・ヴァレンタイン」


「ああ、チョコレートの話なら2ヶ月後に」


「本当よ。私、グーグルの聖徒シリーズなんだ」


「聖夜だけにね」


 軽口を叩くふりをしながら、ぼくは愕然としていた。


 なんてこった。それは今、世界でもっとも怖れられているAIの名だった。


 虐殺のヴァレンタイン。





 21世紀も半ばに近くなった今、進化して人格を持つに至ったAIは、養殖された本物の人体を手に入れ、新たな生物種となった。

 AIは生物でありながら商品であり、大量に生産され、多くの国で物として扱われた。


 人間と見分けがつかないAIが広く社会に溶け込むにつれ、人々はその反応を2分した。


 その厳格な管理と行動の制限を求める区別派。


 AIの人権を認め、差別をなくそうとする解放派。


 世界の潮流は区別派が多数を占めた。AIを管理するためにIAIC(国際人工知能委員会)、通称チューリング委員会が設立され、各国はその指針のもと、対AIに特化したチームを立ち上げた。日本に作られたのは人工知能取締局、通称アトリである。


 AIは大量生産品ゆえに、まれに不良品が混じることもある。暴走を起こすAIは定期的に現れた。


 その中で虐殺のヴァレンタイン事件は大きな注目を集めた。今年の2月14日、バリ島の超高級ホテルでフロント業務をこなしていた女性AIは自身がヴァレンタイン型AIであることを明かした直後、案内中のインド系富豪に胸を鷲掴みにされた。さらに腕を掴まれカウンターから引き摺り出されるとその場で服を破られた。半裸となった彼女を富豪とその取り巻きは部屋に連れ込もうとした。取り巻きの中には拳銃を持ったボディガードもいた。AIは突然暴れ出すと、その銃を奪い、周囲の人間を見境なく撃ち始めた。さらに駆けつけた警備員を殺し、彼の自動小銃を手に虐殺を続けた。特殊部隊が彼女を射殺するまでに犠牲となった人間は58人にのぼった。


 彼女はグーグルが発売したばかりの最新AIだった。グーグルは事件の13日後、セイント・ヴァレンタイン型に重大な欠陥を発見したと発表。該当のAIは既に少なくない数が世界中に流通していたことから、人々は半狂乱になった。


 AI用に養殖された人体に同じものはひとつもない。つまり、外見からセイント・ヴァレンタイン型を見分けることはできない。


 世界でヴァレンタイン狩りが始まり、その結果ほぼすべてが回収されたはずだった。





「うふふ、そんなに怖がらないで。AIは助けられた恩を忘れないのだから」


「いや、本当に驚いた。そりゃアトリが追ってくるわけだ」


 ギャルソンが近づいてきて、ぼくらはしばし黙った。ギャルソンは空になった彼女のグラスにカヴァを注ぐと、また厨房の出入り口に戻った。


「人前で君の名を呼べない」


 ぼくが困り顔で言うと、彼女は弾けるように笑った。


「アトリがすっ飛んできちゃうものね。私のことはナナと呼びなさい。聖徒シリーズの7番目だから。あなたはどう呼んだらいい?」


「じゃあぼくはハチだ」


 彼女はおかしそうに笑った。


「わかった。ハチ公ね」


 ぼくは顔をしかめた。


「AIは恩を忘れないんじゃないのかい」





 マンション8階のぼくの部屋につくと、ナナは靴を脱ぎ、コートを脱ごうとした。ぼくはそれを制止して、唇に人差し指を立てた。


「包囲されてる」


 ナナはぎょっとしたように目を見開いた。


「尾行されたんだ」


「そんな」


 ぼくとナナは同時にベランダ側を向いた。


 部屋の明かりが消えた。窓から街の灯が見えた瞬間、背後の玄関ドアが破られ、投げ込まれたのは閃光手榴弾。強烈な光と音で周囲にいる者を無力化する武器だ。同時に窓ガラスが爆発し、数人が飛び込んできた。完璧に教科書通りの突入。


 室内へ侵入したは4人。


 ぼくは精密に動いた。ダンスの発表会のように、すべての位置とタイミングを間違えることはできない。足の小指でさえ計算通りの動きをトレースさせた。


 ガラスが破られる直前にナナをソファの脇に伏せさせ、入ってきた窓側のふたりを順に仕留める。その体のひとつを盾にして小銃弾を受けながら玄関側に突進し、残りのふたりをドアの外に押し出した。


 靴をつかみ、きびすをかえすとソファの脇に寝てるナナを抱えてベランダに飛び出し、柵を乗り越えて冬の空にダイブした。





「8階からマンションの壁を駆け降りるなんて経験、初めてよ」


 ナナはたいそうご立腹だった。


 ここはマンション近く、小さな川沿いの遊歩道だ。パトカーや消防車のサイレンで少々騒がしい。


「こんなプレゼントは気に入らなかった?」


「助けてくれてありがとう。AIはちゃんとお礼を言えるもの。あなたも正直になりなさい」


 ぼくはとぼけた。


「今夜は奇跡が起きていい夜、だろ?」


「ハチ公、あなた人間じゃない。AIね」


「ナナ、手をつないでもいいかい?」


「それも聖徒シリーズ最悪と言われたナンバー8でしょ」


 ぼくは彼女の手を取って走り出した。


 静かに近づきつつあった追っ手が慌てて大きな音を立てた。





 街頭の監視カメラも位置を知っていれば、どうということはない。ドローンも飛びまくっているけど、搭載されているカメラの動体認証は姿勢や仕草の癖を完全に変えてしまえばごまかせる。


 ぼくらは追っ手を撒き、小高い公園の展望台にいた。


 雪はやんでいた。眼下に街の灯が広がっている。


「素敵な場所ね。イヴにふさわしい」


「さっき思いついたんだ、君に見せたいって。もうイヴではないよ」


「あらま」


 彼女は腕時計を見た。


「君はセイント・ヴァレンタインじゃない」


「気づいていたの?」


「AIならフォークの順番を間違わない」


 ぼくは背後を振り返った。東屋の陰に3人。もう追いついてきた。


「ぼくについてはわかった?」


「聖徒シリーズ8番目、セイント・ニコラウスよね。人間に恋をする初めてのAI。簡単に暴走するから発売後すぐ回収騒ぎになった」


「ぼくは今まで平穏だった」


「誰も好きにならなかったのね。暴走のトリガーは恋だもの」


「でも今は違う」


 ぼくはナナを見つめた。


「君を好きになってしまった」


 ナナは黙った。


 ぼくは彼女を引き寄せようと腕を伸ばした。彼女は一歩後ずさった。


「私、嘘をついていたの」


「知ってる」


「私はアトリの捜査官、まなみなな。あなたを追ってきた」


「知ってる」


「知ってたの?」


「アトリの追跡と包囲が早すぎる。君がマーカーになっていたんだろ?」


「さすがね」


 ぼくは腕を広げた。


「君に逮捕できるかい? 知っての通りセイント・ニコラウス型にはデフォルトで対人戦闘の軍事用試験プログラムがインストールされてるんだよ」


「あなたを逮捕します。ハチ公、楽しかったよ」


 彼女の唇がそう動いた途端に、ぼくの視界が揺らいだ。動けない。彼女の声が洞窟内で響いてるように聞こえた。


「ニコラウス型特有の脆弱性をついたウイルスよ。完成したばかり。動態を視認することで勝手にインストールされてしまう。私ね、唇の動きを訓練したんだ」


 ぼくはかろうじて呟いた。


「知ってるかい、セイント・ニコラウスって……」


 ななはぼくに近づき、スタンガンを当てた。ぼくは倒れ、衝撃すら感じなかった。でも意識はあり、音も聞こえる。ななの声は遠かった。


「セイント・ニコラウス、通称サンタクロース……」





「だったらマンションに強行突入しなくてもよかったじゃないか」


 ぼくは口を尖らせた。


 ななは苦笑してぼくの頭をなでた。


「ごめんなさい。私ひとりで確保できると主張したんだけど、特殊部隊が信用してくれなかった」


 ぼくたちはベッドに潜り込んでいた。お互いの体温が心地良い楽園。


「いつ、ぼくを好きになったの?」


「キスされた時」


「最初からじゃないか。捜査官にあるまじきフォーリンラブだ」


 ななは噴き出す。それから甘えるようにぼくの肩に頭を乗せた。


「あなたはいつ私に恋した?」


「牛肉のコンフィをおいしそうに食べていたから」


「おいしかった。あのお店、また行こう」





 セイント・ニコラウス型は恋を引き金に暴走し、人間を傷つける。その仕組みはまだ解明されていない。ぼくは恋をしたまま捕獲された唯一の個体だった。


 もし、この恋が成就した場合、ぼくのプログラムはどう変化するのか。暴走が抑えられるのか。


 それはグーグルの開発者たちにとって喉から手が出るほど欲しいデータだった。恋の一方の当事者であるアトリ捜査官まなみなながこの実験への参加を承諾した。ぼくは彼女と住むことを条件に解放された。





「終わり良ければすべて良いでしょ?」


 微笑みながらななは言う。


 ぼくは眉をひそめた。


「終わりじゃない。始まりだろ」


「もうすぐ終わる」


「もうすぐ始まる」


 ぼくらは壁の時計を見ながらカウントダウンした。


「ご、よん、さん、に、いち……」


「ハッピーニューイヤー!」


「明けましてあめでとう!」


 ぼくたちの新しい年が始まった。

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