ガラス瓶の海
山本アヒコ
ガラス瓶の海
「オリ! オリ!」
はしゃぐような高い声で目を開けた。腕でまぶたを擦りながら大きくあくびをする。寝ている間にかいた汗で背中が少し不快だったが、それはいつものことだった。
「オリ!」
寝ているすぐ横で大きな声を出すものだから、目覚めたばかりの人間には辛い。眉をしかめながら、削るなどして形を整えたりしていない自然のままの枝を組み合わせたベッドから背中を離す。上体を起こすと蒸れていた背中に風が触れて心地よい。しかし気温は高いので、すぐにそれも感じなくなった。
「……毎日そうやって起こすのはやめてほしいな」
その声はまだ少年らしさを残した低めの声。大人になろうとしている途中の、声変わりしたばかりのそれだった。
指で目やにをこすり顔を横に向ける。その先には、ベッドの横に立つ少女の姿があった。
日焼けした少年とはまた違う黒い肌。黒に近い茶色の縮れた髪の毛は肩ほどの長さ。印象的な大きい瞳の色は緑色だ。
少年はこの緑色の瞳にどうしても目を惹きつけられてしまう。少年と彼がこれまで出会った誰も持っていない色だったからだ。貴族の青色、港町にあふれる人間たちの薄い茶色と全く違う、宝石のようなのに輝きよりも透明感が目立つ色だ。
「オリ! オリ!」
少女は何度も少年の肩を叩く。上半身は裸なので、むき出しの肩と手が打ち合わされていい音をたてる。けっこうな強さなので少年は口を曲げる。
「わかったよタラサ! 起きるから!」
タラサと呼ばれた少女は口を上向きの円弧にして笑うと走り去った。少年はため息をついて金色に近い髪の毛を片手でかき回す。
「はあ……」
少年はベッドから出て、隙間だらけで下の地面が見える床へ立つ。
ベッドは木の枝を組み合わせたものだったが、この床もそうだった。自然のままの曲がったり歪んでいる枝をいくつも組み合わせてできている。ところどころに板状のものもあるが、きれいな平面ではなく厚みは一定ではない。屋根も同じように枝を組み合わせて、その上に木の葉や樹木の肌をかぶせている。
家の柱も同じように太い木がそのまま使用されていた。壁はなく、いくらでも風は入ってくる。しかし常に季節が夏であるここではそれが普通だった。
家の床は地面からいくらか高い場所にあった。そのため家の出入りには階段を使う。もちろんそれも枝でできている。最初にこの階段を歩いたときは壊れそうで恐怖を感じたものだったが、今では寝起きでまだ目が半分しか開いていない状態でも大丈夫だ。
上半身裸のままで外を歩く。最初は服を着ていたのだが、ここに住む男たちは誰も着ていなかったし、なによりひどく暑かった。
少年が向かった先では、多くの人間が集まっていた。そこはちょっとした広場で、その一角に住民が共同で使っているかまどが集まっている。老若男女がそこで食事をしていた。
少年が近づいていくと、姿を見つけた彼より年下の十にも満たない子供たちが「オリ!」「オリ!」と呼びかけてくる。
「……本当の名前はオリソンテなんだけどな」
苦笑しながら子供たちに小さく手をあげる。オリソンテという名前がここの住人たちには発音が難しいので、彼はオリと呼ばれるようになったのだ。
女たちがせわしなく働いているかまどのほうへ向かうと、すぐに少女が気付いて振り向いた。オリソンテを起こしに来たタラサだ。
「オリ! 食べる!」
笑顔で差し出された器を受け取る。中身は魚のスープだ。
「オリ、海、魚」
「うん、うん……」
オリソンテはタラサの言葉に頷くが、ほとんど意味がわからない。まだ彼女たちが使う言葉で聞き取れるのは、いくつかの単語だけだからだ。
まだ喋り続けているタラサの相手はそこそこに、器を持って離れる。その様子をまわりの女たちが生暖かく見ているのはわかっていたが、それを無視する。
広場にはいくつか丸太が無造作に置かれていて、それが椅子がわりだ。テーブルは無く、そこに座って食事をするのがここのルールだった。
食事をしていると誰かが近づいてきた。
「オリ」
低く力強い声の持ち主は、それにふさわしい大きく逞しい肉体の男だ。髭におおわれた顔は迫力がありそうだが、緑の瞳に浮かぶ静かな気配がそれを打ち消していて優しそうにすら見える。彼はタラサの父親だった。
「朝、海、はやい」
単語しかわからないが、その雰囲気でもっと早く起きろと言っていることが理解できた。
「すいません」
オリソンテはここでの生活に慣れてきたが、まだ馴染んだと言えるまでではなかった。そのためつい寝過ごしてしまうことが多かった。幸いにそれ以上の叱責はなかった。タラサの父親は小さく頷くと、手招きをすると背中を向けて歩き出した。
残ったスープをかきこんで追いかける。器は地面に置いておけばいい。丸太の近くに置いてあれば誰かが片付ける。それもここのルールだった。
ここの男たちの仕事は、船で海へくり出し魚をつかまえることだ。方法は釣りや網に素潜りで槍を使うなど、個人の自由だった。魚がつかまえられるならそれでいい。
オリソンテが砂浜に着いたころには、ほとんどの船が海へ出ていた。彼が遅いというのは事実だったようだ。急いでタラサの父親と一緒に砂浜にある船を海へ押す。足が波と砂に取られるようになったところで船に乗り込む。最初は何度も海へ落ちたが、今では一度で身軽に乗れるようになった。すかさずオールを持ち、海へ突き立て船を沖へと運ぶ。今日は海も穏やかなので滑るように船は進む。魚もよく捕れそうだ。
昼前に漁は引き上げる。今日はそれなりに豊漁だったため、船には一抱え以上の魚があったが、ほとんどはタラサの父親が捕ったものだった。オリソンテは数匹の小さな魚を捕っただけにすぎない。
彼らがやっているのは素潜りで槍を使う漁だ。オリソンテは以前に釣りや網を使ったりしたが、素潜りが一番自分に合っていた。しかしまだやり始めたばかりなので、成果も今ひとつだった。だが、彼より年下の子供たちですらもっと魚を捕れるので、内心かなり情けない気分だった。
昼食は朝の漁で捕ってきた魚を使う。食事の用意をするのは女たちだ。その中にタラサもいる。彼女が器をオリソンテへ持ってくる。
「オリ! 魚、たくさん」
「うん、次はもっと捕れるように頑張るよ」
「違う、オリ、タラサ、魚、あげる!」
「え? どういうこと?」
お互いの言葉がわからないため、どうしても身振り手振りが多くなる。その様子を見た周囲の人間たちが笑う。子供たちもオリソンテの真似をして笑い合っていた。
昼食が終わるとしばらく休憩だ。昼寝をしたり、漁の道具や船を手入れしたり、男たちは気ままに過ごしている。石と枝を使ったゲームらしきもので賭け事をやっている男たちもいるが、オリソンテはルールがわからないのでやったことはない。
その後はもう一度漁に出るのだが、出ないことも多い。雨や風が強いといった理由だけではないようなのだが、オリソンテにはわからない。何度か聞いたのだがわからない単語が多くて、今はもう気にしないようにしていた。ただ、ひとつだけ理解できるものがあった。『ヌ=モーヒの声』である。
ヌ=モーヒはここの住民をまとめる老女だ。海の守り神の巫女であり、住民たちの最高権力者で占いによって神の声を届ける者。
オリソランテはヌ=モーヒによって昼からの漁を免除されている。そのかわりに違う役目を与えられていた。
昼食後、同じく休憩をしているタラサとオリソンテは会話をしていた。タラサは仲良くお喋りをしていると思っているかもしれないが、オリソンテとしては早く言葉を覚えるために必死だった。
そうしていると一人の女性がオリソンテに声をかけた。彼より先にタラサが振り返り、笑顔になった。
「お母さん!」
タラサはそのまま母親に抱きつく。彼女はオリソンテと同じ程度の年齢だが、こういった子供っぽい行動が多かった。母親は苦笑しながらタラサの髪の毛を撫でる。幼いころに両親を亡くし顔も覚えていないオリソンテには、その光景が羨ましいわけではないが、痛くもない指先の小さな傷が気になるような、言葉にできない感情が泡のように浮かぶ。
体にまわされたタラサの腕をそっと外し、母親はオリソンテについて来るようにと言った。これはいつものことなので、彼は何も言わず歩き始めた。
「オリ! お母さん!」
おそらく、気を付けてといった言葉だろうものに軽く手をあげて返事をする。
二人が向かったのは、ほとんどの人間が住む家が集まった場所から、森を進んだ先にある大きな家だった。普通の家は基本的に一部屋でできているのに対して、この家はいくつもの家が集まってひとつの家になっている。そのためまず単純に大きい。さらにほかの家には無い壁もあり、壁の無い場所にも大きな布が垂れていて中が見えないようになっている。布も赤い色で模様が染められていて、ここが特別な場所だとわかる。
タラサの母親と建物の中へ入る。壁があってもところどころにある隙間から光が入ってくるので、中は思ったほど暗くはない。奥へ歩いていると、何人もの人間とすれ違う。子供からタラサの母親より年上の人間までいるが、誰もが女性だ。
建物のいちばん奥には、入り口にひと際複雑な模様が描かれた一枚布で塞がれた場所があった。ここがオリソンテが向かう場所である。両脇に立った女性が布をまくり上げ、それを潜り抜けて通る。背が高いわけではないが、女性たちの身長が低いのでどうしても背を屈めながら入るようになってしまう。これにも宗教的な意味があるように思えるが、オリソンテには知る由もない。
その部屋はそれほど狭くなかったが、周囲にはいくつもの木彫り像が飾られていて、そのせいか圧迫感がある。その像は何かの動物なのか、それとも仮面をかぶった人間なのか、それとも神の姿なのかオリソンテには理解できない。
部屋の奥は数段の階段によって床が高くなっていて、そこに一人の老女が座っていた。彼女こそがこの島の最高権力者であり、海の守り神の巫女である『ヌ=モーヒ』だ。顔はいくつもの皺が刻まれていてかなりの老齢だとわかる。他の住人とは違い頭にはいくつもの色で編んだ紐を巻き、首には木や動物の骨や牙を結んだ首飾りを複数装着している。そのせいなのか、年齢にはそぐわない気迫のようなものを感じる。
階段の手前で二人は床に座り目を伏せて待機していると、ほどなくヌ=モーヒが口を開いた。
「オリ」
低くしゃがれた老人の声で顔をあげると、ゆっくり階段をのぼる。
高くなった床の上、ヌ=モーヒの前にはある物が置かれていた。一見しただけではただの貝殻の化石のようにしか見えない。手のひらほどの白い貝がいくつも集まり、一つの岩に塊となった化石だ。
その前にオリソンテが座ると、椅子もなく床に直接座っていたヌ=モーヒは、その化石を裏返す。すると白い光が出現した。
貝の化石の裏側は、まるで真珠のように白く輝くいくつもの球体で覆われていた。その大きさはまさに真珠のように小さいものもあれば、手のひらほど大きいものもある。不思議な事に白い光が、球体の内部から漏れ出ていて、さらにはまるで呼吸するかのように明るさを変化させていた。
ヌ=モーヒがそれにそっと手を置く。オリソンテも一度息を吸い、同じく手を置いた。その瞬間、視界は白い光に塗りつぶされる。しかし眩しいとは感じない。音が消えた。やがて何かが聞こえてくる。波の音。呼吸音。海鳥。白い視界に色が混じる。黒、青、緑。海の色。何かがいる。波のようにうねる何か。
「……ハッ」
突然に何もかもが失われ、自分の意識が戻ってくる。すでに何度も行っている事だが、いまも慣れることはない。軽い片頭痛とともに浮かんだ汗が顔をつたう。
ヌ=モーヒが閉じていた目を開け、オリソンテが乗せていた手を横へ外すと、貝の化石をひっくり返して元へ戻す。
何のためにやらされているのか、自分が見ているあれは何なのか、なぜ自分がこんなことをやらされているのか、その全ての理由がわからないままやらされているこれこそ、オリソンテが昼の漁仕事を免除されている理由だった。
******
オリソンテは港町で生まれたらしい。らしいというのは、物心ついたころにはすでに親もなく、いつの間にか港町の廃墟が集まる区域にいたからだ。その場所は強者が弱者を食い物にするような、平穏や秩序から縁遠い場所だった。そのため弱者である子供たちは身を寄せ合い、何とか飢えと寒さをしのいで生き残るしかなかった。
そう考えるとオリソンテは幸運だったのかもしれない。ある程度体が成長したところで、船の下働きとして雇ってもらえたからだ。船というのはひどく狭い。個人の部屋など船長しか持てず、その広さも何とか横に寝れる程度でしかなかった。そのため一人ぶんで二人乗れる子供というのは、船乗りには重宝されているのだった。
しかし、船の下働きというのはひどく過酷な仕事だ。荷物の上げ下ろしは重労働だし、船に乗ってからも掃除だ料理の準備で休む暇もない。さらにはオールの漕ぎ方や帆の扱い方、縄の結び方など覚えることが山ほどある。
また船乗りは誰もが大酒飲みで乱暴な人間だ。海の上でも陸の上でも、何かがあれば殴り合いになる。子供に手加減するはずもなく、何か失敗すれば拳が飛んでくる。失敗しなくても機嫌が悪ければ殴られた。それでも廃墟で震えているよりはましなので、オリソンテは必死で仕事を続けた。
そして数年が経過し、子供から少年となり、痩せているがもうすぐ大人と言えるだろう体格になったその時、船が突然の嵐に飲み込まれた。
オリソンテどころか長年の船乗りたちも出会ったことがないほどの大嵐。帆をたたんだはずなのにマストは折れ、常に波が甲板を襲うのだから船と海の区別もない。何度も何度も大きく上下に揺さぶられ、そのたびに体が宙を舞う。
オリソンテは船の底で、いたるところから入ってくる海水をふさぐため、ぼろ布を必死で板と板の隙間につめていた。しかし、いくらやっても海水が入ってくる。さらに波で船が揺れるたび、何度も転がされ飛ばされ、体中に青アザができていた。
そして巨大な波が船を飲み込んだ。波の中で船は何度も回転し、やがて真っ二つに割れてしまう。オリソンテら船員も波に飲み込まれ、船とともに海の藻屑になるかと思われた。しかし、幸運か海の女神の導きか、オリソンテの体はとある島に流れ着いたのだった。
******
オリソンテが島に流れ着いてから、すでに一年が経過している。この島は常夏なので、季節が廻ったという感覚がない。雨季があるので、それが季節と言えるのかもしれないが、冬になると雪が降る場所で育ったオリソンテにはあまりにも変化が無かった。
一年も暮らせば言葉も大体理解できるようになった。住人たちと会話できるようになると、ここがどういった場所なのか理解できてくる。
ここは島とだけ呼ばれている。名前はない。この村に住んでいるのが島の全住人だった。周囲に他の島もないという。実際この島からは水平線しか見えなかった。
自分のほかに流れ着いた人間はいないのかと聞くと、生きていたのはオリソンテだけだと言った。だから島の人間たちは全員驚いたのだ。
彼らはすぐに島の指導者であるヌ=モーヒにどうすればいいか聞きに行く。そしてオリソンテを助けるように命じられ、そうした。やがて目を覚まし体調も回復すると、ヌ=モーヒのもとへ連れて来るようにと言われ、言葉も通じないなかオリソンテは恐怖に震えながら初めて老巫女と出会い、あの儀式を行う事になった。
一年後の今もオリソンテは貝の化石に手を置く儀式を行っている。最初は白い光しか見えなかったが、何度もやっているうちに色々なものが見えるようになっていた。今ではたまにはっきりとものが見えることがある。それは波打つ海だったり、海の上を飛ぶ鳥や海中を泳ぐ魚の群れだったりしたが、それに何の意味があるのかわからないままだった。ヌ=モーヒも彼に教えることはなく、島の人間たちも理解できなかった。
「オリ、次の勝負だ!」
逞しい体つきの男の言葉に、オリソンテは笑顔で答える。
「もちろんだ」
オリソンテもこの島の言葉をほぼ使いこなせるようになっていた。一年という短い期間だが、周囲の人間に自分の言葉を理解できるものが一人もいないという状況が、彼に必死で覚える原動力となった結果だ。
オリソンテと男がやっているのは賭け事の一種で、木の枝と小石を両手に握りこんで、左右それぞれに石と枝がいくつあるのか当てるゲームだ。
賭け事といっても、この島に貨幣というものは存在しないため、それを賭けることはない。まず人が住んでいる場所がこの村ひとつだけなので、交易する必要がなかった。漁による魚やたまに行う動物の狩猟でも、村の全員で分けるため商売する必要もないのだった。
では何を賭けるかというと、人の気持ちというか所謂『借り』と言えるものだ。例えば病気になったときに食事など身の回りの世話をしたり、家や船が壊れたときの修理を手伝うなどといったことだ。この村では賭け事による借りが、社会のセーフティネットの役割を果たしていた。
「オリ!」
オリソンテが賭け事に集中していると、後ろから大きな声とともに背中を叩かれた。
「痛ったぁ……やめろよタラサ!」
オリソンテにこんなことをするのはタラサだけだ。背中をさすりながら振り向くと彼女の笑顔があった。
一年が経過し、まだ子供っぽい面影があったタラサもずいぶん大人びた見た目になっていた。髪の毛は背中ほどまで伸び、顔も可愛いから美人と言える見た目に変化した。体つきも女性特有の丸みを帯びて、胸も尻もかなり大きくなっていた。
「オリが賭け事に夢中なのがいけないんだよ。ヌ=モーヒのところへ行かないと」
太陽がすでに島の一番高い山に触れていた。つまりは遅刻だった。
「うわ、まずい! 続きはまたな」
慌てて枝と小石を放り捨てて、オリソンテは駆け出す。その様子に勝負を中断された相手は笑顔で、タラサの手形がついた背中に手を振った。
息を切らせながらヌ=モーヒの前に座る。その姿と遅れたことにも何も言わず、老女はいつもと同じように貝の化石を裏返す。言葉を覚えたオリソンテはこれがただの化石ではなく『海の守り神』と呼ばれていることを知っていた。
これは何百年も昔から島で大切にされてきた宝物で、これがあるから島が災いから守られているのだと伝えられている。代々の巫女の血筋がこれを管理していて、今はヌ=モーヒがそれになる。
そんな大切なものになぜオリソンテが触れられるのかというと、ヌ=モーヒによれば『呼ばれたから』だという。これまで死体でしか流れ着いたことのない島の外の人間が、はじめて生きたまま現れた。これは海の守り神に選ばれたからだと老女は言った。
いつもと同じように白い光を放つそれに手を触れた。すると今回はいつもよりはっきりと光景が見えた。それだけでなく、触れることもできそうに思えた。
どこかの海中だ。色鮮やかなサンゴ礁が広がる海底。海は透き通っていて、太陽の光と波の加減で作り出されたとても美しい光景。その中を大きな亀が悠々と泳いでいる。その甲羅に指が触れた。亀はそれに気づいたようで首を後ろへ向けたが、すぐに戻して何事もなく泳ぐ。
小魚の群れが近づいてきた。何気なく腕をゆるりと振ると、小魚たちが腕と戯れるように舞う。さらに腕から体へと近づいてきて、周囲を回りはじめた。くすぐったいような感覚と、美しい海の景色に呆けていると急に意識が現実へ戻ってきた。
「……今のはいったい何だ……」
触れていたほうの手を見るが、いつもと変わらない。呆然とヌ=モーヒへ顔を向けると、静かに口を開いた。
「かつてこの島は今の何倍も大きく、まわりにも百を超える島々があった。魚や獣、木の実のほかに鉄や宝石なども豊富にあった。そうなると島の外から略奪者がやってくる。しかし島には『海の守り神』がおられた。巫女の祈りと王の願いによって力を貸してくださり、略奪者から守ってもらっていた。だがある時、王が守り神の怒りに触れてしまった。島は火を噴き、大地が割れて海に飲まれやがて残ったのは小さなこの島ひとつとなった。それから長い時をかけて、我ら巫女が海の守り神に許しを請うているのだ」
静かな声に込められた真摯な想いに気圧され、オリソンテの喉が鳴る。
「で、でも……なぜ私がその、海の守り神に触れると、あんなものが見えるのですか? この島の外の人間ですし」
「おそらく、守り神がおぬしを試しているのだ。王になれるのか」
「私がですか!?」
驚きに大声を出すオリソンテを気にすることもなく、海の守り神の白い光をじっと見つめながら、ヌ=モーヒは言う。
「……おぬしだけではなく、この島も試されておる」
オリソンテもヌ=モーヒも身動きしないまま、しばらくの時が経過した。しびれを切らしてオリソンテが口を開こうとしたとき、老女が彼を見た。
「もうすぐ、この島へ災いがやってくる。その時、おぬしは選ばなくてはならない」
「選ぶとは何をですか」
「島か、どちらかだ……」
それだけを言うと黙り、海の守り神を元に戻す。しばらく待ってみたが、もうヌ=モーヒが口を開くことはなかった。
建物から出るとすでに夕焼けの時刻になっていた。森の奥まった場所なので、周囲はすでに薄暗い。急いで帰るべきなのだが、どうしても考え込んでしまい足が遅くなる。
「オリ! 遅い!」
突然かけられた声に肩が上がる。タラサが腰に手を当てて、怒った様子で立っていた。
「どうしたんだよタラサ」
「オリが帰ってくるの遅いから、むかえにに来たんだよ。ほら行こう」
タラサがオリソンテの手をとり歩き出す。ここで手をはらってしまえばさらに起こるので、彼は大人しくそのまま歩く。しかし、そんな事はしないだろう。タラサと手をつなぐことはオリソンテにとっても嬉しいからだ。
美しくなったタラサは島の若者たちに人気だった。何人からも求婚されていたが、全て断っていた。彼女は気付いていないだろうが、島の人間たちと、オリソンテすらも理由を知っている。
タラサはオリソンテのことが好きだ。彼女は誰も知らないと思っているかもしれないが、島の全員が知っている。
オリソンテも嬉しいが、どうしても素直に喜べないでいた。
自分はこの島にいるべきなのか、今も悩み続けている。
数日後の島の天気は荒れ模様だった。雨季でもないのに、空は黒い雲と灰色の雲に覆われて太陽が見えない。風も強く、今日の漁は中止になった。
「今日は空が良くないなあ」
家の入口にある階段に座ったタラサが、空を見上げながらつぶやく。その言葉は、薄暗い家の中に座り込んでいるオリソンテの耳を通り抜ける。
「オリ、聞いてる?」
「……ああ」
「ふん! 嘘だ」
タラサは頬を膨らませてそっぽを向いたが、彼はそれを気にする様子もない。つまらなさそうに外を見ていた彼女は、近づいてくる人影を見つけた。
「あれ、ヌ=モーヒのところの人だ。まだオリが行くときじゃないけど?」
オリソンテは床に向けていた顔を上げた。来たのだ。今日は胸にその予感が渦巻き続けていた。
「ヌ=モーヒがオリを呼んでいます」
海の守り神が放つ光を挟んで、オリソンテとヌ=モーヒが対峙する。
「オリ、おぬしは選ぶことになる。島か、どちらか。後悔しないように……」
オリソンテは無言で手をのばす。疑問は尽きない。不安もある。しかし、やめる気はなかった。やらなければならないという使命感だけが、ただ溢れて自由が利かなかった。
海の中を進む。魚のように波をものともせず。薄暗い。急に海の上に出る。海鳥と共に空を飛ぶ。海は波打ち、白いしぶきがいくつも見える。大海原に小さな影が。船だ。海に比べればあまりに小さい、だが人から見るとかなり大型船になる。それが五隻、荒れる海を渡っている。マストの上の見張りが口に手をそえて叫ぶ。「島だ!」
港町で育ち船員だったオリソンテはこの船がどんなものか知っている。両舷から出ているのは複数の大砲。開拓船という名前の海賊。私掠船。大型船による交易の始まりとともに、知らぬ大陸や島を植民地とするべくいくつもの国が、大砲と兵を積んだ船で海を渡っている。また商船を狙った海賊も増え、さらには敵国の商船を狙う国公認の私掠船まで現れた。
オリソンテがかつて乗っていたのも、通商船とは言っても時には海賊行為に躊躇いの無い、そんな船だ。大砲も少ないが積んでいた。だから、彼らがどんな野蛮で酷い行為をするのかよく知っている。
船団が向かう島は、オリソンテが良く知っている島だ。左右に高く険しい山がある。ほとんど森に覆われて島の周りは崖になっていて、上陸するのは難しい。ただし一か所砂浜が存在していた。そこには細長い、三人乗れば窮屈なほどの小さい船がいくつも並んでいる。
この島には、黒い肌と緑の瞳を持つ人々がつつましく、だが優しく穏やかに暮らしている。土に汚れて欠けた銅貨をめぐって子供たちが殺し合いをすることもなく、飢えに腹を抱えながら雪に凍えて死を待つこともなく。
大型船の船員は茶色や青い目を欲望に光らせて、島を見ながら舌なめずりをしている。その目を見てオリソンテは吐き気がするほどの嫌悪感がした。
その時、自分は力があることを知った。波の向や大きさを変えること、海を片手で掴み自由に形を変え、両腕でたらいの中の水をかき回すように嵐を起こせることを。この力があればこの船を全て海に沈めることなど簡単だ。
しかし、オリソンテは知っている。海を自在に操れる事の強大さを。嵐など気にせずどこへでも船で行ける。海賊や私掠船に襲われても、この力で沈めてしまえばいい。通商船の下働きでしかなかったオリソンテは、この力を使えば世界一の大商人や、海軍の船長ににすらなれるだろう。海の守り神を使えば、暴力と飢えと寒さで死の影に怯えてていたあのころとは違い、安全で清潔な家でたらふく肉や酒を楽しむことができる。
どうすればいいのか? 自分はどちらを選べばいいのか?
不意に黒雲に小さな隙間が現れ、細い光の筋が海へ射し込み輝く。
緑色の輝きだ。知っている色。タラサの瞳の色。はじめて見た輝き。
オリソンテが漂着してから目を覚まし、最初に見たのはタラサの瞳だった。これまで見たことない瞳の色。透き通る海の色。失ってはいけないもの。
風が強くなり黒雲が渦を巻く。風に舞い上がるしぶきが船を濡らす。海鳥は風から逃れようと離れ、魚たちも深い場所へ潜り姿を消した。
腕を一振りすればたちまちに海は大きく波打ち、船を一隻弾き飛ばした。一度は耐えたが反対側からも波を受け、そのまま転覆する。指で海を掴み上げれば、山のような高さの波となり、また一隻を飲み込んだ。
黒雲はさらに色の濃さを増し、大粒の雨とともに稲光を走らせる。風は大岩ですら転がりそうなほど強くなり、船の帆を破りマストをへし折った。波に翻弄された二隻が衝突し、船体の破片をまき散らす。穴が開いた場所からあっという間に海水が流れ込み沈没した。
最後の一隻は渦潮に飲み込まれようとしていた。周りに何もない大海原に現れた、ありえない大きさの渦潮に船員たちは悲鳴をあげることしかできない。百人は乗れる大型船がまるで木の葉のように翻弄されて、二つに割れた船体はさらに渦の中でさらに砕かれ海の藻屑になり果てた。
嵐がおさまると、島の人々は砂浜に集まっていた。そこには砕かれた船の破片が大量に流れ着いて、男たちがそれらを大騒ぎしながら運んでいる。途中で折れたりしているが、加工された木材というのはこの島では貴重な資材なのだ。
船の破片だけではなく木箱や樽といったものも砂浜に漂着している。中身はワインやリンゴにレモンなど島には無い品物だ。子供や女たちが楽しそうに集めている。
オリソンテはそれらに混じることなく、茫洋とした顔で砂浜を歩いていた。あの嵐が嘘かと思えるほど穏やかな海の波打ち際を歩いていると、緑色の輝きが目に入った。
それは砂にほとんど埋まったひとつの瓶だった。それが太陽の光を反射している。持ち上げるとおそらくワインか何かの空き瓶だとわかる。
緑色のガラス瓶の中には、砂と海水が入っていた。何となくそれを見ているとタラサの声が聞こえた。振り返るとタラサがレモンを手に持っていて、舌をだしながら表情を歪めている。どうやらレモンをかじって酸っぱさに悲鳴をあげたようだ。まわりの子供たちがそれを見て笑っている。思わずオリソンテも笑ってしまう。
オリソンテは手に持った、タラサの瞳と同じ色のガラス瓶を見る。
ここはガラス瓶のなかの海なのだとわかった。自分はこの瓶のなかの海水と同じように海を操れる。瓶を振れば波が起き、上下に激しく振れば嵐を起こせる。しかしガラス瓶の中には砂と海水しかない。
砂と海水しか入っていないガラス瓶など、ただのゴミでしかないだろう。海水はワインと違い飲むことはできない。砂が入っている瓶は水すら入れることはできない。だがこうして太陽に向けてみれば、美しく緑色に輝く。ガラス瓶の中に見える光景は、この島の砂浜から見る景色そのものだ。
ガラス瓶の海でも、それは今、自分の手の中にある。
ガラス瓶の海 山本アヒコ @lostoman916
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