折り目模様の鶴
くろかわ
菖蒲と鶴
憂鬱。
私の心情を一言で表すなら、それに限る。
夕暮れ。段々と伸びていく春日の青さは次第に茜色に移ろっていく。部室棟の廊下はしんと静かで、遠くに運動部の人達であろう声が聞こえる。聴き慣れたかけ声は彼方にあり、私の目の前には閉じられた扉。窓越しの暮れゆく空を受けて、次第に色が紫から藍へと変わっていく。
春の空は移り変わりが早いだなんて、気にしたこともなかった。
夜が来て、手遅れになる前に扉を開かなくちゃ。
いつの間にか、左手は鞄の持ち手を強く握り締め過ぎていた。こわごわと手のひらを開くと、真っ白になって爪の食い込んだ痕が残っていた。
溜息一つ。
ノックを二つ。
深呼吸を一つ。
「あの! 失礼します!」
部室の扉の上には、綺麗な文字で折り紙部とあった。
私が折り紙だなんて。似合わない。でも、仕方ない。
中からがたごとと音。人がいる。いるんだ、この部にも。勿論、部として存在しているからにはいてもおかしくはないのだけれど。
そんな事を考えていたのは何秒間だったろうか。
「なんとぉ!」
凄まじい勢いで扉が開かれる。声と音、両方に驚いた私は後ろに一歩。
目の前には小柄な少女。彼女のリボンタイの色は三年生を示している。一年生の私が彼女を少女と呼ぶと失礼にあたるかもしれない。
身長差はだいたい二十センチ程。知らない人から見れば、私の方が大人びて見えるだろうか。
そしてこの人は確か、
「……あれ? 生徒会長?」
「そだよ。入部希望かな?」
私の胸程の背丈しかない生徒会長は、その大きな瞳を輝かせ、期待を奏でた。
「い、一年の
腰からお辞儀をして、床に向かって大きく名乗る。
緊張で体が強張っているのか、それともまだ抜けない癖か、嫌でも大声が出る。
ここはどう見たって、体育会系の部じゃないのに。
「三年、部長の
よろしくね、と言いながら、後姿は年下にしか見えない先輩が、誰もいない空っぽの部室へと入って行った。
「散らかっててごめんねー。一人だと片付けしないタチでさぁ」
部室は散らかってなどいなかった。むしろ何も無い。机が一つ。椅子が一つ。閉じたカーテン。薄布越しに透ける茜、紫、青。棚の上には、整然と並んだ折り紙の数々。もし『散らかっている』と表現するなら、この折り紙のことだろう。
それくらいしか、この部屋で散らかりようのあるものはない。
本当に、先輩以外には誰もいない、寂しくて、空虚な部屋だった。
「あ、いえ。あの」
私の言葉も無意味な音が虚空へ投げ出される。
「ま、座んなよー」
そう言って当て所のない私の言葉を受け取った生徒会長は、言葉ごと私を部室の中へと手招きする。
誘われるままにおずおずと座る。一つしか無い机の上には開きっぱなしの教科書。付箋のたくさんついた参考書。使い込まれたノート。先輩は受験の準備だろう。私と違って三年生だ。未来への岐路に立っているんだ。
私は、そのずっと手前に居る。まだ。
「さて、折り紙部へようこそ!」
目の前に立った小柄な少女……先輩は、両手を広げて楽しげにくるりと翻り、私を下から覗き込む。人形のように整った、愛くるしい顔立ちと視線が合う。
「はい、どうも……。あの」
居辛い。
先輩がとても嬉しそうだから。
「なにかな?」
「他の部員は……?」
言葉を濁す。
「いるけど来ないよ」
一目瞭然だ。先輩以外、誰かが居た形跡も、足しげく通った痕跡も無い。
私の愚問に当然の如く、平然と返す彼女。
じくじくと良心が痛む。間を持たせるだけの言葉なのに、彼女を傷つけてしまったかもしれない。
「ここは幽霊部員の溜まり場だからねー。今時、部活の強制なんて流行らないって」
眉尻を下げて笑いかけてくれる先輩に救われたのか、それとも上手く誤魔化されたのか、わからなくなってしまう。
「……そうですね」
全校生徒は何らかの部活に所属するように、と校則で決められていた。そんな高速を古臭いと思うようになったのは、この学校への進学が決まってからだ。
だから、私はここにいる。
他に居場所ができるとは思わなかったから。
折り紙部のほとんどが幽霊部員という噂を聞きつけて、悩んだ末に入部届を担任の先生に提出した。だから、ここに居たいわけじゃない。ここにしか居られないんだ。
入部届を受け取った先生の複雑な表情をよく覚えている。大人は私の行動を青春の浪費だと思ったのかもしれない。
私が無言で立ちすくんでいたら、諦めたように受理はしてくれたけれど。
あの時諦めたのは、私だったのかもしれない。
いや、もしかしたらもっとずっと前に、私は諦めていたのかもしれない。
だけど、と目の前の生徒会長は言葉を繋いだ。
考え事をしていた私は驚きを隠せず、目を丸くしてしまう。
もしかしたら、ぼうっとしていたのがバレたかもしれない。
「部室に来ただけ君は真面目だよ」
ありがたやーと言いながら手を合わせ、私を拝む彼女。その表情は和やかだ。青春の浪費をしているとはとても思えなかった。
事実、そうなのかもしれない。棚の上にある、色とりどりの折紙たち。
「でさ」
前のめりになる先輩の顔は、真剣なものに変わっていた。
「はい」
「城島さんは、折り紙部に入りたいの? それとも、居場所が無くて来たの?」
「私は、」
答えに窮した。ずきりと痛む。痛んだ。痛んだ気がした。
ぎゅっと、右手でスカートの裾を掴む。その奥にある、傷痕を握り潰そうとする。
「まぁ、いいや」
生徒会長はやけに明るく言い放つ。先程垣間見せた真剣さは、カーテンを揺らした春風がさらっていったのかもしれない。彼女の顔からは、もう読み取れない。
「今日はもう解散の時間でーす」
喋りながら、参考書の山をてきぱきと鞄の中にしまっていく彼女。
「えっ。まだ来たばっかりですよ?」
まだ何もしていない。せいぜい挨拶くらいのものだ。
「ごめんごめん、でもあたしの方に用事あってさ。職員室の場所教えてあげるから、ついておいでー」
部室から連れ出された私は、扉に鍵をかける生徒会長の背中を見守る。小さく、華奢で、でも見た目より大きく見える。不思議な感覚。
「あの、すいません」
「なにが?」
「私、勉強の邪魔しちゃって、その」
言いかけた私の手を、先輩は突然握る。突然のことに驚いて、体が固まる。
「違うよ。あたし、あなたのことを拒んだりしない」
ね? と小首を傾げてはにかむ姿は、何故か随分大人びて見えた。
私は、体の力が抜けるまでそうして佇んでいた。先輩は、それをずっと待っていてくれた。
「あたしが居ない時は、職員室で鍵借りてあそこで時間潰してていいからねー」
やたらとのんびり歩く先輩はまるで亀のようで、身長の割に歩きが遅い私にはありがたかった。校門を出た私は、ずっと閉ざしていた疑問を口にする。
「私、また明日も来て良いんですか?」
「勿論。新入部員はいつでも歓迎だよー。よろしくね、貴子ちゃん」
じゃあね、と先輩は私の帰り道とは反対方向に、風のように走り去って行った。駅とは反対方向だ。このあたりに住んでるのかもしれない。
電車の経由なしに登校できるのは少し羨ましく思う。
朝練のために早く登校するわけでもないのに。
先輩の後ろ姿を、曲がり角に消えるまで見送る。曲がる直前、彼女はこちらに振り向き、軽く手を振ってくれた。なんだか心配されているみたいだ。
私も帰ろう。そう、思った時だ。
ジャージ姿の一団が、先輩の消えた角から現れた。一歩下がって、走ってくる集団に道を譲る。
掛け声が聞こえる。
「あと三周!」
先頭を走る上級生らしき生徒が声を張る。
「部長、さっきから減ってません!」
三番手を走る女子部員が抗議の声を上げる。彼女は可笑しそうに声を上げて笑って応じていた。
「あれぇ? そうだっけぇ?」
とぼけた声の部長。本人もかなり辛そうだが、それ以上に他の部員はへとへとだ。
ほとんど無言の女の子達。一年生は少し遅れて上級生に追いすがるので精一杯だ。
目で追う。
唇が痛い。
指は白い。
ずきり、と。
「ほら、一年! ちゃんとついてきな! あと一周! 二年と三年、ついてこられる一年はあと三周!」
「「「はい!!!」」」
昌和する声が私の耳を裂く。
いくつか見知った顔があった。廊下ですれ違った人。中学時代にちらりと見かけた顔。ここのバレー部は強豪として有名だ。下校時間は間近だというのに、まだ練習が続いている。
どちらにしろ、今の私には無関係だった。
走り去る部員たちを見送ったあとも、私はしばらくその場に立ち止まっていた。
「失礼します!」
「うおっ」
翌日。同じ時間。部室に赴いた私を出迎えたのは、先輩の丸い目だった。
「びっくりしたぁ」
「あ、すいません。その」
「結構、体育会系だねぇ」
机の上には開きっぱなしの参考書。びっしりと数式の書き込まれたノート。しかし手元にあるのは、
「鶴です……よね?」
「んー。鶴がいい?」
中途半端に折られた折り紙。
「これ、鶴以外にもなるんですか?」
私が持つ折り紙の知識は幼稚園で止まっている。
鶴以上に複雑なものは折れないし、折り方も知らない。興味を持ったこともない。
「馬の予定だったけど……いいか。可愛い後輩の提案だ、鶴にしようかね」
そうして先輩は私の知らない手順で折られかけた紙を、私の見知った形に戻した。
「あの、待ってください!」
とっさに言葉と手が伸びる。何をやっているんだ私は。
「ど、どうしたの?」
再び驚く先輩。私は思わず机に手をついてしまった。
「あ、いえ、すいません……その」
「いいよ。言葉のほうが伝わるから、教えて。なーに?」
逡巡。けれど。
「馬の、つもりだったんですよね?」
恐る恐るだ。触れていい場所なのかそれともいけないことなのか、判らない。それでも私の言葉は止まること無くこぼれ落ちる。
「うん。そだよ」
「でも、鶴にしちゃうんですか?」
「うん。あなたが来た記念にね……納得いかない?」
「はい……馬のつもりでいたのに、鶴にしちゃうのはなんていうか……んー」
「んふふ」
悩む私。見上げる先輩。言葉に詰まる私。待ち続ける先輩。
「なんですか」
先輩の、年上なのに無邪気で可愛らしい顔にたじろぐ。
「鶴ってさ。折るだけでいいの。簡単だよね」
ふと、彼女の視線が手元の紙に落ちた。
「はぁ」
何の話だろう。
「でも、馬ってね。この作り方だと、ハサミで切り込みを入れなきゃいけないのさ」
「切っちゃうんですか?」
「でもやめた」
あなたが鶴って言ったからと先輩は言って。
見慣れた形に折上がっていく紙を見つめる。
「鶴ですね」
「鶴だよね」
折り紙の折り目は人の性格が出るんだよ。そう言って先輩は優しい手付きで鳥の形を作っていく。
暫く後、先輩の折り紙は正確で整った鶴になった。
「貴子ちゃん、折り紙は何が作れる?」
「えっ」
ぼうっとしていた私に、先輩が突如話を振った。当たり前だ。二人しかいないから私と話すしかないし、それにここは折り紙部だ。当然折り紙するのが部活動になる。
折り紙。やったことがないわけではないのだが。私は、
「上手くなくて、そのぅ」
先輩の指のように繊細な動きはできないだろう。と、いうか。不器用だ。こんなに細かな作業はほとんどしたことがない。
「馬にする?」
「いえ、馬は、その」
紙を切ってしまう。切られてしまう。傷つけてしまうのが嫌で。
「鶴が良いです」
「あいしー。じゃあ、一緒にやろうか」
十年ぶりくらいに小さな正方形を目の前にする。作り方を必死に思い出そうとするが、上手くいかない。完成形しか頭に浮かんでこない。
確か……最初は三角形を作るんだったっけ。
「ときちゃんときちゃん」
段々と私の呼び方が短くなっていく先輩。気づかぬ内に距離が近くなる人。いつの間にか横にいて、物理的な距離の詰め方も一瞬だ。
いい匂いがする。香水ではなさそう。シャンプーだろうか。今度何を使っているか聞いてみようか。
待て待て、何を考えているんだ私は。今はまず、折り鶴に集中しないと。
「まずね、四角く折るのだ」
私と一緒に折り始めた先輩の紙は、紙を二度半分に折った形になっていた。
「あれ? 三角形じゃないんですか?」
「四角からのがやりやすいよ。寄り道は増えるんだけど」
「はい」
「それにね、目安がつけやすいから、結果的には折りやすいのだよ」
二度、四角に折り曲げ、開く。折り目のついた正方形。
まっさらな紙ではなく、折り目という跡のついた紙。
「ここから三角形を二回。んで、袋状の部分を開く時に」
「あ、折り目……」
「ね、やりやすいでしょ」
最初に二度、四角く折っただけなのに、すんなりと菱形に収まってくれた。
思い出した。昔はここが上手くできなくて、どうも歪な羽の鶴になっていたんだ。
あとは、端を中心に合わせるように畳んでから、
「そこも折り目、つけると良いよ」
羽と胴体の境界線に、細く繊細な指が差し込まれる。
「先輩、爪綺麗ですね」
「え? あ、ありがと」
「こうですか?」
畳んでできた境界線を頼りに、胴と羽の付け根を折り曲げる。
「そうそう。できるじゃんー」
「えへへ……あっ」
羽と足の原形には、裏地の大きな隙間があった。
「あるある。気にしなーい」
「ちょっとは気にしますよ」
少し拗ねたような口調になってしまう。せっかく教えてもらったのに。
「最初の三角のところがズレてたのかな」
最初から躓いていたなんて。ちょっと恥ずかしいけれど、これも一種の寄り道だと思って切り替える。
「難しいですねー」
「楽しいでしょ?」
「……はい」
形になるまで、形作る。折る。紙の成るべき形に折り込んでいく。
結局、最初の作品は酷く不格好な鶴になった。
「それじゃ、飾ろうねー」
言いながら、先輩は棚の上に私の鶴を並べる。出来栄えの差は一目瞭然。一羽だけ歪んでいる。並べてもらえるのは嬉しいけれど、やっぱり気恥ずかしさが勝る。
「先輩、一緒に並べるのはちょっと、その」
「えー。初めての後輩との思い出くらい、並べさせてくれよー」
「わかりました、もう」
緩やかな、友達同士のような、あってないような上下関係。初めての感覚だった。
中学の頃はもっと厳しい上下関係の中で過ごしていたし、小学生の時分はそもそも他学年との交流なんてほとんどなかった。
「さてさて、あたしのこいつは鶴じゃなくて」
「分解しちゃうんですか!? こんなに綺麗なのに?」
「あたしはほら、鶴ってガラじゃないでしょ」
よくわからない。それなら私は鶴なのだろうか。
「だからね」
そう言って、一度正方形に戻った鶴は、みるみるうちに別の形へと変貌していく。
「花、ですか」
「菖蒲の花ね」
そこには、最初から花として作られたのでなければ付いていなかったであろう折り目の跡が見て取れる。
わたしの鶴と同じだ。出来栄えではなく、折り目のあるところが。
「これさ、なんとなーく鶴に似てる折り方だったでしょ」
「はい」
確かにそうだ。鶴の足と羽をたくさん作って花にする。そんな折り方だった。
「鶴は飛んで行っちゃうけど、花はそこで咲いてるから。あたしに翼はないんだよ」
先輩の横顔は夕暮れの始まった色に染まって、少しだけ寂しそうだった。だから、
「鶴だって、毎年同じ場所に戻ってきますよ」
蒼から次第に朱へと染まっていく空を一緒に眺めた。
「うん、ありがと」
木曜日まで他愛のない日々が続いた。
授業を終えて、部室へ行って、先輩が受験勉強をする傍らで鶴を折る。それだけ。始めはうまくいかなかった。水曜日には上手くできたと思えた鶴も、木曜日には歪に見えた。それでもそれは鶴だった。間違いなく私の作る鶴だ。
金曜日は生徒会の集まりがあるらしく、部室には置き手紙だけがあった。
そういえば彼女は生徒会長だった。壇上から私達一年生を生徒代表として迎え入れてくれた人。この部室では、人懐こい子犬のような人。
でも、時折大人びた表情を見せる、不思議な人。いろんな顔のある人。
その人が普段座っている席に、試しに座ってみる。否が応にも目に入る、たくさんの折り紙。作品たち。扉の方にあるものは歪で、窓に近づくにつれて次第に美しく整った形になっていく。
彼女の足跡。一人ぼっちの部活動。膨大なその作品たちは、二年以上もの間彼女が孤独だった証でもある。
そして、突然現れる私の下手くそな鶴。鶴。鶴。その中に一輪、たくさんの折り目の付いた、紫色の菖蒲。毎年決まった時期に花開くもの。
頬杖をついて、時間を潰す。夕暮れから夜へと変わっていく時間。
下校のチャイム。運動部員のかけ声。どきりと鳴る心臓。
一人で見る夕焼けは、なんとなくよそよそしい。
二人でいる時は感じなかった居心地の悪さが、今は明確に私の傷に突き刺ささる。
ここに座ってちゃいけない気がする。
違う。
ここに座っていては、いけないんだ。
それはもうわかりきっていることで、でも私の望みを私はもう叶えられない。
ずきりと。また。
校庭から運動部の声がこだまする。
頭の中で反響する。私の中で暴れ、溢れ出し、狂おしい感情が嗚咽へと変わる。
「──あ──」
慟哭が喉まで迫り上がった時、からりと扉が開いた。
「いたいた。ときちゃん」
いつもと同じように。いつもと違って夕日を背負って、先輩はそこにいる。
「……え? 先輩……?」
わけがわからないまま、口から意味になりきれない音を出す私。
「そだよー。君の先輩だ」
「えっと、なんで……?」
下校時間は過ぎている。普通ならここに誰かがいるとは考えないはずだ。
「最初で最後の後輩なんだから、可愛がってもいいでしょ?」
最後。そうだ。先輩にとっては最後なんだ。それを私は。
「ねぇ、ときちゃん」
考え込む私。覗き込む先輩。
「は、はい」
「週末、デートしない?」
「はい?」
突然の申し出に混乱する。が、新たな混乱のおかげか先程までのどうしようもない感情の奔流は凪いでいた。
「部費、余ってしょうがないんだよねここ。書面上はたくさん人がいるから削るわけにもいかないらしくって」
だから、少しだけ横領しよう、と彼女は悪戯っぽく──事実、悪戯どころではない悪事なのだが──笑った。眉を下げて。
「二人になったら紙の消費も激しくなったしねー」
きっと、口実はなんでもよかったんだろう。私は見透かされているんだろう。
「……ありがとう、ございます」
「いいよ。じゃあ、また明日。駅前広場のベンチわかる?」
はい、とか細い声は聞こえただろうか。先輩は満足げに頷いて、
「さ、帰ろ?」
手を差し伸べてくれた。
二人だけの短い帰り道をゆっくりと歩き、いつもの通り校門の前で別れた。
土曜日はとてもよく晴れた日になった。風もあまりない。春といえば薄曇りや小雨の季節だけれど、この日ばかりは小春日和という言葉がよく似合う日だった。
私はベンチに腰掛ける。待ち合わせよりも十五分も早い。
浮かれてるな、と頭の片隅で別の私が囁く。確かにそうだ。浮足立っている。
言葉の代わりに吐息を一つ。街を歩く人々をただ眺める。
時間を持て余す私の太ももに、不思議な感触。温かで、ふわふわで、柔らかい。
目を向ければ、見上げる猫と目が合う。
「こんにちは」
私は誰にも見られていないし、誰からも顧みられることはない。暇つぶしがてら、猫に話しかけてみた。
「にゃー」
案の定の返しに、なんとなく嬉しくなってしまう。
誰かに応えてもらえるだけで、喜ぶ。我ながら単純すぎる。
「ねこさんも待ち合わせですか」
ごろごろと喉を鳴らす猫。随分と人懐こい。野良猫にしては警戒心は皆無で、少し心配になるくらいだ。
「ねこねこ」
額を軽くつついても、逃げようとしないどころか頭を擦り付けてくる。
「逃げないのかにゃー」
「にゃー」
「にゃー」
猫と輪唱しながら、優しく撫で回す。鍵尾の付け根をぽんぽんと叩くと、猫は再びゴロゴロと喉を鳴らす。
そこに、
「ときちゃんはネコかぁ」
突然日陰が作られる。びっくりして固まる私。
「……いつから居たんですか」
ぎこちない動作で見上げれば、いつもの顔。いや、いつもよりちょっと悪戯っぽい表情の先輩。意外と意地悪なところがあるのかもしれない。
「その子に話しかけ始めたとこから」
「なんで先に声かけてくれないんですか……!」
「なんか可愛かったからつい……」
はぁ、と溜息が漏れる。
「ねこさんですし、ね」
話し始めたら、いつの間にか居なくなっていた猫。
撫でた心地だけが手のひらに残っている。
「いや、ときちゃんが」
真顔で妙な事を言われ、私が変なうめき声をあげていると、先輩はいつも通り手を差し伸べて、
「ほら、行こう。時間は有限だよ」
そう言って笑ってくれた。
私は杖を手に立ち上がった。
その日も先輩はとてもゆっくりと歩いてくれた。
買い物自体は一時間もしないうちに終わったけれど、そのあとランチやカラオケに連れていかれた。
先輩は、このあたりのことを知っておけば学校帰りに遊べるでしょ、と嘯いた。
気付けば夕日が傾いて、夜が顔を出し始めている。待ち合わせたベンチでクレープ片手に二人で座る。二人でゆっくりするのは、いつも昼と夜の狭間の短い時間だけ。
「はぁー。楽しかった。ありがとね、付き合ってくれて」
「いえ、先輩のお願いですから」
「いい後輩だねぇときちゃんは」
クリームを頬に付けながら笑う先輩。小柄で童顔だからだろう、年下のようにしか見えない。なのに、
「何も、聞かないんですね」
「聞いたほうが良かった?」
とても、大人びて見えて。
私は思わず杖を強く握って……しばらく迷ってから、口を開いた。
「私、中学ではそこそこ有名だったそうです。自分では恥ずかしいんですけど」
うん、と頷く先輩。
心臓が早鐘を打っている。この人になら打ち明けて良いと思う自分と、頼っていいのかと問う罪悪感との間に板挟みだ。
うつむく。右手を握る。否、太ももの上で拳を作る。傷痕を握りつぶすように。
そんなこと、出来やしないのに。
嗚咽で言葉が詰まる。言いたいことはたくさんあるのに、何を言って良いのか解らない。後悔。慚愧。無力感。頭の中がぐるぐるする。
「バレーの城島と言えば、今年の二月末くらいからその話題で持ち切りだったのよ。クラスメイトにバレー部の部長がいてさ」
俯く私の後頭部に優しく語りかける先輩。頭の中で校庭の外周を走る彼女たちの姿が巡る。
「そいつが言うんだよ。来年度はチーム全体が盛り上がるぞって」
「……っ……」
言葉にならない。形を作れない。
「でもね、あたしはちょっと嫌だったな」
嫌?
何が?
「だって、そんなのときちゃんに関係ないじゃない」
関係ない。私のことを。私のことなのに。
「その城島が高校に入ってバレー続けるかどうか、あの時点では誰も解らない」
今の私と過去の私を別物と言い切って。
それにね、と息継ぎ。
「仮にバレー部に入ってきたとして、だ。期待かけすぎでしょ。一年生だよその子。確かに良いプレイヤーはチーム全体の刺激になる。けど、それでも、だからこそさ、普通に接してあげなきゃ」
涙で滲んだ視界。まだこんなに悔しいなんて、思ってもいなかった。
私の代わりに、先輩は言葉を織っていく。
「辛いんだね」
「辛かったです」
顔を上げる。涙でぐちゃぐちゃだ。先輩からハンカチを差し出される。
「すいません……」
「良いんだよ」
「すいません……私、脚が、」
拳を強く握りすぎて、開かない。ハンカチを受け取れない。
傷痕をえぐり出している。
痛い。
「ほら」
そう言って先輩は私の頭を抱きしめ、
「良いんだよ」
また、呟いた。
「辛かったらそれ、学校にも持ってきなよ」
私は杖を握りしめる。
「それは、恥ずかしいですから」
「そっか」
「はい」
数瞬、会話が途切れる。空が昼と夜のグラデーションで彩られる。ビルの窓が鏡のようにそれを写し出している。こんな時間になってもまだ、寒さは訪れない。冬の色は遠くへ行ってしまった。夏がどんどん近づいてくる。ここはまだ、季節の間にある休憩時間だ。
「また行こうよ」
「……はい」
私は折り曲げるように瞳を閉じて応えた。
そのまま、しばらくの間は無言が続いた。
私達のことを、道行く人々は誰も気にも留めない。この町の夜は明るかったのに。たくさんの人とすれ違った。たくさんの人がいるのだろう。
けれど、私のことをきちんと見ていたのは一人だけだった。
月曜日。帰り道。沈んでいく夕日は先週よりも目に見えて高い。まだ蒼が空に残る時間。
私と先輩は渡り廊下をゆっくりと歩く。穏やかなペースで。
声が響く。運動部員達の青春が暮れ行く世界にこだまする。
どこかで、あと一周、ラストスパート、と。
「バレー部、今日も走ってますね」
「あそこのキャプテンさ。めっちゃくちゃ記憶力いい癖にさ、外周走る時だけは数字ごまかすんだよねぇ。会計とかきっちりしてんのに」
なんでもないように先輩は言う。
見透かされてるんだろうな、と私の心は少し痛む。傷痕が私に食い込んでいる。
「先輩、今日は珍しい形の折り紙でしたね」
ごまかすように、話題を無理矢理変える。
「ま、たまにはねー」
「不思議な鳥ですね」
私は先輩の持つ折り紙を指差す。どうして教室に飾らなかったんだろう。こんなに綺麗なのに。
「飛ぶんだよ、これ」
「そうなんですか?」
飛ぶのか。言われてみれば確かに、飛行機のようなフォルムをしている。
「ほら」
先輩はその不思議な鶴を手のひらに載せて見せてくれた。翼が広がっている。確かに飛翔もできそうだ。
「折り方はちょっと複雑だけどね」
よくよく見れば、たくさんの折り目がついている。先輩に複雑と言わしめるそれは確かに、私が折るには難しそうだ。私は自分の鶴で手一杯だったから、先輩の手元をほとんど見れていなかった。
「飛ぶんですか?」
「飛ばしてみなよ」
自然に手渡され、思わず受け取る。
尾をもって。腕を引き。滑るように投げ込む。
暗く、星の光る空に吸い込まれていく。
投げてから、
「あ、」
投げてしまったことに気付く。私の手元には、投げた感触だけが残った。
「すいません……」
「いいっていいって。いつか帰ってくるでしょ」
「鶴、ですもんね」
「あたしは花だよ」
二人で遠くを、鶴の飛んで行った空を見つめる。
「たくさん、折り目のある鶴でしたね」
「複雑なんだよ。色んな過程を経て、ようやく飛べるようになるのさ」
「私も花でいいかもって、ちょっと前までは思ってたんです。だけど」
くるりと私を見上げる会長。作った笑顔にほんの少しの眉間の皺。
「じゃ、バレー部の入部届、マネージャー希望で出してきな」
「……はい。はい!」
「お、初めて会った時みたいに、体育会系に戻ってきたねぇ」
視線を交わす。私とあなた。
「お世話になりました」
「うん。それじゃあ、」
頑張ってね、とあの人は無理に笑ってくれた。
だから、私は校舎に向かって歩き出せた。
折り目模様の鶴 くろかわ @krkw
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