第9話 大人の恋路
女の目は倉本を見上げ忙しなく動揺する。
「でもイギリスではバレンタインに……」
「お慕いしていますと無記名でカードを贈るんだろう? そのくらいの知識はある、社会文化比較として」
ふっと聡子の顔に笑みが浮いた。
「私……英国至上主義に陥ってます?」
「ああ、見事に」
想いびとの笑顔は泣き笑いになって顔全体に広がっていった。
「教師だろうが大人だろうが俺たちも、いつだって足元はぐらぐらだ。人間だから、いくつになっても。しかし、くだらない理論武装して他人を遠ざけちゃいけない。生徒とのやりとりなんて切った張ったの真剣勝負、自分を試されることばかりだ。そして生徒に切らせてやることが日常的に必要になってくる。そこだけが、教師の意義じゃないか?」
「教科を教えることは?」
「そんなの二の次三の次」
聡子がもう泣きたくも怒ってもなさそうだと思い、倉本は彼女の腰から左手を退けた。不必要な身体的接触はよくない。つけこんでは紳士とは言い難い。紳士なら言葉で……。
「今日の施錠、俺が30分も早くここへ来たのはどうしてだかわかるか?」
「自分のクラスの生徒を悪い教師から守るため」
倉本は両手で頭を抱えた。腕の間から声を出すと思ったより情けなく響いた。
「本気で言ってるのか? それともからかってる? ごまかしてる?」
ゆっくりと腕を下ろし彼女のほうを窺った。きょとんと見返している。
――疎いのか? 鈍いのか? 天然か? この時代まだこの表現はないぞ?
「先生のことを想っている男もいる。もっと周囲に目を配ってそれを感じてくれ」
「あら、名乗らないのは気持ち悪いというお話を聞いたと思いましたが? きゃっ」
両腕を後ろの棚について聡子を閉じ込めていた。
「煽ると後悔するぞ? 失恋したばかりじゃないのか?」
「失恋……だったのでしょうか……」
「こっちはギリギリで抑えているんだ、大人の男をからかうな」
頬を染めて女が俯いたのを見て取って言葉を繋いだ。
「好きだ。2年前赴任してきた時からずうっと見ていた。応援していたつもりだ。付き合ってほしいし結婚してほしいと思っている。今はふたりきりの部屋で脱がし、恥ずかしげにその長い髪だけで裸を隠そうとする姿を想像している。大人の恋とはそういうことだ」
「先生……」
「俺はこの瞬間先生なんかじゃない……」
想いびとは真っ赤になって立っているのも不安定、普段の鋭さの欠片もない。
「私はほんと人付き合いも恋愛も不器用で、英文学が好きなだけ、他に何の取り柄も……」
「それはじっくり俺に探させてほしい」
「ぃやん……」
聡子は紅潮した顔を両手に埋めた。
「やっと大人の女の顔をした。それがどれほど可愛いく見えるか、わからないんだろうな」
「好き、なのですか? 私なんかを? 先生はいつも飄々として生徒にも公平で上下関係もうまくすり抜けて」
「特別扱いされてるの気付いてないのか?
「え、そうなんですか?」
「一応俺に優先権を与えてくれている」
「そんな……」
「独身男はあと2人しかいないが、アイツらのほうがいいか?」
「それは……わかりません」
わからないと言いつつ自分の前から逃げようとしない。ここは押すところだろうと倉本は腹を括った。
「馬場が志村にキスしたなら、俺ももらっていい?」
腕の囲いを狭めると聡子の手がシャツの胸に置かれた。
――熱が、やばい。
「ま、待って」
「嫌だ。押し退けるつもりはなさそうだし」
「都合のいいことばかり……」
「英国紳士はもっとお行儀がいい、とか言うのか?」
「い、言いませんけど、お友達から、とかないんですか?」
「同僚というお友達をもう2年もしたじゃないか」
聡子のボディランゲージを読まなければならない。倉本は暴走をとどめるブレーキを最大限に効かせた。
「イヤ……か?」
「イヤ、では……」
「俺が嫌い、とか?」
「というか、あの、恥ずかしい……」
「大丈夫、絶対、かわいい……」
そっと触れてふっと離れた。
それだけで倉本の鼓動は振り切れそうだ。
これ以上進まないためにも頭を切り替える必要があった。
倉本は自分に言い聞かせる、「今日はここまででいい、聡子をこれから俺の女と呼んでいいなら」と。
――急ぐな、聡子は恐らく、殆どこっちの経験がない。
「わかっていないのか? もし今回バカな展開になっていたら懲戒免職ものだ。言いたくないがもし性別が逆だったら、おまえが男で相手が志村とかだったら、もう問題行動の範疇になる。それを馬場と志村は悪い冗談だと受け流してくれたんだ。感謝するしかないだろう、あの子たちの落ち着きに」
「私、前後の見境が全く無くなってたみたい……」
「思い詰め過ぎだ。思い詰めるならこれからは俺のことにしてくれ」
にやりと笑いかけると、聡子のほうから倉本の胸に頬を寄せてきた。
――やっと抱きしめることができる。
「クラスには英語力を試すクイズだった、それを馬場が解いたと説明するからな。それから志村と馬場には明日にでも付き合い始めたと報告するぞ、いいな?」
「はい……あの……先生に甘えてもいいんですか?」
「先生じゃないって言ってるだろう? 良一と呼べたらいくらでも甘えていい。かなりストレス抱えてるみたいだから、週末にでもじっくり聞いてやる。甘えるのは俺だけにしてくれ」
「週末……?」
「ああ、初デートだな」
そう言った自分の顔がどれだけ蕩けていたかは、倉本本人も想像するまいと思っていた。
「あ、あの、倉、いえ、良一さん、えっと、もう一度、して……」
胸に埋まった口から切れ切れのセンテンスが上がってくる。
――たまらん、カンベンしてくれ。
「キス……か?」
大人ぶってはみたものの、倉本は答えを聞く前に好きな女の甘い口唇に吸いついていた。
― 了 ―
黒板の文字の謎とふたつの恋模様 陸 なるみ @narumioka
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