第8話 教師の事情
初々しい中学生カップルが去った後の教室で、
閉じられているのに、窓からはもう秋の夜の肌寒さが伝わってくる。下校時刻のアナウンスが聞こえていた。各教室の消灯をし鍵を閉め、居残っている生徒がいないか校舎全体を見て廻らなければならない。
「行って下さい、消しておきますから」
聡子は平素のクールビューティさを取り戻し、顔を上げた。
「あの子たち、キス……してました。少し気をつけておいたほうが……」
「そうですね」返事が棒読みになって慌てて付け加えた。
「志村圭子は英国生まれだそうです。馬場はご存知のようにニュージーランド帰り。日本離れしてるのかもしれません」
残念ながら黒板にでかでかと書かれた4つの漢字は、聡子宛で、その心を抉るものだ。
罰怒常苦、英語でバッド・ジョークと言いたいのだろうから。
これが単なる、中学生にありがちなふざけた落書きならまだいい。が、今回越境してしまったのは高橋聡子のほうだ。26歳の教師が、倉本のクラスの生徒、馬場玲治14歳に懸想し、告白ともとれる英語を漢字表記し黒板に書き付けた。それに対しての返答がこの4文字。
――なぜあんな子どもに……。
倉本の心は晴れなかった。せめてもの気休めを口にした。自分と聡子のために。
「私もあのふたりも噂話に興じるほうではありません……」
聡子の顔は見る見るうちに歪んだ。泣くのかと思ったら怒っていた。
「日本は息苦しい。なぜこれほどまで自分を抑えねばならないのでしょう? 社会科担当としてどう思われます?」
頭の上で纏められている長い黒髪のおだんごが揺れ動く。編まれた房の方向に沿って淡く反射し、不思議なグラデーションを作っている。毛先に行くほど茶色いらしい。
――この髪を自分の前で解いてもらえる日はくるのだろうか。
「ご返答いただけないのですか?」
うっすらと涙を浮かべた黒い瞳が見上げていた。
「先生も帰国子女でしたか?」
見当違いな返事に相手はぷいっと横を向く。
「私は大学在学中に2年ほど留学しただけです」
「そうですか……」
「英国におりましたが、あちらは個人差の許容範囲が広いんです。右へならえでなくていい。年齢が上なだけでは先輩面はできません。若くても力があれば一目置いてもらえる。あなただろうがおまえだろうが、二人称はyouですから」
「どうやって恋人と友人を呼び分けるのですか?」
「恋人ならもちろん、ダーリンとかマイ・ラブとかも使いますが、基本は声の調子です」
倉本は校内一のクールビューティと呼ばれる聡子の説明に含み笑いをしてしまう。
「先生の日本語は抑揚が足らないと思いますがね」
「声を和らげる相手がいないからです、失礼します」
気分を害したのか、ついっと教室の戸口に向かおうとする。引き止めようと思った。
ガッタンと音をたてたのは、黒板下の荷物棚だった。口ではなく、脚が出ていた。
「あっ」
「何ですか、この足は! 教師とも思えない」
出口と聡子の間に自分の左脚が伸びている。無意識の行為に自分でも驚きだと倉本は苦笑した。
「教師とも思えないのはそっちじゃないか? 生徒に暗号ラブレターなど」
「脅迫ですか?」
目尻がキッと上がっている。いつもより睫毛の長さが目立つ。やはり、綺麗だ。
――さて、この脚をどうしよう?
「英国紳士がどの様に愛を囁くのか知らんが、殻に閉じ籠るのもいい加減にしたほうがいい。それでは生徒がついてこない」
「恋愛の話ですの? それとも教育論?」
「社会文化論、俺の専門」
急に俺呼びすると相手はうろたえた。それもそうだろう、脚には行く手を阻まれ、右腕を伸ばせば後ろにも逃げられなくなる。スレンダーな肢体を囲い込んでしまえる。
――抱き寄せてキスできれば。
「馬場は大人びて見えるかもしれない、でも大人の葛藤を預ける相手じゃない」
何とか落ち着いた声が出せた。
「日本語で日本文化を論じるあなたに何がわかるというのです? 外から見る日本がどれほどちっぽけか、外に出たとき頼りになるのは、そのちっぽけな日本国内で育ったゴミのような自分だけです。その厳しさを知る者こそ大人です」
倉本はハアっと肩で息を吐き、脚を下ろした。
「その内だ外だという物言いこそ、日本的だと思わないか? 周りは全て他者、日本だろうが英国だろうが、頼りになるのは自分の人間性だけだ」
聡子は、腰の前にあった障壁は無くなったのに去ろうとはせず、怯えた視線を倉本に向けた。頭1つ分の身長差はそれを魅惑の上目遣いに変えていた。
「馬場も志村も何とか自分の足で立とうとしている。アイツらには住みにくいだろう日本の、出る杭は打たれろ風潮の中で。教師が足を引っ張ってどうするんだ……」
瞳に魔法でもかけられたのだろう、諭そうと思ったのに語尾は非難ではなく猫撫で声に近付いた。
「私はひとりの個性としてあの人を尊敬した。年齢は関係ありません、想っているという事実を、あの人だけにわかる方法で伝えたかった、私だと知らせるつもりもなかった」
「相手は子どもだとバカにしてないか?」
聡子はギクリとしてよろけ、倉本は左手で支えた。
「俺と殆ど同時に、違う方法であの子たちは先生に行きついていた。バレないと思ったのが誤算だろう。そして想いを寄せてくれる人がいたとしても相手が誰だかわからなかったら、嬉しいよりも恐いと思うのが普通だ」
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