第36話

 不安は顔に出る。 

 叱咤、恐怖、死、危険。

 直感、五感から感じるもの。人間の脳に、心に暗澹とした膜を下ろしてしまう。

 その幕が不安となって、体に顔に現れる。


 しかしその不安が何なのか、アリアは見当がついていない。

 ジェシーの言葉で、ようやく自分は不安になっているのかと、こう思ったくらいだ。


 自分では表情の変化は乏しいと思っていた。

 が、どうやらそれは自分だけの考えだった。

 思った以上に自分の顔には、不安や悩みがでてしまうらしい。

 

 ジェシーが人の顔をよく見ているからということもあるかも知れない。

 けれど、今まで以上に気をつけるべきだろう。


 アリアは自分の顔を叩き、不安を頭の中から追い出す。

 不安はない。不安はすでに捨てたはずなんだ。


 死ぬことなんて珍しくもないんだ。

 苦しむことはない。余計なことを考えないで済む。

 だから、くれぐれも気をつけろ。気をつけろ。


「どうしたの。神妙な顔しちゃって」


 レインが目の前に立っていた。顔を向けると、彼女は首を傾げる。


「何かあった?」


「……何でもない」


 表情を引き締めて、アリアはレインを見る。


「そう。なら、戻りましょうか」


 レインはそれ以上追求はしてこなかった。

 彼女の後を追うように、アリアは足を進める。


 雨は今も降り続く。

 赤に黄色、黒に水色。透明のビニール。柄の入ったものまで。

 傘立てには色とりどりの傘が並んでいる。


 レインが黒い傘をとって開く。

 傘の広さは大人二人が並んで入れるほど、広々としている。

 レインとアリアは並んで、寮への道を辿っていく。


「レオンのあれ、先生に言ってくれた」


 レインが言う。


「ええ。後で連絡してくれるって」


「そっか。なら大丈夫そうね」


 足元で水が跳ねる。水たまりにいくつもの水紋ができる。


 ピチャピチャ

 ポタポタ


 心地のいい音色が響く。


「レオンに会ってあげたら。彼、殿下の警護を口実に私たちの様子を見るつもりらしいから」


「計画を喋っていないか。確かめにくるんでしょ」


「それもあると思うけど。あんたが元気にしてるか、見たいんじゃない」


「どうだか。父さんの考えることなんて、わかりはしないわ」


「まあ、それもそうかもね」


 レインが肩を竦める。


「でも顔を見せるだけでもしてあげたら。私も会う予定だし、その時にでもさ」


「会うって、何をするつもりよ」


「これまでのことを報告するだけよ。レオンの耳に入れておいてもいいと思って」


「……まあ、そうだけど」


「大丈夫よ。殿下との仲を事細かに言うことはしないから」


 アリアがレインを睨みつける。

 だがレインは笑っていた。恐れもせず、たじろぐこともない。

 この女を畏怖させることは、どうやら自分にはできないらしい。

 アリアは肩を落とした。


 寮につくと傘についた水滴を落とし、傘立てに入れる。

 部屋に入って着替えを済ませ、制服をクローゼットにしまう。


 一通り終えてしまうと、あとは夕食までは暇な時間だ。

 いつもなら本を開いてしばらく読みふけるのだが、今日は気が乗らない。

 何となくベッドに横になって、天井を眺める。


 つまらない天井。白い壁紙が貼られているだけの、無機質な天井。

 LEDの照明。それに換気扇が見える。

 それだけ、何の飾りっ気もない。


 レインはといえば、タバコをふかそうとベランダに出た。

 湿った空気が部屋に入り込む。

 窓を閉めると、軒下に立ってタバコに火をつけた。

 白い煙が曇天の空に舞い上がる。


「はぁ」


 ため息が不思議とでた。

 それをレインを見ながらだったから、彼女はいぶかしげにアリアを見る。


「何よ。人の顔を見てため息なんてついちゃって」


 窓越しにくぐもった声が聞こえた。


「別に、何でもない」


「もしかしてあれ? おセンチをこじらせちゃったわけ」


「違うわよ」


「ならどうしたのよ。今日のあんた、いつになく元気がないじゃない」


「いつも通りよ。ただ、ちょっと疲れただけ」


「そう?」


 タバコをふかし、紫煙を空に向かって吐き出す。


「もしかして、あの先生に何か言われたの」


 ぎくりとした。

 鋭いというか何と言うか。

 時々レインは人の心をのぞいているんじゃないかと思う時がある。


「どうして」


「どうしてって。あの先生と話してからじゃない。あんたがそんな態度になってるの。何聞かれたのよ」


「あんたに関係ないわよ」


「そんなに拒まれちゃうと、余計に気になっちゃうわね」


 窓を開けて、レインが中に入ってくる。


「臭いから、それかけて」


「わかってるわよ」


 消臭剤を体に吹きかけて、アリアの元にやってくる。


「で、何を聞かれたのよ。殿下とのことでも聞かれたの。それとも、他の何かかしら」


「だから、関係ないってば」


「言ってみなくちゃ、関係あるかどうかもわからないじゃないの」


「放っておいてよ。もう」


 アリアは毛布を被り、レインもろとも部屋の景色を遮断する。


「ふーん。ま、いいわ。今は聞かないであげるわ」


「もう聞かないでよ。このことは忘れて」


「はいはい。わかりました」


 レインはため息をついた。

 耳を済ませると椅子の軋む音がする。椅子に座ったようだ。


 悪い気はしなかった。いや、ほんのちょっと悪い気がした。


 だけど今自分の顔を見られるわけにはいかない。

 ジェシーの時以上に、自分の顔には不安が現れていたと思うから。

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