四章

第35話

 学園で生活を送るようになって、二ヶ月と少しが経った頃。


 本日は曇天の雨模様。黒く分厚い雲が空を多い、大きな雨粒が学園に降り注いでいる。窓を打ちつける雨と風。濡れた窓は外の景色を歪めている。


「もうじき社会科見学が控えています。くれぐれも企業様のご迷惑にならないように、十分に気をつけてください」


 担任のジェシー・クリプトンが生徒たちの顔を眺めていく。


 いよいよ社会科見学の日がやってくる。それに合わせて見学の際の注意事項とマナーについて確認の時間が取られた。


 資産家、政治家の息子、子女だからといって必ずしもマナーを覚えているとは限らない。生徒一人の態度によっては学園の評判も落とす事態になりかねない。

 それを避けるためにも、こういう時間がこれまでも定期的に持たれてきた。


 幸いジェシーのクラスは問題行動をとるような人間はいない。

 さらにいえば馬鹿な行動をとるような人間もいない。

 手のかからない子供たちばかりでよかった。ジェシーは心の中で安堵していた。


 終了の鳴り響く。

 生徒名簿と教科書を閉じると、ジェシーは授業の終わりを生徒に告げて、教室をでた。


「先生」


 一人の生徒に声をかけられる。

 アリア・サヴリナ。ジェシーのクラスの生徒だ。


 勉強態度は真面目で、性格は大人しい。真面目な生徒で頭がいい。それだからか、他の生徒に比べて少々大人びた雰囲気のある生徒だ。


「何」


「見学会の件なんですけど。うちの父が相談があるみたいで」


「アリアさんのお父さん? というと……」


「レオンです。レオン・フリクセン」


「ああ。あのおっかないお父さん」


「そんな覚え方をしてたんですか」


「あ、ごめんね」


 ジェシーは苦笑いを浮かべる。ついつい本心を口に出してしまった。


 傷つけてしまっただろうか。心配になってジェシーがアリアの顔を見る。だ

 が、アリアは特に何も感じていなかったらしい。それどころか、


「まあ、確かに強面だし、初めて会った人は怖がりますよね」


 と同情の言葉まで飛び出した。


 ジェシーがレオンの顔を見たのは、アリアが入学したときのこと。

 入学式の時、たまたまアリアとレオンが一緒にいるところを目撃した。


 堅気には見えない男と、可愛らしい少女。

 自然と犯罪の匂いがした。

 しかし、同僚に聞けばあの子供は入学生で、横にいる男性は彼女の父親なのだという。


 レオンはジェシーを見て会釈をした。

 本人は笑みを浮かべたのだが、ジェシーの目には睨まれているような気しかしなかった。


 歪んだ頬。鋭い目。光のない瞳。ジェシーは今でもレオンの顔を思い出すと、ゾッと寒気がするのだった。


「レオンさんがどうしたの」


「その。社会科見学の際の移動の警護をやらせてもらえないかと言ってきたんです」


「警護って、確かレオンさんは……」


「国の捜査機関に従事しています。皇太子の身を守るために、王より頼まれたのだとか」


「ああ、なるほどね」


 クラスには幸か不幸か、ウィリアム皇太子殿下が在籍している。


 他のクラスの教師はこの幸運を羨ましがっていた。

 その度にジェシーは思う。当事者になってみれば、これは地獄であると。


 天下の皇太子殿下に授業をする。

 この事実がもたらす体への影響は計り知れない。

 

 教師になって6年と少し。

 これまでに感じたことのないストレスと緊張。

 胃の痛みに耐え、臭くなった息をフリスクで紛らわす日々。

 最近はどうにか慣れてきたが、きりきりと痛む腹は不調を訴え続けている。


「バスの手配も父の方でやると言っています。それで、先生がもしよろしかったら電話をして欲しいとのことです。これが、父の職場の電話です。レオンの名前を出してくれれば、すぐに繋がります」


 アリアはメモ帳から番号の書かれた紙をちぎり、ジェシーに渡す。


「ありがと。早速連絡してみるわ」


 ジェシーはメモ紙をポケットに入れる。


「時間の方が先生の都合の良い時間にかけてくれれば良いそうです」


「わかった。わざわざ教えてくれてありがとうね」


「いえ。それじゃ」


「ああ。待って」


 アリアが背中を向けるが、彼女の肩をジェシーが掴む。


「最近、困ったこととか、悩んでいることはある?」


「いえ、別に。あの、どうしてそんなことを?」


「いえね。アリアさんって時々、すごく思い悩んでいるような顔をするから。ちょっとだけ心配になっただけ」


「そんな顔、してましたか」


 アリアは不審そうに眉根を寄せて、ジェシーを見た。


「ええ。してたわよ」 


 ジェシーは片手を腰に当てて、少し頬を緩めた。


「何か思い詰めたことでもあるの?」


「いや、別に……」


 はぐらかすように、アリアは視線をそらしていう。

 何かあるらしい。けれど、人には言いたくはない。アリアの態度から、ジェシーは推測した。


「そう。ごめんなさいね。変なこと聞いて。後でお父さんに連絡をしておくわ」


「よろしくお願いします」


 ぺこり。アリアは頭を下げると早足で教室へと戻っていった。


「……まだ相談してはくれそうにはないわね」


 こっちから無理やり聞き出そうとしても、ありがた迷惑にしかならないだろう。

 

 ため息をひとつつくと、ジェシーはきびすを返して廊下を進んで行った。

 ジェシーは肩を落としながら、教員室へと足を向けた。

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