第19話

 部屋のドアを閉める。

 鍵をかける。

 レインが振り向くと、ベッドに座るアリアを見た。

 両手を組み合わせ、額をつけている。

 目をつむったまま大きく息を吸い、深く吐き出す。

 まるまった背中が呼吸の度にふくれ、しぼむ。


「よかったの、殿下を帰しちゃって」


 レインが尋ねる。


「……ええ。今は、話したくはなかったから」


 深いため息ともに吐き出された言葉。

 浮かない表情のままレインを見る。

 レインはというと、給湯器の前に行き、コーヒーを淹れていた。

 カップを2つ用意して、コーヒーの粉を振り入れる。

 お湯を注ぎ、湯気のたったコーヒーを2つ。両手に持つ。


「身体、冷えてるでしょ」


 レインにカップを差し出す。

 アリアは受け取ると、コーヒーを一口。

 苦味と香ばしい香りが、喉を通り、体に染み渡る。


「ありがと」


「2回目ね。だんだんと素直になって来たかしら」


「いちいち数えなくてもいいでしょ」


「数えておいて損はないもの。年を取れば取るほど、感謝はどんどん貴重になっていくんだから」


「ただ言うだけじゃない」


「それが、なかなか難しくなっていくのよ」


 レインはニヒルに笑い、コーヒーに口をつける。

 窓から聞こえる雨音が、静かに部屋に響き渡る。


「ねぇ、どうしてレインなんて名前なの」


 雨粒が窓を叩く。

 歪んだ灰色の景色を眺めながら、ふとアリアがこんなことを言い出した。


「どうしてって。何が」


「なかなかないじゃない。レインなんて名前」


「それを聞いて、どうなるの」


「別に。ただ気になっただけ」


 コーヒーを飲む。

 また言葉が消える。

 しばらく雨音に耳を傾けてから、レインは口を開いた。


「あんたの父親よ。この名前をつけたのは」


「父さんが?」


「そう。雨の日に拾ったから、レイン。単純でしょ」


「拾ったって」


孤児みなしごだったのよ、私」


 アリアはレインの顔を見た。

 その目は見開かれている。

 だがレインは特に表情を変えなかった。

 つまらなさそうに、窓の外を眺めている。


「別に珍しいことじゃないでしょ。薄汚いスラムや路地裏、橋の下に行けばたくさん見つかる。薄汚い、ドブネズミのようなクソガキたち。私もその中の1人だっただけ」


「捨てられたの。その、親に」


「さあ」


「さあって」


「親の顔なんて知らないもの。生まれた時から下水とゴミの中にいたからね」


 レインはタバコを取り出す。

 いつものように口元に一本加えて、ライターを取り出す。

 が、生憎ここは屋内であることを思い出す。


「窓、開けながらならいいでしょ」


 アリアは頷いた。

 レインは窓辺に立つと、窓を開く。

 雨音が寒気とともに部屋に入ってくる。

 レインはタバコに火をつけて、紫煙を外に吐き出す。

 薄曇りの空。

 雨に濁った景色に、白い煙が混じり、消えていく。


「レオンに会った時のことは、よく覚えてる。あの時もこんな風に雨が降ってた」


 窓枠に腕をかける。

 スーツが少し濡れてしまうが、気にすることはなかった。


「勝手な人でね。私を見るなり、何も言わずに担ぎ上げてさ。暴れたって離しゃしないの。どこへ連れてかれるのかと思ったら、妙な施設で訓練をさせられてさ。何を言ってるか分からないし、身体中は傷だらけになるし、もう最悪だった」


 でも、とレインは言葉を切る。

 タバコをふかし、紫煙を外に吐き出す。


「あったかい飯はくれるし、柔らかいベッドで寝かせてもらえた。レオンは優しかった。他の大人たちはいやらしい目で見てくるか、そもそも眼中に入れようとしてこなかったから」


 お前は今日新たに生まれたんだ。雨の中で生まれた子供、名前はレインだ。


 レオンの懐かしい声が、レイン頭の中で響く。

 心地の良い音色だった。


「でも、父はあんたを殺し屋として育てたかっただけでしょ」


「ええ。それが?」


「あんたは、それでよかったの?」


「よかったかって……」


 レインは考える。

 しかし、すぐに答えは出た。


「私の頭ってどうやら大事なものがなくなっているらしくてね。人を殺しても、罪悪感とか後悔とか、そういうものも感じなかったし。ああ、興奮もしなかったわよ。もちろん」


「別に聞いてないわよ。あんたの性癖なんて」


「あっそう」


 レインは肩をすくめる。


「そう言う意味じゃ、この稼業は性に合っていたのかもね。レオンには恩は感じているけど、恨んではいない。それに、この仕事をしてたおかげで、あんたにも会えたしね」


 レインは振り向く。

 アリアの顔を見て、頬を緩めた。


「あんたが自分をどう思っているかは分からないけど、あんたを見てると退屈しないわ」


「何よ、それ」


「面白い人間だってことよ」


「人を道化かなんかだと思ってるの?」


「これでも褒めてるつもりなんだけどね」


「褒めてるようには、聞こえないけど」


 アリアは立ち上がり、ブレザーを脱ぐ。


「シャワー浴びてくる。あんたは、くつろいでくれて構わないから」


「はいはい」


 アリアはジャージを持って脱衣所へと向かう。


「しっかり洗いなよ。あんた、ホコリ臭いから」


「うるさい」


 アリアはピシャリと脱衣所のドアを閉めた。

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