赤ずきんの遠回り

七海けい

第1話


 昔々ある所に、小さくて、それはそれは可愛らしい少女がいました。彼女は赤いフードを被り、編み籠を腕に下げ、その中には、焼きたてのパンと、新鮮なバターと、少し値が張る葡萄酒が入っていました。


「お母様」

「なぁに」


 少女は戸を開ける前に、母の顔を見上げました。


「私たちは、どうして森に住んでいるのですか?」

「私達は、街に住むことができないからよ」


「それは、どうしてですか?」

「私達が、魔女の一族に生まれたからよ」


「でも、私は、魔法のことを知りません」


 少女は言いました。母は眉をひそめ、顔を曇らせてしまいました。


「何も考えてはいけないわ。……私の愛しい子。忘れ物はありませんか?」

「はい」


「それじゃぁ早くお行きなさい。『お遣い』ができない子は、拳骨10回ですからね」

「……はぃ」



 少女は森を、ただただ無言で黙々と、鳥のさえずりも、野ウサギの視線も、花々の香りもかえりみず、ただただ無言で黙々と、フードの縁を低く下げ、金糸の髪を隠し、藍玉の瞳を隠しながら、ただただ無言で黙々と、晩秋の曇天に見守られながら、路傍の枯れ草に見上げられながら、無人の森を歩いていました。


「──ぉい、そこの女。止まれ」


 木々の隙間から、いかにも悪そうなダミ声が響いてきました。


「──ゆっくり籠を下ろして、跪け。そして、頭巾を外して顔を見せろ」


 二人一組の人狼が、牙や爪を光らせながら近づいてきました。


「……あなたたちは?」


 少女は立ち止まると、首を傾げて聞きました。


「お前に名乗る名はない。……素直に言うこと聞け。そうすれば、命は助けてやる」

「早くしろ」


 二人一組の人狼は、摺り足で間合いを詰めてきました。


「……」


 少女は深呼吸とも溜息ともつかないような息遣いをすると、ゆっくりと編み籠を下ろし、ゆっくりと片膝をつき、ゆっくりと両手でフードを上げました。

 少女は、太陽も羨むほどの金髪と、雪原も恥じらうほどの白肌と、同じく色白で滑らかな、まるでお人形さんのような顔を見せると、微笑みました。

 そして、少女はめくり上げたフードの中にスッと手を伸ばし、あらかじめ仕込んでおいた燧発式の短銃を握ると、素早く、振り下ろすように構えました。一切の躊躇なく、一切の誤りなく、少女は引き金を絞りました。



 少女は森を、ただただ無言で黙々と、鳥のさえずりも、野ウサギの視線も、花々の香りもかえりみず、ただただ無言で黙々と、フードの縁を低く下げ、金糸の髪を隠し、藍玉の瞳を隠しながら、ただただ無言で黙々と、晩秋の曇天に見守られながら、路傍の枯れ草に見上げられながら、無人の森を歩いていました。


 少女は、廃屋の前に立っていました。少女の紅い頭巾は返り血でよりいっそう色味を増し、お人形のような白い肌は、よりいっそう際立っていました。編み籠を掛けた少女の右手には、入念に拭われた短剣が握られていました。これは、編み籠の中に隠しておいた武器でした。


 少女は編み籠の二重底を剥がすと、そこから、予備の短銃を取り出しました。

 少女は編み籠を足下に置くと、右手には短剣を、左手には短銃を握りました。


 少女はお腹に力を込め、スカスカに朽ちた廃屋の扉を、力強く蹴破りました。

そして、出迎えた人狼と向かい合いました。


「──ようこそ。我が城へ……」


 人狼は鋭利な牙を剥きながら、生臭い息を吐きながら、体中の剛毛を逆立てました。


「あなたの耳は、とても大きいですね。……」


 少女は、人狼の良く動く耳を見て言いました。


「……お前の動きを読むために、毎日鍛えたのさ」


 人狼は、深く腰を落としました。


「あなたの眼は、とても大きいですね。……」


 少女は、爛々と光る人狼の瞳を見て言いました。


「……お前の隙を見抜くために、毎日鍛えたのさ」


 人狼は、上腕を高く掲げました。


「あなたの手は、とても大きいですね。……」


 少女は、人狼の腕をなぞるように見上げながら言いました。


「……お前の首をへし折って、お前の心臓を握り潰すために、毎日鍛えたのさ」


 人狼は一歩、間合いを詰めました。


「あなたの口は、とても大きいですね。……」


 少女は、人狼の顎に滴った、涎の糸を見て言いました。


「……お前を骨の一本も残らずに、喰らい尽くすために、毎日鍛えたのさ」


 人狼がもう一歩、間合いを詰めた時、少女はサッと横に駆け出しました。

 人狼も素早く反応し、少女に追いすがりました。少女は椅子から椅子へ、机から木箱へと飛び移り、時折、机を引っ繰り返しながら、人狼を翻弄しました。人狼の爪は僅かに少女の柔肌を掠め、少女の頭巾を切り裂きました。少女の短剣は僅かに人狼の剛毛を削ぎ、人狼の分厚い皮膚に食い込みました。

 その格闘は互角のように見えましたが、実のところ、少女の方が有利でした。


「ぜぇ、はぁ……」


 人狼は舌を垂らし、肩を上下させながら、部屋の隅に立ち、息を整えました。


「これで終わりよ」


 少女は短筒を向けると、人狼の眉間に一発、鉛の弾丸を撃ち込みました。

人狼は血走った目を剥きながら、口の端から泡を吹きながら、よろよろと、少女の方へと近づいてきました。しかし、途中で足を滑らせて、うつ伏せに倒れてしまいました。人狼はそのまま、息絶えてしまいました。


「……」


 少女は念のために、人狼の死亡を確かめるために、油断なく短剣を携えながら、その首元に指を触れました。まだ温かさが残っていましたが、脈は打っていませんでした。


「──甘ぃワッ!」

「……!?」


 皮をビリビリと切り裂く音と同時に、人狼の腹の中から、白髪で、シワの深い、気味の悪い老婆が飛び出してきました。

 老婆は鉈のような物を片手に人狼の骸から這い出ると、その骨張った足ではあり得ないほどの力で、少女を蹴り飛ばしました。顔面に痛烈な奇襲を受けた少女は、床に転がりました。その拍子に、少女は短剣を落としてしまいました。


「全く……。人狼っていうのは本当に頼りない奴らだねぇ」


 老婆は不満げに毒づきながら、全身の関節をポキリ、ポキリ、と鳴らしました。老婆の、細長い四肢を回す仕草は、まるで操り人形のようでした。


「あれでもね、森に放った奴らは人狼族屈指の剛の者だったそうだよ? 森にいたのは、オーク三人衆を屠った怪力の狼“ラルフ”と、山羊の七兄弟を食い殺した爪牙の申し子“ルクス”。そして、今し方お前が殺したのが、ジェヴォーダンに虐殺の逸話を残した“ゲルフ”。……まぁ所詮、獣は獣でしかなかったということだ……」


 老婆はシワシワの顎をしゃくらせながら言いました。

 少女はゆっくりと頭を持ち上げると、口に溜まった血を吐き捨て、頬を庇いながら、涙を堪えながら、得意げな様子の老婆を、反抗的な瞳で睨み付けました。


「儂の息子も、嫁を見る目はなかったようだね。子育てがなっていないよ。この程度の腕で我らが一族に伝わる緋色の頭巾を受け継ごうなど笑止千万。お前の血で手紙を書き、お前の血で封をして、お前の母親にそのことを伝えてやらないといけないねぇ。……」


 老婆は薄気味悪い笑みを浮かべながら、少女の短剣を取り上げました。


「最近ねぇ、儂は人の味を覚えたんだよ。丁度、お前くらいの年頃の小さくて可愛い双子の兄妹が森に来てね……儂は幻術を使って、双子を「お菓子の家」に誘い込んだ。あいつらは、そこが儂のボロ屋とは全く気付かずに、何とも知れない「お菓子のような物」をぱくぱくと食べて肥え太りおった。後は言わんでも分かるね……?」


 老婆は短剣の刃を舐め、そこに付着していていた狼の血を啜り取りました。


「なんてひどいことを……」

「実の母に命じられ、実の祖母を殺す……。それだって、随分とひどい話じゃないか」


 老婆は少女に覆い被さると、短剣の先端を少女の首に突き立てました。


 その刹那、銃声が轟きました。

 壁に空いた、崩れかかった覗き穴から、マスケット銃の口が突き出ていました。


「──お嬢!」


 精悍な、青年の声が聞こえました。彼は少女の幼なじみで、若くして熟練した、森で一番の狩人でした。


「ハンク……」


 少女は、声のした方に振り返りました。仰向けに斃れ、卍の字に絶命した老婆を一瞥すると、少女はわっ、と廃屋の外へ掛け出て行きました。



 少女は森を、ただただ無言で黙々と、鳥のさえずりも、野ウサギの視線も、花々の香りもかえりみず、ただただ無言で黙々と、薄汚れたフードの縁を低く下げ、乱れた金糸の髪を隠し、赤く腫れた瞳を隠しながら、ただただ無言で黙々と、晩秋の曇天に見守られながら、路傍の枯れ草に見上げられながら、青年に細い腕を引かれながら、二人きりの森を歩いていました。


「お嬢は自分なりに、ちゃんと頑張りましたよ。ですから、どうか胸を張ってください」


 青年は、少女の気を引くように、繋いだ手を握り直しました。


「……お母様に怒られる。拳骨、怖い」


 少女は、もう片方の手で、腫れた頬を庇いながら答えました。

 二人の背後では、老婆の廃屋が煌々と燃え盛っていました。少女の編み籠からは、食べ物と飲み物がなくなっていました。老婆があの世でひもじい思いをしないよう、お供えを上げたのでした。


「次の試験までに、また鍛え直せば良いのです。お嬢にはまだ、父方の祖母がいらっしゃるではありませんか。あの方は魔法の鏡を持ち、毒の扱いにも慣れているとか。きっと、今回よりも厳しい試験になります。だからこそ、それを果たした暁には、お嬢は晴れて一人前になることができるというわけです」

「簡単に言う。……」


 少女は、ふてくされた風に言いました。

 少女と青年は、分かれ道に遭いました。


「お嬢。僕が先に帰って、お母様を宥めておきます。お嬢は気が晴れるまで、森の中で暇を潰していてください」


 青年は頼りがいのある笑みを浮かべると、近道の方へ、少女が行きに使ってきた道の方へと駆けていきました。


「……」


 少女は、遠回りの道を行きました。

 少女は森を、ただただ無言で黙々と、鳥のさえずりに耳を澄ませながら、野ウサギの視線を感じながら、花々の香りを吸い込みながら、ただただ無言で黙々と、薄汚れたフードの縁を少し上げ、乱れた金糸の髪を整え、藍玉の瞳を隠しながら、ただただ無言で黙々と、晩秋の曇天に見守られながら、路傍の枯れ草に見上げられながら、無人の森を歩いていました。


 少女は、我が家の前に立っていました。


「……」


 少女は戸を叩いて、中に入りました。


「お嬢。待ちましたよ」


 青年は何故か、いつもは母が使っている寝台の上に寝そべっていました。


「……お母様は?」


 少女はキョロキョロしながら聞きました。不意打ちの拳骨を恐れつつ、それ以外の、もう少し恐ろしい可能性を恐れていました。


「お嬢。こちらへ」


 青年は、誘うように微笑みました。


「ハンク。どうして?」


 少女は聞きました。キッチンには、打ちかけのパン生地がありました。その脇には、冷え切った葡萄酒が残っていました。少女の目は、暖炉の方に向きました。


「ハンク。……どうして?」


 少女は、もう一度聞きました。暖炉の中で灰に変わっていたのは、母の服でした。少女の目に見えたのは、母の服だった物でした。少女は、その灰を引っ繰り返そうとは思いませんでした。


 青年は、上体を起こして背伸びをしました。


「これは、ある不憫な女性のお話です。

 ──ある日。何を思い立ったのか、母が父を悪魔に捧げて、魔女になりました。 母はその後、秘術を使って国王を籠絡しました。そして、母は娘を、魔法使いの男に輿入れさせました。娘は嫁ぎ先のしきたりに従って、姑の手引きで、母と同じ方法で、自分も魔女になりました。

 でも、彼女は自分の娘に、自分と同じような運命を継がせるつもりはありませんでした。

 彼女は自分の愛娘と、知り合いの狩人の息子を引き合わせ、愛娘を狩人として、ひいては殺し屋として育て上げようとしました。全ては、元凶たる二人の母を殺す役目を、愛しいはずの娘に押し付けるために。……」


 青年は憐れむような瞳で、少女の碧い眼を覗き込みました。


「……」


 少女は、キッチンの壁に提げてあった鉈を手に取りました。

 青年は、尚も語り続けました。


「君はもっと無邪気で、多感な人生を送ることができたはずだった。……それは、例え魔女になってもできた生き方だった。それは、例え狼であってもできた生き方だった。

 ある狼は血の味を知って、ある狼は悲鳴に胸を焦がして、ある狼は己の肉体美に酔いしれた。ある魔女は由緒正しい一族の長となり、ある魔女は一国の王女にまで上り詰めた。みんな、思うが儘に生きることができた。

 ……それに引き替え、今までの君は、その可能性が許されなかった。もし君が、次の試練を受けるまでの間に、今まで以上に、今までみたいな生き方をしたら……君は、きっと、引き返せないところにまで来てしまう」


「そんなこと、ない」


 少女は鉈を握り締め、青年の方へと歩み寄りました。


「本当にそうかな」


 青年は試すような口ぶりで言うと、寝台に寝転がりました。丁度、少女が鉈を振り下ろしやすいように、青年は首筋を顕わにしました。


「私だって、……」


 少女は寝台に膝をつき、よじ登りました。青年を見下ろし、鉈を高く掲げると、目を瞑りました。閉じた目蓋の縁からは、涙がこぼれていました。


「さぁ、僕を捧げて、立派な魔女になるんだ。……やり方は、お母様の本棚を見れば良い。きっと、君の助けになる魔道書がたくさんあるはずだよ」


 青年がどんな顔をしていたのか、少女には見えませんでした。と言うよりも、少女は見たくなかったのかも知れません。


 彼女は、物を言わなくなった青年に口づけをすると、じゅくじゅくと彼の血潮を吸い込む寝台から降りました。そして、母の本棚から、それらしい本を何冊か取り出しました。


 少女は、悪魔と契りを交わす儀式の中で、色々なことを考えました。


 自分にとって一番に恐ろしく、そして、怖いものとは何だったのか。


 狼の残虐さだったでしょうか。


 祖母の狂気だったでしょうか。


 母の身勝手だったでしょうか。


 或いは、好意を寄せた人の無理解だったでしょうか。


 その無理解な人の、最期の優しさだったでしょうか。


 少女は全ての儀式が終わった後、紅い頭巾を脱ぎました。そして、それを暖炉の火の中に放り込みました。



 人狼三人と、魔女二人と、人間一人の犠牲を生んだあの事件から、三年が経ちました。


 森の中に、色の白い、若い少女のような魔女がいる。そんな噂が、あちこちに立ち始めていました。彼女は、“「白い」魔女”だとか、“「白」雪姫”だとか呼ばれていました。


 ある日、白い魔女の元に、黒い魔女が訪れました。

 年若い白い魔女は老獪な黒い魔女に騙されて、毒を盛られてしまいました。黒い魔女は、白い魔女が自分の地位と命を脅かすのではないかと恐れていました。


 白い魔女は毒の解き方を知っていました。でも、その毒を解こうとはしませんでした。

 年若い白い魔女は、眷属であった七人の子人達によって、硝子の棺に納められました。


 ある日、森に狩りをしに来ていた隣国の若い王子が、小人達に誘われて、白い魔女の家を訪れました。そして、王子は硝子越しに、白い魔女を見初めました。小人達が主人の復活を願い、運命の糸を操って、白い魔女と王子を引き合わせたのでした。

 白い魔女は、王子の口づけによって意識を取り戻しました。


 その時、白い魔女は、涙を流しました。


 王子は、それを嬉し涙だと思いました。小人達も、そう思いました。



 それから、また三年が過ぎました。

 白い魔女は、隣国の王宮で“白の妃”として、王子の寵愛を一身に受けていました。


 ある日、王子は軍勢を率いて森を越え、隣国へと攻め込みました。王子は隣国の都を制圧すると、国王と王女を自害に追い込みました。そして、王女が持っていた美しい魔法の鏡を戦利品として持ち帰り、白の妃に見せました。


「こういう魔法の道具は、きっと、君の方が上手く扱えるだろう。だから、これは僕から君への贈り物にするよ」


 王子は言いました。

 この魔法の鏡は、話しかけた者に応え、問いかけた者に答えてくれるという鏡でした。

 白の妃は、魔法の鏡を壁に立て掛けると、毎日それを眺め続け、時々話しかけました。


「……ハンクは、今の私を見て、何て励ましてくれるかしら?」

 鏡は答えませんでした。


「……お母様は、今の私を見て、拳骨で罰してくれるかしら?」

 鏡は答えませんでした。


「……今の私は、どちらかが望んだような生き方を、しているかしら?」

 鏡は答えませんでした。


「……今の私は、ハンクやお母様がいる所に、近づいているのかしら?」

「──はい。確かに」

 鏡は短く答えました。


「……毒で死にかけた時、どうして私は、彼に会えなかったのかしら?」

「──彼が、それを望んだからです」

 鏡は短く答えました。


「どうして……?」

「──彼は、貴女に“遠回り”を勧めました」

 鏡は短く答えました。そして、鏡面が薄らと光りました。白の妃の手元に、紅いベールが現れました。


「これは、何……?」

「──貴女は、彼やお母様がいる所に、確かに近づいています。これはその標です」


 その日以来、彼女は、赤い服を纏うようになりました。頭には、いつかの紅い頭巾のように、紅いベールを付けました。やがて、彼女は“赤の妃”と呼ばれるようになりました。


「いったい、どうしたんだい? 僕は、君の白いドレス姿が大好きだったのに……」


 王子は残念そうに聞きました。


「ごめんなさい。……少しだけ、私の我が儘を聞いて欲しいの」


 彼女が微笑んで見せると、王子はそれ以上、何も言いませんでした。


 それから、また三年が過ぎました。

 王子の両親はこの世を去り、王子は国王に、赤の妃は“赤の后”になりました。

 赤の后は地方の離宮に移ると、王国の実質的な君主として、七人の小人と魔法の鏡の助けを借りながら、精力的に国を守っていました。人々は、彼女を“赤の女王”と呼びました。

 国王は王宮に籠もり、まつりごとを放棄して、白の王女という妾を寵愛していました。


 ある日、赤の女王は、王国を散策することにしました。


 王国は『魔法の国』だとか、『魔法の鏡の国』だとか、『鏡の国』だとか呼ばれていました。それぞれの地域は七人の小人と魔法の鏡に委ねられ、王国は八つの地域に分けられ、それはさらに八つの区域に分けられていました。


 王国には、不思議な魔法の生き物がたくさんいました。

 女王は森を、ただただ無言で黙々と、花のさえずりに耳を澄ませながら、卵紳士の視線に手を振りながら、干し葡萄のケーキの香りを吸い込みながら、ただただ無言で黙々と、滑らかな真紅のベールの縁を少し上げ、整った金糸の髪を覗かせながら、藍玉の瞳を注意深く動かしながら、ただただ無言で黙々と、春先の青い空に見守られながら、路傍の若草に見上げられながら、無人の森を歩いていました。


「……」


 ……きっとお母様は、お祖母様の真似事をしている自分を見て、拳骨を百回は落とすだろう

 ……きっとハンクは、今の自分を見て、「僕が期待していた未来とは、少し違いましたね」と言うだろう。でも、「お嬢は自分なりに、ちゃんと頑張りましたよ。ですから、どうか胸を張ってください」とも言ってくれるだろう


 道すがら、女王は一人の少女とすれ違いました。その少女は、空色の服の上に、純白の前掛けを着ていました。美しい金色の髪をなびかせながら、夢見る碧の瞳をきらきらと輝かせながら、鼻歌交じりに、スキップをしながら、少女は女王の横を通り過ぎていきました。


「……」


 ……丁度、私があのくらいの年頃に、お母様がハンクを紹介してくれた

 ……早く会いたい


 それは、何かの前触れだったのでしょうか。

 一月後。女王がすれ違ったあの少女が、鏡の国の、新たな女王に迎えられました。新たな女王の名は、アリスと言いました。

 鏡の国を禅譲した赤の女王は、小人達と魔法の鏡を残して、一人、森の中へと消えてしまいました。

 俗世に疲れただとか、病を患っただとか、国の内外では、様々な噂が流れました。

 でも、それを確かめた人はおらず、確かめる術もありませんでした。

 彼女が、再び森から姿を現すことは、遂に一度もありませんでした。

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