関根俊樹は語らない

佐伯リク

関根俊樹は語らない

 突然だが、『青春』と聞いて何を思い浮かべるだろうか。


 経験のある者は自らの青春を、無い者は小説や漫画の知識でそれを考えるだろう。しかし、一般に思い起こされるのは華々しい物だろうと思う。


 連想空想で出てくるのは大抵理想なのだから。


 華々しい青春を仮にバラ色としたとしよう。多くの人は理想のそれには及ばずとも、それなりにバラ色の青春を過ごしている。だが、中には灰色の青春を送る者もいる。


 信じる者が報われるとは限らず、努力が実を結ぶことは稀だ。成功よりも失敗の方が遥かに多い。夢や理想は大抵がただそれとして終わる。それを許容し認め合える関係性を周囲と構築できた者のみが、その現実をありのままに受け入れられた者こそがバラ色たり得るのだ。そんなのが『偽物』だと分かっていても、それに甘んじることしか俺たち凡人には出来ない。


 ならば、彼は一体何色の青春を送っているのだろうか。


 俺が知る、唯一の『本物』は。全てを見通すような瞳をした彼は。少なくともバラ色では無いのだろう。しかし、彼を俺程度の尺度では測れない。


 俺は彼の多くを知らない。知っているのは彼のごく小さな断片に過ぎない。


 だから俺は願う。


 語らない彼を語る者が、俺以外にもいることを……


 —————————————————————————————————————


「はぁ、今日からまた学校か……」


 現在時刻は7時38分。俺が通う高校の始業時刻は8時30分である為、まだまだ時間はある。普通に歩いて行っても8時には着くであろう、そんな通学路上に俺はいる。


 ここで1つ質問だが、1週間の内1番嫌いな曜日は何曜日だろうか。


 俺の場合は月曜日だ。何と言っても月曜日だ。今日からまた1週間頑張らねば、と休み明けの頭で考えるのは苦行でしかない。それ故に月曜日。きっとこの意見に賛同してくれる同志も数多くいるはず。異論は認めん。


「何ぶつくさ言ってんのよケイ。最高じゃない、月曜日」


 む、声に出てたか。今ツッコミを入れたのは……とコイツを紹介する前に自己紹介をしておこうか。俺は佐々木啓。周囲からはケイと呼ばれる。もしくは佐々木。4月から高校生になった若人である。一応言っておくが、俺はノーマルな人間だ。決して変人などではない。普通の人は自分をそう呼んだりはしないって? その辺りは気にしたら負け、という奴だ。


 そして、今隣で月曜日至上主義という異端審問ものの主張を唱えたコイツは本田楓だ。衛兵さ〜ん、魔女がいま〜す。


「何だろう……とても雑な扱いをされた気がする」


 楓は首を傾げた。まあそれはそうだろう。女子がテレパシーなんぞ持っていたら恐ろしくて仕方がない。滅多なことは考えられなくなるからな。なお、どこからどこまでが滅多な事かは言及しない事とする。


 と、まぁ続きだ。楓とは高校に入ってから知り合った。小、中と違う学校だったのだがどうも家は近かったらしく最近では登下校で一緒になる事も多い。最初は楓にストーカーと勘違いされて危うく通報される所だったが。ストーカー扱いを受けたのは腹立たしいが、楓なりに警戒していた理由はあったようだ。それというのも、楓は良いとこ育ちのお嬢様らしく昔からたまにその手の輩が現れるのだそうな。無駄に整った彼女の顔立ちを見ていれば納得も出来る。まあ、黙っていればなんだけど。残念美人の類なんだけど。ともあれ、それを考えればよくもまあ友人になれたものだ。


 ああ、あと言うまでもないかもしれないが楓はマゾヒストである。ドMと言った方が分かりや……グハァッ!?


「何で私がマゾヒストって事になってんのよ!」


 ゆっくりと下を見れば楓の手が俺の鳩尾辺りに突き刺さっている。こう言うと何だか殺人事件っぽいな。衛兵よりお巡りさんを呼ぶべきだったか……というかそもそも何で心の声が読めるの? さっきのは分かってなかったじゃん。


「い、いやだって月曜日が好きなんだろ? 休日の日曜日でもなく平日の終わりの金曜日でもなく月曜日なんだろ? 憂鬱な平日を待ち望むとか余程の真面目かマゾヒストしかいないんじゃないのか?」

「だから何故そこで私が真面目でなくマゾヒストって結論になるのよ……」


 そこはまあ、日頃の行いとかだろうなあ。朝っぱらからマゾヒストマゾヒストと連呼している辺り、真面目とは程遠い。


「そんな事はともかく、早く学校行こうぜ。遅刻したくないからな」

「まだ50分くらいあるんだけど!?」


 三十六計逃げるに如かず、君子危うきに近寄らず、だ。さっさと学校へ行くことにしよう。


 さて、ここで登場人物紹介といこうじゃないか。何? 長くならないかって? 安心しろ、俺の交友関係は狭い。


 まず1人目がさっきのマゾヒスト、本田楓だ。もうコイツはこれ以上紹介いらんだろ。


 次に2人目が霧島望。俺のクラスの担任教師だ。数学を担当しているが、俺は文系志望なので来年にはおさらばである。彼女についても深く説明はいらないな。


 3人目は関根俊樹。つい1週間前に転校してきた変わり者だ。今日は6月2日。つまり、コイツが転校してきたのは5月26日ということになる。何でそんな時期に転校することになったのか甚だ疑問ではあるが、それを聞くことは出来ないでいる。それというのもこの男、独特の雰囲気を持っていて近寄りがたいのだ。同じ日本人で同い年のはずなのに、関根の眼はとても深い。自分でも何を言っているか分からないが、とにかく吸い込まれそうなくらい深いのだ。そういうこともあってチキンな俺には何でこんな時期に転校してきたの、なんて踏み込んだ質問が出来ないのだ。地雷臭が凄いからな。


 ああ、そんなユニークな彼だがもう一つ特徴がある。それは声を出さないことだ。この学校に来てはや1週間、会話は筆談で済ませている。仕草で物事を伝えることもあるが、多くは筆談をするのである。転校初日に自己紹介でフリップを取り出した時はギョッとしたものだ。まあ、別に医学的には話せないこともないらしいが。失語症なわけではないようだ。


 何はともあれこの学校には大体適当な性格をした奴らが集まるので、関根の筆談も直ぐに受け入れられていた。



 さて、学校に着いたわけだが特にすることが無い。いや、しなければならないことならある。中間試験が来週から始まるのだ。その勉強をしなければならない。しかしこの学校のテストはそこまで難しくないため、優先度合いは高くない。もっとこう、だらだらすることに時間を使いたいのだ。忙しなく活動するなんてもってのほか。楓はどうしたのかって? あいつは自分が属する女子グループでワイワイやってるよ。孤高な俺とは大違いだね。欠伸が出そうだぜ。


 ……別に涙が出そうなのをごまかしてるわけじゃない。ないったらないのだ。


 俺は大きく伸びをして、辺りを見回す。どいつもこいつもお仲間同士で楽しそうにしてるよ全く。そうして後ろにまで目をやると、斜め後ろの席に座っている関根が真面目に勉強をしていた。いつも通り近寄りがたいオーラが出ている。が、同時に困っているようにも見えた。


 よく見ると、教科書の類はあるのだが、板書を写したノートが足りない。


 ああ、そうか。関根は転校してきたからそれ以前の板書が無いんだ。提出物としてもノートが出ているし、テストも板書から出題される量は多い。おまけに関根は自分から声をかけるのが苦手なようだ。筆談を受け入れられてはいるが、元々の性格なのか関根は自分から話しかけることをしない。ノートを借りるだけでも一苦労なのだ。


 俺は自分のノートを取り出し、関根に差し出す。それを見て関根は数秒驚いた顔のまま硬直し、やがて微笑んでメモ帳にこう書いた。


『ありがとう』


 関根は他人と違うところはあれど、間違いはしない。浅い付き合いだが、それは俺にも分かった。一体どんな理由があって筆談を選んだのかは知らんが、関根は親切にされれば礼は言うし(正確には書く、だが)礼儀を欠かさない。そこを見る限りはとても好感の持てる良い奴だ。だからこそノートくらい貸してやる気にもなる。


 それから俺は関根と話をした。話題はたくさんあったが、大体が俺のことだった気がする。終えてみれば、関根がとても聞き上手なのだと分かった。俺達はお互い話し相手がいないので、休み時間は全て2人で会話を楽しんだ。関根は頭が良いらしく、勉強を教わりもした。



 そして午後の授業も終わり、放課後となった。


「離れたところから見れば俺が一方的に話しているように見えているかもしれないな」


 俺が冗談めかしてそう言うと、関根は申し訳なさそうな顔を少し見せてこう書いた。


『筆談は都合が悪いかい?』


 俺は慌てて言葉を返す。


「まさか。俺なんていつもは話し相手がいなくて言葉を持て余すんだ。筆談の方がよっぽど上等さ」


 関根が微笑んでようやく俺は一息つける。


『そういえば本田さんといつも下校しているらしいけど、待たせてるんじゃ無いかい?』


 関根は俺にそう書いて見せた。


 そういえば忘れていた。関根と話し込んでいたせいですっかり放課後になっている。楓はテニス部に所属しているのだが、帰宅部の俺も放課後は図書室で本を読んでいるため2人で下校することが多い。いつもなら図書室にいる俺を呼びに楓が来るのだが、今俺がいるのは教室。これは後で怒られるな……


『いってらっしゃい』


 俺は関根と急遽別れ、楓を探しに行くことにした。



 まずは図書室だ。楓がまだ図書室にいれば話が早いんだが。


「え? 本田さん? だいぶ前に来て誰かを探してたみたいだけど、怒って出て行ったよ?」


 ちょうど当番をしていた同じクラスの図書委員に聞いてみたが、その答えは芳しくなかった。どうやら既にどこかに行ってしまったらしい。


 俺は図書委員に礼を言い、別の場所に向かった。


 嫌な予感がする。気のせいだったら良いんだが……


 次に、俺はテニス部へと行った。


「楓ならもう帰ったけど。何か用があるなら明日伝えようか?」

「いや、大丈夫。ありがとう……」


 聞けば、今日に限って部活動を早めに終わったらしい。


 ともあれテニス部のところにも彼女はいない。不安が心を多い始め、自然と歩みが速くなる。


 そうだ。もしかするとすれ違ったのかもしれないな。


 そう思い、俺は教室に戻った。


「そんな都合良く行くわけないか……」

『その顔を見るに、いなかったようだね』


 教室にはまだ関根がいた。


『本田さんならここには来ていないよ』


 関根は、俺が聞こうとしていたことを先んじて答えた。


『下駄箱に行ってみたらどうかな。そうすれば本田さんが学校にいるのかもう帰ったのかが分かるはずだよ』


 そうか、確かにそうだ。俺は随分と焦っていたらしい。


 俺は関根と下駄箱に向うことにした。



 結論から言えば、楓は下駄箱にいなかった。


 彼女の下駄箱には上履きが入っており、学校にはいないことが分かったものの嫌な予感は拭えないでいる。今や頭痛がする程にそれは強烈なものとなっていた。


 っとその時、突然電話が鳴った。


 知らない番号だ。しかし、楓の携帯番号も知らないため、俺は一縷の望みに縋って電話を取る。


『もしもしッ! 佐々木啓くん!? 私は楓の母です! 娘が誘拐されたんです! ああ! どうすればいいの!?』


 電話の向こうからはヒステリー気味の声が聞こえた。楓の声によく似ている。


 ……いや、そんなことはどうだって良い! 楓が誘拐されたって!?


「それは本当ですかッ!」


 取り乱す俺の肩に、関根は手を置いた。


「どうしたんだ、今の俺はあんまり余裕が無いぞ」

『そういうことだよ。焦ってばかりでも仕方ないんじゃないかい? 彼女を宥めて少しでも情報を聞かなくちゃ』


 あ、ああ。そうだな、確かにそうだ。


「えーと、本田さん? 楓さんは既に下校したはずなんですが……誘拐されたと分かってるってことは脅迫の電話でもあったんですか?身代金要求のような」

『え、ええ。すみません、取り乱してしまって。楓が誘拐されたと分かったのは5分前に犯人から電話がかかってきたからなの。楓の携帯電話だけポストに届いて、そこに電話がかかってきたわ。今あなたに電話しているのも楓の電話帳に載っていたからよ。……あの子には一人で帰ろうとしないように、て言ってたのに……』


 なるほど。っというか何で楓は俺の携帯番号知ってんだよ。俺はアイツのを知らないのに。


「ということは何か要求をされたんですか?」

『ええ、身代金として5千万円を3時間以内に用意するよう言われました。それに、何故か主人の経営する会社から出させろとまで言われました。警察に通報するな、とも』

「っということは犯人は本田さんが経営する会社に恨みを持っている……?」

『犯人が誰かなんてどうだって良いんです! 楓さえ、楓さえ無事でいてくれたら……!?』


 それだけ言って楓の母親は電話を切ってしまった。どうやら一度鎮まったヒステリーが再発したらしい。楓から話題が逸れるのはタブーだったか。


 しまったな。唯一の情報源を失った……俺の方からもう一度電話をしてもきっと取って貰えないだろう。


 宥める立場に立つことで保っていた俺の心には、また焦りが湧き出ていた。しかし、焦っていても仕方ないことは俺自身よく分かってもいる。


「痛っ!」


 酷く頭痛がする。何だ、何かを忘れている気がする。昔、同じような何かがあったような……


『佐々木君、何故本田さんは君と帰ろうとしたのだろうね』


 関根は神妙な面持ちでそう書いた。


 それは、偶々俺の家が近くにあったから……


 頭痛がさらに酷くなった。


『本田さんには過去に今と同じようなことがあったんじゃないかい?』


 そう、なのか……? 思えば何でアイツは小学校や中学校で一緒に登下校していた奴と帰らないんだ? 何で俺と帰ろうとした?


 俺の頭は原因の分からない頭痛と疑問符で埋め尽くされていた。しかし、同時に光が差し込んできた。


「あ……」


 一瞬、目の前に暗闇で泣いている少女を幻視する。


『君は、彼女に一度会ったことがある。そうだろう? 佐々木君』


 関根の言葉を見たとき、一層強烈な頭痛が襲いかかり、そして消えた。思い出せないでいた記憶が洪水のように流れ込み、そしてあるべき所へ戻る。


「ああ、そうだ。俺は楓に会ったことがある。全て思い出した」


 焦燥感はある。体が焼けるような感情が俺を動かそうとする。しかし、思考はやけにすっきりとしている。


『強い感情によって起こる衝動は、その行動に意味を持たせようとする。恨みならそれも顕著だろう』


 関根の言葉に俺はかつての記憶を呼び起こす。



 俺がまだ小学1年生の時のことだ。いつものように下校していた俺は、人気の無い所で車から1人の少女を運ぶ男を見た。どうやら廃屋に連れ込もうとしているようだった。


 俺の家は遠くて、通学路には人気の無い場所もあったのだ。少女の口にはガムテープが貼られていて、子供ながらに不穏なものを感じた俺は警察を呼ぶことを考えた。しかし、少女を運ぶ男の狂気染みた顔に恐怖して、気がつくと俺は前に飛び出していた。きっと警察を呼んでいる時間は無い、と思ったのだ。


 俺は姿を見せないよう気を付けつつ、車を手に持っていたリコーダーで叩いた。


「誰だッ!」


 男は車の方へと振り向き、少女を下ろして近づいてくる。少女は怯えて体を震わせていたので逃げはしないと判断したのだろう。


 俺は少女から男が離れる瞬間を見測って少女の手を引き逃げた。


 ここまでは上手くいったが、大人と子供の歩幅は違う。家の角やらを使って逃げていたが、そう長くは持たず追いつかれそうになった。しかし、奇跡的に巡回中の警官に助けを求めて事なきを得たのだ。


 警官に捕まり手錠をかけられた男は、俺の顔を見て恨めしげにこう言った。


「覚えておけクソガキ! 絶対に次は邪魔させんッ! この俺の計画が乱される訳がないのだ!」



『何か心当たりがありそうだね』


 関根は俺にそう書いたメモを見せる。


「ああ。確証は無いけど、俺の予想が正しければ楓がいるのは前回と同じ場所だ」


 あの時の奴の言葉を考えればそうである可能性が高い。あの日も今日と同じ6月2日だった。


『それは合理的じゃないな。そこにいる保証も、確たる根拠も無いんだろう?』

「ああ、その通りだ。けど、合理的なものだけが正しいってわけじゃないだろ? 時には直感に従うことも必要さ」


 そう関根に返すと、彼は満足したように微笑んで1つの鍵を投げてよこした。


『それは自転車の鍵だよ。徒歩じゃ遠いだろう』

「ありがとう、関根。お前のお陰でここまで来れた」


 俺は関根の自転車を借り、気を引き締めてペダルを漕ぎ始めた。楓の母親から聞いた話しでは今から2時間後に身代金の受け渡しがあるらしい。もしもあの男が動くなら、受け渡しの直前のはず。しかし、それまで楓が無事である保証なんてない。なんとしてもその前に助け出してやる!


 学校から例の廃屋へは自転車で20分かかった。かなり急いだのだが、スポーツをしているわけでもない俺にはこれが限界である。少し離れた所で自転車を降り、廃屋へ近づくと車を見つける。……ビンゴだ。


「なッ」


 危ない。思わず声を上げる所だった。


 廃屋の前ではかなり老け込んだあの男が、腕と足を縛られてガムテープで口を塞がれた楓を引きずり出していた。見たところ楓は気を失っている。身代金の受け渡しに備えて動き出す所だったらしい。男はかつてと同じ、いやそれ以上に狂気にまみれて歪んだ表情を浮かべている。


 そして、やはりというか案の定というか、俺の足はまたも無意識に前へと飛び出していた。


 気づかれていないのを良いことに俺は男に飛びかかり、そして殴り倒す。


「グァッ!」


 男が倒れるのを横目に、俺は楓を起こし、ガムテープを口から剥がした。


「大丈夫か!」


 声をかけても楓が目を覚ます様子はない。俺が楓の足と腕を縛っていたロープを解いていると、よろよろと立ち上がりながら男は叫んだ。


「誰だキサマ! 俺の計画を邪魔しやがって!」

「ハッ、久しぶりだな……9年振りか?」


 俺がそう声をかけると、男は歪みきったその顔をさらに歪めた。


「あのガキか……キサマがあのガキか!」

「ああ、何度でも邪魔してやる! 何度だって守ってやる! お前の計画とやらは俺が成功させやしない!」


 男は俺が言い終わるやいなや、狂ったように突っ込んできた。いや、既に狂っているのだろう。憤怒の形相とはコイツの顔を指すんだろうな。


 男は俺に近づいて左手を突き出す。俺は右手で弾こうとしたが掴まれてしまう。お返しに俺も殴りかかるが、男は隠し持っていたのか右手でスタンガンを俺の首筋に当てようとする。慌てて足で胴を蹴り飛ばし、距離を取ろうとするも時すでに遅し。俺は首に電流を流され、倒れてしまった。


 くそっ、楓が気絶してることから想像はついたはずなのに……まずい、ここで俺が気を失ったら助けに来た意味がない……


 何とか意識を保とうとするも、現実は無情なものだ。全身が痺れてしまって体が動かない。うつ伏せに倒れていると、男が立ち上がって近づいてくる。


「っ痛えな……! 何しやがんだ! クソガキッ! クソがッ! このッ!」


 倒れる俺を男は蹴り続ける。


「ぁ……あぁ……!」


 俺は歯を食いしばって、動かない体に叱咤をかける。


 動けッ! 動いてくれ! 俺は助けなきゃならないんだ! 動け! 動けよッ!


「ハハハッ! 残念だったなぁ? 助けに来ただって? 全身痺れて動けないお前が? 今倒れてんのが現実だッ! 現実の厳しさってヤツを教えてやるよッ!」


 なおも男は狂乱し、叫び続ける。永遠に感じられる苦痛に、俺は唇を噛んだ。


 が、その時。


 ゴツッ


 鈍い音がして、男の蹴りが止んだ。叫びももう聞こえない。聞こえたのは何かが地面に倒れる音だけ。


 不意に、足音もなく誰かが近づいてくるのを感じた。


 最後の力を振り絞りその人物を見上げてみれば、そこにいたのは関根だった。


『おめでとう。君は彼女を救った。君は立派な主人公ヒーローさ。』

『ああ、あとノートの借りはこれで返したってことでいいね?』


 関根がここにいることにも驚いたが、彼の言葉には思わず笑ってしまった。わざわざルビなんて振りやがって……最後でやられちまった俺は、そんな上等なもんじゃないだろうに……それにノートを貸したことなんて忘れてたよ。


 関根に頷いて見せると、彼はやはり微笑んで見せた。


 その笑みを見て安心したのか、俺はそこで意識を手放した。




 次に意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。その脇では、楓が見舞いに来てくれていた。


「はぁ、知らない天井だ……」

「馬鹿じゃないの? ……良かった」


 ふざける俺に辛辣な言葉をかけつつも、楓は俺を心配してくれていたらしい。それがとても嬉しくて、彼女の手を取った。


「何?」

「楓だったんだな。9年前のあの子って」

「それはコッチのセリフよ。なんとなく雰囲気は似てたけど本人だったなんて……」

「何だ? こんな男で幻滅したか?」

「………………」

「おいおい! そこは黙るなよ!」

「……言わなくても分かるでしょ?」


 この後の会話は長くなりそうだし不評だろうから割愛することにしよう。


 さて、誘拐犯のあの男の話を少ししておこうか。元々アイツは楓の親父さんが経営する会社の経理部に勤めていたらしい。しかし、予算の横領や不正な利用が発覚してクビになり、長年恨みを持っていたようだ。会社の金で身代金を払わせようとしたのは楓の親父さんに対する意趣返しだろうな。気絶した奴を警察が逮捕したし、楓が危険に晒されることはもう無いはずだ。


 また、例の一件で入院していた俺も6日間で無事退院することができた。いくつか骨が折れていたせいで退院した後も病院通いではあるが。それでも、折れた骨が歩いたりするのに重要な場所じゃなかったのは不幸中の幸いというものだ。


 そして最後に関根だ。


 次に俺が登校した時、学校に関根の姿は無かった。なんでも、色々事情があってまた転校することになったらしい。今までも1、2週間で転校することを繰り返していたらしいのだ。


 振り返ってみれば、楓の母親から電話がかかってきた時や記憶が戻りそうになった時に俺を導いたのは関根だった。彼は一体何者なのだろうか……


 もう一度会って礼を言いたかったところだが、彼が俺の前に現れないということは、やはりあれはノートの礼だったのだろう。ノートを貸しただけだというのに太っ腹なことだ。


 ちなみに貸していたノートは俺の机の中に入っていた。


 退院後の学校、教室の窓辺で俺は空を見上げる。


 俺は楓を助けた。関根は俺を助けてくれた。なら、関根を助ける者はいるのだろうか。彼の拠り所となる者は現れるだろうか。


 俺には彼が口を閉ざした理由が分からない。彼が背負っているものを知らない。きっと俺では力不足だ。


 空の向こう側から曇天がやって来る。梅雨が近づく気配に、どこか暗いものを感じた。




 関根俊樹は語らない。声を発さず文字を書く。


 それでも全ては明かさない。


 後には彼ではない、彼を語る語り手だけが残されるのであった……

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

関根俊樹は語らない 佐伯リク @riku019

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ