第23話 結論
以上、宮沢賢治の生涯、特に死にゆくさまを考察し、絶詠を鑑賞するとともに、筆者の祖父の死について主に対象喪失の概念を用いて考察してきた。
筆者は本論文を書くに当たって、「人は死んだらどうなるの?」という表題を掲げてきたが、現段階の結論としては、現実の肉体を通したつながりは失われてしまうが、故人を意識できる新たな対象に意識が向いていくことで故人との精神的なつながりを持ち続けていくことができるようになる。としたい。筆者の場合の祖父に代わる新たな対象は「雲」であり、「空」である。
第3章第3節でも述べたが、賢治の絶詠はいずれも自分が死んだあと、自分がどのように世界とつながっていたいと考えているかが示されていた。「方十里~」では、空の上から豊かに実った稲を見下ろす存在になりたいと、「病の~」では、自分の命が稲の稔りと法華経の御法になりたいと祈る様子が描かれている。
賢治が死の前日に絶詠二首を残し、死の間際に家族へ遺言を残した一方、祖父は遺言や絶筆といったものを残さずに死んでいった。そのため祖父が何を考えながら死んでいったのか、また家族に何か伝えたいことがあったのかは分からない。
しかし、戒名をつける際の筆者ら遺族と住職さんとのやり取りの中には、筆者ら遺族が祖父と今後どのようにつながっていったら良いかの答えが示されていたかのように感じる。空に祖父が本当にいるわけではないけれど、空を見上げることで祖父の存在を感じて暮らしていくことはできるというのが答えであると現時点では考えている。
祖父の死を時間が経った今改めて考え直すことで、自分の中に整理できていない部分が多々あることが分かり、それを学問的な言葉に翻訳していく作業は苦痛を伴うものであった。しかし研究の目的にも挙げた「筆者が考える現時点での死生観を言語化すること」の一端は達成できたと考えている。
今後の課題としては、先行研究を根拠にできなかった絶詠について、それを残すことの意味や、短歌の形で死に際を描写することの意味などについて、同時代を生きたほかの作家の死などを参考に考察することがあげられる。さらに武家社会においての慣習であった辞世の句の扱いについても、俳句、短歌の修辞や鑑賞といった視点からその人の死生観や人生観があぶりだせると考えている。
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