第4話 第1章第1節:賢治の生涯
第1章 宮沢賢治の生涯
第1節 賢治の生涯 (3)
宮沢賢治は、1896年8月27日に岩手県稗貫郡花巻町大字里川口(現・花巻市豊沢町)に、父政次郎、母イチの長男として生まれる。家業は質屋・古着商であった。
賢治が2歳の時、妹トシが生まれ、7歳の時に弟清六が生まれる。
1906年、賢治10歳の8月に浄土真宗大谷派の僧侶、暁烏敏の法話を聞く。鉱物採集、植物採集に熱中する。
1909年、県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校¹)に入学し、寄宿舎の自彊寮(じきょうりょう)に入る。1910年14歳で初めて岩手山に登り、それ以来岩手山の魅力に取りつかれ何度も上るようになった。岩手山は作品の中にも数多く登場する重要なモチーフである。
1912年、盛岡仏教夏期講習会で、島地大等の法話を聞く。これが日蓮宗との出会いとなり、代々浄土真宗を信仰していた宮沢家、特に父政次郎との対立のきっかけとなった。
1914年、3月に盛岡中学校を卒業し、4月肥厚性鼻炎のため岩手病院に入院する。島地大等の編纂した「漢訳対照 妙法蓮華経」を読み、激しく感動する。ここから賢治の日蓮宗への傾倒が強まっていく。翌年4月に盛岡高等農林学校農学科第二部(現・岩手大学農学部)に首席入学する。妹トシも東京にある日本女子大学校家政学部予科に入学する。1916年、20歳で特待生に選ばれ、関豊太郎教授の指導で盛岡地方の地質調査を行う。この体験は童話のモチーフに幾たびか登場している。翌年、同級生の保阪嘉内らと同人誌「アザリア」を創刊。短歌を精力的に製作する。
1920年24歳で盛岡高等農林学校研究生を修了する。その後、日蓮宗の僧侶、田中智学の著書を読み、東京にある日蓮宗の組織国柱会に入会。父に改宗を迫るなど、積極的に宗教活動を行った。翌年、上野の国注会本部を訪れ、布教活動や奉仕活動に励む。8月に妹トシ喀血の知らせを受け帰省。12月に稗貫郡立稗貫農学校の教諭に就任。童話「雪渡り」を雑誌に掲載する。
1922年11月27日、妹トシが結核で死亡。この日のことを連作詩群にしたのが、「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」である。翌年、教え子の就職依頼のため青森、北海道、樺太へ旅行する。このとき書かれた詩群が「オホーツク挽歌」と呼ばれるものである。
1924年4月に「「心象スケッチ『春と修羅』」を1000部自費出版し、12月に「イーハトヴ童話集『注文の多い料理店』」1000部を自費出版する。この2冊のみが生前出版された作品集となる。「銀河鉄道の夜」の初版がこのころ書かれる。
1926年、花巻農学校を依願退職し、花巻郊外で独居自炊、畑を耕し農耕生活を始める。「農民芸術概論」を執筆するとともに、羅須地人協会を発足する。農学校退職時の様子は、「告別」の詩に描かれる。1928年、高熱に苦しみ病臥生活が始まる。肺浸潤と診断され、羅須地人協会の活動が中断する。翌年、東北砕石工場の鈴木東蔵が来訪し、のちに東北砕石工場技師となり精力的に活動する。1931年、9月に駿河台の八幡館で発熱病臥し遺言を書く。11月、「雨ニモマケズ」を手帳に記す。翌年、佐々木喜善の訪問を受け、民話について話す。1933年9月20日に急性肺炎を起こし病状が悪化。翌日21日に容体急変し喀血、午後一時半に永眠する。
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(3)資料の項に年譜を付す。宮沢賢治 『宮沢賢治詩集』 角川春樹事務所 1998 pp.247‐251 吉田文憲による年譜を筆者が文章化した。
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