魚と風船

夢を見ていた

第1話

「お前が厭うなら、私は命をも投げ出そう」



∞魚と風船∞




 僕らの町にはよく台風がやって来る。台風は僕らの町を壊すし、僕らの水源を興奮させるている。

 この日も、台風の影響で水の量が増え始めた。人は皆、外へ出ないようにと忠告する。僕だっていつもの他人より賢い僕なら、わざわざ家の扉を開けるはずがなかった。

 今回は、違った。

 僕の妹が、先に家から出ていたからだ。

 金魚すくいで手に入れた魚を飼いたくて、母に頼んだが怒られてしまったのだと言う。だから仕方なく、密かに川へと逃がしたんだそうだ。この手の話はよくある。しかし金魚を川に逃がしていいのか微妙なところだ。

 ――きっと母が怒鳴っていた時、僕は勉強していて聞こえなかったんだろう。妹はばかだ。頭もその行動も、すべて無駄なんだ。今に後悔するぞ、この時期に勉強して他と差をつけないと、立派な仕事に就けないのに。

「わたしが行ってあげないと、魚さんが死んじゃうわ」

 妹は子供らしくない、悲痛な表情を浮かべた。

 勿論僕は止めた。魚なんかの為に危ない目に遭いにに行くのか? 正気事じゃない。魚はどうせ水の中で楽しく過ごしているよ、心配しなくても。だから、お前はも勉強して、賢くなって、既に作られてしまっている皆との大きい溝を、少しでも埋められるように頑張ったらどうだ。

 今にも飛び出しそうな妹をこの場に留める為に必死に舌を動かした。ここで引き止めなければ、僕までとばっちりを食らってしまう。全くなんておろかな妹だろう。だから母にも嫌われるし、父にも無視されるんだ。同じイデンシをもっていると思えない。漢字は、出でんし? ん? ……違う、遺伝子だ。

「もし、大丈夫じゃなかったら?」

 まだ疑いの眼差しを向けてくる妹に、僕はそんなこともわからないのか、と口を大きく広げて言ってやった。

「その時は、その魚の運命だったのさ。僕らの関係ない話だ」

 お兄ちゃん、と呆然としたようすの妹が呟いた。

「関係がないと、放っておくの……?」

「そうだよ、何がおかしいんだ」

「じゃあわたしも、お母さんに怒られる理由に関係なかったら、見捨ててしまうの?」

そうだよ、と適当に頷いてしまってから、後悔する。失敗した。

 妹は涙を目に溜め始めて、背伸びして――精一杯の見栄だろうか――、僕に言い捨てた。

「お兄ちゃんは勉強しすぎて頭がおかしいんだわ。頭が賢いのが家族より大事なんでしょ」

「お、おい……!」

「さようなら!」

 妹は家から出ていった。開かれたままの扉から、豪雨が見受けられた。

 少し迷って、僕も外へ出た。妹が何もかも悪い。だけど、さっきの僕の返答は模範回答から程遠い。



「おい! どこに行ったんだよ、帰って来い!」

 増水した川を下って、森の奥へと突き進む。妹が言っていた川はきっとここのことだろう。家から最も近い黄龍川。この場所ならば、妹の足でもたどり着くことが出来る距離だ。

「必ずここにいる」

 僕は確信していた。雨で彼女の足跡は探せなかったが、二人で一度、しつこくお願いされて遊びに行ったことがあったはずだ。

「頼む、早く出てきてくれ……」

 次第に雨あしが強まってきた。川の近くにいては危ない。服は水を吸って重い。地面は泥になって、僕の足に絡み付く。

「早く、帰って来い!」

 その時何かの塊が、顔面に直撃した。反射的にそれに触れると、水の集まりのように感じられた。ひどく冷たい。まさに自然の水。 そんなことを思っていると次々と塊にぶつかられ、体の温度が下がっていく。 口元にある塊のせいで呼吸ができない。酸素不足により、みるみる気が遠のいていく。ああ、ああ……。

「おお。お前、あいつの兄者なのか」

 そんな声が遠くで聞こえたと思うと、一瞬の内に川の近くまで思い切り体を押された。 感覚によるとこれもまた水のようで、否応なしに強い衝撃を受けることになった。

「うおっ!」

「ふふ、そう驚いてくれるな」

 気づいた時には、川の真ん中で泳いでいる巨大な魚が存在した。銀色の鱗に、淡い青の瞳。きらめく体は通常の魚よりも何百倍大きく、川から上半身がはみ出していた。口元が空気中にあるので、呼吸が出来るのか不思議だったが、よく考えれば魚類はエラ呼吸だった。

「美でも感じて喋れないか、兄者? 私とお前は二度めましてなんだがなあ?」

「兄……?」

 僕がしばらくの間ずっと何も言えずにいると、急に巨大な魚は尾びれで水中を叩きつけた。水滴が飛び散り、僕に尖ったガラスのように当たってきた。

 恐る恐る様子を伺うと、それに対しても腹が立ったのか、つまらん! と地と水を大いに震わせて叫んだ。

「お前はあいつと違って全くつまらん! お前には口があるだろう? 俺と会話しろ! ひとりごともいいとこだ!」

 魚が暴れる度に、泥が混じったものが顔にぶつけられる。

 雨――今気づけば、大分弱まっていた――のせいで川はかなり増量しているので、魚が少しでも動くと、水がこちらに流れてくるのだ。

「あ、あいつって誰?」

 それを少しでも止めてほしくて言葉を紡ぐが、逆効果だった。

 魚は狂ったように暴れ始めた。

「この人間は微妙だ! お前、あいつを呼んでこい!私は待っているから、早くしろ!」

「だ、だからあいつって……」

「どうせ今の時間、家で大人しくさせられているだろう! あいつだあいつ! お前の妹だよ」

「妹……?」

 出てきた単語にまたもや口が開けなくなると、魚は深いため息を吐いた。

「お前はいつだって勉強を溺愛していたから、あいつと向き合って話したことがないのだろう? あいつがどんな人間か知っていないだろ? ……あいつが、転んだ子供を見て自分も転び、自分も同じだからいたくないだろうと励まそうとしたのに、そいつに嘲笑われたのは知っているか? 友達が泣いたら、一切慰めもせずに気が済むまで――それもあいつも一緒になって――涙を流すのは? 家族が笑ったら、自分が一番に楽しそうに笑うのは? どうだ、何も知らないだろう。なあ、兄者。これらは全て一度は、お前の目前で話されたことなんだよ」

 金魚の俺にも、あいつは話してくれたけれどな。そう呟いて、こちらを澄んだ瞳で見つめてきた。僕は驚いたまま、なんとか言葉を発した。

「一緒に……転ぶなんて」

 今回の発言は好ましかったようだ。魚は目を細めて話しかけてくる。

「ばからしいだろう? 『常識的』には、そこは子供をただ慰めるだけだろう? でもまあ、あいつは違うんだろうなあ。同じ目線に合わせて物事を見ようと、するんだろうなあ」

 魚は少し笑った。

「私もばかだと思う。それでも、なんとなく、あいつが正しくて、優しくて、利口な気がしてしまうんだ」「利口……?」

「おかしいよなあ。お前からしたら、妹は愚かに映るんだろうが、私には、あいつがばかみたいに勉強しているお前より、よほど賢く思える」

 言い終わるか否かの時に、魚は驚愕の声を上げた。そして、大きな眼球をぎょろりとこちらへ向けた。

「お前、なぜあいつがここに居ることを言わなかった」

 低く、恐怖を感じさせる声が鼓膜を震わせた。彼の怒りと同調して、雷鳴が轟いた。

 僕は反射的に尻もちをついていた。 気づけば勝手に舌が動いていた。体は一切動かないのに、だ。

「あなたを心配して、家から出ていきました。だ、だから僕は追いかけて……ここ、へ」

「兄者ならそれくらい止めてみせろッ!」

 神鳴りが近くの木に落ちた。しかし、すぐに水の塊が消火するので、燃え広がることはなかった。

「らしいと言えばらしいが……。なぜあんな危険な場所に……、わざわざ一週間も前から教えてやったのに……。愚かな」

 ひとりごちて、彼はどこへか行こうとした。進み出した体を僕は叫んで引き留めた。こんなにも大声を出すのは初めてで、途中何度も裏返った。気にせず、わめいた。

「僕も連れていって下さい!」

「五月蝿い! 家族を捨てたくせに!」

「まままた拾いたいって、言ったら、そ、それもまた愚かですか!?」

 両手に震える拳。体が歯向かうのを止めろと言う。 死ぬかもしれない。そう思った時には、既に水の中で、彼の背の上だった。

「あいつは愚かにも愛しいが、兄者のお前は愚かで微妙だ」

「げほっ」

 噎せていると、彼はこちらを振り向いてきた。

「妹の名を」

「え?」

「あいつの名を呼んでやれ。寂しがっていたから」

 僕は気づけば息を吸って、妹の名前を呼んでいた。 その名前は、僕の舌に馴染まず、空気中に消えていった。

「玲!」


「なら、わたしは何もかもを愛するわ」



∞魚と風船2∞



川をかき分けて行く彼に、名を尋ねたら拒ばまれた。

「親しくなってからだな。……まあ、金魚とでも呼べ」

「あの」

ずっと思ってたんですけど、そう切り出した瞬間、跳ねた水滴が口の中に入った。

「なんだ」

真っ直ぐ川を突き進む彼の背を見て、尋ねた。

「金魚って、こんなに大きくなりますか」

「ならん!」

けたけたと笑い出した彼は、わざわざ振り返って僕と視線を合わせる。少し速度が落ちた。

「お前の妹が望んだから、金魚でいるだけだよ」

「妹。……ということは玲が?」

再び彼は前を向いて、僕が振り落とされない程度に泳ぎ出した。そして、過去の出来事を語ってくれた。 雨粒はしとしと、と彼と僕の体をつついた。



∞∞∞


「お嬢ちゃん、やるねえ」

「ありがと!」

とある日の祭りに、おかっぱの子供が、金魚すくいに挑戦していた。隣にいる他人の小さい子供たちが、たくさんの金魚が泳ぐ水槽を、ぎゅっと背伸びして眺めた。そして大声で、掬い人を応援していた。

数少ないこづかいをはたいても、たった一度しか出来ない金魚すくいに興奮した様子の彼女は、既に十ほどの金魚を手に入れていた。赤や黒、斑模様、宝石のような金魚に、皆が釘付けであった。

「あっ」

まくが破れ、もう掬えなくなった所で、小さな子供が待ってましたと騒ぎ始めた。

「お姉ちゃん、いっぱい取れたでしょ? なんこか、ちょうだいよ!」

「いいよ」

「あのこだけずるいや! お姉ちゃん、ぼくもちょうだい」

「もちろん」

断らずに返事をしていた彼女が気づけば、もう自分の金魚はいなくなっていた。

「……ああ」

彼女は泣き出した。ずっと金魚が欲しくて、楽しみにしていたのに、応援していた子供らは、自分の利益だけのために金魚を得て、そそくさとその場を立ち去ったのだ。

「お嬢ちゃん泣いちゃだめだろう? お嬢ちゃんが返事したんだから。嫌なら嫌って言わなきゃ駄目だろう?」

「ううん、やじゃないの。皆で嬉しいのわけたかったから。ただね、玲もね、その皆の中にいたかったの」 そう言って、地面に座り込んで泣き出した彼女。私は掬った金魚を入れる入れ物へ、すい、と入ってやった。他の金魚が私に連れられて入るのを止めさせてから、尾びれで水面を叩いた。

「おや、嬢ちゃん! 見てごらん」

ようやく気づいた男から彼女に、私は手渡されたのだ。私は本来金魚ではない。が、かわいそうな彼女のために、私は金魚になってやったのだ。




「じゃあ……あなたは何ものなんですか」

「竜の子だ」

「え、竜?」

「ああ」

だから、水の動きを察知出来たり、雫――さっき顔にぶつけた水の塊――を使って、人の記憶を映して見たりすることが出来る。

そう言った竜は、少し跳ねてみせた。

「まあまだ、進化途中だから、水を操ることが出来ないんだが」

「……じゃ、じゃあ妹の居場所も、その雫とかいうやつで探しているの?」

「そうだ。いつも見回りをさせているんだ。竜は魚の頂点だ。私はまだ魚の姿だが、魚たちを使うことも後々出来るようになる」

「す、すごい」

最もすごいのは、お前の妹だよ、と魚はささやいた。

「私に気に入られるなんてね。今まで竜が一人の人間をここまで好むことなんて、有り得なかったのだから」



僕はまた、妹の名を呼んだ。彼の言い分が、まだ信じられなかったからだ。妹は、そんなにすごくない。僕の方がずっと――。




お兄ちゃんは、わたしと話さないのよ。

わたしが言うと、環は大笑いした。環は彼の名前で、わたしがつけてあげた。 彼はなぜかことばが話せて、わたしより、ずっと賢かった。

金魚だった彼を川に放してから、毎日そこへ通った。彼はわたしをきちんと覚えてくれて、すぐに会いに来てくれた。

手作りのおにぎりをあげると、すごく喜んでくれた。だから、あんなにも大きく育ったんだ、とわたしは決めつけている。

母さんも父さんも、お兄ちゃんが好きだ。大好きだ。わたしはいつも、お兄ちゃんのようになりなさいと言われる。当然よね、よいお手本なんだもの。

でもお兄ちゃんは勉強が大好きだった。いつも机と向き合っている姿は、そのままひとつの形でくっついているみたいで。その位、机から離れるお兄ちゃんを見なかった。

母さんと父さんに好かれたいわたしは、お兄ちゃんに好きになってもらうようにしている。そうすれば、お兄ちゃんが好きな皆は、わたしも好きになってくれるでしょう?


環はわたしが家族の話をすると、いつも笑い出す。こっけい、で可笑しいんだって。

笑われる度にわたしが膨れると、子供をあやすようにそっと目を細める。その表情に、わたしは深い愛みたいなのを感じて、それがすごい嬉しかった。だって、そんな目、向けられたことなんて大きくなってからはなかったもの。

だから、辛いことがあると、彼の前で色々な話をする。彼は優しく、わたしを受け入れてくれる。わたしの、周りの人間と違って。

「わたしね、環と一緒の家族になりたかったなあ」

そしたら、いつだって愛を感じられるのに。

「なれるぞ?」

簡単に言ってのけた彼に、わたしは飛び付いた。

「……本当に?!」

「お前が竜になるか、わたしが人間になるかしたら、形式的には家族になれる」「――お兄ちゃんみたいに話さないで。もっとわかりやすく言ってよう」

「結婚すればいい」

「でもそれって、好き同士じゃないといけないよ」

「そうだな」

「わたし、静くんが好きなんだよ? 前に言ったよ……、ね?」

「ああ」

「それでも?」

「ああ、うん」

 わたしは何て答えようか迷って、ぼそりと呟いた。

「……さ、さんかくかんけいだよ」

「ああ。さんかくだな」

わたしはふと、思い出した。

「環は、わたしを含めて人間みーんな好きで、ただ、その中のわたしがたまたま一番に近いんでしょう?」

「ああ」

「じゃあ、二番目に好きな人がわたしと同じこと言ったら?」

「同じことを言うだろうなあ」

「……! さ、三番目は?」

「言うだろうなあ」

「四番は!」

「だろうなあ」

「何番目まで言うの!」

「三十番くらいまでなら」

「なんてひどい……。さ、最悪、最悪だわ……。あ、あんたなんか、油つけて焼いて食べてやるんだから!」

「ははっ、私を殺せるか? まあせいぜい上手に焼けよ、私はうまいから」

あとは知っているひどい言葉を並べて家に帰った。


その次の日、教えてくれた大きな台風がやって来た。




(こんなのひどいわ)

わたしは川を辿って必死に彼を探した。いつもならわたしがここへ入れば気づいてくれるのに、今日に限って見つからない。

(まさか)

不安と雨を吸った服だけが膨らんでいく。期待や希望が徐々に押し潰されていく。こわい、いやだ、あなたがいなくなるなんて。

わたしは涙ながらに走り、叫んだ。喉が痛い。気づいて。彼は生きている。わたしと会わないのは、誰かとおしゃべりして、気がそっちに向いているからだ。きっと、きっと……そんな日もあるだろう。自分にかけた言葉は、こんなにも非力だ。

「生きていて」

ただそれだけを願って走った。雨に体温を奪われ、不安か寒さで震える体を抱き締めて走った。

「あなたなんか食べてもおいしくないわ、生きている方がずっと素敵よ」

だから、生きていて。

もう一度名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、疲れた両足がぬかるんだ地面にとられて、そのまま川へ落ちた。





「嘘だろ――」

急に竜がスピードを上げた。落ちかけた僕は必死に彼にしがみついた。両足が既に宙で遊んでいる。ここで落ちれば溺れてしまうのは明らかだった。

何がどうしたのかを訊きたくとも、風やら雨やらで顔が痛く、舌を噛みそうなくらい上下左右に激しく波を立たせている。何度か顎が背に当たり、意識が遠のく。両手の感覚はもう、とうの昔に消えてしまっている。

そんな中、彼の口からこんな単語が聞き取れた。

「あいつ――に落ちた――もっと――気づいて――」

落ちた?

もしや、この冷たい川に?

「うそ……」

舌を噛んでしまい、生理的な涙が浮かんだ。


「だから」


∞魚と風船3∞



竜の子は狂ったように進んでいく。僕はただ必死に、しがみついているだけであったが、うねりながら妹の元へ向かう姿は、自分の体がその速さに追い付けず、傷ついていく姿は、どこか滑稽だった。なんでそんなに必死なんだよ。おかしい。竜のくせに。必死すぎて。

「おかしいか」

僕の感情を読み取った彼は自嘲気味に呟いた。その声はひどく遠くで響いていたように感じられた。

「おかしいなあ、私が人を助けるなんてなあ」

何故か、泣いているように感じて、何故か僕まで悲しくなった。単純すぎるだろうと一喝すると、さらにむなしくなった。妹なら、一緒に泣くんだろ?

でも僕は泣かないし、それが普通、そう、一般的だ。

その代わり頭はいいし、皆から好かれている。なのに。

「僕の方が」

すぐれているのに。

「嫉妬か」

すぐさま言葉が押し入る。うるさい、黙れ。僕があんなやつに――。

そう思った時に、時間が止まった気がした。竜の声が妙に、はっきり、と耳に届いた。

「嫉妬とは、醜いよなあ」 やはり、彼の声は泣いていた。

「こんな竜でも、人に嫉妬するといえば、なあ、おかしいか? お前らみたいな家族に、憧れるなんて。やはり、私の気は狂ったのだろうか?」

そこまで言い終えて、彼は少し嘲笑った。

「そう、だから、私はつまらないことをあいつに話した。なあ兄者、あいつが忘れずにいたら、伝えてくれないか、あれは冗談だったと」


一瞬だけ、雨足が弱まり視界が開けた。その瞬間を見逃さなかった。

玲の体が空中に投げ出されていた。滝から落下する途中だった。気を失っているのかまではわからない。

ましてや生きているのかなんてわかるはずなかった。

「玲ッ!」

頼むから、死なないでくれと願ったのは、僕だけではなかったようだ。

体ががくんと揺れた。正しくは、彼の体がさらに勢いをつけて、滝を登り始めたのだ。それも、この国で一番大きく長い滝を。

まさに登竜門だ。――まあ、その本来の意味や由来からはかけ離れてしまっているが。

本来は鯉が竜になりたくて滝を登り、望みを叶える話だ。だから、竜の子が、立身出世という本来の目的のためではなく、一人の子供のために、自ら危険に飛び込むのは、何だか違う。 おかしいか、そう尋ねた彼の声色は少し震えていた。妹なら、彼の望む答えを返すんだろうきっと。

「玲、頼む」

彼のために、生きていてくれ。

僕は両手を広げた。両足は小刻みに揺れ動きながらも、しっかりと自身を支えてくれている。彼の荒い呼吸が聞こえる。妹が落下してくる。

「玲」

彼女を抱き留めた瞬間、ゆっくりと流れていた時間が耳元で過ぎていった。体重がすべてこちらに乗り掛かる。重力を受けて、体が仰け反り、魚の背から離れて浮遊する。

「玲」

これは僕の声ではなかった。

びゅん、と風を切る音が背後で鳴った。背中に強い衝撃が当たって呼吸が出来ない。でも、その何かが自分を支え、そして体に巻きついてくるのがわかった。 ――尻尾だ。僕はぼんやりとそれを眺めた。尻尾、というより尾びれ、かもしれない。

「よくやった兄者、誇れ」 彼の誉め言葉を最後に意識が飛んだ。





地面に置かれた時に、意識を取り戻した。

は、と見上げるとそこには銀色の竜が、美しい鱗を輝かせてこちらを覗いていた。形はずいぶんと細くなり、顔はすっと長くなった。絵によく描かれるような立派な、竜。

見惚れていると、問われた。

「水、飲んでないか」

すぐに返事をする。

「え、ああ、うん」

と。

「お前じゃない」

切って捨てるような言葉に何となく落胆しながらも、急いで妹と向き合う。そして丸い小さな瞳と視線がぶつかった。

「おはようお兄ちゃん」

「れ、玲」

「え? お名前? 呼んでくれたの!」

はしゃぐ妹をあしらいながら、彼に視線を移す。

「ありがとう」

そう言って丁寧に頭を下げると笑われた。

「心変わりの早いことで」 一気に顔が熱くなった。確かに、そうだが、意地が悪い。僕が俯くと、竜は今度は妹に話しかけた。

「怪我は」

「ないよ」

「そうか」

「あと、ありがと」

彼はどうして、と訊いた。どうしてって助けてくれたからに決まっているだろうと言いかけて、彼女の言葉に驚く。

「生きていてくれて」

そうだった、彼女は竜が死ぬかもと家を出てきたのだ。

微笑む妹に、竜は少し困った様子だった。

「お前はずれている」

口を開こうとした妹から視線を外して空を見る。

「このままでは、人が死ぬかもしれない」

「えっ」

この声に一番反応を示したのは、やはり彼女だった。水に浸かり、体温が低くなっているだろう彼女の顔が、先程よりもずっと青くなっていく。

「れ――」

「お前は『死』に敏感すぎる」

彼は妹にぐいっと整った顔を近づけて続けた。

「そんなに別れが嫌か、お前もいつかは永遠の別れを告げるのに」

「そんなこと言わないで……!」

「玲、死は自然なことだよ、拒んではいけない。本来ならば涙することもいけないことなんだ」

優しい口調なのにも関わらず、彼女の目には涙が止めどなく溢れた。

最初、彼女は泣くまいと涙を溜めていたのだがすぐに、どば、と決壊してしまった。それからはずっと泣きっぱなしだ。声を上げて幼子のように泣いている。「自分の死や他人の死を恐れて涙している場合じゃないぞ、玲、お前はどうしたいんだ。このままでは、人が無残に死にゆくぞ」

「や、だよう……!」

しゃっくりをあげながら、彼女は叫んだ。その様子を僕は少し見下した態度で見つめてしまったが、彼はまるで心底愛おしいものを見るかのように、温かい眼差しを向けていた。

「さあ、どうする?」

私は、

「お前が望むことならば必ずそれを実現してやるし、お前が厭うことならば、この世から消してくれる。――なあ、お前の為ならば俺は、俺の命でさえもくれてやるぞ?」

その囁きに、彼女は一層激しくむせび泣いた。眉をひそめて、声を上げた。

竜はその大きな瞳を細めてから、ゆっくりと空へ向けて飛ぼうとした。

その姿をぼやける視界の中でも捉えた彼女は必死に引き留めた。

「じゃあわたしは何もいらない」

汚い顔をして、そう言った。僕が表情を歪ませていると、丁度彼女がこちらを一瞥してきて、その顔を見られた。僕が弁解しようとすると、彼女は首を振って呟いた。

「お兄ちゃんもね、やっぱりわたしが嫌いなんだわ。他の人もね、わたしが変だから距離を置くの。ね、わたしはすべてを受け入れて愛するから、だから、だからあなたは行かないで」

「ばかか、『死』や『別れ』を拒むやつがそう簡単に受け入れられるか」

「うう……いかないで」

膝をついた彼女を振り向かず、竜は真っ直ぐ空を仰いだ。何を覚悟したみたいだった。

「じゃあ他の命が消えるのは? 嫌なんだろ?

「いやあ……」

「じゃあその為に俺はあのばかでかい、ぶ厚い雲を突き破ってくる」

自分のいるとある範囲で雨量を減らすことは可能でも、それ以外の場所までは力が及ばない。だから直接雲の下へ行かなければならない、と彼は説明した。

そんな説明には一切耳を貸さず妹は涙し続けた。

「いなくなっちゃうの、ここから」

竜は何も答えなかった。

僕にはなんとなく、彼がこの世からいなくなるような、そんな気がしていた。そして彼の覚悟が一切揺らいでいないこともわかっていた。何より彼女の為に死ぬのを誇っているようにも思えた。

だから、彼には早く行かせてあげたかったし、妹を納得させないといけないと思った。

僕は手探りに、泥のついた服をいじった。すると中にゴム風船が入っていた。 昔、大道芸人から貰ったお守りの赤の風船。ずっと持ち歩いているものだ。川の水に持っていかれてなかった。

僕は少し迷いつつも、彼らに提案した。

この風船を彼の体に結びつけて空へ飛んでもらい、こちらはそれを目印にして、探し出し、再会するというものだ。

もちろん、雲への突入時に風船が割れる可能性は高いし、こちらが目印にしたってうまく探せるはずがない。朝三暮四の応用的な話だ。ただ、赤い風船に意識を持っていかせるだけの適当な話。

だけれど彼女は頷いた。涙で赤い瞳で。――僕を愚かな程信頼しているのが伝わった。

風船は僕ら人間の息では膨らむだけだが、竜の息であったら、器用に浮かんだ。

それを適当に確認してから竜は頭を下げて空へと飛んだ。

結果見事なまでに雲は晴れた。そして風船も割れなかった。


ただ、彼は二度と姿を現さなかった。




「大道芸人さん」

僕が呼ぶと彼女はこちらを見上げた。

「売り上げはどう?」

「普通」

「久しぶりにこっちに来たんだから、僕の家においでよ」

「……うん」

あれから少し時間が流れた。

僕は良いところの会社に勤め、綺麗な奥さんを貰い、子を授かり、比較的幸せに生きている。

しかし彼女はと言うと、親に無理やり婚約させられたのをきっかけに家出し、大道芸人となり、場所を転々としている。

あの雨の日を今でもはっきり思い出せる。あの後、僕らは両親に大目玉を食らい、二人して風邪で寝込んだ。

今回のことで僕は勿論良い意味で変わったが、彼女は真逆だった。

彼女は笑わなくなった。喋ることもなくなった。誰かと付き合って喜怒哀楽、といった様々な表情を見せなくなってしまっていた。「わたしは確かに誰かが死ぬのは嫌だったけど、今は少し後悔してる」

僕だけにこぼした言葉は、もう一つあった。

「わたし、竜になりたい。最初から彼だけだったのよ」


後者の言葉は再会してすぐにまた、発せられた。

「わたし竜になりたいの、彼は竜になったらわたしと家族になってくれるのよ」 彼が言った『冗談』がこれなのだと思い、また説得しようと試みるが、彼女には無駄だった。

「あの目は嘘を言ってる目じゃなかった」

相も変わらずその一言に尽きた。そして空を仰いだ。彼女は今もまだあの赤い風船を探している。

自宅に一度帰宅し、家族に挨拶させてから、ベランダで彼女と一緒に空を眺めた。日が落ちて、段々赤く染まっていった。これだと風船がわからないなと言おうとして、彼女が膨らませた赤い風船と目が合った。

それは彼女が手を放すと独りでに空へとのぼっていった。それに何も言えないでいると、彼女は急に部屋の中へ戻った。不思議に思っていると彼女はそっけなく言い捨てた。

「雨、あと十三秒後に降るよ」

彼女の言い分は正しかった。きっちり十三秒に、雨がきつく降りだした。

「お前……、もう立派に竜なんじゃ……」

「そう? ――妹が竜ってどう思う?」

「嫌だけど、幸せならそれもあり、……かな」

「――ありがと兄さん。そうそう聞いて兄さん、わたしまだ魚食べれないのよ。だってもし彼だったらと思うと恐くてたまらないの」

急に、ぼと、と何かがベランダに落ちた音がした。


僕が何なのかを確認する前に彼女は雨の中に飛び出していた。

「ああ、やっぱりあなたじゃなきゃ駄目だったの! 今度は連れて行ってね、じゃなきゃ嫌よ、ね、お願い」

彼女は彼を抱き締めた。僕も思わず駆け寄って、二つを抱き締めた。

足元には二つの穴が開いた、赤い風船が寄り添うように転がっていた。





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