科学者の娘
夢を見ていた
第1話
科学者の娘だった私は今日、父を亡くした。当時の私は五歳になったばかりだった。父は昔から体が弱かった。その分頭がよく、偉大な科学者として皆から尊敬されていたらしいけれど、五歳の私にはそれがすごいことなのか全く検討もつかなかった。私は父の賢さを貰ってないのかもしれないな。今思っても。
父は優しい人だった。そしてやはり、賢い人だった。自分の死期を知ってから、父は自分の体を省みず、実験に明け暮れることとなる。
私に母はいない。母は私を生んだ時に亡くした。父が私を育ててくれた。私には、父がすべてだった。父が大変なのは何となく感覚的に理解できても、何故父が私に時間を割いてくれなくなったのかがわからなかった。喚いたこともあった。がむしゃらに詰ったこともあった。でも父は黙っていた。私は別に父を困らせたかったわけではない。そしてこれはどうしようのないことだが、私は決して独りになりたかったわけでもないのだ。
父の唯一の血縁である叔母は涙を流して私に言った。
「兄さんの好きにさせてあげて」
当時の私は父の『叔母さんの言うことを聞きなさい』という言葉を律儀に守り、叔母の言い分に従った。――今では少し、後悔している。
しばらくして、父は息を引き取った。呆気ないといえばそうとしか言えないが、その時の父の表情はとても穏やかで、その目は私への愛情で満ちていたと思う。
涙に暮れる私の手を取って、父は優しい顔をした。それは私に大事なことを伝えるときのものだった。私は泣くのを止めた。
「お前は母もいない。父もじきにいなくなる。妹が面倒をみてくれるはずだ。話は通してあるから心配するな。――この目でお前の成長を見届けたかった。でも今は、そんなこと叶いもしない夢だってわかってる。だからな、代わりを作ったんだ。五日後、郵便屋さんが来るよ。お前の名前宛にしたから、きちんと受け取っておくれ。誕生日おめでとう」
それから、五日後に本当に郵便配達の人がやってきた。お届けものです。その人が持ってきたものは、当時の私の体と同じくらいの大きさの箱だった。私と叔母はすぐにそれを開けた。中には箱いっぱいに仕舞われたモニターと、マイクのついたヘッドホンだった。私はすぐにそれらを装着し、スイッチを入れた。モニターに灯がついた。浮かび上がってきたのは、紛れもない私の父だった。
当時の私は恥ずかしながら、父が帰ってきたのだと思った。お父さん。息をしない目を閉じたままの父を、五日前に見たというのに。
そして父は、そんな私の心を鋭く見抜いたかのように第一声。
「これが届いたということは、私はもう死んでしまったということだね」
ええそうですとも。娘を置いて死んでいきましたとも。当時の私は泣いた。声は殺した。モニターの向こうの死んだ父が私に話しかけてくるからだ。
「これは私の悲願を達成するためのものだよ」
父は説明した。
「私はお前とともに成長し続けるプログラムを作った。ここには私の人格がうみ込まれており、お前が何かを話せばそれに対し、私がするであろう言葉、態度、仕草を再現してみせる。――妹には悪いが時間が足りず、娘の分しかできなかった。だから妹、お前の声にこのプログラムが対応することはできないよ。まあ、お前には何も心配はないが。迷惑をかけてすまないな」
ヘッドホンに耳をべったりとくっつけながら泣く叔母は、黙ったまま唇を噛んでいた。
「お前が話したい時にこれに話しかければいい。私はここにある。お前の成長を見届けたくて作ったのだ。最期にちゃんと向き合ってやれなくてすまなかったな」
父はそうして黙ってしまった。私はヘッドホンを外して叔母と向き合った。
「父さん、死んだけど生きてたね」
強がりだと、瞬時にバレてしまった。
それから。朝から晩まで私はヘッドホンをつけて過ごしていた。モニターの中の父はいつだってちゃんと返事をしてくれた。「おはよう」「おやすみ」「元気か」「ちゃんとご飯食ってるか」
短い言葉でも、それが父からの言葉だとわかるから、私はその度に嬉しくて泣いた。五歳の時から『嬉し泣き』というものを知っていたのだ。成長してから悲しい時の涙を知って混乱するのもまあ無理はないだろう。
私は父に今日の出来事を逐一話して聞かせた。どれもまさしく父の言葉で、五年しか父とは生活できなかったが、どれもこれも父の言いそうな言葉で、私は感覚的にわかったのだ。親子ってそんなもの。
でも、何だか本当に父を再現できてるのかなって思った時があった。叔母さんはたまに父の声を聴くためにヘッドホンに近づく。私はそれを狙ってわざとこんなことを尋ねてみた。
「父さんのちっちゃい頃ってどんなだった?」
父はやや照れながらも話し出した。叔母はすっかり涙ぐんで頷いていた。私はその横顔を見て、これは本当に父なんだ、父じゃないけど父なんだと思った。話し終えた父を見つめ、叔母は立ち上がった。叔母は父の死から立ち直ろうとした人だった。私みたいにすがったりしなかった。そんな叔母が去り際ぽつりと、
「やっぱり兄さんは天才だわ」
と呟いたのが印象に残っている。
小学生になり、父との会話の時間が激減した。あんまりストレスが溜まったので、よくズル休みをした。一度だけ、叔母がこのモニターを取り上げようとしたことがあった。その時の私はもう、薬物依存者みたいだったと叔母は後に語った。その必死な顔に恐怖に似た感情を抱いたそうだ。今思うと複雑だが、それほどまでに私にとって父の存在は大きかったのだ。
小学生。学校をズル休みしているというだけで、簡単に仲間外れの原因と化してしまう。私は平気だった。学校を休む格好の理由になるじゃないか。私はついぽろりと父の前でこぼしてしまった。
するとどうしただろう。父はみるみる鬼の形相になって、私の鼓膜を盛大に震わせた。
「一体何をしているんだ!」
私は恐れた。こんな父は初めてだった。私はこの時初めて父に叱られたのだ。私は恐ろしさゆえに震えた。ヘッドホンを投げ捨てた。声は小さくなった。なのにその言葉はちゃんと耳が拾って再生するのだ。「そんな子に成長するのが見たくてこれを作ったんじゃない。友達を作りなさい。私は体が弱くてずっと学校に通えなかった。私の分まで学校を楽しみなさい」
私は部屋を飛び出し、叔母にしがみついた。怖かった。ただただ怖かった。
「私学校にいくよ」
怒られたことよりも、あの優しい笑顔を見れないことが、何より辛かったのだ。
私はなんとか友達を作り、流行りの言葉を身につけ、学校生活をそれなりに楽しんでいた。
「『ミッキリィ』って知ってる? 父さん」
私は言う。
「有名な俳優さんなんだよ。格好いいの。私嫌いじゃないなあ」
「そうか」
話はそれきりだった。だがちょうど中学生になってしばらくしてから、ようやく父の言った『成長』の意味を知った。
ある日のことだ。私が好きな俳優が有名な女優と結婚したことを知った私は、たまらず父に不平を漏らした。
「ないよ父さん、絶対似合わない! あんな女優どうかと思うけどなあ! 父さん、『ミッキリィ』のこと、どう思う?」
父は答えた。
「ミッキリィか、たしかお前の好きな俳優だったな、結婚したのか。おめでたいな」
「あ」
覚えてるんだ、ちゃんと。当時の私は思った。生きてるじゃん、ちゃんと。本当は父さん、生きてるんじゃないのって、本当は私に隠して生きてるんじゃないのって、言った瞬間後悔した。
「父さんはもうこの世にはいないよ」
お前を独りにさせないためにここに『ある』んだよ。
「なんだ」
なんだなんだなんだ。
「勘違いしちゃったよ父さん。私ってバカだなあ!」
父さんは黙った。ちょっと。
「何か言ってよ」
言えよ。
「死んだ父さんを生きてるってバカみたいに勘違いした娘を、嗤えよ!」
父は何も言わなかった。それが答えだと、中学生の私はさすがにわかった。
高校生になって、初恋をした。実は、恋の話は叔母にしかしなかった。父には何だか照れくさかったからだ。
でも、初めて失恋した時は、何だか慰めてもらいたいような、でも知られたくないような複雑な気持ちのままスイッチを入れた。
「こんばんは」
私は言った。父はいつも挨拶を返してくれる。なのに今日は違った。
「どうかしたのか」
「え」
「声が沈んでるぞ」
へえ、機械なのにそこまでわかるんだと私は吐き捨ててから、私は大声で泣いた。私の強がりは、瞬殺されてばっかだなあ。泣いた。私フラれちゃったんだよ。泣いた。
父さん、なんでわかったの。
「父さんだからさ」
「……かっこつけちゃってさ!」
でもその言葉が、何より有難かった。
大人になるにつれ、父との会話が減った。大人になると大変だった。時間が少ないのだ。泣く時間さえない。私は泣きたかった。父の前で甘えたかった。でも泣きたくもなかった。父の前でこんな泣き虫に成長しましたよなんて報告したくなかった。二律背反。だから代わりに、そんな時に出会った彼に甘え、泣かせてもらった。
そして。私はその彼と結婚することになった。
久しぶりにスイッチを入れ、私は笑った。私の姿は見えなくとも、私が今の姿を見せたかったのだ。白の純白ドレス。私は笑った。
「父さん」
父さん、父さん。
「私、結婚します。もう」
独りじゃないよ。
「ありがとう父さん。これからも――」
すると父さんも笑った。優しい顔だった。例の顔だ。私は静かに父の言葉を待つ。
「もう大丈夫だね」
父は言う。
「立派に育ってくれて、父さんは嬉しいよ」
父は言う。
「自慢の娘だ」
父は泣いた。
「ありがとう」
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
ありがとう、私の可愛い娘。生まれてきてくれてありがとう。立派に育ってくれてありがとう。
「もう何一つ、心配事はないよ」
――父さん。
「じゃあ、お別れだな」
待ってよ父さん。
「愛しているよ」
「っ、待ってよ父さん!! 私も、私も大好きだよ、行かないでよ、ずっと一緒にいてよ、寂しいよ、ねえ!!」
ねえ。ねえ、ねえ、ねえってば!
それから、どれほどスイッチを入れてもその機械が動くことは二度となかった。
五歳になる娘が、部屋にあるモニターを指差し、尋ねてきた。
「あれはなあに?」
「あれはね」
――ママの、もうひとりのお父さん。大事な人。
お父さん。
私、ちゃんと幸せでした。
……また、会える日を、楽しみにしています。
了
科学者の娘 夢を見ていた @orangebbk
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