ラフレシア
夢を見ていた
第1話
∞
きれいじゃない花はない。
それは一般的な見解ですけれど、きれいの基準は人によって違います。
例えば、花をもって告白された人間は、何かの花を見るとその時のことを思い出して頬を赤らめるでしょうし、逆に花に悪い思い出しかない人間は、足を振り上げて踏みにじってしまうのではないですか?
ほんの少し、人の感じ方が異なることで、こうも行動の違いが露になります。
人間は身勝手です。これは、わたしだけが思うことでしょうか?
ここでの『わたし』の固有名詞はラフレシア・アーノルド、です。そう、世界で一番大きな花の名前です。あと、醜い花としてでも……、有名ですね。
わたしは<花の世話役>です。とある役目をとある花から、与えられることで生きていける弱き命です。そう、わたしはラフレシアから役目を貰っています。
わたしの他にも、椿や菫、茄子などの花々が主である<花の世話役>もたくさんいます。花の数だけ存在する、と考えてもらえれば結構です。
わたしたちは人間とよく似た姿をしています。直立二足歩行ですし、肺で酸素を吸い、二酸化炭素を吐き出して呼吸をして生きていますし。
だから、自らのことを人と呼ぶこともあります。数もひとり、ふたりと数えたりします。
わたしたちの体の大きさは、自由自在に変えることが出来ます。が、世話する花の大きさよりも大きくなることは決して出来ません。そんなことすれば、世話どころの話ではなくなりますから。
桜や玉蜀黍(とうもろこし)、向日葵などを担当する<世話役>は、人間の身長を遥かに越える高さまで、大きくなることが可能だそうで。
わたしたちの血縁では、どんなに大きくとも、精々犬くらいの大きさです。ちなみにわたしは八十センチが最高で、いつもこのサイズで生活しています。
<花の世話役>とは、読んで字のごとく、花の世話をします。花を咲かせるために、水が足りなければ如雨露で水を汲んで、土の下にある根を潤し、日光が足りなければ、日照り乞いをし、風に吹き飛ばされそうになれば、一生懸命その体を抱き締めます。
地面に生きる主の手が届かないところを、代わりに補うこと。それが<花の世話役>の主な役目であり、使命です。これを投げ出せば、わたしたちの命は呆気なく消えてしまいます。だから、弱いよわい生き物だと表現したわけです。
種が土に落ちた瞬間、わたしたちは目覚めます。体を与えられます。生きるために動き出します。わたしたちが生まれた時にはもう、わたしたちの前の<世話役>はこの世にいなくなっています。――当然といえば当然ですね。
<花の世話役>は主である種が土にキスをして、一人前に花びらを開かせて、誰かの花粉を受け入れて、静かに枯れるまでが、生きていられる時間。花が何度咲いたとしても、それと同じ回数だけ、枯れているのです。言い換えれば、同じ数だけ<世話役>は生まれ、消えてしまっているのです。一年前の花と、その後の花とは、同じ場所に生えている植物から出来たのにも関わらず、微妙に形が違うでしょう? 命は一度きりです。そして、ひとつの花にはひとりの<世話役>だけです。だから、梅のような植物は、花の数だけ<世話役>が居座っているということになりますね。
だから、わたしたちは親を知りません。顔も、もちろん名前も。けれど、親の愛情を知らないわけではないのですよ? わたしを生んでくれたことは、愛以外の何物でもないはず。そう、思っています。
寂しくは思いますが、悲しいとは思いません。それがわたしたちにとっての当たり前、だからです。
「おい、アーノルド! 土が乾いたぞ、ぼけっとするな。早く水を持ってこい」
ラフレシア、とは人名が由来です。アーノルドも実はそうなのです。と、考えてから、わたしは声の主と向き合います。わたしの最大の大きさ――八十センチ――で言うところの手のひらサイズの彼は、シッサスのツルにぶら下がって、こちらを見下ろしていました。わたしと同じく、人間がごみ箱に捨てる布を勝手に貰ってきて、身にまとっていて、肩まで伸びた髪を、わずらわしそうに押さえつけました。
彼は<葉っぱの世話役>だそうです。けれど、わたしは彼以外に<葉の世話役>の存在を目にしたことがありません。主人には動くための足がないので、世話をする為に側にいなければいけないわたしたちは、所詮井の中の蛙ですので、知らないことが多くあるのが当然です。花以外にも、葉や幹といった<世話役>もどこかには存在しているのでしょう。
そのことは大変興味をくすぐられますが、そのことについて口を開くと怒られます。ですから、わたしはずっと無知のままです。
「何回言えば理解出来るんだ? 早くしろ!」
叫んだ彼の喉がこれ以上痛まないように、わたしは地面を踏んで駆けました。
彼という人の名はシッサスです。一度、そう名乗ってくれました。――言わなくとも、わたしたちは植物の名前を授かるものなので、必要もありませんでしたけれど――。
ここで、植物に詳しい方はピンとくるのではないでしょうか。そう、ラフレシアの栄養を作ってくれている植物です。
ラフレシアは、死肉に似た色彩――真紅というよりも黒に一滴赤が混じったかのような色――で、腐ったような臭いがするそうです。これは、人々が話すのを耳にしただけなので、真実かはわかりません。が、あまりに不気味なので、人食い花ではないかとまで疑われていたそうです。このことを我が身のことのように酷いと思いますが、もし自分の主がラフレシアではなかったら、同様に訴えることが出来るのか、自分でも……、自信がありません。
茎や葉や根はなく、繊細な糸状の細胞列が本体で、ここから直接花が咲きます。よって、葉緑体といった、生きるために必要なエネルギーを作り出す組織を持ち合わせていません。だから、他から栄養を貰うのです。
それも、誰でもよいわけではないんです。約百種類もの候補があるのにも関わらず、彼女はその内の六つしか助けを求めないのです。――全寄生植物という呼び方もありますが、わたしは嫌いです。
「シッサスさん、水、汲んできました」
近くにある湖から戻ってきたわたしに、シッサスさんは、あごでシッサスの根を示しました。わたしは黙って水をあげます。土の色が濃く変色していきます。それを認めて少し視線を上げると、シッサスの新緑の葉が、風に揺られてお辞儀しました。これは、植物たちにとってのお礼を表す行為です。わたしも深くお辞儀しました。再び顔を上げると、シッサスさんがツルを伝って目前に移動していて、わたしは思わず一歩後ろへ引きました。
「何で」
「え?」
「……何で、お前まで汚い格好してるんだよ」
「どういう意味――」
シッサスさんは、わたしの頭に飛び降り、長い前髪を掴んで引っ張りました。うまいこと千切れるとでも思ったのでしょうが、大した変化はありませんでした。痛みを感じた、という以外は。
シッサスさんは、目や鼻を優に越えて、口元まで伸びたわたしの前髪をギッと睨みました。どうして嫌な顔をするのでしょうか。嫌なら顔を背けたらどうなんですか。わたしは心の中で呟きました。わたしだったら、嫌なものがあれば、視界から消してしまうのに。
「ラフレシアが、おまえの主が、どんなに醜くとも、おまえまで一緒にしなくたっていいじゃないか」
その言葉に、黙って頷くことは出来ませんでした。わたしは彼を摘んで、ツルの元へと戻しました。面と向かって、わたしは常々思っていることを吐き出しました。
「彼女は確かに見にくいのかもしれない。けれど、わたしは醜いとは思っていません。彼女はまっすぐ生きている。シッサスさんに何かを言われる筋合い、無いと思うんです」
すべてを言い切ると、わたしは彼女の元へと急ぎました。彼女はここしばらくずっとツボミのままです。ラフレシアはツボミから開花の時まで、半月以上もかかってしまう植物。桃の花などとは、使うパワーが違うのでしょうか、彼女にとって花を咲かすというのは、大変な作業なのです。
「ラフレシアさん。わたしは、あなたを醜いとは思いませんよ」
花と<世話役>は、感情や身体、その他すべてが例外なくリンクしています。今、彼女は一瞬、複雑そうにしました。彼女たち植物には言葉がありません。
けれど、感情――主に快、不快の違い――は感じられます。つまり、先程の彼女の心境は、微妙に不快の方に傾いていたのです。どうしてでしょう、嬉しくなかったのでしょうか。
その日は青い空を黒い雲が隠して、雨が降りました。彼女が泣いている気がして、でも、彼女に悲しみの感情はないかも、と思って、わたしは彼女を食べようとする虫たちを摘んで集めて、遠くへ持って行きました。潰すのは、あまり好きではありませんから。
「明日も雨でしょうね、ラフレシアさん。あ、がっかりしなくともいいんですよ。明後日はきっと晴れますから」
∞
わたしは雨の雫で、顔を洗いました。その時、いくつもあるニキビが手に触れて、不機嫌になります。また、増えてしまっていた。日課である水汲みの時に、自分の顔が映し出されますが、長い髪の奥にある顔――ニキビやそばかすの中に、小さな二つの瞳と丸い鼻と弱々しく震える口――が視界に入ります。それをいつも通り、そっと目をつむって、見ないようにします。
「みにくい」
それから、わたしは草の汁を使って、顔や手足に黄色い線を描きました。彼女と揃いの線。本来ならば斑点ですが、この汁は一日を過ぎると色が落ちてしまうので、一本の直線で妥協しています。
こうすることで、彼女と同じ姿になることで、また一歩彼女に近づけると思うから、毎日自分の体に線を入れます。
この姿を醜いと見なしたシッサスさんとは、話しかけられても、会話しません。嫌だとか、意地を張っているわけではありません。反省すべきことなので、自分を戒めているのです。
彼に叩きつけた言葉をまた思い出して、俯きます。あんな偉そうなことを言ったけれど……、最初から彼女を受け入れていられたわけではありません。
ですから、わたしは軽はずみな言動をしたわたしを、罰しているのです。
あんなことを言ったって、まだ心の奥底では、――ああ、彼女にも聞こえているかもしれない、けれど、本当のことを言えば――、未だにわたしも、綺麗な花の<世話役>になりたかったと思っているのに。
∞
彼女は、美しくない。どうしても、多くの人にそう表現されてしまっています。それ以外なら、ただのでかい植物でしょうか。どちらにせよ、多くの人は彼女を愛しません。多くの人、とするのは、一部の人――わたしのような人――ならば、彼女に愛情のこもった眼差しを向けるからです。
「ラフレシアなんて花を世話するなんて、お前も汚らわしいなあ!」
こんな侮辱的発言は常です。わたしの周りに一時でも仲間なんていたことはありません。わたしに近寄ると、汚染されるんですって。そんなわけ、あるはずないのに。ラフレシアは、側に居ても害はありません。……開花時は、少し臭うかもしれませんが。
ラフレシアの特性を、わたしにはないものを、さもわたしにも存在するかのように扱われます。
そのせいで独りだったわたしは、親というものに強い感情を抱きます。愛してくれたのは、彼女と、生んでくれた親だけだ、と思うのです。それはきっと紛れも無い真実です。なぜなら皆、わたしを避けてどこかへ行ってしまいましたから。
花が散る前に鳥や八といった移動手段と仲良くなり、種を遠くへ運ぶように指示して、子孫をここから離してやる。徐々に森は寂しくなりました。
やがてわたしの周りは、花の咲かない雑草らと、一つの植物だけになりました。その植物はシッサスです。前述にある通り、ラフレシアは単体では生きていけません。ですから必然的にシッサスの栄養が必要になるのです。ですから、彼には申し訳ないと思っているのです。
それを知っていても、彼はわたしを罵ります。
「汚い」
どうしようもないじゃないですか。生きる為には貴方が必要なのですから。
「気持ち悪い」
わたしに命を捨てろとでも言うのですか?
「お前のせいで、おれの人生は終わった」
わ、わたしは、とうの昔に人生を投げ出したんですよ……? 逃げられない使命のせいで……! 貴方はいいじゃないですか、綺麗な葉で日光を浴びる植物で。わたしは何だと思っているのですか? わたしは、こんなにも、もどかしい位、人に愛されない花なのに――。
∞
わたしは独り、水汲みへ出掛けました。彼の人生を滅茶苦茶にしたので、少しでも苦労事を取り除こうと思ったのです。開き直るという方法もありましたが、それは一種の逃げだと感じられて、止めました。
ですから、葉を食らおうとする害虫退治――わたしは逃がしますが、それらの命をぴっ、と、摘んでしまうのが一般的なやり方です――やら、水遣りやら、蔓が伸びやすいように調整するやら、彼女の世話だけでも大変なのに、彼の主まで管理しなければならないので、今にも倒れそうです。自分で決めたことですけれどね。
その時は、この生活にほとほと疲れて、その場で本当に倒れてしまったのです。わたしはこのまま消えてしまうんだと思い込んでいました。――でも、今考えれば彼女が生きているのに、わたしが死ぬことなんて有り得ませんでした。
わたしは溜まっていた鬱憤を破裂させました。いやだ、こんなのは! このまま何も考えずに消えてしまいたい! ……願わくば、痛みもないままに。
どうして、彼女のせいでわたしまで仲間になれないのですか。彼女はみにくい。けれど、わたしまでもみにくいのですか? 一生独りでいないといけない位、彼女と同じくらいみにくいのですか? 汚いですか? 側に誰も居たくありませんか? そんなの、そんなの彼女だけで……充分ではないのですか。
わたしだって望んで彼女のしもべになったわけではないのに……!
わたしは如雨露を握りしめたまま、叫び続けました。寝転がって涙を落としました。
――余談ですが、わたしたちは泣くことを制限されています。何故なら、涙は悲しみを和らげてくれる魔法ですが、言ってしまえば貴重な水の浪費です。よって、時には自分の命のために、涙をぐっと堪えることも必要になってしまうのです。
……それからどれほどの時が流れたのでしょうか。わたしはようやく涙を止めることが出来ました。人間は涙を弱さと称するけれど、わたしたちにとって涙は、命取りの行為でしかない。可愛さも、哀れみも受けられない行為なんです。
わたしは強引に涙をぬぐいました。顔がまさつで熱くなるのを感じました。それを感じたと同時に、きちんと現実へ目を向けました。頑張らなくては。そうやって今にもくずれそうな決意を、懸命に固めながら上半身を起こすと、すぐ隣に、小太りな子ねずみがちょこん、と座っていました。
「ラフレシアさんだよねえ」
間延びした喋り方に、わたしは眉をひそめて黙っていましたが、その子ねずみがしつこく尋ねるので、ようやく頷いてあげました。すると、
「それなら早く返事してよねえ、ぼく、間違っちゃったのかと思ったよ」
と、けたけた笑いました。その笑い方が、見下してばかにしているように感じられたので、苛立ちながら立ち上がると、服を泥まみれの手で引っ張られました。
「ばかにしてるならやめて下さい」
「ああ、ぼくの笑い方ね、小ばかにされてるみたいだ、ってさ、よく言われるんだけど。これはもう癖だね。直んないや、はは。……ともかく可笑しくって笑ってるんじゃないんだよ。仲良くなりたいな、と思って笑っているんだ」
そう言って、こちらをまっすぐ覗いてくるので、参ってしまいました。わたしは再びしゃがみ込んで、彼の話に耳を傾けました。彼の話はラフレシア――つまりは彼女のこと。賢いねずみだったのです。わたしが彼女についての知識を持っているのは、彼のお陰でした。
そんな彼の話し方は面白くて、聞くことは苦になりませんでしたが、わたしはすぐにでも彼女の元へ帰って、水遣りをしなければいけなかったのです。泣いてしまいましたから、水が不足して、彼女は今苦しんでいるかもしれない。わたしの感覚では、のどが少し渇いているように覚えたので、彼女も同じように感じているかもしれなかった。
わたしは惜しく思いながらも、彼に別れを告げました。
話の途中であった彼は、驚いて目を丸くしました。どうして、と不思議そうに尋ねられたので、理由を答えると、何故か彼もついて来てくれました。
「わあ、大きいねえ」
「いえ、普通の大きさですよ」
わたしが水遣りを終えると、のどの潤いが戻ってきました。彼はずっと彼女を見つめていました。その姿が、さながら恋焦がれた男の方のように思えて、少し笑うと、照れたように笑い返してくれました。
「いやいや、お恥ずかしい。ぼくはいつから見つめていただろうね?」
「着いてからずっと、です。……えと、ねずみさん」
「……おや、名乗ってもいなかった! 失礼、ラフレシアさん。ぼくはネズミノネです、ラフレシアさん」
「ネズミノネ? ふふ、可笑しな名前。やっぱりネズミさん、でいいですか? ……そうです、彼女もわたしもラフレシアだと困りますよ。ですからわたしは、……貴方がついさっき教えてくれた別名の、アーノルドと呼んでください」
「アーノルドさんと、ラフレシアさん、かあ。また来てもいいかな」
「ええ」
それから、ネズミさんは毎日足を運んでくれました。その度に、わたしに彼女のことを教えてくれました。わたしはみるみる知識を手に入れました。すると、彼女の偉大さ、素晴らしさが、ほんの少しずつ理解することが出来ました。
ある時、彼はためらいながらも、わたしに話しました。
「ぼくはね、泣いている君がラフレシアのことをばかにしているのが聞こえてね、急いで土から上がってきたんだ。――え? そんなに大きな声だったか、って? うん、土が震える位、叫んでいたね。森中に響き渡っていたんじゃないかな、はは。……ともかく、ぼくはラフレシアの素晴らしさを語ろうと顔を出したんだ。君も、そろそろラフレシアへの思いが変わって来ているんじゃないかなあ」
「……ええ。わたしは、間違っていました」
俯いて呟くと、彼は手を大きく振って笑いました。そして、ふと頭上にある彼女を目に留めて、さっと笑みを隠しました。
「いやいや、間違いじゃない。君の以前の考え方はある意味では正しい。けれど……、わかるよね、ある意味では間違っているんだ。ううん、難しいかい? ――ラフレシアは、前にも行ったように花が咲くまで本当に長い時間が掛かる。それなのに、咲いた花は三日程度で枯れてしまう。その間に受粉しなくては、子孫ももうけられないんだ。大変だ。そこまでして生きる価値があるだろうか。君は思っているかもしれない。君の言葉を借りると、『側に誰も居たくないくらいみにくい』花なのに。……そう、その考えこそが、ある意味の正しさになる」
わたしは今ひとつピンと来なかったんです。……けれど。彼の言ったわたしの言葉だけが、深く胸に突き刺さって。居たたまれなくなった。
「苦労してまで生きることを無意味とするのは、一つの考え方だ。だから、その考えにもとづけば、君の思いは正しくなる。けれど、別の考え方からしてみると、それは間違っている」
彼は続けた。
「ラフレシアにとって、人に醜いと評されることは、どれほどの価値があるだろうか。君はその評価を、世界中すべての意見だと思っているみたいだけど、そうだろうか? ……言いたいことはね、彼女にとっては、それほど大したものではないかもしれないんだってことだ。――偉そうだと思ってくれていい。でももし出来るのなら、君の涙の数が、少しでも減ってほしいから言っている、と思ってくれ」
わたしの表情が苦いものに変わったからだろうか、彼はそう言って、また口を開いた。
「ラフレシアの目的が、ただ一つ、生きることだとしよう。すると、百合や菊といった『綺麗な花』だと困るんだ。すぐに人間に折られてしまうからね。生き続けるために、この体の形を選んだとしたら、それは賢明な、かしこい判断でしかないんだよ」
彼の言葉はわたしを魅了してくれる。……きっと、彼女にとっても同じだ。もしかすると、彼女の代弁者がネズミさんなのかもしれない、とまで思えてきた。
「うん、じゃあ次、目的を変えよう。自然の中に住むことが真の目的だとしよう。――すると、里芋や米、林檎のような園芸品種だと、気ままに生きることは出来るなくなってしまう。いずれは人間に刈られてしまうんだよ」
「そ、それは、人間がいる仮定での話でしょう……?」
「あくまでこれは一つの考えだって、ね? だから、生きることにね、人の評価は必要ではないんだよ。君がいくら悪口を吐いても、ぼくがいくら褒め言葉を送っても、彼女にとっては無意味の塊なんだよ」
これを書物や何かで見ても、わたしは到底何も感じなかっただろうな、これが最初に思ったこと。わたしは呆然とした。では、今までこだわっていたことは何だったのだろう。
「こんな例えがある。とある小さな花があった。通った人間は言う。『綺麗ね。でも、もっと大きい方がいいわ』ってね。『赤い花の方がかわいい』なんて意見もある。その花はどうするか。その意見に合わせてね、自分の体を変形させていくんだ。でね、最終的に頭が重くなって、茎が折れてしまうんだ。どうだい、これは何かに似ていないだろうか?」
わたしの口が震えてるのに気づいて、彼は一つ言い残して去っていった。
「自分をどう動かすのかは、その人の勝手だね。……けれどどうしてだろう、自分を貫いて凛としている彼女に、どうしたって惹かれてしまうのは」
彼はわたしの、固定された考え方を指摘したのです。
そして、違う方向から彼女を見つめる方法を、与えてくれたのです。
それから、それとなく、自分がどういうものに惹かれるのか、どうしてほしいのかを、仄めかせていったのです。
出会ってから少し経ってからそんな信頼出来る彼に、一つ頼みごとをしました。彼はそれを、絶対に叶えてくれるでしょう。
だって、彼は彼女を愛しているのですもの!
∞
ネズミさんのお陰でわたしは彼女を、見にくいとは今でもやはり思うけれど、醜いと思うことはなくなりました。自分の立場を嘆くこともなくなりました。
ある一面で悲しくなったら、別の面から見つめて、悲しみを別の感情に変えるのです。ある意味では逃げですが、その逃げを認めることが出来ました。
そんな彼はいつも、彼女に熱い視線を注いでいます。
「君を愚かにも、かじったりしないように、ぼくはいつだって、子ねずみどもを注意し続けているからね」
そう囁く彼こそが、愛ゆえにかじりついてしまいそうで、わたしはいつだって冷や冷やしていました。
ネズミさんは彼女を含めて、ラフレシアを愛しているのです。鼻の神経を研ぎ澄ませて、いつ何時でもラフレシアの放つ香りを捜し求めているそうで。花を開かないと、においを出さないので、出会うことが困難なようです。
「この一帯にはね、アーノルドさん。彼女しかラフレシアが生きていないんだよ」
寂しそうに言う彼に、彼女の心は複雑そうに揺れていました。確かにそうですよね。女はいつだって、男の中で一番の女になりたいものですから。
どうして彼が、ここまで発想を回転させることが出来るでしょうか。いいえ、絶対に出来ないでしょうよ、貴方がラフレシアという花を愛している限りは!
∞
さら、と春風が、わたしの短い髪とわたしの花の葉を揺らしました。呼ばれたので見上げると、花は何も口にせず、わたしを見つめていました。優しい花です。女性なんですよ。それも恋する乙女です。そう考えていると、少し怒られました。わたしの考えは、彼女には筒抜けなのです。
……そう、いくつかの生命に愛される彼女が、穏やかに笑いかけてるのは、わたしとネズミさん。そしてもう一人。
「ラフレシアさん、彼がきましたよ」
彼とは、ネズミさんでも、シッサスさんでもなく、とある人間の少年なのです。
「やあ、お花さん。こんにちは」
彼は迷わず彼女の近くへ歩み寄り、腰掛けました。
彼の名前はラッフルズ君と言います。小柄な体なのに、たくさんのことを知っている、賢い男の子です。長い髪を後ろで結んで、綺麗な瞳を輝かせています。
「……元気?」
「ええ!」
わたしは代わりに返事をしました。だってわたしは彼女の口であり、彼女の心であり、ああもう、要はわたしは彼女だからです。彼女が愛してほしい人がいるのなら、その思いを伝えてあげる役目を担うのは、わたししかいません。そう。だから、声を張り上げてラッフルズ君に話し掛けるのですが――。
「ふふ、やっぱり聞こえないよね」
「それはわたしの台詞です……」
嘆息するわたし。
彼に、わたしの大声は届いた例はありません。彼はいつだって、大きな図鑑を手に、ラフレシアさんを観察するだけです。なのに、彼女はたいそう嬉しそうに笑います。それがもどかしくて、わたしは彼を恨めしく思います。
彼がやって来る時は、もしわたしの声が聞こえた時に、彼女が話していると考えてもらうために、姿を隠しています。大きさを変えて、服も小さいものに着替えて、こっそり様子を窺います。
ラッフルズ君が、自分のことを話したことはありません。本の話や、植物の話などはよく聞かせてくれるのですが、人間たちの生活、学校や友達の話といったことを教えてはくれません。きっと、嫌なんだと思います。それか、一人が好きなんでしょう。彼がここへ来る時はいつだって一人です。
「もうすぐ、きつい雨が降るよ、気をつけて」
彼はこう言い終えて、去って行きました。
わたしは彼を信頼していますから、それを聞いてすぐに雨への準備をします。彼の言葉はいつだって正しいのです。
枯葉で作った傘を、彼女の頭に被せてあります。これが布だと、必要な分の水が得られませんから、少しやわな枯葉くらいが丁度良いのです。
∞
「火でその花びら、燃やしてやろうか」
優しい彼らしくない発言に、わたしは飛び上がってしまいました。
するとすぐに、冗談だよ、と笑い声が零れてきました。わたしは憤慨しながら、彼を睨みつけていると、彼はラフレシアさんに笑いかけました。
「驚いた?」
「当然です!」
「……植物にも、心があるって、知ってる?」
彼と彼女は向き合って、お互いを見つめ合いました。正しく言うとわたしからの視線も受けていたんですけれど。彼はふわり、といつもみたいに優美に微笑んでくれました。
「うそ発見器ってわかるかな。うそかほんとうか、わかる機械ね。それをさ、とある人が植物につけてみたんだって。それから、『燃やしてやる!』って行ったんだ。すると、植物はびっくりしたんだろう、大きく反応した」
「だからわたしでも試してみたの?」
「……お前も同じ心があるんだろうな。主人が悲しんでいたら、お前も一緒に悲しんであげるんだろう――?」
「そう、かしら」
ラフレシアさんは何も答えてはくれなかった。彼は去って行った。わたしも、いつもの大きさに戻って外を歩きました。
最近、彼はよくこちらへ足を運んでくれます。でも、その代わり、ネズミさんや、シッサスさんとは顔を合わせない。彼らも、彼女に遠慮しているのでしょうか。
「すこし、寂しいです……」
もう、罰せられたはず。わたしは次にシッサスさんと再会した時は、ちゃんと口を開くことに決めました。
決めた瞬間、足が絡まって転びました。
どうやらわたしにも、もうすぐ終わりがやって来るようです――。
年寄り。昔に、彼らから罵られた単語の一つです。
これは確かに的を射ています。<花の世話役>はとても短命です。花が散れば消えてしまう生き物ですから。
わたしは長命な方ですけれど、もう時間が無いようですね。この思いも最後まで、ええ、わたしが滅ぶときまで、一緒に持っていきましょう。
「悲しくなんてありません」
悲しみには、もう慣れっこです。涙を友として、共に連れていきましょう。わたしは立ち上がりました。彼女が待っています。――彼女だけが、待って
いてくれています。
∞
「随分ご無沙汰だったねえ」
ネズミさんは、にやりと笑いました。
「ごめんね、実は色々あってさ――」
「そんなことより見てあげてください。彼女はもうこんなに」
きれいになりましたよ。
彼女は長い時間をかけて形作ってきた蕾を、ふっくら膨らませていました。
もうすぐ、花が咲きますよ。そう伝えると、ネズミさんは言葉を失ったかのように立ち尽くしてしまいました。
「ああ、もう少しでラフレシアの花が」
また。
「……ラフレシアさん、って呼んであげてください」
あなたは、彼女をただの花としか見てくれない。
「ラフレシア、さん」
惚けるネズミさんは、ただ指摘したことを直しただけで、何もわかっていません。可哀想。ラフレシアさんを理解してくれてないんだ。
わたしだけが、彼女の思いをわかっていて。いつからか、わたしの存在する意味は、彼女の意思を伝えることに変わっていた。もどかしい。こんなにも、男の方はわかってくれない。なんて、苦しい。
「どうしたんだい、アーノルドちゃん」
「あなたが、わかってくれないから」
気づけば、声が震えていた。眉間にしわが寄っていって、顔の表情が段々険しくなるのを感じた。けれど、今堪えないと、溢れてしまうから。
「わたしが伝えてあげる」
そう言った途端、彼女の心が大きく動いた。わたしも共鳴してしまって、心が揺さぶられて、地面に膝をつく。
彼女は拒んだ。わたしと同じように、伝えることを選ばなかった。
「ラフレシアさん、あなたもなの」
たまらなく、切なくて、唇を噛み締めました。涙の代わりに、血が伝いました。
「どうしたの……?」
ネズミさんだけが、何も知らずにいました。そのことに、彼女は何も反応しませんでした。怒りも悲しみも。
そこでやっと、わたしは気づいたのです。
――彼はちがったんだ、と。
∞
ぼろぼろになった図鑑をめくりながら、ラッフルズ君は呟きました。
「花言葉って知っている?」
彼女はもうすぐ咲く蕾を重たそうに抱えて、彼の話に耳を傾けていました。わたしも、いつものように声を聞いていました。
「知りませんよう」
そしていつものように相槌を打っていると、彼は植物図鑑を持って、こちら
へ寄って来たので、驚いて体を丸めて、姿を隠します。まだ、諦めません。彼
に必ず、彼女の言葉は届くはず。それをただ信じてきたんですから、最後まで
信じていたかった。
「これ、水仙って花なんだけど、これは『うぬぼれ』、『神秘』、『自己愛』とか、
たくさん意味あるんだ。他にもあるよ、ジャスミンとかだと、『優美』や、『無
邪気』なんてことを表すんだって」
「わたしは?」
問うた瞬間、彼の言葉に被さった。
「君は」
「……わたしは?」
彼はいつもよりずっと優しく微笑んだ。何故か、自分に向けられているように錯覚してしまって、顔が熱くなるのを感じた。わたしじゃないんですよ。そう言い聞かせても、体は勝手に温度を上げていく。
「『夢幻』、『夢現』、そして、『わたしを捜してほしい』」
――ねえ、と彼が話し掛ける。
「ぼくは君を見つけ出せただろうか、ラフレシア」
「っう」
わたしは、水分の無駄遣いをしてしまいました。もうすぐ花を咲かせるのに。
たくさんのエネルギーが必要なのに。もうすぐここから居なくなることも理由
になって、涙を留めることが出来ませんでした。
「まだ、まだ、まだ、あなたは見つけられていません……っ」
わたしを、まだ。
そう告げかけて。わたしは急いでその場を離れました。離れてすぐに地面に
座り込んで、声を上げて泣きました。どうせ、もう終わりなんだ。気の済むまで泣いてみた。こんなことは初めてで、涙が枯れてしまっても嗚咽が止まら
なかった。
彼女が愛されるように、彼女の言葉を伝えるのは、わたしの唯一の役目。
だけれど、わたしだって、愛されてみたい。
∞
「アーノルドちゃん、こっちこっち」
わたしはネズミさんに手を引かれ、森の中を掻き分けて行きました。途中、
何度もバランスを崩すわたしを辛抱強く支えてくれました。悪い方ではありま
せんけれど、彼女だけを愛して欲しかった、なんて心の中で呟きます。結果的
には、彼女が求めていたものではなかったのですけれど。
「もうちょっとだ、頑張れ」
「は、はあ」
意識が遠のいていく中で、ネズミさんの励ましを聞きました。彼にはわたし
たちの命のことを教えてありますので、残り時間がないのを知っているのです。
だから、急いでくれている。その優しさに胸の辺りが、ぽっと温かくなった。
深い緑の中を駆けていくと、途中多くの動物や植物とすれ違った。
「何をそんなに急ぐんだい?」
「色々あるんだ」
走るので精一杯なわたしは、それらの言葉の返答を彼に任せました。
彼はわたしに合わせて二足歩行で急いでくれているのに、わたしはそれに追いつくので必死でした。そんなにも、わたしは弱っていたのです。ああでも、まだ生きています。ラフレシアさんの花が散る、その日までは。
そんなことをぼんやりと考えていると、ようやく目的の場所まで辿り着くことが出来ました。わたしが俯いて呼吸を整えていると、彼は興奮した様子で顔を上げるように指示してきました。
「なに……?」
苦し紛れに言われた通りにすると、目前には一メートルを優に越えるラフレシアの姿がありました。彼女よりも遥かに空に近い。
けれどそれはまだ成長の途中なようで、まだまだ大きくなっていくのが窺え知れました。
「まだ、ラフレシアがここにあったんだ。僕はその情報を仲間から聞いてさ……、だから最近ラフレシアちゃんの所に通えなかったんだけど、やっと見つけた。すごい大きさだろう? 君に見せたくて」
「……ええ、すごい」
わたしはそっと歩み寄り、ラフレシアの目前で立ち止まりました。
「こんなに大きくなって……すごい」
わたしが手を差し伸べると、ラフレシアは風を受けて穏やかに揺れました。そっと、まだ蕾として不完全な場所に慎重に触れました。何を考えているのかまではわかりませんが、嫌がられている様子は感じ取れなかったので、安心します。
「あなたはゆっくり、成長していって下さいね」
生き急いではいけませんよ。そう呟くと、遠くで彼女の心が震えた。
心を通わせるようになってからしばらくして、彼女はいつも誰かを捜していることに気がついた。この世界のどこかにいる、思いの方を。
けれど、彼女は動けない。求め歩くことさえ、叶わないのだ。
わたしは彼女の望み通り、思いの方を捜さなければいけなかった。それが、<花の世話役>の使命だから。けれど、その方がどんな姿なのか、どんな場所に居るのか、を何度尋ねてみても、彼女は教えてくれなかった。――それは今思えば、当然なのだ。彼女は、土から伝わってくる、僅かに感じる生命を愛していたから。
目もない、花も、耳もない花は、わたしたちで言う、見えるもの、匂うもの、聴こえるものを感じ取れない。だから言い表すことなんて、出来るはずがないのに。
わたしはずっと、彼だろうか、あの人だろうか、と彼女の愛を受けているものを捜した。そして、ようやく、見つけたのだ。
「ラフレシア」
貴方は、この方を捜していたのですね。
ここでわたしがすることは一つです。
ラフレシアさん、貴方までわたしのように思いを秘することは無いんです。貴方は幸せにならなきゃ。そう心の中で呟いた。
そして、本当の声は、向き合っているラフレシアに放った。
「貴方、彼女を愛して下さい」
わたしは、彼女の性格や姿形や長所や、まあ少しだけ短所や、その他たくさんのことを並び立てました。ネズミさんは呆然としてましたが、わたしは一切気にせず、彼女を理解してもらうために必死に喋り続けました。
彼女は、貴方よりずっと小さいですけれど、いつも優しく、穏やかで、たまに照れてしまって顔を俯かせることもありますが……、とても愛嬌のある女性です。わたしの声にも、丁寧に反応してくれますし、水分が足りなくても、辛い表情は欠片も出しませんし、我慢強い花なんです。虫たちが自身を食らおうとも、それについて叫びも嫌がりも嘆きもせず、ただじっと、凛とした姿でいられます。その凛々しさに、わたしやここにいるネズミさんでさえも、心を奪われてしまうんですよ? 他にもまだまだ――。
「何を言ってるんだい?」
ネズミさんは黙っていて下さい、と一蹴して、息を整えるのも勿体なくて、矢つぎに音を発し続けました。彼女を理解して。その一心で、口を動かしました。時折、唾液がうまく飲み込めず、気管に入って噎せてしまったり、呂律が回らなくなったりしましたが、彼はずっと興味を失わずにわたしの話を聞いていてくれました。言い終えて思わず、目が潤みました。彼の心はずっと温かなままでしたから。
「わたしは、きちんと貴方を捜して、ちゃんと、貴方を見つけましたよ」
そう言い終えて、わたしはネズミさんと帰りました。走って帰ることはありませんでした。わたしの体力が底ついていましたので。ネズミさんはわたしに歩みを合わせてくれました。皆、優しい。わたしはこのところずっと、心が和やかです。そんな風に思っていると、
「もうすぐ、君は居なくなっちゃうんだね」
ずっと黙っていたネズミさんが、ぽつりと寂しそうに零しました。
「ええ」
「色々な面から彼女を見た結果で、何となくわかったんだけどさ、彼女の花は、きっとすぐに死んでしまうよ」
「……そうですか」
「君も、その、あとちょっとしか――」
「そうですね」
でも、とわたしは振り返りました。
「彼女もわたしも、ずっと強かでありますよ」
「したたか?」
「咲き誇ってみせます」
わたしは飛び切りの笑顔を作りました。
「ですから、あの頼みごとに、追加してもいいですか」
「ですから、って接続詞おかしくない?」
「貴方が感激して、夜も眠れなくなるくらい、素晴らしく咲いてみますから、お願いしますってことですよ」
ネズミさんは黙って聞いていてくれた。空が澄んでいた、紺色の夜の下で交わした約束。
その道の途中、シッサスさんが酷く焦った様子で走っていた。声を掛けようとした時にはもう、森の奥へと消えてしまっていた。どうして、あんな所へ、こんな時間に? シッサスの葉を放ってどこへ?
そこまで考えて、とある可能性が見つかって、わたしは思わず声を上げた。
「わたしはまだ、何も捜せていなかった」
∞
「え……」
ネズミさんは唖然とした。
毎日通っているラフレシアさんの様子が普段とは比べ物にならなかったからだ。木の影でネズミさんを観察していたわたしは、我慢できなくて彼の前へ現れた。
「アーノルドちゃん、花が……って、どうしたの!」
「わたしも、綺麗にしてみました。どうですか?」
そう言って、急に照れくさくなって、視線が下に向く。そうした瞬間に、ラフレシアさんに、注意されたので、また顔を上げる。
黄色い線は、今日は止めておいた。もう、やらないと思う。
ラフレシアさんに、『そのままで居て』と、いった内容のことを、言われた気がしたからだ。自分らしく、そのまま。――そして出来るなら、誰かのために綺麗に。そんなことを。
わたしは、生まれて初めて、『おめかし』をした。服の材料もわざわざ汚れていないものを選んで来たし、髪も顔も何度も丁寧に洗った。落ちてしまった花を髪飾りにして、綺麗に、あろうとした。
わたしはラフレシアさんの隣に立った。
ラフレシアさんは、大きく、おおきく、花を開かせた。体をいっぱいに使って、自分を表現しているようで、心から美しいと思えた。堂々と、迷い無く、これが私なんだ、と咲いているラフレシアの花。赤黒い花弁に、黄色い斑点。
みにくくない。みにくくなんかないよ。彼女の花を見た瞬間、わたしは思わずそう泣きついた。立派に咲いたんだね、大変だったね、辛かったね、よかったね、嬉しいね、本当に、よかったね。
けれど彼女の心は晴れなかった。一度、彼もきっと綺麗だって思ってくれるよ、と囁いてから、より一層彼女は塞ぎこんでしまった。
「いや、本当に綺麗だよ、美しい。もう、言葉では表現出来ないよ」
というネズミさんの言葉にも、何一つ反応しなかった。
「ラフレシアさん、褒めてもらえましたね」
と言うわたしにでさえ、何も応えてくれなかった。
「どうしたの?」
「……ラフレシアさん、ずっと黙ってるんです」
どうしてだろう、病気かな、とわたしが不安になっていると、ネズミさんがくん、と鼻を動かした。
「あれ、匂いは?」
「え」
「ほら、独特の。花粉運びを呼ぶための匂いは?」
わたしは、すん、と空気を吸った。言われてみると確かに、匂いがしない。雌雄異花であるラフレシアは、蝿といった動物に花粉を運んでもらう種類で
す。わかりやすく一般的な花々で例えると、蒲公英とその花粉をくっつけて飛
ぶ蜂。そんな関係がラフレシアにもあるのです。
「匂いがしないってことは――」
「蝿たちが気づかずに、素通りするだろう……」
ネズミさんは腕を組んで、わたしに問い掛けました。
「雨水、昨日の雨が溜まって匂いが出せないとかは?」
「いえ、彼女が苦しそうにうめいたので、早朝の内に水を取り除いたんです。
だからそんなはずは――」
「じゃあどうして……!」
「わたしにもわかりませんよう……」
わたしが泣き言を漏らすと、ネズミさんは怒鳴りました。温厚なネズミさん
が怒るのは初めてだったので、驚いて何も言えませんでした。
「君にわからなかったら、誰がわかるんだっていうんだよッ! 彼女が種をつけられなかったら、一体どうするつもりなんだ?」
わたしは震える瞳で、大きな花を捉えました。どうして、と尋ねてみます。それでも、反応は返って来ません。そこに、迷いの色が浮かんだので、わたしははっと、その理由に検討がつきました。
「待っているのですね」
ぴくり、と彼女の感情が揺れて、震え始めました。何て、か弱い繊細な生き物なんでしょう。いじらしい。あと何日咲くことが出来るか、わからないのに。
「何を待ってるんだ!」
叫ぶ声に、反射的に答えました。
「彼を」
蕾が出来るのがずっと遅かったのも、シッサスからあまり栄養を貰わないのも、全部彼女は待っていたからだったんだ。
全部、全部。たった一つのことのために、彼女は必死になって、生きていたんだ。
「ああ、やっぱり、美しい」
わたしは彼女の体に縋り付いて、涙を落としました。一粒だけ、これで最後です。
「貴方の思いを知った今なら、わたしは貴方の最高の理解者で、いられるのでしょうか」
そっと目を閉じた瞬間、音が消えました。周りの生物の呼吸も、光も、においも何もかも。急なことに驚いて、弾かれるように再び瞳を開けてみると、ラフレシアがひとつ、目前に立っていました。
『やっと、私の声が届いたね。待ってたんだよ』
心に響いた声に、わたしは思わず頭が真っ白になりました。可愛らしい、とてもはっきりした声色。その音だけでさえ、彼女の性格全てが詰まっている気がして。一言も聞き漏らさないように、耳を傾けるのに必死で、何も口に出来ないわたしを、ラフレシアさんは寂しそうにしました。
『ずっと、会話したかった』
ぽつり、ぽつりとまるで雨粒のように、彼女の言葉は零れていきました。
『ずっと、貴方に伝えたかった』
ぽつり、
『色々なことを知ってほしかった』
ぽつり、
『綺麗だね、って、もっと言ってほしかった』
ぽつり。
嗚呼。
『もっと、早く、貴方と話したかった』
「……わたし、も、です……」
わたしもそう漏らすと、急に彼女は憤り出した。強い、重い言葉を重ねていく。
『私と同じ量の気持ちのはずないよ、そんなはずない。
貴方が本当に私と会話したかったなら、こんなに遅くまで気づかないはずないし、私がしてほしいことを手に取るようにわかってくれてるはずだし、的外れなことしないし、いつだって側に居てくれるもの!』
声が泣いていた。ラフレシアである彼女もまた、涙を作り出すのだと思うと、不思議でした。人だけが得られるものだと思っていたんです、涙。
「ごめんなさい……」
『謝るくらいなら、もっと、褒めて』
そして、と接続される。
『そしてもっと、自分の幸せについて考えて』
「わたしは幸せですよ……」
『うそよ、それなら私はもっと素晴らしく咲き誇れるはずよ。――ねえ、アーノルド、貴方はいつまで献身的でいるの? いつまで私にくっついているの? いい加減、貴方のことについて考えればいいのに!』
「……何度だって言いますが、どう考えても、わたしは幸せです。なぜって、貴方と共に居られるから」
彼女は何故かひどく悲しそうに、首を振ったように思えた。わたしの言葉を嘘だと考えているから、きっと、納得がいかないんでしょう。わたしも辛くなって、俯きました。
『私は』
最後に彼女はそう言って、口を閉じました。
『三日なんかで散りはしないわ。何年も、なんねんでも、生きてやる』
その、自信に満ち溢れた言い方は、とても彼女らしかった。
∞
「咲いたんだね」
ラッフルズ君は、そう言って彼女の花弁に触れました。彼女にとってそれは一種のキスです。動くことの出来ない彼女は、花びらこそ唇であり、体全体であり、美の象徴でもあるのです。紅色の花を、ラッフルズ君は少し驚いた様子であったけれど、すぐに興味を露にして、歩み寄ってきました。
わたしはもう何も言いませんでした。彼女が待っている相手ではありませんでしたから。
それにどうせ、わたしの声は届かないんですから。そうやって諦めて、そっと目を閉じました。
開花から九日目、彼女はまだ、五枚の花弁を支えて、咲き続けていました。ラフレシアの花は本来、長くても五日で散ってしまいますが、負けん気の強い彼女は、ずっと生き続けています。いえ、待ち続けているのです。花粉を運ぶものを呼ぶことは一切せず、彼の開花を待っているのです。
でも、彼はまだ蕾になったばかり。それも、まだまだ小さい。本当のことを正直に言うと、彼はきっと間に合いません。……包み隠さず言うと、絶対に。
どんなに頑張っても、彼女に限界は来るんです。それが、わたしの終わり。
あれから、シッサス君とは会えていません。
少しは綺麗になったわたしを、貴方に見てほしかったなあ、なんて。
でも、そんなに変わっていないから――、やっぱり見なくてもいいです、とも思います。
くぼんだ石の上に座って、空を仰ぎます。
――今日、彼女の限界がやって来ます。わたしの体は一度ここに座ってから、どう頑張っても一切動きませんし、彼女も栄養を口にしようとしても、何度もシッサスへと戻してしまいます。そろそろ、花が閉じる。もう、彼女が子どもを作ることは出来ないでしょう。このまま、わたしと一緒に死んでしまうのでしょうね。
ラッフルズ君は幸せです。こんなに珍しいこの花を、最後の日であるこの花を、目にすることが出来たのですから。
「すごいね」
「……すごいでしょう、だって、ラフレシアさんですから」
体のバランスが崩れました。そのまま、石から落ちて地面に突っ伏します。目が、もう機能してくれません。ぼんやりと世界が揺れます。地面の土が、少し乾いて気持ちが良いです。ラフレシアさんの姿は見えません。ああ、ラッフルズ君がいる。わたしの最後に見たものは、ラッフルズ君でした。失礼ですが、正直に言うと、残念です。
急に、耳元を蝿がすごい速さで通り過ぎました。驚いて、目を細めると、ラフレシアさんの中へと入って行きました。どうして、どうして!
わたしが起き上がろうと手をつくと、地面ではなく、何かに当たりました。温度が感じられる、少し大きな腕。
「うで……?」
わずかな感覚が戻ってきました。温かいもの、でも外の温度はいつも通りなはずなのに、いつもより、心地よい。
「アーノルド」
詳しくはもう、言うことが出来ません。ただ、ただ、シッサスさんがわたしの体を、わたしより大きな体で抱き締めていた、それだけしか、言葉に出来ませんでした。
「アーノルド、アーノルド、アーノルド」
彼は泣いていました。
「シッサス……さん?」
「ごめん、おれ、ずっと」
「あれ、ラッフルズ君は……?」
シッサスさんは、首を振って、謝り始めました。
「ごめん、おれ、お前のこと、いっぱい傷つけたよな……、たくさん、痛くしたよな……、ごめんな」
「……シッサス、さん?」
彼は話し始めました。その間、彼は一度だって、わたしを離すことはしませんでした。ずっと、抱き締めていたのです。
「おれ、ラフレシアの<世話役>だったんだ、お前と同じ……。
でも、こんな花、すごく嫌で、だから誰にも言わずに隠し続けた。そうしたら、案外な……、騙せたんだよ、色んなやつ。
けれど、周りの植物、しばらくしたら皆いなくなっただろう?
あれ、全部お前のせいって言ってたけど、おれのせいでも、あるんだ。
嫌われもん同士、仲良くしようって思ったんだけど、それがひどく寂しくて、代わりにお前を傷つけた。どう頑張っても、おれの口は悪口しか出てこなかったんだよ。……狂ってるよな。
だから、ラッフルズっていう第三者を名乗って、お前に優しく接しようと思った。でもお前に話し掛けようとしても、おれはラフレシアと会話していると思って、ラフレシアの代わりになっただろ……? 嫌だった、なんだか勝手な話だけど、おれの思い否定されたみたいで、嫌だった。だから、お前に必要な情報だけ、ラフレシアに語る形で伝えてみた。とにかく、接してみようと思った。だから、シッサスとしても、ラッフルズとしても、毎日話し掛けた。
なのにお前は日に日に自分を見失っていく! おれはお前を見詰めているのに、お前はおれをラフレシアを愛する道具としてでしか、目に映さなくなっていった!」
体の感覚が持っていかれる。徐々に意識が遠のいていく。だけれど、彼の言葉はきちんと全て理解したくて、何度もなんども、その放たれた言葉を反芻した。
「ごめんな、もっと早く伝えなきゃ、いけなかったのに」
わたしは、恐る恐る彼に重い手を伸ばした。すると、力いっぱいに握り締められた。温度がまだ、わずかに感じられる。もう片方も伸ばして、彼の長い髪に手を伸ばす。いつもなら、綺麗にくくってあるのに。
彼がまた、謝罪を口にしようとした。その口に小さく触れて、わたしは微笑んだ。
「もう何もいわないでいて」
貴方が好き。幸せ。貴方の温度が快い。これは夢? 現? ――現実のことだとはうまく信じられない。このひとときだけで、わたしは生きていけた。貴方と離れたくない。でも、離れなくちゃ。二律、背反。
これ以上、どちらかが口を開いてしまえば、つまらない言葉を落っことしてしまいそうで、怖かった。ごめんなさい、や、ありがとう、や、あいしてる、が、言いたいわけでも聞きたいわけでもないのです。
ぽたぽたと、止まらない涙を、わたしは頬で受け止めた。彼ばかりが、涙を落としている。死は、悲しむことじゃあありませんよ。そう言い聞かせても、どちらも納得しませんよね。
植物は言葉を必要としませんから。わたしたちも、必要ありませんよね。貴方の気持ちはこの涙が、語ってくれます。貴方の体温が伝えてきます。貴方の抱き締める力が、教えてくれます。
わたしも抱き締め返しました。なんてしあわせ。こんなにも触れ合うのが心地良いなんて、知れてよかった。贅沢は言いません。
指先が、砂に変化していきます。森羅万象、土にかえるのです。体の様々な場所が砂へと戻っていく。彼が首元に顔を埋めます。よりいっそう、抱き締められます。わたしも負けじと抱き締め返します。
「言い逃げは、よく、ありませんけれど」
耳元で囁いて、
「貴方を、決して独りにはしませんから」
そしてわたしは死にました。
∞
「ちゃんと種が、出来たんだな。よかったな」
昔見つけ出したラフレシアの花粉を、仲の良かった蝿に運んでもらって、彼女に届けた。彼女は渋々ながら受け入れ、種子を作った。
ネズミが一匹と、おれで彼女の成長を見届けていた。一度は、栄養を受け取らずに自ら命を絶とうとしていた彼女を、おれとネズミ――いや、正直に言うとおれは何もしていないのだが――で、一日の時間すべてを使って説得した。
『あの子がいないのに、あの人の花粉じゃないのに、どうして私は生きなきゃいけないの?』
と自棄になる彼女の言い分は、確かに最もだった。だからおれは黙るしかなかったのだけれど、彼女の声が届かないはずのネズミが、
「生きなきゃ。あの子のために」
と珍しくはっきり喋ったので、ラフレシアも感化されたのだろう、それからはしっかりと生きていった。
「そういえば、君のラフレシアはどう? 元気?」
「ああ。もうそろそろ花が咲くんじゃないか?」
彼は間に合わなかった。そしておれも、間に合わなかった。
あいつは何も捜せていなかった。最後までおれは〝シッサス〟さんだった。そのことについては、確実におれが悪いので責めているわけではない。ただ、もしかしたら、愚かなほど思いを伝えられないおれを、感じ取ってくれるのではないか、と期待していたのは、恥ずかしながらの告白である。
「あいつも頑張ったんだ。おれも綺麗に咲いてみせるよ」
笑うと、何を思い立ったかネズミが、彼女から一つ種を掴んで歩き出した。
「……どこ行くんだよ」
「黙ってほら、ついてこい」
ネズミは手招きした。
∞
「着いた」
ネズミは彼の前に座って、おれに隣へ来るよう促した。仕方なくそれに従うと、ネズミはおれにその種を手渡した。
「これで、ぼくの任務は完了した」
「……は?」
「アーノルドちゃんのお願いだ」
その名前に、はっとする。
「お前は、アーノルドちゃんがいなくなってから、えらく泣いていたなあ。命を投げ出さん勢いだった。……けれど、ぼくは何度も止めただろう? 何て言って止めたか覚えているか?」
「……〝独りにさせはしない〟」
「そう。アーノルドちゃんの言葉を使ったな? それが今、ここで意味を成す」
言いたいことがわかって、体が震え始める。
「お願いっていうのは、ぼくが死ぬまで君と一緒にいることと、そしてこれが一番目に頼まれたことで……、このラフレシアの種を、君の隣に植えることだ」
年寄りのネズミは静かに呟いた。
「ぼくも元々長くないからね。丁度限界が来た時に、彼女が間に合ってよかった」
ネズミは続けた。
「アーノルドちゃんは、〝わたしはラフレシアさんと共に、何度だって隣にいる〟って」
「誰の……」
「何度だって言ってあげるよ。〝もうひとりのラフレシアさん〟に」
おれは何も言えなかった。あいつは、ちゃんとおれを捜し出していた。
「彼女らの意思は、受け継がれているよ」
君は負けないように、咲いてくれなきゃ。
そう言って、ネズミは去って行った。一人で死にたいんだそうだ。
「よかったな、ラフレシア。あいつは、あいつらは、おれらのことをちゃんと見つけていたよ」
おれはそっと、彼女の種を持って彼に近寄った。
そしてそのまま、抱き締めた。
彼女らほど、美しい花はいない。
20101028
ラフレシア 夢を見ていた @orangebbk
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