悪魔の教育
夢を見ていた
第1話
ぱらぱら。紙をめくる音が聞こえる。
そこは、とある屋敷の書斎。
机の上に置かれたろうそくの炎が、薄暗い部屋の中をぼんやりと照らし出した。
書斎の奥、何冊もの本の中に埋もれるようにして、悪魔は頬杖をついて本をめくっていた。ページをめくるたび、わざとらしく吐き出される溜息。
ぱらぱら、はあ、ぱらぱら……。
「退屈だぁ!」
本を投げ出して悪魔は立ち上がり、背中の羽根をうんと、天井に届きそうなほどおおきく、おおきく広げた。
――『魔界』。それはわれわれ人間の住む世界である『人間界』とは、また別の次元に存在する世界である。
そこには『悪魔』と呼ばれる魔物が住んでいた。
『悪魔』とは、自らの背に闇色の羽根を持ち、人間には理解できない【魔語】という言語を使用し、不思議な力である魔法を扱うことができる魔物である。
悪魔がどこから生まれ、何のために存在するのかは当の悪魔たちにとっても謎であったが、そんなことより、毎日を面白可笑しく遊びまわることの方がよほど価値あることであった。
悪魔には、人間や動物のように、命の限りは存在しない。魔界に生まれてから死ぬこともなく、心身ともに変わることもない。いわば永遠の存在。
――だが、そんな悪魔にも、一つだけ、悩みがあった。
それは『いかにして、この悠久の時を過ごすか』である。
「いかがなさいましたか、坊っちゃん」
悪魔の目の前に、別の悪魔がどこからともなく現れた。
坊っちゃんと呼ばれた悪魔はあえぐように答えた。
「退屈、なんだ」
「おや。それは大変ですね」
「そうなんだ。大変なんだ。……参考までに聞くが、おまえは今、何をもって暇をつぶしているんだ」
「それは、今も昔も変わらず坊っちゃんのお世話ですが?」
「楽しいか?」
「ええ」
悪魔は嘆息した。
「じゃあおれもおれの世話をすれば暇はまぎれるか? って、そうはいかないだろ。ああもう、思いつく遊びはもう全て遊び尽きてしまった。本を読むのも飽きたし、悪魔共と踊り狂ったり、どんちゃん騒ぎしたりするのにも飽きた。魔法で競って戦うのも、もう沢山だ。おい何か……何か他に良い暇つぶしはないだろうか?」
すると悪魔は、何やら思い出したように提案した。
「そういえば。坊っちゃんは以前、何やら壮大な計画を立てていらっしゃったではありませんか。どうですか、これを機にその計画を実行してみる、というのは?」
「――言われてみれば、昔々にそんなことを考えていたような気がする。確か、ここに例の本が……。よし、」
悪魔はにやりと笑った。
「では出かけるぞ、人間界へ!」
「はい、坊っちゃん」
◇◆◇
町のはずれに、深い深い森があった。
森の奥には、昔ここに住んでいた物好きが建てたのだろう、おんぼろ小屋が
あった。
今ではそこに、毛むくじゃらのおばけが住みついていた。
朝、目覚めると、毛むくじゃらのおばけは、小屋の近くにある湖まで足を運んだ。辺りはいつも仄暗かった。
ず、ず、ず……。
毛むくじゃらのおばけが歩くたびに、足元まで伸びた黒い髪が地面に散らばってこすれる音がする。あまり視界が良くないのだろう、両手両足をぎこちなく動かし、転ばないよう注意しながら、ゆっくり前へ前へと進んでゆく。ぼさぼさにふくれあがった髪の毛は、自らの身体を上から下まですっぽり包み込んでおり、遠くから見ると黒い毛玉のようでもあった。
目的地の湖に辿り着くと、水辺のそばでしゃがみ込み、そっと小さな手を水面につけた。湖の水は冷ややかで、気持ちがいい。毛むくじゃらのおばけはいつもここで水を飲み、顔を洗った。湖の水面には、ぼさぼさ髪に隠れた少女の顔が映っていた。少女は自らの顔を見つめ、ぽろりと涙を流した。
毛むくじゃらの少女はこの森で、ずっと独りぼっちだった。
遠くで風が強く吹いた。がさがさと森じゅうの樹々がざわめき始める。
鳥が飛び立ったのか、近くで力強い羽ばたきの音が聞こえた。
毛むくじゃらの少女は、不思議に思って音のした方へ振り返ろうとした。
――瞬間、
【捕まえた!】
無邪気な声が辺りに響いた。と同時に毛むくじゃらの少女は、自分の体が何者かによって抱き上げられたことに気付いた。毛むくじゃらの少女は、じたばたと手足を動かして必死に抵抗した。しかし、自分を掴み上げるものの力は強く、どうにも振りほどくことができない。
少女の頭上から声が聞こえた。
【こら、ちょっと落ち着けって。別におまえを痛めつけようってわけじゃないんだからさ。空飛んでたら、ちょうどあんたの毛玉みたいな姿が見えたもんだから。色々と調べてみたくなっただけなんだ】
毛むくじゃらの少女は喉をふるわせ、悲鳴を上げた。久しぶりに出した声は人間の話すような意味ある言葉にはならず、ただただ吠えるように叫び続けた。
【そんな暴れるなって。落ち着け】
困惑しきった声が先ほどから少女の耳に届いているのだが、その声が何を伝えようとしているのかが理解できない。少女の知る言語ではないようだった。
すると、近くで控えていたらしいもう一つの気配がかすかに動いた。
【この姿……。もしかして、人間では?】
【人間? まさか、こんなところに?】
一瞬間が過ぎ、こほんと咳払いの音がした。
「おい、おい。人間、わかるか?」
「えっ?」
突然理解できる言葉が聞こえてきて、毛むくじゃらの少女はぴたりと動きを止めた。ずっと独りで、誰かと会話することもなく生きていたため、久しく使っていない言葉だったが、聞けばすぐにわかった。
「お、通じたか?」
「えっ……な、なに? なんで?」
戸惑う少女に、声の主は無邪気に笑った。それに誰かが小声で注意した。これも、少女のわかる言葉であった。
「坊っちゃん、そろそろ下ろしてあげたらいかがですか?」
「それもそうだな。また暴れられても困るし。――あ、もちろん逃げるなよ? おまえには色々と聞きたいことがあるんだからな」
自由になった少女は、うんと顔を上げて自らの前に立つ二つの影を見上げた。
銀色の髪に、空色の髪。そしてその背中から生える、二翼のツバサ。
彼らの姿から、少女はふと思い当たった言葉を口にした。
「あなたたちは、もしかして、……『悪魔』?」
「大正解」
そう答えた悪魔は、先ほど『坊っちゃん』と呼ばれていた悪魔だった。
彼はふふんと得意げにふんぞり返った。透き通るような銀色の髪に、切れ長の獣のような瞳、高く通った鼻筋、とんがった耳、鋭く光る歯。
後ろに控えていた悪魔も大体は彼と同じような姿をしていたが、輝く空色の髪や目の色などが彼とは微妙に異なっていた。が、どちらも人の世では決して目には出来ないほど、美しい男の顔をしていた。
そんな彼らの姿で何よりも特徴的だったのは、彼らの背に、背丈と同じくらいの大きさの蝙蝠羽があったことである。蝙蝠羽はまるで自身が呼吸をしているかのように、のびやかにふくらんでは、ばさばさと羽音を立てた。先ほど少女が鳥か何かと聞き違えた音は彼らの羽音だった。
「あ、悪魔……ほんもの?」
「そうさ」
すると突然 銀髪の悪魔はぐっと体をかがめて、少女の顔を観察し始めた。髪が邪魔でよく見えなかったのだろう、彼は何の断りもなく、彼はこの毛むくじゃらの髪を思い切り掻き上げた。
「な、なにするの……!」
「確認だよ、確認。ほんとに人間かどうかっていうな」
悪魔は、あらわになった少女の鼻や頬を軽くつっついた。
「眼がふたつに、鼻がひとつ、口も舌も動いて言葉が話せる。ちょいと毛が伸びすぎてはいるが。人間だな」
悪魔は満足げに頷き、
「それにしてもなんでこんなところに居るんだ? 人間は一人では生きていられない生き物だろう? おまえ以外にも人間が住んでいるのか?」
少女は悪魔に触れられたところを押さえながら答えた。
「い、いやしないよ。わたしだけだよ」
「そりゃどうしてだ?」
「どうしてって……」
毛むくじゃらの少女はもごもごと口の中で声を出しつつ、
「だって、だってわたし捨てられたんだもん」
これを受けて、悪魔はうれしそうに声をあげた。
「へえ! おまえ、捨て子なのか! そうかそうか、そりゃ好都合だ」
銀髪の悪魔は上着のポケットに手を突っ込んで、一冊の本を取り出した。
革表紙に金字といった、豪華な装丁がなされた本だった。彼は大事そうにその背表紙を撫でた。
「こいつは昔、知り合いの悪魔から譲ってもらった本なんだ。その名も、『悪魔のための人間辞典 ~人間育成編~』。ここには、人間の生態に関する用語が分かりやすく簡潔に記載されている。――これを読んでおれは思った。一度でいいから、自らの手で人間というものを育ててみたいものだ、とな。
だがしかし。よく考えてもみろ、人間を育てるといっても、まずはどの人間を選んで育てるのか、など考えなくちゃいけないことが山ほどある。面倒。至極面倒だった。――そんなところにちょうど、身寄りのない哀れな人の子が現れた。ここで見捨てるなんて、例えおれが悪魔だとしてもあまりに酷じゃないか。仕方ない、これもめぐり合わせというものだ、拾ってやろう。見目は少々小汚いが、……まあ、洗えば何とかなるだろう」
彼の話を毛むくじゃらの少女は慌てて遮った。
「ちょっと待って、ということは……何? わたし、あなたに……悪魔に、拾われちゃうってことなの?」
「つまりはそういうことだな」
悪魔はにやりと口角を上げた。
「安心しろ。少なくともここよりは良い暮らしをさせてやるから」
「でも……」
「何を渋ることがある。ここで一人で暮らしていたいのか?」
悪魔の何気ない言葉に、少女の心は揺れた。悪魔の申し出など受けるべきではない、何をされるかわかったものではないのだ。――しかし、少女はさっと顔を伏せ、悩んだ。――しかし、だからといって、このままずっと森の中で一人、暮らしていたいわけではないのだ。
考え込む少女を見て、悪魔はやや残念そうにつぶやいた。
「嫌なのか? 嫌なら他を当たるが」
意外なことに、人間の少女に選択をゆだねたのである。自分が知っているおとぎ話の悪魔はこんなにやさしかっただろうかと少女は戸惑った。と同時に、断るなら今だと思った。今ならきっと、彼もゆるしてくれるだろう……。
悪魔という未知の存在に、警戒心や恐怖心が無いわけではない。本当はここから逃げ出したくてたまらないはずだった。
ただ。少女は独りでいることに、心からうんざりしていた。誰かと一緒にいたい。少女は何よりもそれを望んでいた。たとえ一緒にいてくれる相手が、おぞましい悪魔だったとしても。
少女は恐る恐る尋ねた。
「い、いじめたりしない?」
「もちろん。」
「悪口も、言わない?」
「言わない、言わない」
少女が自分を守るために考え付いたことは、前もって悪魔と約束を結ぶことであった。といっても、どう考えてもこれはただの口約束で、破ろうと思えば破れる簡単な約束であった。が、少女は何故かはわからないが、彼はこの約束を守ってくれるだろうと心のどこかで思っていた。そう思わせる何かがこの悪魔にはあったのだ。
少女は思いつくままに約束させた。
「と、途中で捨てちゃったりしない?」
「悪魔だからってみくびるなよ」
「一緒に遊んでくれる?」
「お安い御用さ」
「仲良くしてくれる?」
「お望みならな」
えっと、と言葉に詰まった少女は、これ以上は特に何も思いつかない様子であった。少女はひとまず頷き、最後に念押しした。
「ぜんぶ、約束できるよね?」
「約束しよう」
「忘れない?」
「悪魔は人間のように忘れたりしない」
銀髪の悪魔は、にやりと笑った。
「これで決まりだな?」
そう言って、彼は自らの手を少女に差し伸べた。
「うんっ!」
少女はぎゅっと力を込めてその手を握った。こんな風にだれかと触れたのはいつぶりのことだっただろう。少女の表情から思わず笑みがこぼれた。
今。独りぼっちの少女の世界が、色を変え、動き出す。
◆◇◆
人間世界とは別次元の世界、――魔界。
毛むくじゃらの少女は、悪魔に導かれるがままに、彼らが魔法で出現させた、魔界に繋がる巨大な門をくぐった。一瞬にして、少女の視界は闇に呑まれ、何も見えなくなった。が、次の一瞬には今度は眩い光が少女を包み込んだ。
「ようこそ、おれの屋敷へ」
悪魔の声が聞こえる。光にくらんだ目を何度か瞬かせると、今までいたはずの森は消え、とある屋敷の中に少女は立っていたのだった。
「――よし。おまえはまず、風呂からだ。とにもかくにも風呂に入れ!」
銀髪の悪魔は何より先に、汚れきった毛むくじゃらの少女を風呂場に押し込んだ。
抵抗する間もなく連れて行かれた風呂場は、今まで見たことのないほどに豪奢でけがれ一つない所で、少女は思わず尻込みした。しかし、少女がまごついている間に少女のまとっていた布きれが全てはぎ取られ、魔法によって全身くまなく洗われてゆき、気づいた時にはつるつるぴかぴかの肌ができあがっていた。少女は理解が追いつかず、驚きに目を瞬かせた。
魔法が出してくれた服は柔らかで、いたるところから花の甘い香りがした。興奮と未知への恐怖がない交ぜになった少女は、風呂からあがるとすぐに、自分を拾ってくれた悪魔のもとへと急いだ。
彼は上等そうなソファに足を組んで座り、例の分厚い本のページをぱらぱらめくっていた。
「ね、ねえ! まっ、魔法が、魔法がわたしを洗ってくれたよっ! す、すごい! 手も髪もどこからでも好い匂いがする! わあ、すごい! すごいけどこわい! 魔法ってこんなに色々できちゃうものなの?」
興奮しきった様子の少女を見、彼は「んん?」と首を傾げた。
「髪が真っ黒のまんまじゃねえか。ちゃんと洗ったのか?」
「元々がこんな色なの!」
「なんだ、まだ泥がこびりついているのかと思った」
おもむろに立ち上がった彼は、一歩下がって、少女の姿を上から下までじっくり眺めた。
「うん、ちょいと長いな。毛玉さんよ」
少女は少し落ち着きを取り戻した。
「長いって、髪の毛のこと? うーん、あんまり考えたことなかったなあ」
「どう考えても動きにくいだろ」
そう言って彼は、一つパチンと指を弾いた。すると次の瞬間には彼の手に、髪切りばさみが収まっていたのだ。少女は驚くと同時に、目を輝かせた。
「ね、それも魔法? ちょっとみせてっ!」
「見せる前に切ってやるから大人しくしてろ」
彼は前髪と垂直に鋏を入れた。
「これくらいでいいか?」
「いいよ」
ジャキン。切った黒髪が床にこぼれ落ちた。
「さ、今度は後ろだ。ほら振り返ってみろ」
毛むくじゃらの少女は、髪を落し、人間の姿に戻った。悪魔は満足そうに息をついた。切り落とした髪は、かつらが出来そうなほどにこんもりふくれ上がっている。肩にも届かないほどの長さまで切った髪は、何だか落ち着きがない。少女は何度も髪に手をやっては、軽くなった頭を右に左に揺らした。
「なんか、へんな感じ……」
「そのうち慣れるだろ」
少女は前髪が短くなったことで、かなり視界が広がった。きょろきょろと辺りを見渡し、自分が今いる屋敷のことを色々と観察し始めた。
銀髪の悪魔が住むというこの屋敷は、いわば貴族の豪邸のような造りであった。至る所が無駄に広くて、装飾も豪華で金ぴかである。天井は遥か高く、床は上質そうな絨毯が敷かれていた。
今、少女がいるのは応接間兼居間のような場所であり、奥の方には階段があった。おそらく、上には彼の寝室等があるのだろう。少女はくるくると回りながら、素直な感想を口にした。
「とっても大きなお屋敷ね! 家の中で迷子になりそう。それにとっても綺麗……。まるで、おとぎ話のお姫さまが住んでるお城みたい」
「まあな」
「あなたがこのお屋敷の主なの?」
「そう。そしておまえも今日から、この屋敷に住むんだからな」
ふかふかのソファに沈みながら、ご機嫌な悪魔はちらりと少女の方を見た。
「座らないのか?」
「……いいの?」
「特別だ」
少女は喜んでソファの方へ駆け寄った。が、さすがに悪魔のすぐ隣に座るのは抵抗があったのだろう、ほんの少しだけ離れて座った。彼は少女の何気ない行動に気付いていたが、何も言わずに本を読み続けた。
少女は思い出したように口を開いた。
「ね、あなたは、名前があるの?」
「おれか。おれはレイア」
「じゃあ、レイって呼ぶ」
「好きにしろ。で、おまえの名は?」
「捨てられる前に呼ばれていた名前ならあるよ、一応。アミルっていうの」
「アミル、か」
少女アミルは呼ばれて「はい!」と元気よく返事をした。人から名前を呼んでもらえるのは本当に久しぶりのことだった。こんなに長い事だれかと話すことも無かった。アミルは話している途中何度も絡まりそうになる舌を、もどかしい気持ちで動かし続けた。レイは少女の名を呼ぶ度に返事するのを面白がって何度も呼んでやった。アミルも喜んでそれに応じた。
「そういやアミル、おまえの歳はいくつだ?」
「十四? だったと思う」
アミルは問い返した。
「レイの歳はいくつなの?」
「四千と十五歳かな」
レイはにやりとした。「おれの方が年上だな」
呆気にとられるアミルを可笑しそうに眺めつつ、レイは質問を続けた。
「それにしても、おまえはなんで捨て子になったんだ?」
「なんでって……」
アミルはうーんと悩み出した。どこから話すべきか迷っているようだった。
「わたしが捨てられたのは十一、二歳の頃だったんだけどね。生まれつきもの覚えが悪いし、わけのわからないことばかりするしで、散々だったんだって。わたしは、あんまり覚えていないんだけど……でも、みんながわたしのことをなんて呼んでたかは、覚えてる。『できそこない』、だって。
……毎日つらかった。だっていつもわたしの悪口ばかり言うんだもん。家族みんな、周りのひとみんな、わたしが『できそこない』だから、嫌いになったんだと思う。そんな日々が捨てられるその前日まで続いてた。で、ある夜、みんんはわたしが寝ている間にあのひとけのない森に運んで、そのまま置いて行っちゃったのよ。――捨てられたんだ、ってしばらくしてから気付いた。
森には水場もあったし、あんまり美味しくないけど木の実もあった。だから、ちゃんと生きていられた。でも、捨てられてからはずっと独りだった。……独りぼっちは辛かった。だけど、誰からも悪口言われなくなったから、ちょっとうれしかったんだ」
「へえ、」
レイは退屈そうに頬杖をついた。
「人間の世界っていうのは窮屈だなあ。アミルもそう思わないか? おれたち悪魔から見れば、どいつもこいつも大差ない人間だっていうのに」
「そう言うレイたちは、どうなの? 広い世界で生きてるの?」
「悪魔は、比較的自由だぞ。確かに、人間の言う【社会】に近いものも中にはあって、形だけの階級制度なども残ってはいるが、ほとんど意味をなさない」
アミルは不思議そうにした。
「そうなの? でも、その中でもレイは偉い悪魔になるんでしょう? だってこんな大きなお屋敷に住んでるわけだし」
「ま、階級は上の方だが、これくらいの屋敷なら魔法ですぐ造れるから、屋敷の大きさは基準にならないな」
レイは少し笑って、
「おれたち悪魔は、必ずしも人間のように他の者に依存しなくてもいいようになってるんだ。ほら人間は、睡眠や食事などが生命維持に必要なのだろう? だから、寝不足だったり、食事が満足にできていないと心身に異常が出て来るし、下手すれば死ぬと言うじゃないか。――その点、悪魔は命を維持するために努力する必要がないから、楽といえば楽だな」
レイは不敵に笑った。
「悪魔はいいぞ? 人間のように寿命というものがないから、不死だし、時間は無限にあるし、魔力がなくなることもないから魔法は使い放題。永遠の象徴とは、すなわち悪魔なわけだ」
それを聞いたアミルはきらきらと目を輝かせた。が、言った後、何か思い当たったのか、レイはどこか遠くを見つめて、
「時間が余りすぎても、面白いばかりではないんだがな」
「そう? 好きなこといっぱいできるでしょ? いいことじゃない?」
「好きなこと――そうだな、確かに今は人間について色々と調べてみたいことがあるから退屈ではないな」
そうして二人は笑い合った。気付けば、座る前にアミルがわざと空けた距離も、いつの間にかなくなってしまっていた。一つのソファで寄り添い、悪魔のこと、人間のこと、レイ自身のこと、アミル自身のことなどを互いに話した。もともと会った時から波長の合う者同士だったのだ。
話が一段落して、アミルはふと辺りを見渡した。
「ねえ、レイ。このお屋敷にはレイ以外に悪魔はいないの? さっき一緒にいたきれいな悪魔さんは?」
「ああ、トーマのことか。そう言えば紹介がまだだったな」
レイは手を叩いて、屋敷中に散らばっていた悪魔たちを集めた。
「トーマ、ロジー、ミクリ」
呼ばれた悪魔はしゅん、と風を切るような音を立てて、彼の周りを囲うように姿を現した。アミルは突然のことに驚いて、レイの腕に縋りついた。レイはなだめるように言った。
「そんなに怯えることはないぞ。こいつらはおれの屋敷の召使みたいなもんだからな。基本的に温厚な悪魔ばかりだよ。おまえが言っていた悪魔はトーマって言うんだ。あの水色の悪魔な。あとは各々自分で名乗ってくれ。
ちなみに。屋敷に住んでいる悪魔はおれとトーマとロジーだけだが、他にもミクリみたいに臨時で訪れる悪魔もいる。臨時のやつらは大体遊びに来てるようなもんだがな」
紹介された三魔(魔:悪魔の数え方)は礼儀正しくお辞儀した。アミルもぺこりとお辞儀を返した。
顔を上げる際、ちらりと、並んでいる悪魔の顔を盗み見たとき、アミルの目に山羊の頭が見えた。アミルは思わず声を上げた。
「やっ、山羊だ! レイ、山羊が二本足で立ってるよっ!?」
これにたまらず吹き出したのは、トーマの側に立っていた悪魔である。
「ちょ、ロジーさん! 何してんの、人の子がびっくりしてるじゃん、だめでしょ、驚かしたら!」
腹を抱えて笑い出した悪魔は、レイやトーマと同じように人間の顔を持っており、橙色の短髪がよく似合う、活発そうな悪魔だった。しかし人間と同じなのは肩から上までで、その下、彼の手や足には鷲のような鋭い鉤爪が生えており、その周りを背中の羽とは違う色の羽根が覆っていた。たとえるなら、鳥が人間になる進化の途中、といったところだろうか。
一方、山羊の悪魔は、頭がそのまま動物の山羊であるが、首から下は何ら問題ない足であった。物言わない山羊人間。アミルたちの会話の内容はちゃんと理解しているようだったが、もしかすると話せないのかもしれない。アミルはもう一度ロジーという悪魔を観察し直してみた。よく見ると愛らしい、つぶらな瞳をしている。
二魔とも、レイやトーマと同じように漆黒の羽が背中から生えている。これはどの悪魔にも共通のものらしいが、彼女の見る限り、レイのような人間に近い悪魔もいれば、ロジーと呼ばれた悪魔のように動物に近い者もいるようであった。
悪魔にも色々な種類がある。アミルはひとまずこのように納得することにした。わからないことは恐ろしいが、そういうものだと割り切れば不思議とこわくなくなった。
一通り笑い終えたミクリという悪魔が、無邪気な笑顔を浮かべて話し掛けてきた。
「ロジーさん、山羊だからびっくりしたでしょー? ……あ、自己紹介まだだった。おれはミクリ。きみは何ていうの?」
「えっと、アミルって言います」
「アミルっていうのか! よし、覚えた。どうぞよろしく! おれ、人の子とあんまり関わり持ったないからさー、その、一緒に遊ぶときとか手加減間違ったらごめんね!」
彼の笑顔に応えようとしたアミルの表情が瞬時に固まった。ごめんでは済まない。アミルは慌ててレイの後ろに隠れた。ミクリは特別気に留めずに、屋敷の主に話し掛けた。
「主はアミルをどうするんですか?」
「まずは人間がするように、育ててみようと思う」
レイは自らの思い付きに満足げに頷いている。ミクリはぴゅうっと口笛を吹いて、主の考えを賛辞した。
「悪魔が人の子を! それ、めちゃくちゃ面白そうじゃないですか! 主、おれも手伝ってもいいですよね? ね?」
「もちろん、いいとも。しかし人間は傷つきやすいんだから、そこのところ気を付けてくれないと困るぞ」
それから悪魔たちは興奮した様子で、今後このアミルという人の子と、どのように接していくべきかについて熱心に相談し始めた。アミルは呆気に取られた。
そんな彼女の様子を見かねて、側で控えていたトーマがさりげなく提案した。
「それでは私が、アミル様の御部屋をご用意致しましょうか」
「ああ! 部屋のことをつい忘れていた。うん頼んだぞ、トーマ」
レイはアミルに向き合い、トーマを指さした。
「こいつがおまえの部屋まで案内してくれるってさ。何、不安がることはない。トーマはおれより何百年も長く生きてる悪魔だから、安心してついて行けば良いんだ」
「……ほんの、数千年でございます」
美しい微笑みをたたえながら、トーマは流れるような動作でアミルの側にひざまずき、彼女との視線の高さを合わせた。アミルは彼をじっと窺うように見た。この悪魔のことを信頼していいのか。彼女のそんな不安はお見通しかのように、トーマは優しく見つめ返した。
「御安心ください、アミル様。貴方はレイア坊っちゃんの大事な人の子。最高のおもてなしをさせて頂きますので」
それを見ていたミクリはこそこそと移動し、アミルに耳打ちした。
「怒ると怖いから気を付けてね!」
「――聞こえてますよ?」
ミクリは引きつった笑顔でごまかした。
◆◇◆
アミルは部屋を後にした。延々と続く廊下を前に、落ち着きなくきょろきょろ視線を動かした。しばらく歩き続けているはずなのに、景色が一向に変わらない。不安に思うアミルに、トーマが一言、
「ここからは空間が無限に繋がっていますので、迷子にならないようお気を付けくださいね」
それを聞いた瞬間、アミルの表情がさっと青くなった。アミルは縋るようにトーマを見上げた。
「あの、トーマさん。手をですね、つ、つないでもよろしいですか……?」
「手を? ふふ、人間は不思議な生き物ですね、歩くと手を繋ぎたくなるのですか?」
「だめ?」
「構いませんよ」
そう言ってトーマが差し出した手は、水晶を削って作ったかのように硬く、冷たい闇色の手でだった。悪魔の手だ。アミルは驚きつつも声には出さず、遅るそそるその手を取った。
アミルが歩きやすいようにと、トーマはさりげなく歩幅を小さくして進んだ。アミルは疑問に思っていたことを色々聞いてみることにした。
「悪魔って、いろんな悪魔がいるんだね」
「ええ、そうですね。アミル様にわかりやすいよう分類するなら、人間型、動物型などでしょうか? ああ、植物型などもいますね。なかなか種類が豊富でしょう? 興味がおありなら、すぐにでもお呼びいたしましょうか?」
「い、いい! 今はいいよ、ちょっと気になっただけだから」
アミルは慌てて話題を変えた。
「ねえ、トーマさんたちはさ、わたしなんかを拾うことに反対とかしたりしないの? 今までの話を聞いてると、わたしを拾うことは、レイがその場で勝手に決めちゃったことみたいだし。そりゃあ、屋敷の主が言うなら仕方ない、ってところもあるのかもしれないけどさ」
トーマは可笑しそうに笑った。
「反対などしませんよ。むしろ大いに賛成です。――坊っちゃんのお考えは、いつも私どもの思い及ばぬところにありますから。だからこそ、私どもが悠久の時を捧げるにふさわしいと判断したわけでありますが」
と、言ったところでトーマは足を止めた。
「さ、着きましたよ。こちらがアミルさまのお部屋になります」
そう言って示された場所は、変わらず白い壁しか見当たらないところであった。
「何もないよ?」
「今からお造りしますので、少々私から離れて頂いてもよろしいですか?」
アミルは握っていた手を離し、二、三歩彼から離れた。トーマは両の手のひらを壁につけて、目を閉じた。
「内装はいかが致しましょう。何かご希望でもございますか? ――特にご希望がないようですので、こちらでご用意致しますね。何か不都合があれば後ほど仰ってください。
まずは良質な睡眠を得るための寝具に、書き物のための机、椅子、インク、ペン、紙束。それに加えて、アミル様の御召し物に、それを仕舞うためのクローゼット、チェスト、出歩くための靴、書物、床には綺麗な絨毯を敷きましょう。他にもあれやこれを置きましょう、少しでもアミル様が快適にお過ごしになられるように。あっ、壁紙の色はどうしますか? 人間の好む色というのは、人それぞれ異なるものだと存じております。気に入りの色はございませんか? もしか気に入らなければお気軽にお申し付けくださいね。いつでも変えられますから。――さて、大まかにはこんなところでしょうか」
そうして手を離し、パンパンと手を払うと、何もなかったはずの壁に小さな扉が取り付けられていた。アミル呆気に取られた。
「今、ドアノブをご用意しますね」
トーマは扉を優雅な手つきで撫でると、そこから金色のドアノブが現れた。彼はそれをひねって、扉を開けた。
「どうぞ中へお入りください」
部屋の中は、アミルの背丈にぴったりの、小ぢんまりとした可愛らしい部屋だった。アミルは感動のあまり言葉を失った。まるで夢の世界を眺めるように、ふらふらと部屋に置かれたものを見て回った。彼が先ほど用意すると言っていたベッドや机椅子、クローゼットなども無駄なく美しく配置されていた。彼の遊び心であろうか、枕のそばには丸が縦に二つくっついた不格好な人形が置かれていた。アミルは瞳を輝かせながら、あちらへ行ったりこちらへ行ったりとせわしなかった。
「これ、もしかしてわたしのお部屋?」
「もちろん」
トーマはにこやかに頷いた。
「他に御入り用のものがあれば、いつでも仰ってくださいね」
トーマは部屋を出て行こうとした。そこでアミルははっと我に返り、慌てて問いかけた。
「こ、これからわたし、どうしたらいいの?」
「はて? 坊っちゃんからは、特別ご指示は頂いておりませんので、ご自由にお過ごしくださいませ」
「ご、ご自由にと言われましても……」
アミルはすっかり困ってしまった。それを見て、トーマは優しく微笑んだ。
「部屋の中をもう少し見て回ってはいかがでしょう? ただし、屋敷から出る場合は屋敷内の悪魔に声を掛けてくださいね。お一人だけでお出かけになってはいけませんよ?」
「一人で外に出たらどうなるの?」
「――知り過ぎても毒ですよ」
トーマはそっと自らの唇に指を据えた。さっと血の気が引くのを感じながらアミルは何度も頷いた。
そして静かに扉は閉められた。ひとりになったアミルは、何よりもまず部屋に置かれたベッドの方へと歩み寄っていった。こんなにもふかふかそうなベッドは生まれて初めて見たのだ。アミルは絹のようにさらさらの天蓋に触れて、そっとベッドの上に乗り上げてみた。これが自分の寝床なのか、うれしくてたまらない。ゆっくり手足を伸ばし、身体から力を抜いて倒れ込み、肌触りのよいシーツに頬をうずめた。
なんて、きもちいいベッドだろう。今までの緊張が一瞬にしてゆるんで、アミルは気付けば夢の中へと旅立ってしまっていた。
◆◇◆
「……様、……ミル様、……起きてください。……坊っちゃんがお呼びですよ」
アミルはノックの音で起こされた。眠たい目を擦りながら、ベッドから降りて扉を開ける。外には空色の髪の悪魔が立っていた。
「お早うございます、アミル様」
「んん、……ええっと、トーマさん、だ。――そうだ、わたし悪魔に拾われたんだった」
夢から完全に目覚めたアミルは、トーマに手を引かれて廊下を歩いた。昨日の広間を横切って、朝食室と札のかかった扉の前に連れて行かれる。トーマは流れるような動作で扉を開けた。
中は広間に比べれば、やや小ぢんまりとした落ち着きのある部屋となっていた。部屋の真ん中に置かれた長方形のテーブルには、一切のくもりもなく磨かれたフォークとナイフ、スプーンがが並べられている。純白のテーブルクロスに合わせて、鮮やかな紅の薔薇が飾られている。レイは扉から一番遠く離れた席に座っていた。
「よう。お目覚めだな、アミル」
アミルは彼に促されるがままに、彼と向かい合う席に座らされた。しかしこのテーブルは端から端までが非常に長く、目を凝らさなくてはお互いの輪郭も見えないほどである。せっかく色んな事を彼と話したかったというのに、これほど遠く離れていては話しにくいじゃないか、とアミルは少し不機嫌になる。
寝癖のついた髪をトーマに直してもらいながら、アミルは身を乗り出して話しかけた。
「レイ―、これから何するのー?」
「朝の食事だ」
「えっ、朝ごはんってこと?」
レイは向こうの方でぱらぱらと本を開いた。
「【食事】:人間が生命活動を行う上で必要不可欠な行為。一日に二、三回行う。また、他者との親睦を深めるため、食事を共にすることもある。――以上、『悪魔のための人間辞典』第××××項より」
本を閉じ、レイは立ち上がり、高らかに話し始めた。
「これを読んでおれは閃いたのだ。人間は食事を共にした相手に親しみを感じる。だとすれば、それは悪魔相手にだって同じことが言えるのではないか、とな。つまり、おれとおまえの関係性をより良いものにするため、おれは毎日、おまえと食事を共にすることに決めたのだ」
得意になって話すレイを、アミルはぎゅっと目を細めて見つめた。
「ん、ん? 何? 一緒にごはん食べるってこと? でも、レイはごはん食べなくても生きていけるって言ってたじゃない」
「嗜む程度なら、食えないこともない」
「えっ、なんて? 食べられるの、食べられないの、どっち?」
「だから――」
「もうっ、遠くてよくきこえない!」
ふてくされたアミルは頬をふくらませた。
「レイのお顔もよくみえないし、きこえないし、つまんない」
これを受けて、レイはやれやれと大袈裟にため息を吐いた。
レイが軽く指を弾いた瞬間、彼を乗せた椅子はぎゅんと床を滑るように素早く動き出し、アミルのすぐ右隣りに来ると動きを止めた。それに合わせて彼の前の食器も宙に浮いて移動し、再びきれいに配置された。
「これで文句はないな?」
レイは頬杖をつき、すぐ近くでアミルの横顔を眺めた。
「なるほどたしかにおまえの顔がよく見える」
アミルは、ぱぁっと花が咲いたように顔をほころばせた。
「うんっ、わたしもよく見えるよ!」
それからしばらくして、コツンコツンと扉を叩く音がした。レイが片手をひらりと動かすと、誰もいないのに扉がひとりでに開いた。これも魔法か。アミルはうんうん頷いた。
扉の向こうに立っていたのは、例の山羊頭の悪魔で、彼は蹄を器用に使って料理を手ずから運んで並べた。大小さまざまな皿の中に、赤、白、紫などなかなかに刺激の強い色のものも盛られていた。鼻が曲がるほどの刺激臭が辺りにただよった。アミルは思わず自分の鼻をつまんだ。形も変で、匂いもおかしい。こんなものとても食べられたものじゃない、とアミルは助けを求めてレイを見た。彼女の視線に気付いたレイは口を開いた。
「これが悪魔の料理だ」
彼は自慢げに紹介した。
「これらは全て、料理長のロジーが腕によりをかけて作った料理だ」
主の言葉を受けて、ロジーは深々とお辞儀した。山羊の手作り料理。アミルはごくりと生唾を呑み込んだ。
「まあとにかく食ってみろよ」
必死で断り続けていたアミルだったが、ロジーが期待を込めたつぶらな瞳で見つめてくるので、ついには覚悟を決め、手近にあったスープをすくってみせた。口に含む際にぷわんと奇妙な香りがしたが、飲み込めないほど不味くはない。アミルは少しほっとした。慣れれば美味しいかもしれない。
次にアミルは果敢にスープの具もすくって咀嚼してみた。が、これにはアミルの表情がみるみる険しいものになっていった。
「な、何これ……、も、もしかひて、む、虫……!?」
「悪魔が虫を食うわけないだろう。悪魔の珍味だ。――まあ形状は虫に似てなくもないが」
「え、わ、わたひ、これたべるの?」
「好き嫌いは良くないぞ。残さず食ベないと大きくなれないからな」
言われたアミルはしばらく我慢して咀嚼していたが、堪え切れずついには近くにあったハンカチの上に吐き出してしまった。
「人間の口には合いません!」
アミルは両手で大きくバツを作った。予想外の反応だったのだろう、レイは料理長を手招いて、こそこそと内緒話を始めた。
「どうやら食事を一緒に囲む作戦は、残念ながら失敗したみたいだな。……ロジー、おれは一体どうするべきだと思う? もしかしてここでの選択が人間の人格形成において一つの転換点となってしまうのか? 残さず食べろと厳しく叱りつけるか、仕方ないとが甘やかしてやるか、それとも――?」
山羊頭の悪魔は主に耳打ちした。
「いや、そう気を落とすことはない。おまえの腕は確かだ。そこは自信を持てばいい」
山羊頭はまたも耳打ちした。
「――何。人間の食事について勉強したいと? それは本当か? そうか、うむ。よく、よく言ってくれたぞ、ロジー。とても素晴らしい試みだ。おれは心から期待している」
側に控えていたトーマがアミルに囁いた。
「貴女の舌に合う食事が出てくるのはまだまだ、当分先ということになりそうですね」
アミルはがっくりと肩を落とした。
「森にあったまずい木の実ですら今は恋しいよ……」
「……では、人間の舌に合う料理をロジーが作れるようになるまで、私が人間用の料理を魔法でお作りいたしましょうか」
アミルは喜びに目を輝かせた。
「さすがはトーマさん! ぜひぜひお願いっ!」
一方のレイたちは、未だこそこそと内緒話を続けていたのだった。
◆◇◆
アミルの生活習慣は、悪魔たちの試みによって大きく変化した。
まず大きな変化として、レイが偶然人間の書物から【時間】という言葉を見つけ出したことから、アミルの生活に【時間】というものを組み込まれることとなった。といっても、永久の時を生きる悪魔にとって【時間】に対する理解は非常に乏しく、人間界の書物を頼りに【時間】という概念を知ることから始まったのであるが。
レイは屋敷内の悪魔たちに命じて、人間界から時を刻む【時計】なるものをいくつか持って来させた。これらを魔界で動かしてみたところ、どうやら魔界の流れる時間と人間界の流れる時間は完全に一致しているわけではなかったためにうまく機能しなかった。しかしこれで諦めるレイたちではなかった。
彼らの試行錯誤の末、【時計】はなんとか朝、昼、晩の三つの区分を針で指し示すことができるようになった。
森の中での生活では、ただ漠然と一日一日を過ごしてきたアミルにとって、時間で区切って生活することは、人に捨てられてからは久しい取り組みであった。慣れないながらも、アミルは尽力してくれた悪魔たちのために、何とかそれに順応しようと努めた。
朝になると、トーマが決まった時間にアミルの部屋まで起こしに来てくれる。
朝・昼・晩の食事はレイと共にとる。食事後などの空いた時間には、レイやトーマだけではなく、ミクリや他の悪魔たちもがアミルの遊び相手になってやって、屋敷内をのびのび駆け回った。元気で活発なミクリは、悪魔にしか使えない魔法をいくつも披露してはアミルを喜ばせてやった。
夜になると、アミルは自らの部屋に戻り、アミルは眠くなるまで人形と遊んだり、明日着る服を選んだり、トーマとおしゃべりしたりして過ごした。そして眠くなったら、トーマの語る不思議な物語をききながら、アミルは目を閉じ、眠りにつくのであった。
与えられる服はどれもこれもが綺麗で可愛らしく、ベッドはふかふか。お腹が減ったらトーマが魔法で食事を出してくれるし、ロジーが作る料理もほんの少しずつではあったが、上達していた。――このように確かにアミルの生活の質は格段によくなったのだが、アミルはこの変化に対してはそれほど重きを置いていないようでもあった。
アミルの周りで起こった変化の中でで何よりも、何よりも喜んでいたのは、自分はもう独りぼっちではないということだった。屋敷の中、どんな悪魔もアミルに優しく接してくれた。名前を呼べば、反応してくれるし、問いかければ、答えてくれる。そんな人間としては当たり前の活動が、アミルにとっては貴重で、飛び上がりたいほど嬉しいことだった。
そして驚くべきことに、この悪魔との不思議な生活は、アミルが同じ人間の家族と過ごしていた頃よりずっと、充実しているようにアミルには感じられるのだった。『一人』と『独り』は違う。アミルは頭でなく心から理解していた。自分を捨てた家族との生活は、確かに『一人』ではなかったが、絶えずささやかれる自分への悪口が、自分などいなくてもいいのだという気を起こさせた。それは、孤独だった。誰ひとりとしてアミルのことを見てくれた者はいなかった。アミルはいつも独りで、いつも寂しかったのだ。
しかし、今はどうだろう。この屋敷には人間は自分一人しかいないけれど、決して孤独ではない。レイをはじめとする悪魔たちは約束通り(約束を覚えているかどうかは少し不安だったが)、自分と仲良くしてくれている。それは自分が人間という珍しい存在だからということも、もちろんあるだろうが、それだけであれば別に必要以上に関わり合うことはしなくていいようにも思う。まだまだ彼らの考え方は分からないけれど、彼らから向けられる温かな情をアミルは感じ取っていた。そしてアミルはそれを疑うことなく、心から信じていて、彼女もまた同じ気持ちを返そうとしていた。
こんなにもおおきな変化を彼女にもたらしたのは、他でもないレイという悪魔の存在。意地悪で素っ気なくて、時々アミルの想像をはるかに超えた試みをしようとする彼であったが、それでもアミルは悪魔の中で、彼が一等好きだった。彼には遠慮なく物も言えたし、彼のためなら少しくらい怖いことでもやってあげたい気持ちを強くもっていた。アミルはアミルなりに、レイと一緒にいる時間に大事にしていた。
◆◇◆
そんな安定した生活が送れるようになってから、ある日のこと。
昼食の席でレイは突然こんなことを言い出した。
「そろそろおれの『人の子』もそれなりに様になってきたんじゃないか? そう思うだろ、トーマ?」
トーマは微笑みをもってレイに返した。彼は満足そうに頷いた。
「……となれば、だ。さっそく披露宴を開かなくちゃいけないな」
「披露宴?」
アミルは皿に盛られた料理を口に含みつつ尋ねた。
「それって何? レイたち以外の、いろんな悪魔がここにやってくるの?」
「そうさ、披露宴なわけだから。おまえを見にやって来るわけだ」
アミルは恐る恐る尋ねた。
「それって、こ、怖い悪魔も来るんだよね? わたしのこと知らない悪魔がいっぱい、……」
アミルは途端に不安げに瞳を揺らした。
「ううう。それってわたしも出ないとだめかなぁ、」
「おいおい、アミル。おまえはちゃんとおれの話をきいていたのか? いいか、披露宴だぞ? おまえ以外の何を披露するっていうんだよ」
「だって……」
「何を嫌がることがある? いたるところから悪魔がいっぱいくるんだぞ。賑やかでいいじゃないか。人間はそういう、群れてわいわい騒ぐのが好きなんだろ? だからおれたちも、」
「……そりゃ、レイみたいな悪魔ばっかりならいいけど」
「おれみたいな悪魔ってなんだ?」
「だから、その、怖くない悪魔とか」
「怖い悪魔って何だ」
「その、わたしの嫌がることをしない悪魔とか」
「何だそりゃ」
「――とにかくわたし、悪魔でも人間でもいっぱい集まってる場所が苦手なの!」
アミルは「ごちそうさま!」と手を合わせると、そそくさとその場から逃げ去ってしまった。
残されたされたレイと従者の悪魔たちは、小さく集まってアミルの不可解な言動を分析し始めた。
「どういうことだ。さっきまであんなに元気だったのに。披露宴をやると言い出した途端にああなった……」
悪魔たちは口々に騒ぎ出した。それを制しながら、レイはそれぞれに話を聞いていった。
「披露宴が嫌だってことですよね? しかも大勢集まるところが苦手だって言ってましたね」「賑やかな場が嫌いな人の子なのではありませんか?」「なるほど。じゃあ、招待する悪魔の数を抑えて、なおかつ、レイア様のような悪魔を選べば……」
レイは首を傾げる。
「それなんだ、わからないのは。一体なんなんだ、おれみたいな悪魔というのは? それは、あれか、おれみたいな顔をした悪魔ってことか? となると、人間の生体に近い一頭二手二足の悪魔ということになるのか?」
主の言葉に、悪魔たちはさらにざわめく。
「なるほど、そういうことだったんですね! そうと分かればさっそく、招待状をお作りしましょう」「それにしても宴とは、久しぶりじゃありませんか?」「美味しい料理と素敵なドレス、そして豪華な披露宴。これがあればどんな人間もご機嫌になるにきまっていますよ、レイア様!」
レイは満足げに頷きながら、アミルの去って行った方を見やって、にやりと口角を上げた。
「待ってろアミル、おれたち悪魔が、豪華で豪勢な披露宴にしてやるからな……!」
◆◇◆
朝。アミルはベッドの中でうずくまりながら、扉がノックされるのを今か今かと待っていた。昨日は披露宴のことが気になって少しも寝付くことができなかった。不思議な物語を語ってくれたトーマに、さりげなく披露宴のことを聞いてはみたのだが、ただ一言「楽しみにしていてくださいね」としか答えてくれなかったのだ。
いつものアミルであれば、レイの申し出に喜んで応えてみせただろう。しかし、全くの見知らぬ悪魔と顔を合わせるということは、さすがの彼女でも恐怖心を隠し切れなかった。……もし、悪魔に痛いことをされたら。魔法でいじめられたら。他にもあんなことや、こんなことをされたらどうしよう、と次から次へと心配事が浮かんでくる。それに、この披露宴では他でもないアミルを披露するために開かれるのである。いつも一人で――独りだったアミルにとって、自分以外の何かと出会うというのはそれなりに不安を覚えることであった。
そんなことをつらつら考えていると、トーマの控え目なノックが聞こえてきた。
「アミル様、お目覚めですか? レイア坊っちゃんがお呼びです」
「う、ん……」
アミルはベッドの上でもぞもぞ動いた。普段であれば、ベッドから飛び出して、トーマに食事処まで連れて行ってもらうのだったが。
「アミル様?」
トーマは何度かノックをしたが、返事がなかったので静かに扉を開けて入ってきた。
「まだ夢の中ですか?」
「ち、ちがうよ」
アミルはシーツにくるまりながら、窺うようにトーマを見上げた。
「きょ、今日、……今日さ、披露宴の日だよね」
「ええ。アミルさまがお目覚めになったら始めると仰っていました。既に多くのお客様がお見えになっていますよ。さあ、アミル様も」
「……いっ、行きたくないなあ」
ぎこちなく笑顔を浮かべるアミルを見て、トーマは微笑んだ。
「そう仰ると思って、レイア坊っちゃんが色々と工夫なさっていましたよ」
「えっ」
「一度、お顔をお出しになってみてはいかがですか? レイア坊っちゃんも外でお待ちになっていますから」
促されるままにアミルはベッドを抜け出した。やはりトーマには、優しさの中に厳しさが――『いいえ』を言わせない雰囲気があった。
部屋の外では、レイが壁にもたれてアミルを待っていた。
「よっ、今日の主役がお目覚めだな。こっちだ、こっち」
そう言ってレイが指さしたのは、昨日まで何のへんてつもない、ただの壁だった場所である。白い壁は、可愛らしいハート形の扉に姿を変えていた。レイは得意そうににやにやしていた。
「おまえが眠ったあと、こっそり作ってみた」
入ってみろよと言われ、恐る恐るアミルはドアノブを引いた。開かれた扉の隙間から、弾けるようにまばゆい光が幾筋も漏れだした。
アミルはあまりの眩しさに目がくらんだ。目の上に手をやりながら、ゆっくり足を踏み入れる。そこには、大小さまざまの宝石が散りばめられたドレスや装飾品がずらりと一面に用意されていた。アミルは一度その場に立ち尽くしたが、すぐにそれらの美しい物たちへ駆け寄った。テーブルの上には、大粒の紅玉の指輪に、金や銀の首飾り、翡翠の耳飾りに、花びらを模した桜色の水晶の髪飾り、絹のリボンが虹を描くように並んでいた。その中に、人間の言う【美】を模索した結果、まがまがしい骸骨の頭のついたブレスレットや目玉のついた鎖などもあった。それを見て一瞬ぎょっとするアミルだったが、しかしそれほど心に留めることなく、輝く装飾品たちを次々に見て回った。足元には、革や硝子の靴が一列に並べられていた。アミルはしゃがみ込み、食い入るように見つめた。アミルの瞳はきらきらと輝いている。立ち上がり、移した視線の先には、クローゼットに収納された美しいドレスがあった。赤、黄、緑、青、白、他にも多様な色があり、襟元やスカートの形など細かなところまでそれぞれに違っていた。アミルはクローゼットをのぞっこんでは、その美麗さに「ほう、」と溜息をもらし、自らの手で触れることもせずに、ただただ我を忘れて見惚れていた。
そんなアミルの様子を、レイは最初こそ満足げに頷いていたが、次第にじれったくなったのだろう、ずかずかと部屋に入って声を掛けた。
「な、すごいだろ? 人間界に行って、色々とおまえが喜びそうなものを勉強してきたんだ。これはぜーんぶ、おまえのものだ。さ、好きなのを選んでみろよ」
「わたしの……? え、で、でも、こんなのもらえないよ……」
レイの声に、夢から醒めた心地になったアミルは途端に気おくれしてしまい、すっかり俯いてしまった。
「こんなに綺麗なのに……わたしがつけたら、よごしちゃうかも」
レイは驚愕のあまり、しばし言葉を失った。
「何言ってるんだ、おまえのためだけに用意させたのに」
「だって、」
「どうした。気に入らなかったのか?」
「ち、ちがう! とっても気に入った! だけど、わたし、あなたから色んなものをもらってばっかりで――」
「そんなことか。人間は与えられないと拗ねるくせに、与えられすぎると拒むんだから面倒だな」
レイはやれやれと大袈裟に肩をすくめた。
「おまえは素直に喜んでいればいいんだ。それがおれにとって一番喜ばしいことなんだから」
「でも……」
見るに見かねたトーマが前に出て、アミルに耳打ちした。
「アミル様、考えてみてください。アミル様が一生懸命選んだプレゼントを、断られたとしたら、どのようなお気持ちになりますか?」
「えっ、……いやな気持になる?」
トーマはふっと微笑んだ。
「おんなじですよ」
アミルはすっかり納得して、ようやく今日身に纏うドレスや靴、飾りを選び始めた。右を見ても、左を見ても、部屋中綺麗な物ばかりで迷う。アミルは試しに腕を通し、装飾品を身に付けてはレイに見せた。すっかり浮かれているアミルの様子を見て、機嫌を直したレイは可笑しそうに見守っていた。アミルは思う存分、鏡の前で見比べて、今日の服装を決めた。
「出来上がりか?」
椅子に腰かけていたレイはゆっくりと立ち上がった。
「うんっ!」
「よし、じゃあ行こうか」
アミルは頬を赤く染めながら、レイの腕につかまった。
「レイ、ありがとうっ」
「……? 何か言ったか?」
彼には聞こえなかったようだった。
◆◇◆
彼が案内した部屋は、アミルのよく知る、いつもの屋敷とはずいぶん雰囲気が違っていた。だだっ広い空間に、目の痛くなるような豪華な飾りつけ。所々、アミルとしては、いかがなものだろうかと思うようなおぞましい飾りもあったが、どれもこれも素晴らしく、趣向を凝らした飾りつけであった。丸テーブルの上には、大輪の花がうつくしく活けられていた。
見知らぬ悪魔が大勢いる。アミルは思わず身を固くした。が、彼女の予想していたほど悪魔は多くはいなかった。至る所で耳慣れない悪魔の言語――【魔語】が聞こえてくる。
悪魔たちはそれぞれの手にグラスを持って、赤や白の液体を口にしていた。アミルはまるで自分が異世界にいるかのような気持ちになった。しかし、比喩ではなく、真実自分は魔界という異世界にいることに改めて気づかされた。
「これが披露宴、なんだね……」
「これでも数を減らしたのですよ」
控えていたトーマが囁いた。
「悪魔は人間ほど多くは存在していません。ですが、数百は超える悪魔がこの魔界には存在しています。まあ、実際に数えたわけではありませんから、厳密には違うでしょうが。――本日お招きしたのは、その数百魔の中でも、貴女が嫌悪感を抱かないであろう悪魔を、レイア坊っちゃん自らがお選びになった者たちなのですよ」
「どういう基準で選んだの?」
「主に人間型の悪魔ですね」
「そうなんだ、」
「よってロジーは今回不参加となりました」
それを聞いてアミルは、頭の中にぱっとしょんぼりしているロジーの姿が浮かんだ。一緒に生活していてわかったことだが、ロジーは意外と打たれ弱かった。悪いことをしてしまったとアミルは思った。ふと、食事の置かれたテーブルを見ると、ほとんどが悪魔用に作られたものであったが、その中に小さく、アミル専用の料理も置かれていた。後で謝りに行かなくちゃ、とアミルは思った。
突然、隣に立っていたレイが大きく手を叩き、皆の注目を集め始めた。
「注目!」
魔法を使ったのであろう、ちょうどレイとアミルが立っていた床が丸く切り取られ、ゆっくりと浮かび上がった。丸い床はそのまま彼女たちを乗せて、上へ上へと伸びていった。パチン。指を弾く音がした。その音を合図に、部屋の明かりが一瞬にして消えて暗くなった。それから間を置いて、またパチンと音がする。次の瞬間には、天井の方からスポットライトのような明るい光が射し込み、アミルたちを照らし出した。
急なことに驚いたアミルは、思わず彼の方へと身を寄せた。レイは一呼吸おいて非常に堂々とした口振りで話し始めた。
「やあ、諸君。よく集まってくれた。今日集めたのは他でもない、おれの育てた人間を皆にみせたかったからだ」
アミルはぴくりと肩を震わせた。
「みてくれ、」
場にいる悪魔たちの視線が集中するのが、下を覗かずともアミルには分かった。
「これがおれの育てている人間だ。名はアミル」
ここまで来てしまったら、仕方ない。アミルは一歩前に出て、一礼した。アミルは今、多くの悪魔の注目を浴びている。口を引き結び、なんとか耐えようとしたが、すぐに彼の後ろへと逃げ込んだ。
「おい、なんで隠れるんだ」
「な、なんとなく」
レイは呆れたように溜息を吐いたが、改めて皆の前に向き直って、
「このように、まだまだ大したことのない人間の子だが、」
彼はアミルを一瞥した。
「こいつは近いうちに、大物になるとおれは思っている」
アミルは不思議そうに彼を見つめ返した。彼が何を思ってそう言うのか、わからなかったからだ。レイは笑った。悪意のない、純なる心からの笑みだった。
アミルたちが降りてくると、下にいた悪魔は待ってましたと言わんばかりにわらわらと群がってきた。たちまちレイや屋敷の悪魔は取り囲まれ、質問攻めにあった。
【人間の子は何を食べるのか? 何を目的に生まれたのか?】【何の能力を持っているのか?】【それは良い時間つぶしになるのか?】――など、悪魔たちからの質問は尽きない。
アミルは群衆を避けてひとりになろうとしたが、彼女の姿をめざとく見つけた悪魔が次から次へとやってくる。アミルは側にいたトーマに助けを求めて、小さな休憩室まで案内してもらった。
◆◇◆
「疲れましたか?」
トーマは心配そうにアミルを覗き込んだ。アミルはふるふると首を振った。
「ううん、大丈夫。いっぱい悪魔がいたから、びっくりしちゃっただけだよ。ちょっと休んだらすぐ治ると思う。……トーマさん、忙しいんでしょう? レイのところに行ってあげて?」
アミルの言葉に渋る様子を見せていたが、やはり披露宴の方も気にかかるのであろう、何度も確認を取ってからトーマは彼女のもとを後にした。
通された場所は個室のような部屋で、真ん中に椅子がひとつ、それ以外には何もないところだった。椅子に腰かけ、ようやく一息をつけたアミルはぼんやり取りとめのない考え事をした。
――しばらく時が経った頃。誰かが扉をノックした。トーマが戻ってきたのかと思い、立ち上がるも、
「ごめんなさい、アミルさん。いますか」
見知らぬ少女の声に、アミルは足を止めた。
「だれ、」
「……カルマ様が、貴女と少しお話ししたいそうです。少しお時間いただけませんか」
話される言葉は非常に丁寧だが、どこか有無を言わさぬ気配があった。ここで断って話が大きくなるのも嫌だったので、アミルは仕方なく扉を開けた。そこには、金髪に黒いリボンをつけた可憐な少女が立っていた。アミルより幾分背丈が高く、凛とした表情を浮かべていた。が、伏し目がちの瞳には生気がなく、まるで作り物のようであった。
「開けてくれてありがとう」
「あなたは、……人間?」
「ええ、そうよ」
金髪の少女は、静かに部屋の中へと入ってきた。そしてその後ろには、扉よりも背の高い流麗な悪魔がついてきた。灰色の髪に、少し垂れた目尻、背はレイよりも高く、アミルは顔を思い切り上げなくては顔が見られなかった。よく見ると、この悪魔は非常に中性的な顔つきをしていた。トーマに似て絶えず微笑みをたたえていたが、細めた瞳の奥には、何やら強く固い信念のようなものが窺え知れた。
【やあ、初めまして。君とゆっくり話がしたかったんだが、ふいっと逃げられてしまったから追って来てしまった】
と艶やかな低い声で発せられた言葉は魔語であり、なんと話しているのか理解できずアミルは戸惑った。それを見ていた少女はすかさず、
「主は貴女と話がしたかったと仰っています」
と、アミルのよく知る人間の言葉で言い直した。アミルは目を丸くした。
「あなた、魔語がわかるの?」
「別にそんな驚くことじゃない。ちょっとだけよ」
金髪の少女は素っ気なく答えた。少女二人の会話に全く気を留めず、悪魔は再び口を開いた。
【貴女はアミルという名の人の子だそうですね。人間として生まれ落ちてから、人間時間で言うところの何年目になるのですか?】
アミルはすっかり弱って、少女に問いかけた。
「こ、この悪魔はなんて言ってるの?」
「貴女はいくつなのって」
「わたしは十四歳だけど……」
アミルの返事を聞くと、金髪の少女はうんと背伸びした。悪魔はその少女の方へ耳をすませた。
【十四だそうです】
【おや、十四か。それにしてはやや小さいようにも感じる。えっと、君はいくつだったっけ】
【あたしは十六になります】
【そうだった、そうだった。じゃあ、君の方が年上だね】
悪魔は微笑んだ。
【ちゃんと自己紹介はしたかい?】
金髪の少女はくるりと振り返って、アミルと向き直り、丁寧にお辞儀した。
彼女らの魔語のやり取りを全く理解できなかったアミルは、分からないながらも金髪の少女に対してお辞儀を返した。
「え、えっと? なんでお辞儀?」
「あたしはディーナ。よろしく」
「あ、うん。わたしはアミル。こちらこそよろしく……」
ディーナと名乗った少女はわずかに眉を顰めた。
「何」
「え、あ、ごめん。なんだか、わたし以外の人間を見るの、ずいぶん久しぶりだったから……」
アミルの言葉に、ディーナはくだらないと言いたげに、鼻を鳴らした。
悪魔はしばらく二人の様子を見ていたが、おもむろに何かを話し始めた。どうやらアミルに魔語がわからないように、悪魔にも人間の言葉がわかっていないようだった。ディーナは彼が話し始めると、アミルを無視してすぐに悪魔の方に向き直った。
【うーん。私も人間の子を何人か所有しているけれど、人の子を引き取るような物好きが私の他にもいたとは驚きだなあ。ね、貴女の主は何を目的に引き取ったのでしょう。貴女は御存じかな?】
「何故、貴女は拾われたの?」
ディーナは簡潔に尋ねた。アミルは戸惑いながらも答えた。
「え、えっと……なんでだろう。ひとの子を育てたいから、って」
すぐさまにディーナによって翻訳された言葉に、悪魔は驚いているようだった。
【へえ! たったそのためだけに人間を? 人間を育てたところで価値などないではありませんか】
悪魔は不思議そうに首を傾げた。
【てっきり、遊び道具として引き取ったのだと思っていた。ああ、だからこんなに元気に動き回っているんだね】
「な、なんて?」
ディーナは振り返り、ひどく面倒そうに答えた。
「育てるためだけに拾うだなんて、モノ好きにも程がある」
「えっ」
「ふつう悪魔が人を拾うときは、ちょっとしたお遊びのため。人間の身も心も傷つけて、もてあそぶためよ」
悪魔はひとりで納得したように頷いている。
【なるほどね。人間を引き取るにも、色々と理由があるということだね。……どうやらこの屋敷の主と私とは少し嗜好が違ったようだ。とても残念に思うよ】
悪魔はディーナの方を見た。質問の時間は終わったのだ。アミルは思わず、少女の手を引いた。
「何?」
「あ、あなたもしかして、この悪魔にいじめられてるの? だからそんなに冷たい目をしているの? わたしも人間を久しぶりに見たけれど、……こんなに生気のない人間は初めて。まるで、お人形さんみたい。……何か理由があるの? わたしに何かできることは……」
「この方はそんなことしない!」
少女はきっとアミルを睨み付けた。アミルはその目の鋭さにたじろいだが、内心では安堵の息を吐いた。――なんだ、この子も自分と同じように悪魔とともに楽しく過ごしているじゃないか。そうアミルは思ったが、それにしてはどうにも、少女の瞳が妙に暗く翳っているように感じられた。
【貴重な時間をありがとう。では、失礼】
アミルが何かを言う前に、悪魔は持っていたステッキで地面をコツンと鳴らした。辺りが白い煙に包まれ、煙が晴れた頃には少女も悪魔もその場から消え去っていた。
◆◇◆
披露宴が終わり、また平和な毎日が始まった。
朝食を終えたあと、ソファに腰掛けていた彼の横に座り、アミルは披露宴で起こった出来事を話した。悪魔に拾われた少女ディーナのこと、そしてその少女はどこか暗い瞳をしていたこと。
「ディーナが言ってたの……ふつう、悪魔が人間を拾うのは、人間を傷つけて遊ぶためなんだって。レイは、ちがうんだよね――ほんとに、ちがうんだよね?」
口にした時、アミルの心の中ではディーナの暗い瞳が思い浮かんでいた。
どうして、あんな切なげな目を、彼女はしていたのだろう。それは、悪魔に拾われたアミルを憐れむようでもあった。
そんな目で見つめられ、アミルは途端に不安になった。しかしそれは彼に対する信頼の揺らぎではなく、あくまで彼とふつうの悪魔は違うということを確認しておきたいという気持ちから来るものだった。彼に否定してもらって、安心したかったのだ。
そんなアミルの思い通り、彼はすぐさまアミルの言葉を否定してくれた。しかし、
「おまえは疑ってばかりだな。疲れないか?」
呆れたように、レイは肩をすくめた。
「おまえは今まで、おれの何を見てきたんだよ」
その声にはどこか棘々しく、不機嫌さが漂っている。珍しく苛立った様子の彼に、アミルは思わずたじろいだ。
「これ以上勘違いされても面倒だから、この際言っておくが。……いいか、おれがおまえを拾ったのは、単なる暇つぶしのためじゃない。おれの本当の目的は、崇高で純粋な、飽くなき知への追究にあるんだ」
「ついきゅう?」
「そう。おまえたち人間が【心】と呼ぶもの。目にも見えない、触れもしない、しかし人間の奥底に確かにあるもの。感情のかたまり。おれはこれが知りたいんだ。これがどうやって作り出されているのか、その形成過程に興味があるんだ。だから、おまえの身体なんかを痛めつけて楽しむことに興味はない。第一趣味じゃないからな」
「べつに人間じゃなくたって、レイたちにも心はあるでしょう?」
「多少の感情ならな。しかし人間の感情ほど彩られてはいないさ」
「そうなの?」
「そうさ。――ほら。おれは手の内ぜんぶ明かしたぞ。これで満足か?」
言われたアミルは黙って、彼の瞳を見た。その瞳はどこまでも濁りっ気がなく真っ直ぐで、彼が嘘を言っているようには少しも思えなかった。
アミルは恥ずかしくなって、顔を真っ赤にした。
「ごめんなさい、レイ」
「別にいいさ」
「……怒った?」
「これが怒りというものなんだろうか、どうなんだろうか。はて。……しかし、久しぶりにこんなにも感情をふるわせた。悪魔には快か不快かしか感情は生まれないと聞いていたが、おれの中にもこんな感情があったんだな」
言って彼は、急に何やら考え込み始めた。
「――それにしても、だ。そのおまえが会ったカルマという悪魔は、一体何のために人間を拾ったんだ? おれのように育てる目的でもないわけだし、ふつうの悪魔とも違うんだろ?」
「さあ、わかんない。でもなんだか、あの子、変な感じがした……」
「なら少し、出かけてみっか」
レイはひとりごち、近くにいた悪魔にアミルの面倒を頼んだ。
「レイ、その悪魔のところに行くの?」
「ああ、ちょっと気になることもあるからな」
そう言って、レイは指を弾いて姿を消した。彼を見送った後、アミルはぼんやり、あの金髪の少女に想いを馳せた。
◆◇◆
「アミル! 寝ちまったのか、アミル!」
レイが興奮気味に帰ってきた。
部屋に戻っていたアミルはその場で「なあに?」と答えた。一呼吸おいて、レイがアミルの目の前に現れた。相変わらず魔法は便利だなとアミルは思った。何度か悪魔たちに習ったこともあるのだが、魔法を使うために必要な力がアミルには備わっていないのか、全く発動しないのだった。それが何となくうらめしくって、アミルはちょっとひねくれたことを言ってみた。
「なんでいきなり魔法で入って来るの? ちゃんとトーマさんみたいにノックしてから入ってよ、」
「そんなことより色々と情報を得てきたぞ」
悪魔はばっさり切り捨てた。アミルは少々不満に思いながらも、話を聞いた。
「さっき仕入れた情報なんだが、どうにも人間はある年齢に達すると、【学校】と呼ばれる教育機関に通うものらしい。カルマは既に、人間界から何人か捨て子を引き取っていて、そのうちの数人を【学校】に通わせているようだった。何で拾ったかは教えてくれなかったんだがな。話してみて、どうにもあいつとは意見が合いそうになかったが、それでも情報交換できたのはおれにとって十分な収穫だった」
ふと彼はアミルを見つめた。
「おまえは、【学校】について何か知ってることはないのか?」
「うーん。大きくなったら行くところ、としか」
「なるほどな。ま、とにかくおれは【学校】について調べてみるさ」
話を終えて、部屋から出て行こうとする彼に、アミルは慌てて問いかけた。
「……ディーナは? どうしてた?」
「おまえが言ってた金髪の人の子だったか? 屋敷の隅っこの方でちょこんと大人しく座ってたぞ。そういや、そのディーナって人の子も例の【学校】に行ってるらしいぞ。ま、それについても調べておくさ。忙しくなるな」
「うん、」
「お、そういやもう夜だったな。早く寝ろよ?」
そう言ってレイは彼女の部屋を後にした。アミルはベッドに寝転がって、ぼんやり天井を見つめた。
――【学校】。また、アミルの知らない言葉が出てきた。次はどのような変化が彼女を待っているのだろう。
遠くなる意識の中で、アミルは世界の変わる音を聞いた気がした。
◆◇◆
それからしばらく、レイたち悪魔は【学校】というものを知るために、人間界に出向いたり、書物を開いたり、思考したりしていた。忙しそうな悪魔たちはなかなかアミルの遊び相手になってくれず、ここ最近、アミルは何となく面白くなかった。
暇になったアミルは二階にあるレイの書斎を訪れた。そこでは至る所からページをめくる音、羽ペンで紙に記す音が聞こえてきた。辺りを見渡すと、本が空中に浮かんで見えない手でめくられているかのように休むことなくパラパラ頁が開かれるのだ。アミルは背伸びして本の頁を覗いてみた。羽ペンがすっと彼女の目前を横切って、頁の余白に書き込みした。不思議な光景だったが、魔法にすっかり慣れてしまったアミルは感心した様子でうろうろしていた。部屋の奥、レイは例の辞典を手に、ぼんやり眺めていた。
「レイ―、まだ調べ物―?」
「ああ、アミルか」
アミルは、近くにあった小さな丸椅子を引き寄せ、彼と机を挟んで向き合った。
「ね、ね、レイは人間よりずーっと魔法が使えるでしょ? どうして一々調べたりするの? もっと便利な方法だってあるでしょ? わざわざ自分の手で書く必要がないような気もするけど?」
レイは本から目を離さず、片手で頬杖をついて答えた。
「自分の手で調べてこそ、面白味があるだろう?」
「そうかな。わたしだったら絶対魔法を使うと思うけど」
「魔法ばっかりだとな、たまには自分の手も動かしてみたくなるんだよ」
「ふうん、」
アミルも真似して両手で頬杖をついた。そうして互いに目を合わせ、にやにやと笑い合った。
階下で、からんと玄関の鐘の鳴る音がした。レイは持っていた辞典を勢いよく閉ざして立ち上がった。
「トーマが帰ってきた」
アミルは彼を見上げて尋ねた。
「今日も作戦会議?」
「いや、必要な会議はすべて終了している。今日から一大計画が実行される」
空中に開かれた本は次々に閉ざされ、字を書いていた羽ペンが元の場所に戻される。灯りが消え、部屋は真っ暗になった。
「おいで。今日からおまえも参加するんだ」
「あ、うん!」
欄干から乗り出して、アミルは階下にいるトーマに手を振った。
「トーマさあん。こっちーっ」
言い終えた後、一拍置いて、彼女の隣にはトーマの姿が現れた。悪魔が魔法で瞬間移動することに、すっかり慣れたアミルは特別驚きもせず、
「魔法でびゅーんと移動できるから、背中の羽根があんまり意味がないね」
「たまに飛んでいますよ。飛び方を忘れないように」
「へえー。今度乗せてくれる?」
「いいですよ」
先に行っていたレイが、扉から顔を出した。
「アミル、トーマ。こっちだこっち」
呼ばれて中に入ると、そこは椅子も机も何もない真っ白な部屋だった。どうやらまた、新しく魔法で作った部屋らしかった。
部屋の真ん中にレイが腰に手を当てて立ち、アミルの到着を待っていた。
「よく来た、アミル。今日からこの部屋は、おまえの居場所になるからな」
「……どういうこと?」
「まずは、トーマからの説明がある」
トーマは律儀に頷いて、前に一歩進み出た。
「まずは【学校】についての説明から始めますね。学校とは、一般に人の子――子供を人間の大人が教育する機関の名です。そして、教育を受ける側の人間を【生徒】、学校で子供を教育する立場にある人間のことを【教師】、と呼ぶようです。また、学校に通うことは、人間社会の中で義務化されていることらしく、対象年齢は十三から十八まで。これを十五で区切って、十三から十五歳を中等学級、十六から十八歳を高等学級と呼ぶようです。アミル様は十四なので、今のでいくと中等学級の二年目ということになりますね。
学校では【授業】と呼ばれる、勉学のための時間が設けられています。まだその内容については詳しく分かっていませんが、この授業を受け、それなりに優秀な成績を修めることができれば、将来、人間社会でうまく適応できるということになるようですね。十八歳で学校を出て、それぞれの得意分野を生かして社会で働く。これが人間社会の大まかな流れです」
アミルは分かったような、分からないような顔をしていた。
「授業、ってどんな感じ?」
「時間で区切っているようですね。一つの授業は平均して五十分程度、一日では六から七時間ほど授業があります」
「ふうん、」
あまり具体的に想像できていない様子のアミルに、レイは伝えた。
「前にも言ったが、カルマが引き取った人間も【学校】に通う者がいるらしい。まあ、カルマの場合は気紛れに通わせているのだろうが、おれは違うぞ。いいかアミル、いつまでも魔界に居ては、自分が人間なんだということを忘れてしまうだろう? しかしおまえは人間だ。そしておれが知りたいのも人間。おまえにはちゃんと人間らしく生きてもらわないとな!」
「レイは、わたしが学校に行って、わたしの心が変わっていくのが見たいってことだよね?」
「その通りだ」
「じゃあ、行く」
アミルは素直に頷いた。
「学校がどんなところかはわからないけど、他の人間の子に会えるの、ちょっと興味あるし。——それに、ディーナとも、悪魔のいないところで色々と話してみたいし。……彼女と同じ学校に行くことできる?」
アミルの問いを受けて、トーマは持っていた紙の束をぱらぱらめくった。
「そうなりますと、アカメイア女学校、という学校になりますね。どうやら人間の女子のみを集めた学校のようです。ではこちらの方で手配などを済ませておきますので、ご安心くださいね」
「ありがとう、トーマさん!」
はしゃぐアミルに、レイはたしなめるように指を立てて振った。
「喜ぶのはまだ早いぞ、アミル。【学校】に行く前に、おまえは知らなくちゃならないことが山ほどある。たとえば授業の流れや学校の決まり、人間との接し方などなどだ」
「どういうこと?」
「つまり、おまえには【学校】へ通うための予行練習が必要だ」
レイは勢いをつけて大きく手を叩いた。音が辺りに響き渡ったのを合図に、真っ白の空間が一瞬にして様変わりした。
アミルたちの目の前に現れたのは、等間隔に並べられた子供用の机と椅子に、壁に掛けられた緑の板。板の前には背の高い机があり、その上には小さな箱が置かれており、中には白、赤、黄色の短い棒が仕舞われていた。どうやらこれで板に字を書くらしかった。箱の隣には字を消すためのスポンジが置かれている。
レイはもったいぶるようにゆっくりと緑の板の前に移動した。
「これが、【教室】だ。学校に通う生徒らは自分に割り当てられた教室に入り、授業を受けるそうだ。この板が【黒板】、この棒が【チョーク】と言う。これらを使って教師は授業を進めていく、というわけだな。この教室の様子は人間が書いた資料にあった写真を忠実に魔法で再現したものだ。まず間違いはないだろう」
そしてレイは高らかに宣言した。
「今日から、おまえの生活に【学校】という習慣を組み込むぞ。まずは集めた情報をもとに、【授業】なるものを一つ試しに行ってみたいと思う」
早速、とレイはアミルに机のひとつに座るよう指示した。
「いいか、そこはおまえの席だ。学校では一人一人に机と椅子が設けられており、基本的に固定される。おまえだけの居場所だ。大事にしろよ」
「う、うん」
アミルは初めての取り組みに緊張しつつも、ひとつの遊びとして受け入れ、楽しんでいるようだった。レイはさらに説明を続けた。
「子供たちが教師のことを呼ぶ時は、【先生】と呼ぶらしい。だからおまえも、おれのことをそのように呼ぶんだ、わかったな?」
「わかった、センセイ」
「うむ」
レイは大きく頷いた。
「では、トーマは屋敷内の悪魔をここに集めてくれ。授業を始めるぞ!」
キーンコーンカーンコーン、どこからか開始の鐘が鳴った。アミルの席の隣には、人の子の代わりに悪魔たちが座っていた。
「起立、礼、着席!」
レイが叫んだ言葉に、アミルはきょとんとした。
「な、なに? 何をすればいいの?」
隣に座っていた悪魔が小声で教えてくれた。
「立って、お辞儀して、座ればいいんですよ」
アミルはぎこちないながらも言われた通りにした。
教壇に立つレイは、何やら黒板に文字を書きつけ始めた。が、アミルには少しも読めない字であった。隣の悪魔に尋ねた。
「何て書いてあるの?」
「適当に字書いてるだけですね。意味は特になさそうです」
ひとしきり字を書き切ったレイは、そのまま黙ってしまい、何かが始まるでもなく、ただ沈黙の時が流れた。アミルはしばらく大人しく座っていたが、たまらず、
「レイ、今何してるの?」
「センセイだろ」
「ねえセンセイ、今何してるの?」
「見てわからないのか。これが授業だ」
レイは手元にあった本を適当にめくった。
「いいか、基本的に【生徒】は【教師】が指名したときだけ発言できるんだ。そして発言したいときは、挙手する」
「きょしゅ?」
「手を高く挙げて、大きく自己主張することだ。こうだ、見てろ」
レイは自らの手を挙げた。「そして元気よくハイと叫ぶ」
「は、はい?」
「もっと大きな声で!」
「は、はいっ」
「よし、良い返事だ!」
レイは座っていたアミルの頭をとにかくぐしゃぐしゃにかき撫でた。
「そしてすかさず褒める。これが【先生】だ」
その後はアミルから順に生徒たちに挙手をさせて褒める動作を繰り返した。そして、終了の鐘が鳴った。
「どうだっただろう」
妙に達成感に満ち溢れた表情を浮かべるレイに、どう答えるべきかを迷っていた悪魔たちだったが、トーマがぼそりと、
「褒めただけでしたね」
ミクリもしきりに首を傾げた。
「やっぱこれが悪魔の限界ってやつなんですかね? 人間の真似事はできないっていう。ま、そりゃそうですよ、こちとら悪魔なんですから」
「確かに完璧な再現を目指すとなると、幾分難しい試みになるかと思います。しかし、内容を真似ることはできませんが、体系を真似ることはできるでしょう。ここでは悪魔についての学習を進めていったらいかがでしょう」
トーマが提案すると、レイはすぐに頷いた。
「それはいいな。よし、おまえに一任しよう」
「あ、はい」
「しっかりな」
トーマに任せて満足したのだろう、レイは大人しく椅子に座っているアミルのもとへと戻り、楽しそうに遊び始めた。
◆◇◆
授業をすべて任されたトーマは、手始めに悪魔の使う言語である【魔語】を取り上げて授業を展開した。簡単な単語や文法など、日常会話でも使えそうなものを次々に黒板に書き記していき、詰め込むようにアミルに覚えさせた。
アミルは最初こそ、魔語独特の発音の難しさに苦労していたが、トーマの教えもあって、何とか簡単な単語であればうまく伝えられるようになっていった。
授業と授業の間の休憩時間に、アミルは授業参観していたレイに尋ねてみた。
「どうだった? わたしの魔語、うまくなったでしょ?」
「おお、それなりに聞けるようになったな」
「レイたちもこんな風に一から勉強して人間の言葉を習ったの?」
「いや? おれたちには魔法があるから」
レイの言葉にアミルは驚愕した。
「何それ! ねえ、わたしは? わたしも魔法を使って魔語が話せるようにならないの?」
「おお、試してみるか?」
坊っちゃん、とすかさずトーマがたしなめた。
「それは些か危険かと思われます。私どもが今まで、アミル様に掛けてきた魔法というのは、ある種、即物的なものばかりです。アミル様の身体を浮かせたり、物を出したり、移動させたり――。このような一瞬で魔法が完了するものであれば、人間にも効果することは確認済みです。が、しかし人間の思考や記憶、感情の働きに対して働きかける魔法は、今までどの書物を見ても使用された例がありません。何か異変があってからでは遅すぎますから、アミル様。ここはぐっとこらえて地道に学習なさった方が安全かと存じます」
アミルはトーマの説明の半分も理解していなかったが、彼がアミルを思いやってくれていることは何となく分かった。
「わかったよ、トーマさん。ふつうにがんばるよ」
「ま、日常的におれたちは人間の言葉――【人語】を使って話してるんだから、おまえに不都合はないだろ?」
アミルは頷いて、改まってトーマに向かって挙手した。
「今日は悪魔の魔法について教わりたいな、先生?」
「いいですよ」
トーマは柔らかに微笑んだ。
「ではどこから始めましょうか」
「レイが魔法を使うときはさ、指をぱちんぱちんって弾くことが多いでしょ? でも、ミクリとかは地面を踏み鳴らしたりして魔法を使うし、トーマさんは何もしないよね? 悪魔によって魔法の使い方って違ってくるものなの?」
そうですね、と考えながら、トーマは主をちらりと見つめた。
「何かの物音が魔法発動の必須条件、というわけではありませんが、手や足の動きがあると、集中しやすいですね」
その視線に気付いて、レイはふんと鼻を鳴らして答えた。
「トーマはこの屋敷の中で一番早く、魔界に存在した悪魔だ。だから、わざわざ集中せずともたやすく魔法を使うことができるのさ」
「いえ、それほどでも」
アミルは目を輝かせた。
「いいなあ、すごいなあ、わたしも悪魔だったら魔法をいっぱい使ってみせるのになあ……」
「人間でも、魔法を使うことができるようですよ? 悪魔に比べると、威力は格段に落ちていましたが」
アミルは席から身を乗り出し、尋ねた。
「えっ、それ本当っ?」
「ええ。昨今の【学校】では、魔法の使用法についても積極的に取り扱っているみたいです。楽しみですね」
はしゃぐアミルを横目で見ながら、レイは呆れ顔で釘をさした。
「あまり魔法を過信するなよ。悪魔の魔法にだって限界はあるんだからな」
珍しく否定的な意見に、アミルは不思議そうにした。
「えっ、たとえば? どんなのがあるの?」
「たとえば……魔界のものであれ、人間界のものであれ、進んでいる時間を相手に、魔法を使うことはできない。使っても、魔法が無効になるんだ。だから、過去現在未来へと一直線に進んでいく時の流れに効果することはできない。―
もし仮に、アミルが怪我をしたとしよう。それをおれが魔法で治してやるとする。その時おれが使う魔法は、おまえの身体を活性化させて、傷の治りを早くさせるものだ。おまえが怪我する前の時間に戻す、といった魔法は使えないって、まあそういうことだ」
「へえー。魔法にも、いろいろあるんだね」
トーマの授業では、悪魔の性質、彼らの背負う羽根の構造についても取り上げた。途中、退屈になったレイがアミルを連れ出すということもあった。他にもこのような妨害の例がいくつかあった。授業時間内でありながらも、ミクリが教室へ乱入してきたり、ロジーが料理を差し入れてきたり、などである。そういった出来事を除けば、人間の学校生活とよく似たものが出来上がっていたのである。
◆◇◆
いよいよ明くる朝、学校に行くことが決まったアミルは、落ち着きなく屋敷中をぐるぐるぐるぐる回っていた。階段を上っては下り、廊下を行っては戻りを繰り返す。部屋に戻って、レイに魔法で新調してもらった羽ペンや手帳を鞄から取り出しては仕舞う。そしてまた部屋から飛び出す。
楽しみ、不安、好奇心……。彼女のちいさな心の中では、言葉では言い尽くせない、様々な感情が生まれては消え、自分でも自分の心を持て余していた。
そんな様子を見かねたトーマは、手に一着の服を持って、アミルのもとを訪れた。
アミルは、頬を赤く染めながら、レイのいる部屋へ駆け込んだ。
「レイ、見て!」
アミルは大きく両手を広げた。彼女は真新しい制服に身を包んでいたのだった。校章のついた紺のローブに、丸い帽子、ネクタイは赤で綺麗に結ばれていた。膝にかかるくらいの長めのスカートに、革のブーツ。どれも彼女の体の大きさにぴったりで、とてもよく似合っていた。
椅子に座ってくつろいでいたレイは、ゆっくり身体を起こして、アミルの制服姿を眺めた。
「おお、それが学校に通う生徒の【制服】か」
「ネクタイはトーマさんが結んでくれたの!」
「うん、いいじゃないか」
アミルはレイの前で一回転してみせた。それから、はずむ息で彼のすぐ側まで駆け寄って、にやにや笑った。
「似合う?」
「似合ってるよ」
「わたし、これを着て学校行くのよ」
「楽しみだな」
「うん、楽しみ」
アミルはくすぐったそうに問いかけた。
「レイも楽しみ?」
「おれか? おれは別に関係ないから、」
「もうっ、楽しみって言って」
「……楽しみだ。大いに楽しみだとも」
「ふふ!」
それを聞くなり、アミルはまたもや、慌しく部屋を飛び出し、ミクリやロジーといった他の悪魔にも自分の制服姿を見せに行った。
そんなアミルの様子を一歩下がって見守っていたトーマが、くくっと笑い声を洩らした。
「人の子の前では、悪魔も形無しですね」
「……うるさいぞ、トーマ」
◆◇◆
今日から、アミルはアカメイア女学校に途中入学することとなった。
屋敷から出る際、アミルはトーマから悪魔の羽根を一枚渡された。
「アミル様はここからおひとりで学校に向かうということですので、私どもが魔界の空間を少しいじって、人間界と魔界とを繋ぐ扉を設けておきました。この悪魔の羽根が、その扉を開く鍵になります。失くさないよう、手首に巻きつけておきますね。――屋敷を出れば、すぐに人間界のとある場所に繋がるようになっています。アミル様がお帰りになる場合は、その場所からこの羽根を持って通り抜けてくだされば、このお屋敷の玄関まで帰って来られますから、安心してくださいね。では、くれぐれもお気を付けて」
「はあい」
レイはあらためてアミルの制服姿を眺め、にやにやと笑った。
「人間界に出れば、おまえが以前会ったディーナという人の子が待っているはずだ。詳しいことはそいつに聞け」
「はあい」
アミルは大きく返事をして、手を振った。
「じゃあ、行ってきます」
◇◆◇
玄関の扉をくぐると、世界が変わった。
――人間界。頬に触れる空気がほのかに冷たい。アミルは一度、深呼吸をした。緊張と興奮に震える手を握り締め、ぐるりと辺りを見渡してみる。彼女が今立っている場所は、寂れた森のはずれであるようだった。森。思う事は色々とある。ただアミルが驚いたのは、独りぼっちだった、大嫌いだったあの場所を思い出してみても、今ではそう大した思いを感じなくなってしまっていることだった。
しばらく黙ってぼんやり考え事をしていると、
「来たのね」
聞き覚えのある声が耳に届いた。アミルははっと顔を上げてそちらを見やった。
「レイア様の養い子、でしょう」
太陽の光を背中に受け、金色の髪が神々しく輝く。アミルは自分の目の前に立つ少女を見つめた。
「ディーナ……」
「物好きね。人間の学校に行くだなんて」
ディーナはカルマという悪魔と一緒にいた時より、ずいぶんと素っ気なく、アミルを突き放すような言い方をした。
「あ、あなたが学校まで案内してくれるの?」
「レイア様に頼まれたの。今日だけ、特別よ?」
冷たく言い捨て、ディーナはさっさと歩き始めた。呆気に取られて動けずにいるアミルを急かすように、
「早くついてきて」
「え、あ……うん」
ディーナに連れられて、森を抜け、道を歩く。久しぶりに家のような建物、大人や子供。人間だ。今までずっと魔界で過ごしていたアミルは、見るものすべてが新鮮に思えた。至る所に人間がいる。自分の足で歩き、自分の手で物を運んでいる。悪魔のように何でもかんでも魔法を使うのではなく、自分の身体を使って生活している。人間には魔法が使えないから、すべて自分でやらなくてはならないのかもしれないが、アミルはこういう自分で動いて何かをすることも大事かもしれないなとぼんやり思った。
辺りに気を取られていると、前を行くディーナとずいぶん離れてしまっていた。アミルは彼女を見失わないよう必死に歩いた。そんなアミルを苛立たしそうに見つめ、何か言いたそうにしていたディーナだったが、結局それについては何も言わず、必要最低限の情報だけを伝えるために淡々と説明した。
「ここは他の町と比べて人は少ないけど、安全な町よ。あそこに見えるのがアカメイア女学校。見栄えはいいけど、生徒数は少ないし、設備もあんまり。貴女がなぜ学校に通おうと思ったのかは知らないけれど、期待しない方がいいわよ」
ディーナの言葉も、興奮しきったアミルの耳には届かなかった。アミルたちが歩いている道の向こうに、立派な構えの校舎が見え始めていた。アミルは胸を躍らせた。ディーナは不機嫌そうに説明を続けた。
「正式名称は、アカメイア女子魔法学校」
「魔法?」
「今、人間界では魔法を使って、人類のさらなる発展を目指しているそうよ。悪魔の使うような強大な魔法は使えないんだけどね」
「じゃあ、みんな魔法が使えるんだね? わたしも魔法が使えるようになる?」
「そうだけど……そんなに喜ぶこと?」
「喜ぶことだよ!」
校門の前までやってきたアミルは、不安と緊張と、そして何より、はち切れんばかりの昂揚でいっぱいだった。立ち止まるアミルの前を、同じ制服に身を包んだ生徒たちが通り過ぎていく。
そんなアミルの様子に、ディーナは眉を寄せて刺々しく言った。
「わかってると思うけれど、悪魔に育てられたなんて言っちゃだめよ」
「えっそうなの?」
アミルの気の抜けた返事に、ディーナは呆れたように溜息をついた。
「そうよ。悪魔はそういうところ鈍いから知らないでしょうけど、人間には人間の暗黙のルールがあるのよ」
そうして静かに彼女の方へと詰め寄って、
「これは、警告。あまり目立っちゃ、だめよ」
「何それ?」
「あと、」
意味を解していないアミルに、聞こえるか聞こえないかの声で、
「学校で、あたしに話しかけて来ないでね」
「えっなんで?」
「じゃあ、あたしの仕事はここまでだから」
呆けるアミルを置いて、ディーナはさっさと校門の方へと行ってしまった。
「……なんであんなに苛々しているの? お腹でも痛いのかな」
残されたアミルは一人首を傾げた。
◇◆◇
レイによる【学校】生活の予行練習のおかげであろうか、アミルは魔界から人間界という急激な環境の変化であっても、それほど戸惑うことなく対応することができた。
校門の側に立っていた教師に案内され、アミルはこれから自分の居場所となる教室へと連れて行かれた。
「初めまして、こんにちは。私が中等学級二年一組の担任のミーナです。今日からアミルさんはこのアカメイア女学校の生徒です。みんなと仲良くしてくださいね」
ミーナという教師は、こちらの様子を窺うような声で言った。親切そうでありながら、学校の規則――【校則】というものに厳しそうな女性であった。いくぶん化粧が濃く、また鼻につく香水の匂いにアミルはむっと眉をひそめた。
教室の中はレイが魔法で再現した【教室】と、ほとんど同じ形だった。
教師が立つ教壇に、生徒用の席、そして黒板。予想と大きく違ったのは、教室内に置かれた席の数であった。数えてみると六つしかない。机は教壇と向き合うように、一列に並べられていた。
黒板には、消し残しであろうか、白い字で書かれた文字が薄く残っていた。アミルはそれらを食い入るように眺めた。【人語】だ。アミルはトーマから魔語と同様に、人語についても教わっていた。人間はこの言語を使って勉強する。自分が人間の中で生きていた時は、誰もまともに字を教えてくれなかったし、詠めなかったけれど、今は驚くほど速く読むことができる。いよいよ自分も、この字を使って勉強するのだ、アミルはうれしくなった。
隣で話す教師のことはそっちのけで、次にアミルは机に座っている人間を順々に見ていった。席に座っている生徒は、先生の話をいい加減に聞いたり、口々に質問をしてきたり、アミルのことをじっと観察したりと様々な反応を見せた。
「では、アミルさん。自己紹介を」
アミルは頷き、きれいにお辞儀した。トーマの教えそのままである。
「初めまして。アミルです。どうぞよろしく」
「はい、よくできました。みなさん拍手でおむかえしましょう!」
アミルは拍手の中、この教室に迎え入れられた。教師はくり返し、『クラス』という言葉を用いた。
「さ、みんな。クラスの目標は覚えていますか? 『みんな仲良し・明るく・楽しいクラス』ですよ? アミルさんという新しいお友達とも、みんなで仲良くしましょうね」
教師に促され、アミルは空いていた席に着いた。窓際の一番端っこの席。ここがこれからアミルの席になる。アミルはそっと自分の机を撫でた。
教師はまだ何かを話していたが、あまり教師の話を聞いていないようだった。誰もがアミルをまるで異物みたいにちらちら見ては、こしょこしょと小声で内緒話する。
「なあに、あの子?」「こんな時期に転校生?」「どんな子なんだろう?」「気になるなら話しかけてきなさいよ」「やだ、そんなつもりじゃないよ」
――くすくす、くすくす、くすくす――
アミルは思わず身を固くした。なんだろう、この居心地の悪さは。自分は何も悪いことをしていないのに、みんなの注目の的になっている。アミルは嫌な気持ちになった。すると途端にレイたち悪魔のことを思いだし、会いたくなってしまった。
あんなに行きたかった学校が、こんなにも窮屈な場所だったなんて、アミルは思った。みんなからの視線が痛い。何か変なことをしたら、すぐに攻撃されてしまいそうな緊張感を覚える。どうしてだろう。どうすればいいのだろう。小声で話されているはずの会話が、耳元で話されているかのようにはっきりと聞こえてくる。
気休めに耳に手を当ててみた。むしろみんなの話し声は大きく聞こえて来るようだったけれど、なんだか自分だけの世界に籠もれた気がして、そこで初めてほっと息を吐いた。
◇◆◇
万一学校に慣れなかった場合に備え、トーマはアミルに、ある言葉を教えていた。
「すみません、具合が悪いので帰りたいです」
担任の先生に原因を聞かれたが、アミルはこの言葉を繰り返してなんとか早退した。
アミルは何よりもまずレイに会うために学校を飛び出した。途中で何度か石ころにつまずき、派手に転んだりもしたが、それをも構わずとにかく走った。
町はずれにある森に入り、ディーナと出会った場所まで戻る。来た時は気付かなかったが、そこには小さなトンネルがあるところだった。どうやらここが魔界へ続く扉となっているようだった。アミルは焦る気持ちを抑えて慎重にくぐり抜けた。
◆◇◆
屋敷に戻ると、アミルは金切り声でレイの名を呼んだ。
階下から聞こえる荒々しい足音に気付いたレイは、書斎の椅子からふっと立ち上がり、欄干から顔を覗かせた。
「おう、アミル、帰ったのか?」
レイの顔を見て、安心したのだろう、アミルは泣き笑いを浮かべた。そうして、両手両足をむちゃくちゃに使って階段を駆け上がった。それをレイは可笑しそうに見ていたが、アミルが途中でへたり込んでしまったのを見て、仕方なく彼の方から階段を下りてやった。するとアミルはびしっと、彼の足にしがみついた。
「なんだなんだ、おまえ泣いているのか」
レイはこれだから人間は、と大笑いしながらアミルを抱え上げた。アミルはレイの首に力いっぱい両手を回した。騒ぎを聞きつけた悪魔たちが、彼女の異変に気づき、心配そうに、あるいは興味津々に近寄ってきた。
「なんだ、学校で嫌なことばかり起こったのか?」
レイの問いかけにも、アミルは首を振ってうめくばかりである。悪魔たちは代わる代わる、アミルの顔を見ようと覗き込んだ。
「人間というのは涙を流して感情を整理する生き物でしたね」「いやでも、人間のもつ感情というものはこんなにも起伏の激しいものでしたか? さっきまで元気に出て行ったのに、気が付いたらわんわん泣きわめいてる」「よくもまアこんだけ心を動かしてられるもんだ。道理で人間はすぐ疲れちまうわけだよ」「こんな【心】がおれたちにもあったらどうします?」「たまったもんじゃないね」
アミルは涙ながらに訴えた。
「うう、なんで、学校までついてきてくれなかったの?」
「何言ってんだ、おまえがついてくるなと言ったんだろ」
「そうだけど……そうだけど!」
レイはわざとらしく、周りの悪魔たちと視線を交わした。
「おいおい、おれが育てた人間の子はこんなに弱っちい生き物だっただろうか。なあ、トーマ?」
トーマはくすりと笑みをたたえた。
「いいえ、坊っちゃん。我々が見ていた限りでは、決してそんな弱音を吐くような人間ではなかったように存じます」
アミルは複雑な気持ちになった。
「でもね、みんな、くすくすって、わたしのこと笑ったよ? わたしのこと見て、こしょこしょって、いっぱい何か言ったんだよ?」
「そうかそうか。アミルはそれが嫌だったんだな?」
「うん、嫌だった。……だって、なんか」
アミルは恥ずかしいような、悔しいような思いで口を開いた。
「みんなわたしのこと、きらいみたいで」
「――よしアミル、一週間だ」
レイは俯くアミルの頬をぐいっと摘まんだ。アミルは潤んだ瞳で見つめた。
「いっしゅうかん?」
「人間時間で言うところの七日間、だな? その七日間だけでいいから、学校に行ってごらん。嫌な気持ちになったらすぐ帰ってきていいから、学校に通ってみな。何もしないで、何も知らないで帰ってくるのはさすがのおれも許さない。まずは自分から話しかけてみるんだ。おれが観察してきた人間はそうして仲間を作っていたから。黙っていちゃ分からない、そうだろう? 分からないものを人は避けるんだよ」
「それでも、うまくいかなかったら……?」
「うまくいかないなら、無理する必要はないさ。こっちから願い下げだ。別の学校にするか、学校じゃない方法で社会に戻すか、また考えればいいだろう?」
レイは珍しく元気がないアミルに優しく声をかけてやった。
「とにかく焦るな。ゆっくりやればいいんだ、ゆっくりな。どうせおれたち悪魔に比べりゃあ短い命なんだから、焦って生き急ぐことはないのさ」
「またそうやって人間をばかにする……」
それでもレイにいつもの調子で言われて落ち着いたのだろう、アミルは少しずつ元気を取り戻していった。
「……レイは、」
「ん?」
「レイは、まるで物語に出て来る王子様みたいだね」
アミルは湯気が出るほど真っ赤になって、ぼそぼそと喋った。
「だって、いつも、わたしのことを救い出してくれるもの」
「は? 何言ってんだ、おれは悪魔だぞ?」
「わ、わかってるけど! ……そう思ったんだもん」
レイは実にくだらないと息を吐いた。
「大体、人間が描く物語の【王子様】とやらは、可愛い【お姫様】を救うんだろうが。おまえはお姫様か? ちがうだろ? ま、毛むくじゃらのおばけではあったがな」
「……ばかレイ! もういいよっ」
アミルはすっかりふてくされてしまった。
◇◆◇
アミルは誰よりも早く学校に着いた。アミルは頭の中で、何度もクラスのみんなに話し掛ける自分を想像した。初めまして、こんにちは、わたしアミルって言います。あなたの名前は? アミルが話しかければ、頭の中のみんなは、にこやかに応えてくれた。これでいけるはず。アミルは教室に入って自分の席に着き、息をひそめて、みんなが登校するのをひたすら待った。
廊下の窓に、ひとつ、教室に向かって来る生徒の影が映った。アミルは立ち上がり、ゆっくりと、影の方へ近づいていった。
教室の扉が開いた時、アミルは大きな声で挨拶をした。
「おはよう!」
「ひ、ひいいッ!」
女の子は驚きのあまりその場に尻餅をついてしまった。アミルは緊張のため、声がふるえて上ずったが、必死に自己紹介した。
「おはよう、初めまして、わたし、アミルっていうの。あなたの名前は何? 特技は? 趣味は? 今一番好きなことは? わたしここに来たばかりで、学校のこととかよく分からないから、色々教えてほしいな、その、よろしくっ」
「お、お、おどかさないでよ! 何するの、本当、ひどい!」
アミルは首を傾げた。何故この子はこんなにも怒っているのだろうか。こちらは一生懸命に自己紹介しただけだというのに。――それに、こちらが挨拶しているのに何も返さないのはいかがものだろう。レイが知ったら黙ってはいないだろう。なんて失礼な子。アミルはふんとそっぽを向いた。もういい、この子とは友達にならない。アミルは腹立たしげに自分の席へと戻って行った。
しばらくして、クラスの子たちが徐々に教室に集まり始めた。アミルは学校に来る前、クラスの全員に先ほどのような挨拶をして回ろうと心に決めていたのだが、最初の女の子のせいでずっともやもやした気持ちが消えなくて、席を立つ気にもなれなかった。
驚かされた側の生徒は、みんなが教室に入るや否や、自分が今日、例の転校生にどんなにひどい仕打ちをされたかを一から十まで報告した。興奮のあまり、真実ではないことも勢いのままに言ってしまって、アミルを立派な悪者に仕立て上げた。誰もがアミルを避け、ひそひそ声で悪口を言った。
しかし、確かにアミルはみんなの内緒話が気にかかってはいたが、それでも彼女の興味は同じ歳ごろの子たちよりも、教室の奥に並べられた本に向かってっいた。
人間の字で書かれた本。魔界には魔語で書かれた書物ばかりで、人語のものはそう数がなかった。アミルは熱中してこれらの本を読み漁った。中でも、わくわくするような世界を描いている物語は、とても興味深く、面白かった。
ただ、不思議なことに、物語に登場する悪魔がみんな、悪者として描かれていたのだ。自分もレイに拾われる前はこのような悪魔を想像していたのだろうが、今となってはうまく思い出せなかった。
本の挿絵に描かれた恐ろしい悪魔の姿を眺めつつ、アミルは首を傾げた。何故、悪魔はいつも悪者扱いなのだろう。レイみたいな良い悪魔もいるのに。そう思いながらページをめくった。
◇◆◇
キーンコーンカーンコーン。鐘の音が鳴った。アミルは読んでいた本をすばやく片づけ、廊下の方を見やった。――ついに授業が始まる。初めての人間による授業だ。この授業というものを受けることが、アミルの最大の目的だった。先日は授業を受ける前に早退してしまったけれど、今日はすべてしっかり受けて帰るつもりだ。
鐘の音に合わせて、教室に年老いた大人がゆっくりと入ってきた。
生徒の一人が「起立、礼、着席」と号令をかけた。号令は先生が入ってきたときにされる挨拶だとトーマは言っていた。これによりアミルはこの人物が今から授業を担当する教師であることを知った。
アミルはじっとこの教師を見つめた。が、どうにも教師というよりは、ただの親切そうなおじいさんという印象を受ける。白髪頭は禿かかって、眼鏡は大きく、分厚い。膨らんだ腹を抱えるようにして歩く教師。こんな人が何十分も授業できるのだろうか――。
アミルの疑うような視線を感じて、その人が自ら声をかけた。
「やあ、きみが新入りの子だね。名前は?」
「アミル、です」
「アミル、とても良い名だ。……ボクはこの学校で教師をやっています、メコロと言います。ですが、みんなからはこの、ちょっとぽっちゃりした体型からハンプティ先生とも呼ばれています。どうぞお好きに呼んでくださいね」
アミルは小さく会釈した。
「では。授業を始めましょうか。みなさん、教科書を開いてください」
この言葉を合図に、ゆるやかに流れていた教室の空気が、がらりと変化した。辺りに一種の緊張感が生まれ始めたのである。驚いたアミルはきょろきょろと辺りを見渡した。みんな、いつの間にか授業に使うための教科書とノートを準備している。アミルは再び視線を前に向けた。
そこでは、最初こそあんなに頼りなかった老人の教師が、まるで別人のように堂々と『先生』として教壇に立つ姿があった。
ハンプティ先生の担当する授業内容は主に製図法だった。アミルも先日与えられた教科書を開いてみた。そこには、線や簡単な数字、文字が書き込まれた円ががいくつも載っていた。
「アミル、魔法陣は知っているかい?」
板書しながら、先生は問うた。
「いいえ」
「では簡単に説明だけしておきましょうか。――まず魔法とは、ここ最近発見された技術で、まだ詳しいことは分かっていないんだが、ボクたちの社会や生活をより良くするために欠かせないものとして今、もっとも注目されている。さて、ボクたち人間が魔法を使うときに、必要なものが三つあります。みなさん、この三つは何でしたか? では、ラーマ。答えて」
指名された生徒は立ち上がり、答えた。
「魔法を発動するために必要な魔力、魔法陣、想像力の三つです」
「はい、よくできました」
ハンプティ先生は微笑んだ。
「『魔法陣』とは、人間が魔法を使うために生み出したものですね。特殊な力が込められたインクと羊皮紙に、ある決まった形の魔法陣を書いて、魔力を流すと魔法が使えるのです。魔法陣は複雑になればなるほど強力な魔法を使えるようになりますが、それに比例して魔法陣を発動させるための魔力の量も増えていきます。また、その魔法を発動させた後、自分の頭を使って想像し、魔法を制御する力も必要となってきます。……と言っても、君たち子どもは、まだまだ魔法が使えるほどの魔力を持ってないから、ほとんど魔法を使う機会はないんだけどね。『演習の時間』っていう、人の代わりに魔力を出してくれる機械を使う時くらいかなあ? まあ大人になれば魔力も強くなると言うし、大人になるのを楽しみに待っていてくださいね」
アミルは先生の言葉に一々頷きながら、質問した。
「じゃあこの教科書に載ってる丸いのも、ぜんぶ魔法陣ってこと?」
「そう。ぜんぶ、魔法を専門に研究している人たちが発見した魔法陣だよ。みんなはこれを羊皮紙の上に、正確に書けるようにならなくちゃいけないんだ。少しでも線がゆがんだり、形が違っていたりすると、うまく魔法が発動しなくなるからね。教科書に載っているのは、君たちのような子どもでも描ける簡単で、基礎的なものばかりだけれど、学年が上がるにつれて、もっとすごい魔法陣が出てくるからね」
先生は言って、再び授業の内容に戻った。板書の字は綺麗でなおかつ見やすく、語句や公式の説明は詰まることなく流暢で、質問には短く分かりやすく教えてくれるため理解しやすかった。
アミルは、目を宝石のように輝かせ、先生の見事な授業に感動しきっていた。この人から学びたいという気持ちがむくむくと湧いて出て来た。興奮のあまり、身体中が熱くなるのが自分でもわかった。この人は凄い人だ。わたしよりもずっとずっと沢山のことを知っている凄い人だ。学びたい。知らないことを知るのはなんて魅力的なことなんだろう。なるほど、レイが知ることにこだわる理由が何となくわかりそうな気がした。
ある問いが黒板に書かれた。誰かわかる人はいますか? 先生は問いかけた。アミルは挙手をした。その問いは、今まで先生の授業を受けてきたクラスの生徒たちでも難しいと感じる問題だった。アミルは答えた。それはレイが見ていた本に載っていたことだったから。
先生は丸い目をさらに丸くして温かく拍手してくれた。
「よくできました、アミル」
褒められて、アミルの頬は誇らしさと照れくささに赤く染まった。
これを受けて、不思議なことに、ずっとアミルを無視していたはずのクラスの生徒たちに変化が起こった。こしょこしょ。小声の内緒話はなくならなかったが、しかしその声に前ほどの刺々しさはなかった。みんなの目には純粋な驚きの色が表れていた。
それは、ひとつの変化だった。アミルの存在を、クラス全体が認め始めたようでもあった。
別に仲間なんていらない。一人でも生きていける。寂しくなんてない。そんな風に、どこかで気を張っていた自分が、すうっと肩のあたりから消えていくのをアミルは感じた。みんなに認めてもらえた。そのことが不思議とアミルに心の平穏をもたらしたのだった。
授業終了の鐘が鳴り響く。先生が一礼して帰って行った。先生はもとの、人の好さそうなおじいさんに戻ってしまった。
◇◆◇
授業が終わってからも、アミルは放心状態で、なかなか興奮は冷めやらなかった。
たった今行われた授業を――中でも、自分が挙手して答えた場面、褒められた場面を――何度も何度も頭の中で思い返しては満足した。思い返すだけでは物足りなくて、誰かとこの、込み上げてくる気持ちを共有したくなった。
アミルは自ら席を立った。そしてあろうことか、敵対していたはずの生徒たちの方へふらふら歩み寄って、興奮しきった声で話しかけたのだった。
「あ、あのひと、すごいせんせいだね……!」
お喋りしていた生徒は黙ってアミルの方を見ていた。
――何かまた悪口を言われてしまうのだろうか、話し掛けるんじゃなかった、と我に帰ったアミルが後悔した瞬間、
「でしょ!」
弾けるようにみんなが一斉に話し出した。ハンプティ先生の教え方のうまさや板書の見やすさから、彼の性格、生徒からの人気、どこに住んでいて、どんな家族と暮らしているのか、いつからこの学校にいるのかなど、それは多くの情報を生徒たちは持っていたのだ。
アミルはあまり先生自身のことについては、興味を示さなかった。ただ、あの知識はどこで手に入れたのか、あの教え方はどこで身に付けたのか、そのことがひたすらに聞きたくて、いつになればその話題に変わるかと、じっと耳をすまして待っていた。が、彼女たちのお喋りはさらに別の方向へ進んでゆき、
「それに比べて××先生はさ――」
と、××先生の悪口、○○先生の不満を口々に言い出し始め、悪口大会が始まってしまった。
アミルは心底嫌そうな目で彼女らを見、素早く席に戻った。アミルがいなくなった後も、生徒たちの口は忙しなく動き続けていた。
(……みんな悪口好きだなあ。なんで寄ってたかって人の悪口を言うのか、全然わかんないや)
すっかり落胆してしまったアミルは退屈そうに頬づえをついて、窓の外を見た。空は青く澄んでいた。
(悪口言ったら、自分が偉くなったように感じるのかな)
――そんなことないのに。
口の中で小さくつぶやいた、その聞こえるか聞こえないかの声に、びくりと反応した者がアミルの近くにいたことを、アミルは勿論、教室中のだれ一人、気付くことはなかった。
◇◆◇
本日すべての授業が終わり、みんなが帰ってしまった後も、アミルは教室に残っていた。今日で教室に置かれた本を読み切ってしまおうと思ったからである。
アミルはハンプティ先生に色々と教えを請いたかった。しかしその前に、できる限り、自分の知識を高めておきたい気持ちもあった。褒められたい。凄いと思われたい。アミルはその想いのために本を読み漁った。足りない。もっと、もっと。物足りなさげな表情を浮かべてアミルは立ち上がり、がさがさと本棚を探った。その時、何ものかが自分の後ろに立つ気配がした。
「あ、あの、」
か細い声に、アミルは勢いよく振り返った。
「まだ誰かいたんだ、何かご用事?」
そこには、長い髪をふたつにまとめた少女が、もじもじと俯いて立っていた。
「……本を、探しているんですか?」
「そう。えっと、ごめん。あなたの名前は?」
「エウリカ、と言います」
「エウリカね。きれいな名前だね」
「あ、ありがとう……」
エウリカという少女は、ちらちらと顔を上げては何かを話したそうに唇を動かすが、結局何も言えずに俯いた。長い髪を手でくるくるいじりながら、落ち着きなく瞬きをする。鼻の頭のそばかすが気になった。動く度、眼鏡がずれ落ちている。アミルはじれったくなって問うた。
「どうかした?」
「ほ、本、本なら……」
段々小さくなっていく声が聞き取りづらく、アミルはぐいっと彼女を覗き込むように顔を寄せた。
「本がどうかしたの?」
「あ、あ、図書室……」
「ん?」
「図書室に、本いっぱいある、よ?」
図書室。そう言えばトーマから聞いたことがある。アミルはその手があったか、と嬉しくなって、すぐにでも図書室へ向かおうとした。それを慌てて、エウリカが引きとめた。
「ま、待って! アミルさん、場所わかるの?」
「……あ。わかんないや。どうしよう」
するとエウリカは大きく息を吸って、顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「案内するよ!」
「えっ、いいの?」
エウリカはぶんぶんと首を縦に振った。その様子をアミルは可笑しそうに見つめながら、手を差し出した。
「じゃ、行こう」
その手を取る前に、エウリカには言うべきことがあった。エウリカは、可哀想になるくらい一生懸命、勇気を振りしぼって、何かを言おうとした。
アミルはエウリカが自分に何か言おうとしていることに気付き、とくべつ急かすこともせず、ただ静かに待ち続けた。
エウリはついに言葉を発した。
「あっ、あの、アミルちゃん!」
「うん」
「わ、わたしと、友達に、なりませんかっ?」
言われたアミルはきょとんとして、笑った。
「友達って、なあに?」
◆◇◆
「おおう、トモダチ! なんだそれは!」
学校から帰ってきたアミルは、すぐさま今日の出来事を悪魔たちに話して聞かせた。なんだ、みんなやっぱり友達知らないんだ。アミルは心の中でほっとした。
あの後、予想外の質問に緊張の糸が切れてしまったエウリカは、その場に泣き崩れ、金切り声でしばらくわめき続けたのだった。その様子を思い出して、アミルは自分の耳に手をやり、苦笑いを浮かべた。まだ耳がつーんと痛い。
悪魔たちはアミルの口から出てきた【友達】という、未だ見知らぬ言葉に大興奮だった。一体それはどういう意味なのか、人間にとって価値あるものなのか、まだアミルの話の途中であるのにも関わらず、悪魔たちは各々に推測を立て始めた。
「【友達】というのは、なんでしょうか。友達になろうと言えばなれるものなのでしょうか」「じゃあ今おれがロジーさんに友達になろうって言ったら、ロジーさんとも友達になれる?」「あなた方が友達になったところで意味があるのかどうかはわかりませんが」
レイは懐から、例の大辞典を取り出し、高らかに読み上げた。
「【友達】:人間社会を小規模化したもの。【仲間】の類義語。――以上、第××××項より」
ミクリやトーマはふんふんと頷いた。
「ふむふむ。じゃあ、このちみっこアミルもついに一個人として社会に参加するようになったんですね」「感慨深いものがありますね、坊っちゃん」「ほんとですね坊っちゃん」
大袈裟に喜ぶ悪魔たちに、アミルは照れくさくなって否定した。
「そんな大したことじゃないよ」
「いやいや、大したことだよ」
レイはアミルの頭を軽くこづいた。
「アミル、ぼやぼやしてる暇はないぞ。おまえの前にはこれからもっと色々なことが起こるだろう。それに応じて、おまえの心の中に、多種多様な感情も生まれるだろう。思考を止めるなよ、アミル。感情と思考。両方あって人間だ」
アミルはぽかんとした。
「どういうこと……?」
「とにかく考え続けろってことさ。変化は待ってはくれないぞ」
「よくわかんないけどわかった」
こういう時は流しておくのが一番だと、アミルは学習していたのだった。
◇◆◇
アミルは一生懸命に勉強した。傍から見ても、のめり込むような彼女の取り組み方は凄まじささえ感じさせるものだった。しかし、本人には特別頑張っている、というような意識はあまりなかった。授業を聞いて、自分の知らなかったことを知る経験というのは、アミルにとっては非常に魅力的なことであったし、何より彼女が一生懸命になればなるほど、レイは過剰なほどに褒めちぎってくれるのだ。このことほどアミルを机に向かわせたものはない。それに、勉強が出来れば皆からの尊敬のまなざしを得ることができ、先生には可愛がってもらえる。自分の力にもなる。勉強をして悪いことなど一つも無かった。
だから、どうして教室の中にいる皆がこんなにも勉強に対して不真面目で、退屈そうにしているのかが分からなかった。
休み時間、エウリカと校庭のすみに腰掛け、日向ぼっこをしながらアミルはぼそりと呟いた。
「みんな、授業おもしろくないんだね」
「え?」
「だって、授業中いつも先生に当てられないように下向いてるし、授業が終わりに近づくと机の上片づけ出すし、黒板じゃなくて時計ばっかり見て、早く終わらないかなーってずっと待ってるし」
「それがふつうなんだよ」
エウリカは困ったように笑って答えた。
「アミルちゃんがちょっと変わってるだけ」
「変わってる? わたしの? どこが?」
「勉強好きなとこ」
腑に落ちない様子のアミルに、今度はエウリカが質問した。
「ね。アミルちゃんは、どうしてそんなに一生懸命に勉強するの?」
「どうして、って?」
「だってさ。魔法陣の書き方とか、魔法ができるまでの歴史とか聞いててもさ、正直なとこ、面白いと思うの? わたしたちはまだ、魔力がないから魔法も全然使えないし、こんなのいつ役に立つのーって感じなんだもん」
アミルはうーんと首を傾げた。エウリカは言葉を続けた。
「だって、わたしたちが今勉強してる魔法陣って、あれだよ? 火の生成術! とか格好いい章の名前ついてるけど、実際魔法にしてみたら小指くらいの火しかつかないみたいだよ? 演習した先輩方が言ってた。それならマッチとか、木こすったりとかして火をつけた方が早いと思わない? 魔法ができるまではずっとそうやって生きてきたんだからさ」
「でもいつかは役に立つでしょ?」
「いつかって、いつ?」
アミルはさらに「うーん」と悩んだ。
「いつだろうね。でも、勉強したらレイが褒めてくれるから」
「レイって、何?」
アミルは花が咲くように笑って、
「レイは、わたしを拾ってくれたわたしの大事な大事な悪魔、」
と、うっかり口に滑らせてしまって慌てて否定する。
「あ、悪魔……そう、悪魔っていうわけじゃないけど、えーと、悪魔みたいに怖いひと。うん、そう、怖い、怒るとね」
あはは、と誤魔化して、アミルはエウリカを見つめた。ふたりの間に風が吹いて過ぎ去った。エウリカはまた困ったように笑った。
「アミルちゃんって不思議な子だよね」
「そうかな?」
「うん。……みんなと、ちょっと違う」
そう言いさして、エウリカは、アミルに伝えるべきかどうかを迷っている様子だった。アミルは不愉快そうに眉を寄せた。
「何?」
「……うん、あのね、アミルちゃん、ずっと言いたかったことなんだけどね――」
エウリカは思い切って言った。
「アミルちゃん、浮いてるよ」
アミルはさらに眉を寄せた。
「……浮くって何? ぷかぷかーってこと?」
「もうっ違うよ! ……クラスのみんなと違うから、変な子だって思われてるってこと。アミルちゃん、真面目だし、先生からもよく褒められて目立つから……。アミルちゃん、下手したらみんなから嫌われちゃうかもよ……」
「エウリカは、わたしのこと嫌い?」
「えっ」
エウリカは俯いた。「わたしは、その、……」
アミルは表情を変えず言った。
「みんなと違うからって理由で嫌いになるなら、どうぞ」
「で、でも、嫌われちゃったら、一人になっちゃうよ? 悪口とか、嫌がらせとかいっぱいされちゃうよ?」
「言っとくけどわたし、今までずっとひとりだったし」
アミルは立ち上がり、エウリカと向き合った。
「でも今はレイがいるから」
笑って、アミルは問いかけた。
「エウリカは、クラスのみんなと仲良し?」
「……ううん、実はあんまり仲良しじゃない」
少し迷って、エウリカは正直に答えることにした。なぜだかアミルの前では嘘がつけないような気がしたのだ。
「わたし、クラスの中で一番びりなの。びりって分かる? テストの点数が一番悪いってこと。クラスで一番賢くないってこと。先生に当てられると、いっつもびくびくしちゃって、頭が真っ白になるの。間違ったらどうしよう、みんなに笑われたらどうしよう、って」
「そっか」
頷いて、アミルは言った。
「じゃあ、わたしは笑わないでいてあげるね」
「え……」
「そうしたら、みんなが笑う、じゃなくなるでしょ。わたしは笑ってないもの」
エウリカは俯いた。「みんなは、みんなだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
ずず、と鼻をすする音がした。
「……それでも、ありがとう」
アミルはぽんぽんと、エウリカの頭を撫でてやった。
◇◆◇
学校の渡り廊下を歩いていると、金髪の少女とすれ違った。――ディーナだ。アミルは手を振って名前を呼ぼうとしたが、彼女にぎっと鋭く睨み付けられておずおずと、上げた手をおろした。
学校に居る時は話し掛けるな。どうやらその言葉は今も継続しているようだった。ディーナは何人かの生徒と一緒だった。友達だろうか。しかし、それにしてはみんな、どこかよそよそしいようにアミルには感じられた。
教室に戻ると、授業までまだ時間があった。アミルは席に着いて、次の授業の予習をしていると、エウリカが「まだ休み時間だからお話しよ」と駆け寄ってきた。
アミルは疑問に思っていたディーナのことを彼女に尋ねてみることにした。
「エウリカはディーナって人のこと、何か知ってたりする?」
エウリカは驚きに目をぱちぱちさせて、
「……ディーナって、あのディーナさまでしょ? あの金髪で、とっても綺麗な方。ディーナさまはね、この学校で知らない人は居ないってくらい人気のある方なんだよ? わたしたちの二個上の先輩だね。わたしも何度か遠目で見たことあるよ。まるでお人形さんみたいだったよ」
言った後で、エウリカは、「でも、ちょっと話し掛けにくいかも。気おくれしちゃって。それにディーナさま、とっても賢いし……。首席だよ? ディーナさまは。すごくない?」
「ふうん、そうなんだ」
それを聞いて満足したのか、アミルは再び勉強に戻った。エウリカは怪訝そうにアミルを見た。
「アミルちゃん、何でディーナさまのことを知ってるの?」
「何、その言い方。知ってたら変?」
「へんだよ……」
エウリカは真面目な顔をして言った。
「勉強以外、一切興味を持たないアミルちゃんの口から、ディーナさまの名前が出てくるなんて。わたしびっくりしちゃった」
言われたアミルは心外そうである。
「そんなに変かなあ?」
「アミルちゃんも人並みにものごとに興味がある ふつうの子なんだねえ――あ、ちがった。悪魔の子なんだったっけ?」
「う、うーん? まあ、そんなところかな」
――ディーナの話はここで終わり、エウリカは別の話題に移った。
「アミルちゃん、もうすぐ試験だよ……。もう、ユーウツだよ」
「エウリカ、試験って何?」
『××って何?』というアミルの問いに慣れっこになったエウリカは、まったく仕方ないなあと言いたげな顔で答えた。
「今まで勉強してきたことができているか、確認をするためのテストだよ。試験の結果が悪かったら、補習があって、学校が終わってからも居残りさせられるの」
「へえ、面白そう!」
エウリカは思い切り嫌そうな顔をした。
「面白そう? どうして? 試験なんてみんな嫌で嫌で仕方ないものなんだよ?」
「そっか」
「そうだよ」
「ま、でも楽しみだなあ」
授業開始の鐘が鳴り、みんな席に着いた。教室にその時間の授業を担当する教師が入り、号令がかかる。
ふと窓の外を見ると、ディーナの金色の髪が風になびいているのが見えた。外では、生徒の発育を良くするため、身体を動かす授業が行われているようだった。生徒たちはのびのびと身体を動かし、楽しそうであった。
しかし、ディーナだけは、校庭の日蔭にすわって、遠くを見つめていた。窓からははっきりとは見えなかったが、その、ちいさくちいさく丸められた背中が、どこか寂しそうでもあった。
ふんとアミルは肩をすくめて、ふたたび授業の方へと意識を向けたのだった。
◆◇◆
晩の食事の後、アミルは広間に場所を移し、悪魔たちを相手に学校での出来事を話すのが日課になっていた。今日は、学校で食べた給食が美味しかったことや、エウリカだけではなく珍しく他の生徒とも一緒に話したこと、それでもやっぱり、エウリカと一緒と話す方が、気が楽だということなどを思いつくままに話して聞かせた。
「そういえば、学校ではもうすぐ試験があるんだって」
「【試験】?」
耳慣れない言葉に悪魔たちが身を乗り出した。
「ちゃんと勉強したことが頭に入ってるかっていうのを確認するんだって」
珍しくトーマが話の中に入ってきた。
「では、アミル様はその試験で、世にもすばらしい成績をお修めになる、ということですね」
「えっ! わ、わかんないよ、そんなの。わたし、できそこないだから家族に捨てられちゃったのに、今さら一番なんて……」
「今も出来損ないですか?」
トーマはそれは綺麗な笑みを浮かべた。「私にはそうは思えませんが?」
「……トーマさん!」
アミルは嬉しくって思わずトーマに抱き着いた。彼がこんなに手放しでアミルのことを褒めたのは初めてだったからだ。それを受けて、レイは茶化すように言った。
「随分と情にあふれた言葉じゃないか、トーマ」
そんなことは気にも留めず、アミルはすっかり感動している。
「うんうん、トーマさん、わたし頑張るからねっ」
「はい。期待しておりますよ」
少し面白くなさそうなレイに、アミルは笑った。
「レイも期待しててね」
「へーへー。上から一番でも、下から一番でも中途半端な成績でも喜んでやるから、ちゃっちゃと受けてこい」
◇◆◇
試験結果は二階の廊下に掲示されているらしい。アミルの教室は一階だったが、二階には高等学級生の教室がある。中等学級生は目を付けられないように、と恐る恐る階段を上り、自分の成績を見に行くのだった。
試験はアミルが思っていたほど、心躍るものではなかった。授業で習ったことが空欄に出され、それを埋める作業。定規やコンパスを使って、時間内に魔法陣を正確に書かせる問題もあった。終えた後、それなりの達成感はあったが、それ以外は特に何もなかった。この結果でいくつかの成績が決まってしまうのか、とぼんやり思った。
廊下には中等学級の生徒たちが密集しており、掲示された自分や友達の名前を見ては、喜んだり、落ち込んだりしていた。先にみんなの結果を見ていた生徒何人かが、アミルの方へと駆け寄って来て、
「アミル、凄いよ! 一位! わたしたちの学年で一番だよ! 点数もあんなに!」
アミルはその場から、掲げてある紙の一番上を見つめた。遠くてよく見えなかったが、ぼんやり自分の名前が書いてあるように思えた。
「名前も、点数も書いてあるんだね」
エウリカに尋ねたつもりが、彼女はもう既に、人ごみの中へと潜りこんでいってしまっていた。
近くにいた生徒たちがアミルの方をちらちら見ている。――またこの視線だ。この視線は、自分を敵視するような鋭いものばかりではなかったが、どうにも注目されるのは苦手だった。同じクラスの生徒が興奮ぎみに言った。
「ね、ね。もしかしたらさ、去年のディーナさまより凄い成績かもよ……、どの先生もいっつもアミルのこと褒めてるしさ。ね、本当、すごいねアミル!」
「……ごめん。わたしそろそろ、教室戻るね」
「えっ、もう帰っちゃうの、まだちゃんと見てないでしょ?」
「ごめん、ありがとう」
「ちょ、ちょっとアミルってば!」
◇◆◇
みんなを置いて一足先に教室まで戻ると、次の授業の準備をしていたハンプティ先生が笑顔で迎えてくれた。
「やあアミル、試験結果を見に行っていたのかい? おめでとう、よく頑張ったね」
「ありがとうございます」
アミルは他に誰もいない教室で、ふと気になっていたことを聞いてみた。
「先生、質問があるんですけど」
「なんだい?」
「わたしたちは、どうして勉強しなくちゃいけないのでしょうか」
いつぞやのエウリカの問いである。アミルの中でどうにもはっきりしない部分があり、それがずっと気にかかっていたのだった。
問われたハンプティ先生は少し困ったような表情を浮かべた。
「そうだねえ、」
アミルはじっと先生の瞳を見つめながら話した。
「エウリカは、自分に興味のない授業を聞くのは退屈だと言っていました。確かにこの教室の子は、どの子もあまり意欲的でないし、何より授業に関心がないようにも思えます」
「そうかい?」
「先生は、そうは思わないんですか?」
ハンプティ先生は、子供に言い聞かせるように優しく語った。
「そうだねえ。……魔法の歴史も、人間社会の成り立ちも、魔法陣の書き方も、今の君たちの生活にはどれもあまり直接的に関わっていないように思えるね。
どちらかと言えば、友達との会話の盛り上げ方とか、知らない子との接し方とか、そういうすぐに使える勉強の方が君たちにとって本当に学びたいことだし、役に立つことだろうね。学校で学ぶ内容と自分の生活とは、直接的な関わりがないように感じられる。だから、学校での勉強がどうしても億劫に感じられてしまうんだろう」
アミルは共感できなかったが、ともかく頷いた。
ハンプティ先生は遠くを見て、ぼんやり何事かを考えているようだった。
「たしかにその通りだ。実際ボクもね、学生時代はそう思っていたわけだからね。――だからこそ、君たち生徒の興味関心に基づいた、面白い授業をやっていきたいといつも思う。けれども、難しいことにね、そう自由に楽しいことばかり、授業するわけにはいかないんだ」
「どうしてですか?」
「君たちにはね、今このとき、覚えておいて欲しいことが沢山あるからだよ。頭のやわらかい、何でもよく覚えられる一番良い時期が今なんだ。
そしてその『覚えておかなくてはいけないこと』の多くが、生徒にとってはそんなに面白くないものばかりなんだ。……ボクたち教師は、いつもこの問題と向き合わなくてはならない。やりたいこととやらなくちゃいけないこととの板挟みなんだ。楽しいだけじゃ、うまくいかないんだよ」
アミルは矢継ぎ早に質問した。
「どうしてうまくいかないんですか? 本当にやりたいことだけをやったら、だめですか? やりたくないことを無理やりやらなくちゃいけない理由は何ですか?」
「そうだねえ。本当にねえ。――でも、勉強しなかったら立派な大人にはなれないからねえ」
ハンプティ先生は少しはぐらかすように笑って、次の授業の準備に戻った。
「りっぱな、おとな」
「そう。立派な大人、ね」
ハンプティ先生は振り返り、優しく微笑んだ。
「アミルも、しっかり勉強しておくんだよ?」
「もちろんです、先生。――ありがとうございました」
アミルは一礼して自分の席について、黙って授業開始の鐘を待った。
◆◇◆
「レイ、トーマさん、ミクリさん、ただいまー。帰ったよ」
「おお、お帰りお帰り」
広間ではレイとトーマが各々に分厚い本を開いて、一心不乱に読み耽っていた。アミルはみんなの集まるところに歩み寄った。
「今日は何を調べてるの?」
「本日の研究テーマは、『人間の寝言は人の心の動きと、何か関係があるのか』だ」
トーマはすかさず、字がびっちり埋められた紙束を提示した。
「ここに、アミル様の寝言録があります。今はこれを解析中です」
「えっ、うそ、トーマさん! わたしの寝言ってそれどういう――」
「その点については、とある方より口止めされていますので」
「トーマさんが従う『とある方』なんて、ひとりしかいないでしょっ!」
口止めを指示した犯人は、意地悪くにやにや笑ってみせながら、またもや本の世界へと戻ってしまった。
アミルはさりげなく自分の寝言録を見ようとしたが、トーマに「機密事項なので」と断られてしまった。こうなると、アミルはどうしても仲間外れだ。だからといって部屋に戻るには少し早すぎる気がした。
手持ちぶさたに彼らの周りを歩くアミルを、レイは横目で見て可笑しそうにしていた。それに気付いた彼女は、ミクリに椅子を出してもらってそれを大袈裟に音を立てて引きずり、レイの隣に置いた。そうしてアミルは、いつものように今日の出来事について話した。その時、ハンプティ先生とのやりとりを思い出したので、それについてもう少し彼と話してみることにした。
「ねえねえレイ、何で人間は勉強すると思う?」
「愚問だな」
レイは本を閉じて、アミルを見据えた。
「知るためだな」
「……うん。レイが言うから、わたしもそうだと思ってた」
でもね、とアミルは両足をぶらぶらと揺らしながら話した。
「何だかね、そうじゃないみたいなの。みんな、そんなに何かを知ろうとして勉強してるって感じじゃないの。仕方ないから、とりあえずやっておこっか、みたいな。わたしみたいに一生懸命じゃなくって。いつも、つまんなそうに、ふーん、って。ちょっとふんぞり返って先生の話を聞いてるの」
「そういうふりをしてるだけじゃないのか?」
レイの言葉にアミルは頬をふくらませた。
「なんでそんな変なふりするのよ」
「以前おまえが語ったディーナの言葉を借りるなら、『目立たないように』するためだろう」
ますます不機嫌をあらわにするアミル。
「ね、目立つって何? 一生懸命することの何が悪いって言うの? レイはいっつもわたしに頑張れって言うじゃない」
「一生懸命してうまくいかなかった時のことを考えてるんじゃないのか?」
レイはくくくと笑った。「うまくいかなかったら、目立つからな」
「……ふうん、」
「目立つことは、他と違うということを暗に主張するようなものだ。人は人と違うことを恐れる。違うということを知っていながら」
どうにも納得していない様子のアミルに、ゆっくりレイは本を閉じて、彼女と向かい合った。
「よし。いいことを教えてやろうか、アミル」
「なあに?」
彼は指を二本立てた。
「いいかアミル、人間が物事を考えるときにおいて、重要なことは二つ。【社会】と【個】だ」
首を傾げるアミルに、レイは説明してやった。
「わかりやすく言うと、【個】はおまえや、ディーナ、エウリカそれぞれひとりひとりのことだ。【社会】は人間全体の社会、学校のみんな、人間界の人間みんな、ってやつだな。
おまえも少しは人間の歴史とやらを学んでるんだろう? 魔法が重要視される前の学校では、ただ、ありとあらゆる知識を可能な限り覚えることを中心に教えていた。知識の量が、すなわち学力だったわけだ。しかし今ではどうだろう? そう、人間たちは『魔法』という一つの便利道具を発見したのだ」
レイはちら、とアミルを一瞥した。
「魔法が便利なのはおまえも知っているだろう。工夫次第で何でも出来るすぐれものだ。たとえば、おまえは知らないだろうが、人間のちいさな脳の代わりに魔法が、ありとあらゆる知識を保管できるようにもなったんだぞ。ま、おれも最近知ったことだがな。
そうなれば、別に知識をたくわえることにこだわる必要がなくなるんだ。だって、魔法が代わりに覚えておいてくれるんだから。となると、人間は何もしなくていいのかといえば、そうではない。社会が変化すると、人間の前には必ず新たな課題が現れるんだ。この場合は、無限の可能性をもつ魔法を、いかに工夫して使いこなすか、だ」
レイは続けた。
「人間社会の変化に合わせて、求められる能力は絶えず変わりつづける。では、その求められる能力はどこで身に付けるのか。それが、おまえの通っている【学校】という教育の場だ。
学校は、社会をより良くするための力を、子供に身に付けさせようとする。と同時に、子供たちのそれぞれの個性をのばそうと力を尽くしている。個性とは、個人のもっている良さ、というものだろうか。とにかく両方を大事にしようとする。――だから、ジレンマに陥る。
おまえの話によると、以前ハンプティ先生は、『やりたいことと、やらなくちゃいけないことの板挟みにある』と言っていたそうだが。そうなる原因はここにある。社会の要求、と同時に、個の尊重。はたしてこれは同時にできることなのか。もしも、本当の意味で、個人を大切にするのであれば、『勉強なんてしたくない、興味のあることだけしたい』と言う生徒だって、尊重されるべきなんだ。許さないのは、【個】が許さないからではない。【社会】が許さないからだ」
「どうしてその、社会は許してくれないの?」
「【社会】が円滑にまわらなくなるから」
「ふうん?」
レイは一息ついて、言葉を続けた。
「――ま、だとしても【社会】があっての【個】だからな。つまるところ、お互い、持ちつ持たれつの関係なんだから、適当に折り合いつけてかなきゃいけないっていう話なんだが」
アミルは難しい表情をして、しばらく押し黙って考えをめぐらせていたようだったが、やがてにこりと笑って尋ねた。
「……それで。エウリカには何て教えてあげればいいの?」
レイは苦笑して肩をすくめた。
「ま、大人しく言われた通りに勉強しといたって、とくべつ大きな損はないってとこかな」
◆◇◆
アミルが学校から帰ると、珍しいことに、この屋敷の料理長であるロジーが出迎えてくれた。魔法を使わず、布を自分の手で持って磨いているのは、ロジーなりのこだわりなのであろう。レイたちの姿は見えない。どこかに出かけているのだろうか。
「ロジーさん、ただいま!」
アミルは広間に直行し、そのまま勢いよく椅子に座って、鞄から宿題を取り出した。食器を磨きながらロジーがアミルの方へ近寄って来て、そっと後ろから覗き込んで来た。
「ロジーさんも気になる? これ、今日の宿題。魔法陣を書くの」
「……、」
ロジーはアミルの書きかけの魔法陣と、彼女の瞳とを交互に見た。アミルは最近では彼の目の動きだけで、彼の言いたいことがわかるようになっていた。アミルは振り返り、ロジーを見上げた。
「この魔法陣でどんな魔法が使えるのか、ってこと? ふふ、これはね、火を生み出す魔法だよ」
それを聞いたロジーは、優しい手つきでアミルから羽ペンを受け取り、彼女の魔法陣に一本線を付け足した。
「んん? わたし、何か間違ってた?」
ロジーは何も応えず、黙ってアミルの背後から腕を回し、魔法陣の側に両の手を置いた。すると、魔法陣がちかちかと光り輝きはじめ、次の瞬間には、
ボンッ!
勢いよく爆発した。次々と部屋中の物がなぎ倒されてゆく。爆風にあおられ、吹き飛ばされそうになったアミルは咄嗟にロジーの腕にしがみついた。遠くで窓が、激しい音を立てて割れていった。アミルはたまらず悲鳴をあげた。
――ようやく爆発がおさまって、二階の方からレイが顔を出した。調べ物に夢中でアミルが帰ってきていたのに気付かなかったらしい。
「おっ、どうした? 魔法、失敗か?」
レイは悠々とアミルの前に降り立った。
「ち、ちがうの、ロジーさんが……」
ロジーの方を見ると、彼は珍しく興奮し切った様子で、ふんふんと交互に両手を突き出し、戦闘態勢に入っている。手の先の蹄がしきりに空を切る音がする。アミルは頭を抱えて小さく丸くなった。
「――ロジーさんが野性に、めざめた……」
「んなわけないだろ」
騒ぎを聞きつけ、ミクリが奥の扉から顔を覗かせた。
「わお、ロジーさん暴れてんじゃん! 俺もっ、俺もやりたい!」
ミクリは飛び跳ねながらロジーのところに駆け寄って、両手をぱちんと合わせた。すると、アミルが立っていた場所がぐらぐらと揺れ、波打った。それに合わせてアミルの爪先は何度も短く宙に浮かんだ。レイやロジーは背中の羽根を羽ばたかせて宙に浮かんでいるが、人間のアミルにとってはたまったものではない。ミクリは得意になってまたも手を合わせようとした時、
「おやめなさい」
「……はあい」
トーマの叱責により、瞬時に魔法は消えた。アミルはそのまま体勢を崩して尻餅をついた。トーマは指揮者のように優雅に手を動かして、部屋を元通りにした。
アミルは自分のお尻を撫でながら独りごちた。
「魔法って、こわいね……」
レイは口角を上げた。
「このように魔法は人間の想像以上の力を持っているわけだ。発動には十分、気を付けろよ?」
「うん、ぜったい気を付ける」
アミルは心から誓った。
◇◆◇
本日最後の授業。ハンプティ先生は早めに教室にやって来て、クラスの皆を廊下に並ばせた。
「では今日は、以前から言っていた合同の演習授業を行いますから、みなさん筆記用具等を持って移動してくださいね」
「はあい」
アミルは先生について行きながら、隣にいたエウリカに尋ねた。
「ねえ、合同授業ってなあに?」
エウリカはほら来たぞ、という顔で説明した。しかしその実、学年首位のアミルに何か教えることができるというのが、少し得意だったりもするのだった。
「上の学年の先輩方と、一緒に演習授業を受けるっていう取り組みだよ。今日は二個上の先輩と一緒だね。三年のクラスは三つあるから、どのクラスと一緒にやるかは分からないね。――ね、ディーナさまのところと一緒だったらいいなあ」
アミルは見るからに嫌そうな顔をした。
「わたしは一緒じゃなくていいや」
「どうして?」
「なんとなく、合わない気がするし」
と、話の途中でエウリカが前方を指さした。
「えっ、見て見て! 今、ディーナさまが、わたしたちの演習教室に入って行ったよ! ねえ、もしかしてあの憧れのディーナさまと一緒? やったあ!」
生徒たちがみな教室に収まりきると、ハンプティ先生と、高等学級を担当しているキキ先生という男の教師が教壇に立った。ハンプティ先生は丸々と太っており、一方のキキ先生は骨のように痩せこけ、背がひょろりと高い。あまりに対照的な二人に、教室中でくすくす笑いが起こる。
「こら、笑うな」
キキ先生が冗談っぽく叱った。しかしアミルは特に面白がることもなく、辺りをきょろきょろと見渡した。演習教室は広く、大きなテーブルがたくさんあった。先生たちの隣には、これまた巨大な四角い機械があった。
「あれが魔力を貯蔵している機械だよ。あれを使って魔法を発動させるの」
エウリカが小声で教えてくれた。
教師たちは中等学級二年と高等学級一年とがきれいに交ざるように班を作るよう指示した。結果、アミルとエウリカは別々の班になった。キキ先生は甲高い声で指示をした。
「高等学級のみんなは中等学級のお手本になるように、真面目に取り組んでください」
授業では、個々に魔法陣を書かせるところから始まった。今日のお題は火の魔法陣である。中等学級は基礎的なもの、高等学級はそれより少し発展した魔法陣を書くことになった。教師は中等学級の生徒に、「わからないところがあれば先輩に聞け」と指示した。これによって学年の違う生徒同士が、繋がりを持つことを合同授業の狙いの一つにしていたのだった。
多くの生徒が班のみんなと協力して課題に取り組んでいたが、一方のアミルはそんなことには構いもせず、黙々と自分の魔法陣を描き続けた。
「あなたがアミルさん?」
すると、横に座っていた高等学級の生徒から声を掛けられた。授業に集中したいアミルはやや素っ気なく返した。
「そうですけれど、何か?」
すると、周りにいた高等学級の生徒が身を乗り出して、小声で話し始めた。どうやらアミルに話し掛けたくてうずうずしていたらしい。
「ふふふ。あなた、とっーても賢いんですってね。学校中、あなたの噂で持ち切りよ」「なんでも、何十年に一度の優秀生とも言われているそうで」「私たちの学年の首席も勿論すごいけれど、貴女の方がずっとずっと賢いのかもしれないわね」「あの子もいつまでもうかうかしてられないってわけね」「そうよ、いつまでも澄ました顔ではいられないってことよ」「ふふふ」
「……そうですか」
アミルは作業に戻った。あの嫌味な、ねっとりした言い方が気に入らなかった。アミルは思う。どうしてこの学校は右を見ても左を見ても、ひとの悪口を言う人たちばかりいるのだろう。以前レイが『悪口は手っ取り早い仲間の作り方』と言っていたが、そんなことで作った友達など本当の友達ではないような気がした。
ふと、アミルはエウリカの方に目を向けた。彼女は先輩たちの輪の中でなかなか楽しそうにやっていた。彼女は内気だが、ああいう風に自らを輪に溶けこませるのは上手だった。アミルは再び自分の手元を見つめた。
「アミル、」
別の班であったディーナが、後ろからそっと話しかけてきた。
「何よ、」
アミルは手を動かしながら、振り返りもせず言った。ディーナは、聞こえるか聞こえないかの声でアミルにささやいた。
「その子たちに何言われようと気にしなくていいからね」
「え、なに?」
不機嫌な表情を隠しもせずに振り返ると、ディーナの右頬に妙なすり傷がついているのが見えた。その傷は、ふつうの生徒がつけていたら、そう気になるものではなかっただろうが、ディーナの透き通るような白い肌に、一本の赤い傷が入っているのがあまりにも不似合で、目立っていた。そんなアミルの視線に気付いて、ディーナはぱっと顔を赤くしてすばやく髪で傷を隠した。
「どうしたの、その傷……」
アミルが問うと、ディーナはほのかに潤んだ瞳で吐き捨てた。
「別にいいでしょ、」
「何、誰かにやられたの?」
「ほっといて」
むっとしたアミルは、さっと背中を向けた。
「そっちが勝手に話しかけてきたんでしょう? 学校にいるときは話しかけるなって、自分から言ったくせに」
「……そうよ」
ディーナはさっと顔を伏せた。「目、付けられちゃうから」
「は?」
再び振り向いたときには、そこにディーナの姿はなかった。ディーナはキキ先生に呼ばれ、席を立って歩き出していたのだ。
キキ先生はどうやら、この学年で一番優秀な生徒であるディーナを、この教室全体の手本に選んだらしい。彼女が前に行くと、何故か上級生たちの中で忍び笑いが起こった。アミルはその反応が心底不愉快だった。
ディーナは自分の描いた魔法陣を教師に渡した。教師はそれを見て満足げに頷いて、皆に彼女の作品を見せた。
「はい。みなさん注目!」
先生が黒板に掲示したのは、先日アミルの宿題にも出ていた、火の魔法陣である。アミルにとっても書くのがなかなかに難しかった魔法陣を、ディーナは今、短時間で描きあげたのである。それも、線のゆがみやインクの滲みといった無駄なものも一切なく、完璧に、である。これにはさすがのアミルも素直に感心した。
キキ先生は四角い機械に繋がる平たい板を取り出した。それを教壇の前の机に置き、その上に魔法陣の書かれた羊皮紙を載せた。ここで機械を動かすと、貯蔵していた魔力が流れ始め、羊皮紙とインクに反応して魔法が発動する仕組みであった。ただし、魔法が発動したからといって安心して良いわけではなく、その後、人間が想像力でもって魔法を制御する必要があるのだった。ディーナはそれを一人で行うようだった。
しかし、アミルは黒板に掲示された彼女の魔法陣を見た時、妙に頭に引っかかるものがあったのだ。アミルは過去の記憶を探ってみた。なんだろう。確か、最近見たことがあるような――。その時、山羊の頭がふっと脳裏を横切った。
アミルは勢いよく立ち上がった。
「先生!」
キキ先生は今まさに機械を動かそうとしているところだった。
「あっ、あの! その魔法陣、発動しない方がいいと思います!」
その言葉に、誰よりも早くディーナが反応し、鋭く射抜くようにこちらを睨みつけていた。アミルはそれを受け止め、睨み返した。
「どういうことですか?」
先生の問いに、アミルは答えた。
「――そうじゃないとこの教室、きれいさっぱり吹き飛びますよ」
教室中が一瞬にして静まり返り、一瞬にして騒ぎ出した。まさか、そんなはずは……と教師たちが慌てだす。ディーナの魔法陣と教科書の魔法陣とを見比べると、確かにうっすらと余計な一本線が描かれていた。これが何だと言うのでしょう、キキ先生がハンプティ先生に尋ねた。そこでハンプティ先生ははっとした。それは、教師の間であってもあまり知られていない高等魔法陣の一つだったのだ。生徒たちの動揺を抑えながら、ハンプティ先生は優しくディーナに問いかけた。
「ディーナさん、あなたは誤ってこの線を書いてしまっただけですよね?」
目を伏せ、ディーナは頷いた。ハンプティ先生は安堵の息を吐き、何とかその場をおさめて、授業を続けた。先生はディーナを席に返すとき、小声で囁きかけた。
「一応この魔法陣はボクが預かっておきますからね。大丈夫、何も気にしなくていいからね」
「はい、先生」
ディーナは静かに自分の席に着いた。
◇◆◇
授業終わり、アミルはハンプティ先生に呼び止められた。
「アミル、よく気付いてくれたね。それにしても、何故あの魔法陣が危険だと知っていたのかい?」
「以前、ちょっと見かけて……」
「見かけたって、一体どこで? これは、先生たちの間でもあまり知られていない高等魔法陣の一種なんだがね」
「それはレイが――、」
さっと視線を動かすと、今にも教室を出て行こうとするディーナの後ろ姿がみえた。ディーナには聞かなきゃいけないことがある。アミルは申し訳なさそうに先生に頭を下げた。
「ごめんなさい先生、わたし、ディーナに聞きたいことがあるので!」
「お、おや、そうだったのかい。引き留めてすまなかったね」
「いえ、先生、じゃあ、また明日!」
アミルは教室を飛び出し、まっすぐにディーナを追いかけた。彼女の美しい金の髪は大勢の生徒の中でもすぐにわかった。追いかけて来る存在に気付いたのだろう、ディーナは歩くのをやめて走り出した。アミルは逃がしてなるものかと足を回転させた。ディーナの足は思いの外遅く、校門に出る前には彼女の腕を掴むことができた。弾んだ息を整えながらアミルは言った。
「なんで逃げるの。ちょっと、話があるんだけど」
「そんなのあたしには関係ない……」
「関係ある!」
嫌がるディーナの手を引き、アミルはひとけの無い校舎裏まで連れて行った。ここなら、生徒の誰かがやってくることもなく、ゆっくり話すことができるだろう。ディーナは忌々しそうに舌打ちをした。
「――貴女は、ほんとに、余計なことばかりする」
「余計なこと? どういう意味よ」
至極面倒そうに髪の毛を払ったとき、彼女の頬に残る傷がちらりと見えた。
「別に、貴女が言ってたほど大した魔法陣じゃなかったわよ、あれは。――ただちょっと、みんなの髪の毛がちりちりに燃えちゃうくらいで」
アミルはやはりあの魔法陣はわざと描いたのだ、と思った。
「何でそんなことしようとしたのよ、危ないでしょ」
「仕返しよ」
ディーナは暗い瞳でアミルを射抜いた。対峙するアミルは、一歩も退かないながらも、思わずその気迫に圧されてしまった。
ふいに、ディーナの視線がアミルから外れた。不思議に思っていると、背中の方から、
「アミルちゃん! そんなところで何してるの?」
名前を呼ばれ振り返ると、そこにはエウリカと上級生の何人かが立っていた。先ほどの合同授業のときに仲良くなったのだろう。どうやら下校途中のようだった。アミルは何となく気が抜けて、「別になんでもない」と答えようとしたその時。アミルはディーナのまとっていた空気がさっと冷たいものに変わったことを感じた。
「みんな、きえちゃえ……っ!」
アミルは迷うことなくディーナに跳びついた。彼女の手には先ほど没収されたものとはまた別の魔法陣が握られていたのだ。その場にいた上級生たちが悲鳴を上げて逃げ出した。それに反応したディーナの隙をついて、アミルは素早く、彼女の魔法陣を奪い取った。そうして、びりびりに引き裂いてやった。おそらくこの魔法陣は、すぐにでも魔法が発動できるように手が加えられていたものだろう。それも、強力な。
「魔法陣は勉学以外に使っちゃだめだって、先生に教わらなかった?」
暴れるディーナを押さえつけながら、アミルは言った。ディーナは息も絶え絶えに叫んだ。
「は、放してよ! あたし、あの子たちにやり返さなきゃ、気が済まない……!」
向こうから、エウリカが心配そうに駆け寄って来た。
「来ないで!」
アミルはエウリカを一瞥して叫んだ。
「いいから、行って。わたし、ディーナと、話さなきゃいけないことがあるから!」
「でも……!」
「いいから!」
アミルの剣幕に気圧され、エウリカはためらいながらもその場を立ち去った。
「どうしてあの子を帰らせたの? 二人がかりで捕まえて、あたしを先生にでもつき出せば良かったじゃない」
「何度も言わせないで。わたしはあなたと話をしに来たのよ」
アミルはディーナをぎっと睨み付けたが、少し迷うように瞳を揺らし、押さえつけていた手を離した。そうして一歩下がり、ディーナとふたたび向き合った。
「わたし、あなたに聞いてみたいことがあったの」
「へえ。なあに?」
挑戦的にディーナは首を傾げた。アミルはやりきれないような気持ちで、相手に訴えかけるように話した。
「あなたは、どうして、そんなに毎日がつまらなそうなの? 学校でも、レイのお屋敷で会ったときも、いつもそう。心を閉ざして、目を伏せて、じっと堪えるようにうずくまっている。あなたは何だかぜんぶ、諦めてるみたいに見える」
「……それが何だというの」
「気になるのよ、どうしてあなたがそんな風にしているのか。――やっぱり悪魔にいじめられてるの? それとも何か他に理由があるの?」
ディーナは呆れたようにわらった。
「話はそれだけ?」
「ちゃ、ちゃんと答えて!」
「あたしはきらいなだけよ。人間も、――悪魔も」
言いつつ、逸らされた視線。諦めたような瞳。アミルはもどかしい気持ちになった。
「そうだ。あたしも貴女に聞いてみたかったことがあった」
顔を上げて、ディーナは悲痛そうに顔をゆがめて尋ねた。
「人間に捨てられたくせに、どうしてまだ人間と関わろうとするの?」
「どうしてって、」
ディーナはふるふると首を振った。
「あたしは、あたしを捨てた人間が嫌い。人間なんて、みんな大嫌い。貴女も、あたしと同じ捨て子なんでしょう? 捨てられて、つらい思いもさびしい思いも、たくさんしてきたでしょう? 人間のこと、憎くないの?」
アミルは考えて、笑った。
「あんまりそういうこと考えたことない。わたしには、レイがいるから」
「――っ!」
突然、ディーナはアミルの方に掴みかかってきた。急なことに反応できなかったアミルは避けることができず、地面に倒れ込んでしまった。痛みにうめくアミルに乗り上げ、ディーナは襟首をぎゅっと掴んだ。
「……アミルにはわかりっこない、レイア様に甘えてばっかのアミルには、あたしの気持ちなんて少しもっ……!」
ディーナは ゆき場のない感情に、全身をふるわせていた。襟を握る自らの手にすがるように、ディーナはその場に小さくなって泣き叫んだ。それはまるで親を恋うて泣く赤ん坊のようでもあった。
ディーナは涙が口元を伝うのも構わず、言葉を発した。
「貴女を、初めて見たとき。――ああなんて、恵まれた子だろうって、思った」
ふるえる唇を必死に噛みしめて嗚咽を殺しながら、ディーナは続けた。
「レイア様のことも、貴女のことも、披露宴のあの日に初めて知ったけれど。……す、すぐにわかったわ。レイア様は貴女のことを、大事に想っているんだってことがね」
「ディーナ、」
「あたし、貴女が羨ましくって羨ましくて、しかたなかった……! 捨て子で、ずっと独りで、悪魔に拾われて。ぜんぶ一緒なのに、どうして、あたしとはこんなに違うんだろうって……!」
ディーナは肩をふるわせ、つらそうに何度もしゃっくりを上げた。握る手にぎゅっと力が込められる。
「あたしはね、あの方にいつも言われることがあるの」
ディーナは俯き、目を伏せた。
「――『そのまま』」
頬に、涙が伝った。
「『そのまま、変わらず、美しいままで。』」
アミルは絶句した。それを見たディーナが微笑んだとき、彼女の瞳から涙がこぼれた。
「毎日、鏡を見て、思うの。……ああ、あたし、また一つ、歳をとる。また、どこかが少しずつ変わってしまう」
「そ、んな……」
「――変わらない人間のうつくしさ。それが、悪魔の芸術だって、あの方は言うの。おかしいでしょ、人間が変わらないわけないのにね。でも、あの方はその芸術を、何より大事に想っている」
みるみるしおらしく、小さくなっていくディーナの姿を、アミルはただ見つめることしかできなかった。
「いい? アミル、あたしはね、芸術作品のひとつなのよ。あの方の望むように、『変わらぬ美しさ』をもってないと捨てられちゃう、ちっぽけな存在なのよ」
そう言って、ディーナはふるえる手で、そっと自分の頬を撫でた。
「それなのに、こんなおっきな傷……、ひどいわ。みんなとっても、意地悪ね。あたしがどんな思いであの方にお仕えしているかも知らないで……。
もしも、この頬の傷を見て、あの方がご機嫌を損ねちゃったら、どうしよう?また、捨てられちゃうのかな。また、独りぼっちかな。また、あの暗くて狭い小屋で暮らしていかないといけないのかな。捨てられちゃったら、あたしは、これからどうしていけばいいの? もう、捨てられたくない、たとえ、それが、悪魔でも」
ディーナは握っていた手を離し、顔を両手で覆った。
「……あたしね、怖くてこわくて仕方ないのよ」
アミルは起き上がって、ディーナの小さな体を力の限り抱き締めた。何も言わなかった。ディーナはその沈黙が何よりも有難かった。ディーナはわんわん泣き続けた。
◇◆◇
彼女の泣き方が啜り泣きに変わる頃、辺りはすっかり暗くなってしまっていた。星の輝く空の下、アミルはディーナを想って優しく声を掛けた。
「ディーナ、帰ろう」
「……帰るって、どこへ?」
「カルマさんのところに」
ディーナは鞄から鏡を取り出して、自らの顔をみつめた。泣きはらした目ぶたが赤く、ぷっくりとふくれ上がっていた。ディーナは泣き笑いを浮かべた。
「こんな顔、だめね」
「……だめだったら、レイのとこに来ればいいよ。レイならきっと、」
「ううん、レイア様は貴女だから拾ったのよ」
ディーナは微笑んだ。その微笑みを前にアミルは思わず言葉を失った。何もかも吹っ切れた彼女の微笑みは、今まで見てきたどの表情よりも美しく、魅力的だった。――その時アミルの頭の中に、おぼろげに、確信とまではいかないが、ディーナの主に対してある仮定が思い浮かんだ。
アミルは慌ててディーナを呼び止めた。
「ね、ねえディーナ。あ、あなたもちろん一度は魔界に、カルマさんのところに帰ってみるつもりでしょうね? このまま帰らずにいなくなったりなんかしないわよね?」
「ええ。荷物くらいは取りに戻りたいもの」
目を細めてディーナは、優しくアミルの手を取った。
「……これが貴女と会える最後の日になるかも」
「ちょっと、ディーナ、」
「ありがとう。貴女と会えてよかった」
アミルが何か言う前に、ディーナはその場を走り去ってしまった。
◇◆◇
朝。魔界の扉をくぐって人間界へ出ると、森の中でディーナに出会った。彼女はアミルのことを待っていたようであった。
「あのね、」
もじもじと足で地面を蹴るディーナに、アミルは弾けんばかりの笑顔で返した。
「おはよう。大丈夫だった?」
「う、ん」
終始首を傾げながら、ディーナは訳が分からないといった様子で口を開いた。
「主は、その、【傷がついてあるのもなかなかに魅力的だ】とか仰ってね……」
「ふうん、やっぱりね」
ディーナは目を丸くした。
「やっぱりって何よ。どういう意味?」
アミルはにやにや笑った。
「レイが、『自分の近くにあるものは案外みえにくい』って言ってた」
「え?」
ディーナはわからなかったようだ。二人は久しぶりに一緒に学校へ向かうこととなった。ディーナはぼそりと呟いた。
「悪魔の芸術って、その、けっこう適当なのね」
「そういうことだね」
「……何よ。にやにや笑っちゃって。からかってるの?」
アミルは先を歩きながら、鼻歌まじりに言った。
「ねえディーナ、わたしと友達になってみない? わたしたちきっと、良い友達になれると思うんだ」
後ろのディーナが立ち止まる気配がした。アミルはにやにや笑いながら、振り返った。
「……ゆう、」
「え?」
「親友でしょっ」
ディーナは声を張り上げた。言って、恥ずかしくなったのか、真っ赤な顔を隠しながら、アミルを抜かして先へ行ってしまった。
「待ってよ、ディーナ!」
アミルはこみ上げるくすぐったさを胸に駆け出した。
◇◆◇
ある日の放課後。エウリカは、二階の空き教室に呼び出されていた。呼んだのは他でもないアミルである。「ぜひ来て、絶対よ!」アミルにしては、妙にうれしそうだった。あんなうれしそうなアミルは授業中でしか見たことがなかった。
エウリカは半信半疑で、指定された空き教室の扉を開けた。
そこではアミルとディーナが向き合って、非常に仲睦まじい様子でお喋りしていた。教室の前で呆然と立ち尽くすエウリカに、アミルは可笑しそうに手招いた。
「エウリカー、こっちこっち」
エウリカは憧れの先輩から目が離せなかった。何だろうこの不思議な組み合わせは。彼女の視線に気付いたディーナが、こちらへ向けて流れるような動作でお辞儀した。エウリカは慌ててお辞儀を返した。
人から聞いたうわさで、ディーナがここ最近、妙に人付き合いがよくなったということは耳にしていた。が、まさか自分に対してまでも優しく接してくれるとは思わなかった。エウリカは感激のあまり、顔が熱っぽくなるのを感じた。
「エウリカはこっちの椅子に座ってー」
アミルに促され席に着いたエウリカは、たまらずといった様子で小声でアミルに小声でささやきかけた。
「ア、アミルちゃん! いつの間にディーナさまと仲良くなったのよう! そんなこと一度も話してくれなかったじゃない!」
「んーまぁ、いろいろあってね」
アミルはぼんやり天井の方を見つめつつ、
「話すと長いから、言わないけど。ディーナがね、わたしやエウリカに色々迷惑かけちゃったからって、美味しいお菓子をもってきてくれたの。これ自分で作ったんだってさ」
エウリカは小さな机に並べられた可愛らしいお菓子を見つめた。どれもこれも手が込んでいて、美味しそうだった。甘い匂いにうっとりしていたが、エウリカははっと我に返って、辺りを見渡した。
「で、でもここ学校でしょ? 放課後で、空き教室だから人も来ないだろうけど、勝手にこんなことしてて大丈夫なの? みつかったら先生に怒られるかも……」
「それは大丈夫。先生には、言っておいたから」
これにはディーナがくすくす笑いながら答えた。エウリカはぽかんとした。何をどう言えば先生からの許可がおりるのだろう。エウリカは一瞬思ったが、ディーナほどの人ともなると、どんな許可でも容易くおりるだろう、当然だと思い直した。
「お茶もあるのよ。よかったらどうぞ」
ディーナは鞄から水筒を取り出し、三つのコップに注いでいった。
「わ、わあ、ありがとうございます……あ、憧れのディーナさまと一緒にお茶できるなんて夢みたい……」
「よかったねえ、エウリカ。ずっとディーナとお話したかったんでしょ?」
隣ですっかりくつろいだ様子のアミルを見て、エウリカは大いに驚いた。
「ちょ、ちょっと! アミルはなんでそんなに緊張感ないの? あのディーナさまの前だよ? もっとちゃんとしてよっ!」
「エウリカの方が緊張しすぎだよ。息つまりそう」
これにはディーナもうなずいた。
「そうよ。あまり緊張しないで?」
「でも」
ディーナは微笑んだ。
「貴女のこと、アミルからよく聞いています。いきなりのことでびっくりさせてしまったかもしれないけれど、あたしとも、ちょっとずつでいいから、仲良くしてくれたら嬉しいわ」
エウリカは飛び切りの笑顔で返した。
「はいっ、もちろん!」
◆◇◆
それからというもの、アミルが語る話には、ディーナとエウリカの名前がよく出て来るようになった。時には喧嘩し、時には仲直りする人間のやり取りは悪魔たちにとっても非常に興味深く、聞いていて面白いものであった。
アミルはのびのびと成長した。成績についてはアミルの興味関心の度合いによって、微妙に上がったり下がったりはしていたものの、基本的にはふつう以上の好成績を修めていた。
学校では、相変わらず注目されることが多く、陰口や悪口が耳に入ってくることも多かったが、アミルにはディーナやエウリカといった仲間がいた。他にも、心強い味方に、レイをはじめとする悪魔たちがいた。アミルはよく、レイが自分のことを拾ってくれなかったとしたら、今頃どうなっていただろうかと考えることがあった。その場合には、森の中で変わらず、独りぼっちで暮らしていただろう。そう思うと、ぞっとするような気持ちに襲われるのだった。
人間時間で言うと二年。アミルたちの時が流れた。
アミルとエウリカは高等学級一年、ディーナは高等学級三年になった。
アミルはこれからもずっと変わらぬ毎日を過ごしてゆくのだと、そう思っていた。
◇◆◇
授業終了の鐘が鳴った。号令がかかり、教師が出て行くと、教室のみんなはすぐさま帰り支度を始めた。
「はあー、やっと今日の授業終わったねえ。じゃあ帰ろっか、アミルちゃん?」
腕をうんと伸ばしながら、エウリカはアミルの方へと寄ってきた。アミルは頷きかけて、「あっ」と声を上げた。
「ごめん、エウリカ。わたし、これからハンプティ先生の特別授業に出て来るんだ。だから、また今度!」
そう言って、教室を飛び出したアミルを見送りつつ、エウリカはわざとらしくため息を吐いた。
「まったく、アミルちゃんは二年経ってもほんとに変わんないんだから」
◇◆◇
アミルが教室に入ると、ハンプティ先生がにこやかに迎えてくれた。
「やあアミル、よく来てくれたね」
「はい、だって、ハンプティ先生の特別授業ですから」
その言葉にハンプティ先生は嬉しそうに肩とお腹を揺らした。
「あ、そうだ。アミルにちょっと、話があってね」
先生は机の上に置いていた紙をアミルに手渡した。
「なんですか、これ?」
ハンプティ先生が渡したのは一枚の企画書であった。大きな字で『魔法 研究発表会』と書いてあった。ハンプティ先生は説明した。
「魔法陣の探究をを目的とした、学生のための発表会だよ。毎年、中等学級三年を対象に行われている取り組みで、なかなか有名な催し物なんだ。大まかな内容は、期間内に、一つの研究テーマに従って新たな魔法陣を自分の力で創り出す、っていうものなんだけど。どうだろう、やってみないか?」
「はい、やります!」
――それからというもの、アミルは、魔界の屋敷と学校の研究室とを行き来する日々を過ごした。
研究室には、同じように先生から声を掛けられた生徒たちが多くいた。アミルが苦手に思っていた生徒も中にはいた。それでも、一緒に過ごすようになって少しずつ分かっていったのだ。
自分の周りには嫌な人間しかいない、とかたくなに心を閉ざし続けていたが、人間にも色々な人間がいる。優しい人間、誠実な人間、自分と似たような考えを持っている人間というのが、意外にも近くに、数は多くはないけれどいたのである。
心の氷がとけるように、アミルは少しずつ、ディーナやエウリカ以外の人間ととも話ができるようになっていった。
――そしてついに、研究発表の日がやって来た。
アミルは自分の熱意を込めて創った魔法陣をもって、研究発表会に臨んだのである。
◆◇◆
アミルは屋敷の玄関から、ありったけの声でレイの名前を呼んだ。
「レイ、レイっ、見て、これ見てよっ! わたしもらったのよ、ねえ! 早く見てってば!」
広間のソファに寝転ぶレイを見つけたアミルは、「もう、返事してよ」と少しふてくされながらも、嬉々として一枚の紙を目の前につき付けるようにして広げてみせた。
「なんだこれ」
「表彰状よっ」
寝転がったまま起きようともしないレイに、焦れたアミルは地団駄を踏みつつ、彼のすぐ目の前までにじり寄った。
「わたしの作った魔法陣が、最優秀賞――えっと、みんなの中で一番、素晴らしい作品をつくった人に贈られる賞ね――それに選ばれたのっ。もう、すごかったわ。みんなの前でわたしの名前が呼ばれてね、拍手がなかなかやまなかったの。表彰台ではね、魔法について研究している研究員の方からたくさん褒められたわ。ああ、今日のことをレイにも見せてあげたかった! 研究員の方はね、今度ゆっくり、わたしの魔法陣について色々話を聞かせてくれって、言ってくださったの。今日から三日後に、研究室においでってね。――レイにはわかんないかもしれないけど、人間にとっては、すごく名誉のあることなんだよ! このままうまくいけばわたし、研究員にだってなれちゃうかもっ。ああ、うれしい!」
アミルは弾む息でそこまで言い切った。レイは「へえ」と相槌を打つばかりである。アミルは一瞬不満そうにしたが、すぐに表情を変えて、何かを期待するようにレイを見つめた。
彼女の言うように悪魔であるレイには、彼女が大事そうに抱える紙切れも、彼女が表彰されたことの価値も、何一つ正確には理解していなかった。が、それでもアミルが今、彼に何を期待しているのかはいつだって正しく理解していた。
レイは、ふふんと可笑しそうに鼻で笑いながら、彼女の頭に手をのせた。そうしてその小さな頭を思い切り撫でくりまわしてやった。
「よくやった、よくやったぞアミル。おれは大変嬉しい。とにかく嬉しい。おまえならいつか必ずやってくれると、おれは信じていた。さすがだなアミル、おまは悪魔界の誇りだよ」
「うん、うん、うん!」
髪の毛をぐわんぐわんとかき回されながらも、アミルはとても嬉しそうに目を細めた。
「わたし、成長できたと思う?」
「何言ってんだ。まだまだこれから、一生かけて成長していくんだろ?」
「そうだね」
アミルは笑った。
「わたし、がんばるから、見ててね」
レイは当然だ、と頷いた。
◇◆◇
ここは、学校から少し離れたところにある、魔法研究所である。アミルは研究発表会で出会った研究員との約束通り、三日後、優秀賞をもらった魔法陣を携えてこの研究所を訪れたのだった。
「ここでみなさんお待ちになっています」
案内してくれた研究員が言った。アミルは緊張の面持ちで、研究室の扉をノックすると、扉の向こうで声がした。
「どうぞお入りください」
「失礼します」
入ると、中はややこぢんまりとした応接室だった。正面には椅子とその奥には三人の教授が並んで座っていた。年老いた男の研究員に、女性の研究員、二人と比べるといくぶん若い男の研究員だった。真ん中に座っていた年老いた研究員がどうやらこの中で一番権威のある研究員であるようだった。
彼はしわくちゃの顔で微笑んで、アミルに優しく声をかけた。
「どうぞ椅子にお座りください」
「はい、ありがとうございます」
お互いに一通り、自己紹介した後、真ん中の研究員が切り出した。
「では早速ですが、あなたが創ったという魔法陣を、もう一度よく見せていただけませんか」
「は、はい」
アミルは緊張にふるえる手をおさえつけながら、魔法陣の書かれた一枚の羊皮紙を取り出し、それを彼らの前まで持って行った。
「なるほど、これはよくできた魔法陣ですね」「よく書けています」「中等学級の生徒とは思えませんね」「素晴らしい」
アミルはぺこりとお辞儀した。うれしくてつい口元がにやけそうになる。
研究員は顔を上げ、じっとアミルを凝視した。
「――ただ、」
アミルは背筋を伸ばして、彼らの言葉を待った。
「この魔法陣はやや魔力の消費が激しすぎるように思われますが」「確かに」「学校の魔力貯蔵機械でも補えないほどの魔力が必要だったのではありませんか? 一体どうやって発動したのでしょうか」
「それは、ですね」
アミルは緊張しながらも、自らの言うべきことはきちんと説明するべく意気込み、口を開いた。
「確かに人間の魔力や、魔力を貯めている機械ではそう簡単には発動できない魔法です。が、わたしはこの魔法陣をきちんと発動させて、研究発表に臨みました。なぜなら、悪魔たちの力を借りれば簡単に、」
――悪魔。その言葉を口にした瞬間、この部屋全体の空気が一瞬にして変わったのをアミルは感じた。研究員たちは今までの窺うような声色を変え、厳しく詰め寄るように言った。
「悪魔――あなたは、今、『悪魔』と言いましたか?」
「は、はい」
アミルは何故、彼らがこんなにも厳しい目をするのかが全く理解できなかった。それでも、アミルの発言によって、場の空気がおかしくなったことは感じられたので、彼女は必死に言葉を述べようとした。
「た、確かに、悪魔は人間とは全然違う存在ですが、決して悪いものではありません、だって、」
「悪魔は、」
女性の研究員が口を開いた。
「伝説上の存在であると、古くからそう信じられてきました。が、昨今、悪魔という漆黒の蝙蝠羽をつけた魔物がわれわれの世界を飛び回っているという報告を耳にすることが増えました。しかしそれを知るのは一部の人間だけです」
アミルは研究員の意図するところが全く理解できずにいた。混乱し切った彼女を気にも留めず、研究員たちは各々に質問を重ねた。
「私たちの質問に正直に答えてください。あなたは、悪魔をその目で見たことがありますか?」
「は、はい」
「悪魔がわれわれと同じように、いえ、それ以上に強大な魔法を使うことも知っていますか?」
「はい、知っています……」
「では、あなたは悪魔の力を借りてこの魔法陣を創ったのですか?」
アミルははっとした。気付いたのだ。この集まりは、アミルを一研究者として認めるために開かれたものではなく、アミルが悪魔の力を借りて不正を働いたかを調べるための集まりだったのだ、と。アミルはすぐさま否定した。
「違います、そんなことはしていません! わたしはわたしの力だけで魔法陣を創りました。それは、それは先生方や一緒に研究していたみんなが知っていることです、わたしは……」
「しかしあなたには悪魔との密接な関わりがある――そうですね?」
若い研究員が手元の資料をもって話し始めた。
「大変申し訳ないのですが、あなたのことを色々と調べさせてもらいました。貴方はアカメイア女学校に途中入学されたそうですね。それまではどこに?」
「え、」
「御両親、保護者の方は? あなたは自分の生年月日が言えますか? どこで生まれたんですか? どうやってその学校に入ったのですか?」
「わた、しは……」
アミルは俯いた。
「わたしは、捨て子でした」
さすがの研究員もわずかに言葉を詰まらせた。
「……誰かに保護されたのですね」
「レイ――悪魔が、身寄りのないわたしを拾ってくれました」
「では、あなたがご友人たちに『自分は悪魔の子』だと言ったのは本当だったのですね」
「そんなはっきりと言った覚えはありませんが、……でも、それに近いことは言っていたと思います。本当の、ことですから」
「ではあなたは、悪魔の正体というものをご存知なのですか?」
アミルは戸惑った。
「なんですか、それは」
「先程われわれは、悪魔が人間の世界に姿を現すようになったと申し上げましたが、悪魔がこちらの世界へやって来るのはある目的があるのです。その目的とは、悪魔が人間を自分たちの世界へ連れ去ること」
研究員は言った。
「悪魔が不死であるのは、物語や伝説から聞いたことがあるでしょう。……悪魔の性質については、あなたのほうがよくご存知かもしれませんが。――では何故、悪魔は死なないのか。これについてはご存じでしょうか」
「し、らないです」
研究員は言った。
「悪魔を専門に研究している学者たちの間では、『悪魔は人間の命を食べている』と考えている者たちがいるそうです。『人間の命を食べることで、自らの命を引き延ばしている』と。これについてはまだ研究途中で、どのようにして人間の命を取り出すのか、食すのか等はわかっていませんが……」
研究員は言った。
「実際に悪魔の手によって、連れ去られた人間は多くいます。そして、未だ行方知れずの者もいます。このような事件は、これからも増え続ける一方だと専門家は予測しています。――それでもあなたは、悪魔を信じられますか」
アミルは、何もいえなくなった。それを見て、研究員たちは少し間をおいてから話を切り出した。
「ここは、神聖なる研究の場です。本来ならば、悪魔という邪悪な存在と関わりのある人間が立ち入ることは許されないことです。しかし、あなたはアカメイア女学校で目を見張るほどの素晴らしい成績を修めていらっしゃる。それは学校側の報告書から見て取れます。非常に優秀な人材です。そんなあなたを悪魔と関係があるからという理由だけで、手離してしまうのは実に惜しい。あなたはわれわれ人間社会の発展に必要な人間なのです。もちろん、あなたの研究環境を整えるためならば、われわれも尽力します。ですからね、」
老いた研究員は、慈愛のこもった笑みを浮かべた。
「あなたは即刻、悪魔との縁を切りなさい」
なんておぞましい笑みだろうと、アミルは思った。
◆◇◆
アミルは、魔界へ帰る道すがら、いつかの日の出来事を思い出していた。
あれは確か、自分が学校へ通う前のこと。この屋敷に来てすぐの頃の話だ。
――……。
いつものように広間のソファでくつろいでいたレイが、戯れにアミルの毛をつまんで眺めていた。そしてぼそりと。
「全くおまえは髪が伸びるのが早いな……」
言われたアミルも自身の髪の毛を見つめ直し、立ち上がってくるりとその場で回ってみせた。
「髪だけじゃなくって、背もね、ちょっとだけ伸びたんだよ?」
アミルは屋敷の柱を指さした。そこには、彼女の身長がどれほど伸びたか印が打ってあった。トーマがしてくれたのである。
「へえ。人間は成長してばかりいるんだな」
「そうだよ、あっという間にレイの背も抜かしちゃうよ」
アミルはご機嫌だった。
レイは、うんうんと頷いて、
「そうだな。そうしてあっという間に小さくなって死んじまうんだからな」
アミルは絶句した。
「――な、なんでそんなひどいこと言うの?!」
「おいどうした、何で涙なんか流しているんだ?」
泣き出すアミルに、誤りもせず、レイは「よせよせ」と呆れたように手を振った。
「人間は水がなきゃ死んでしまうじゃないか」
「なんでそんな簡単に、死ぬ死ぬって言うのよ!」
大声を上げて、アミルはむせび泣いた。
「今、わたしは、生きてるじゃない!」
レイは首を傾げた。
「何を当たり前のこと言ってるんだ? そりゃおまえは死んでないが。しかしいつかは死んでしまうわけだろ、人間は」
「そうだけど、」
アミルは納得しつつも、実際に人の『死』というものと直面したことがなかった。なので、死というものが何なのか今ひとつ理解できずにいた。
そんなアミルでもわかっていたのは、『死』とは、すなわち『永遠の別れ』であるということだった。
悪魔と人間は、いつまでも永遠に仲良く一緒に居ることはできない。それはレイだけではなく、トーマも時々口にする。人間には終わりがある。だから必ず別れがやって来る。遅かれ、早かれ。
そのことを考える度、アミルは言い知れない心の痛みを感じるのだった。……それは、切なさというのだろうか、悲しみというのだろうか、淋しさというのだろうか、やり切れなさというのだろうか。分からない。レイが教えてくれたどんな言葉を使っても、彼女の心は表しきれなかった。
「わたし、しにたくない」
だからアミルは、涙に想いを託すしかなかった。
「レイとずっと、一緒にいたいよ」
レイは立ち上がり、何度も何度もアミルの頭を撫でた。
「……悪かったよアミル。もう言わないから、泣かないでくれ」
レイには、アミルが何故泣き出したのか、何が彼女を傷つけたのか、ほとんどわかってはいなかった。
人間と悪魔の考え方の違い。
いつもなら、そんなに気にしなくとも仲良く暮らしていられたのに。ある瞬間にふと、たがいの物事の捉え方の違いに気付かされることになる。
アミルはその違いに、心から傷ついていた。それでも、自分が悲しんでいれば、その理由は分からずとも、優しくなぐさめてくれる存在がいてくれることを、アミルはちゃんと知っていた。アミルにはそれだけで十分だったのだ。
少々、考え方に違いがあったからってそれが何だと言うのだろう。違いなんて関係ない。自分とレイとの間には何も関係ないことなのだ。そう、何度も言い聞かせて。
――……。
◆◇◆
アミルは、先ほどの研究員たちの言葉を思い返しては、悔しさに唇をかみしめた。
――『即刻、縁を切れ』とは、一体どういうつもりなんだろう。あなたたちはレイのやみんなのことを、何ひとつ知らないくせに。
何度思い返しても、はらわたが煮えくり返るようだ。
どうして、何も知らないのにそう拒むことができるんだろう。たしかに、悪魔には嫌な悪魔もいるかもしれないが、それはあくまで一部だろう、とアミルは思っていた。
研究員はアミルのことを『優秀な人材』と呼んだ。だからこそ、手離すのが惜しいと言った。
でも、彼らは知らないのだ。かつて彼女は『できそこなった』という理由で人間に捨てられたことを。そして、その捨てられた命をここまで育て上げてくれたのは、他でもない悪魔の彼らだということを。
アミルから事の顛末を聞いたレイは、しばらく黙って考え込んでいた。
彼女の周りにはレイ以外にも、屋敷中の悪魔たちが集まっていた。彼らはじっと主の出す答えを待っているようだった。
沈黙に堪えられず、アミルは自ら口を開いた。
「わたし、悪魔として生きてく」
レイの眉がぴくりと動いた。
「だって……わたしを育てたのは、悪魔のみんななんだもの。人間というよりは悪魔みたいなものだし、羽根はないけれど、魔語なら少しは話せるよ。ね、わたしが悪魔だって言ったって何も不思議はないでしょう? そうして生きてく。いいでしょう?」
レイはアミルを見据えた。
「別に構わないが。それでもやはり人間は人間の中にいた方が良いとおれは思うぞ」
いつになく真剣な顔をするレイにアミルは戸惑った。
「ど、どうしてそんなに難しい顔をしているの? 簡単なことでしょ? わたしが人間じゃなくなればいいんだもん。ね、そうでしょう?」
レイは表情を険しくした。
「おまえの大好きな学校はどうするんだ」
「がっこう、は、……やめる」
「やめてどうする」
「だから悪魔として生きてくの!」
「人間のことが恋しくなったら?」
「な、なるわけないよっ」
言った後で、クラスのみんなや先生たちの顔が思い浮かんだ。
「……もしなったら、また別の学校に入れてくれれば、」
「人間にやり直しはきかないだろ」
「そ、そんな……どうしてそんな言い方するの?」
「おまえが適当なことを言い出すからだ」
アミルは顔を伏せ、両手をかたく握り締めた。下手をすると泣き出してしまいそうだったからだ。ここで泣くのは何だか嫌だった。目を閉じ、改めてちゃんと考えてみた。それでも答えがまとまらない。
アミルは絞り出すような声で問いかけた。
「――悪魔は、ほんとうに人間の命を食べているの?」
初めてレイは言葉に詰まった。アミルは彼の言葉を待った。早く否定して、違うって言って。アミルの体がぶるぶると震えだす。
「わからない。けれど、おれたちの意識しないところで吸い取っている可能性も否定できない」
アミルは揺れる瞳で彼を見つめた。
「で、でも、それにしたって証拠がないじゃない。そうでしょ?」
「そりゃそうだ。悪魔の身体の仕組みなんて誰も気にもかけないんだから。誰も調べない。証拠なんてない」
ほら、やっぱり。アミルは安堵に表情をゆるめた。
――ただ、とレイは言葉を続けた。
「悪魔は、時を経るにつれて徐々に人間の姿へと近づいていくんだ」
アミルは色を失った。
「それってどういう……」
「おれだって詳しくはわからない。が、考えられなくもないって話だ」
「そんなわけない、……うそ。レイはうそ、いってるんだ。わたしを人間のところに行かせようとおもって、うそいってるんだ」
「嘘ならいいが」
アミルは黙りこくった。昨日も一昨日も、その前も、その前もずっと幸せだったのに。どうして今日はこんなに辛いことがたくさん起こってしまったんだろう。アミルはゆるゆると顔を上げた。選べない。どうしてこのままではいけないのだろう。
レイは、アミルを見て言った。
「――仕舞いだな。アミル、おれたちの関係は」
「な、んで?」
「何でって。そりゃあ、おれは縁切りするふりでも何でもできるし、別段かまいやしないが、万一ばれたらアミルが困るんだぞ。アミルは嘘が下手だからな。嘘をつき続けるのも辛いだろう?」
「レイ、ちょっと待ってよ、わたしの話も聞いて!」
こんなレイは初めてだった。レイはアミルの言葉を拒んだ。
「……迷うくらいなら人間界へ行けばいいんだ。おまえは、本当は、人間の世界で研究員としてやっていきたいんだ。自分でもそう言ってたじゃないか。――遅かれ早かれこうなるようになっていたんだよ。人間界に戻るときが来たんだよ」
アミルは何度も首を振った。レイは一方的に話し続けた。
「おまえがこれから生きていく上で必要なものは、すべておれが与えてやる。だからおまえはここから去れ。トーマ、こいつの手首につけた羽根をとってやれ。魔界の扉も閉ざすぞ。いいか、おまえはもう二度とここへは戻って来てはならない」
「ねえ、待って、おねがい……」
「達者で暮らせよ、アミル。できるだけ長く生きろよ」
アミルはその場に泣きくずれた。
「いや、いやだよ、どうして一緒にいられないの? 約束したのに、ずっと一緒だって約束したのに! やっぱり、あなたも、わたしを捨てた人たちと同じように、わたしを捨てるんだ。……信じてたのに、あなただけは裏切らないって信じていたのに! わたしのことなんて、もうどうだってよくなったんでしょう、だったらそうはっきり言ったらいいじゃない!」
アミルは恥じらいも何もかも捨てて、ひたすらに泣きじゃくった。
「わたしは、ずっと、あなたのことが大好きだったのに……」
レイはアミルの肩に触れようと手を伸ばした。その手を払いのけ、むちゃくちゃに立ち上がって屋敷を飛び出した。魔界の扉をくぐり、人間界までやってきた。
走って走って走り抜けて。アミルはふっと足を止めて振り返った。
誰も追っては来なかった。
アミルはまた、ひとりぼっちになった。
◇◆◇
研究所の近くに、アミルの仮の住まいは設けられた。
何もない、真っ白の部屋だった。ベッドは硬く、無機質で、狭い。アミルはぼんやり天井を見つめた。ああ、こんなことなら人形のひとつでも持って来ればよかったと思った。ふと手首を触ると、そこに巻かれた黒い羽根がまだ残っていた。勢いのまま持ってきてしまったのだ。――あったところでもう戻りはしないのだけれど。
彼女の一変した様子を見て、さすがの研究員も同情した。研究員たちは緊急集会を行った。
「早急だっただろうか」「いやでも、悪魔のようなよく分からない生き物と一緒に暮らしていては教育上よくないでしょう」「その通りだ」「まずは安静が必要だな」「仕方ない……」
アミルの今後については、ひとまず彼女の心が落ち着いてから決めることとなった。
「わたしこれからどうなっちゃうのかな、」
アミルはベッドに横たわり、呟いた。
決まった時間に出される食事は、人間のアミルにとって美味しいものであるはずなのに、どこか味気なく感じられた。結局どの料理もそれほど口をつけずに残してしまった。夜が来ても寝付けず、白い壁と天井をみつめる日々が続いた。
◇◆◇
――ある日の夜。
ばさばさ、と鳥が立てるような羽根の音が聞こえた。
アミルはベッドから飛び上がり、辺りを見渡した。誰かいる。まだ夢うつつな頭を懸命に働かせて、アミルは目を凝らした。扉のすぐ近く。人のような形がぼんやり浮かび上がった。
「夜分遅くにすみません、アミル様」
懐かしい声がした。アミルは思わず顔をほころばせた。
「トーマさん!」
アミルは慌てて灯りをともした。明るさに目が慣れず、アミルは何度か瞬きをした。
「お久しぶりです」
トーマは背中の羽をたたみながら、やわらかに微笑みかけた。アミルは懐かしいような切ないような気持ちで彼を見つめた。
「どうして来たの? レイに何か言われたの? それか、わたしの荷物を持ってきてくれたの?」
「いいえ」
トーマは首を振った。「今回は、自らの意志で参りました」
意外な返答にアミルは驚いた。
「トーマさんが、自分から? ど、どうして?」
「アミル様がいなくなって、レイア坊っちゃんが見るからに元気を失ったから、とでもいいましょうか」
「え?」
トーマは目を伏せ、困ったように笑った。
「アミル様がいなくなってから、レイア坊っちゃんは、何やら遠くを見やっては、深いため息をつき、屋敷にこもる毎日なのです。屋敷の者が声をかけても特別反応もなく、今まで熱心になされていた人間研究も手につかず、まるで抜け殻のようなのです」
トーマはベッドに歩み寄り、静かに腰掛けた。
「少し、私の話を聞いてはいただけませんか?」
アミルも彼の隣に腰掛けた。彼が自分の意志で、レイのもとを離れて行動することは今まで一度もなかったのだ。戯れに訪れたのではない。彼が何を思ってここに来たのかはわからなかったが、その真摯な思いに応えたかった。
トーマは「ありがとうございます」と深く頭を下げて、話し始めた。
「何からお話しすべきでしょうか……。ではまず、以前レイア坊っちゃんが『時を経るにつれて人間の身体に近づいてゆく』と仰っていたことについてお話しましょうか。アミル様は覚えていらっしゃいますか?」
「覚えてる」
「……実は、その言葉は誤りなのです」
「ど、どういうこと?」
「というのは、長い時が経ったあとも、悪魔の姿を保ち続けているものは、坊っちゃんが知らないだけで実は大勢いらっしゃるのです」
予想もしなかった言葉に、アミルの頭は混乱した。
「じゃあ……どうして、人間の姿になる悪魔がいるの? レイもトーマさんも、どうして人間の姿に変わっちゃったの?」
「それはおそらく、――変わることを望んだからだと思われます」
アミルは首を傾げた。
「『変わること』?」
「ええ。さらに厳密に言うならば、変わらないことに飽きてしまった悪魔、でしょうね。この『飽き』こそが、きっかけなのです。本来ならば、永遠を生き、不変であることに少しも疑問を抱かぬ存在、それがわれわれ悪魔の姿。それなのに、ある日突然、ふっと変わらないことに嫌気がさしてしまったのです。
別世界に生きている人間という存在は、私ども悪魔にとっては、変化の象徴です。ですから、変わりたい、と強く望めば望むほど、私どもの体つき、心の様相が人間のものに近づいていきました。それが、レイア坊っちゃんの言っていた『身体が人間の姿に近づいていく』ということなのです」
「そんなことが、本当に……」
アミルは必死に理解しようと努力した。その様子を見て、トーマは静かに首を振った。
「今わからないのであれば、無理に理解しようとしなくてもいいのです。ただ、アミル様には、悪魔は人間の命を得ていないということだけ、わかってもらえれば」
「わかったよ、トーマさん」
アミルは頷いた。トーマは隣に座るアミルの方に顔を向け、声を落として問いかけた。
「アミル様は、坊っちゃんがあなたと縁を切ると仰ったあの時。どこか坊っちゃんの様子がおかしかったのにお気づきになりましたか」
「……おかしかった?」
「いつもアミル様の仰るとおりに、望まれるとおりに事を運んできた坊っちゃんが、初めて貴方の言葉を無視したのです」
「そういえば、何だかいつものレイと違うような気がした……」
「これはどういうことかわかりますか」
アミルが首を振るのを見て、トーマは答えた。
「坊っちゃんは揺れていたのです。貴方の思うようにさせたい気持ちと、貴方を手離したくない気持ちとの間で」
眉を寄せて、悲しげに微笑んだ。
「――まるで人間のようではありませんか」
アミルは何も言えなかった。
トーマはそっと目を細めて、遠くを見やった。
「坊っちゃんは今、坊っちゃんの身の周りにある、ありとあらゆることを放棄しようとしています。悪魔ですから、もちろん何もしなくても死ぬことはありません。しかし、その姿はあまりに痛ましく、……また、何かを待っているようでもありました。私どもが願うことはひとつだけ。――アミル様、どうか戻ってきてはくれませんか」
アミルはまっすぐトーマを見つめた。
「レイは、もしかしてもう変わりたくないって思ったんじゃないの? だったらそれでもいいんじゃないの?」
「坊っちゃんが納得して、変わらないのであればそれでいいのです」
トーマは揺らがなかった。
「わたしだって、戻れるなら戻りたいよ。でも、レイはきっと許してくれないと思う」
「でしょうね」
彼女の言葉にトーマは俯いた。「アミル様が人間界の生活を大事になさっていることは、坊っちゃんだけでなく、私どももよくよく理解しているわけですから」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
アミルの手を取り、トーマはその手を握り締めた。それは人間が祈る姿にも似ていた。
「アミル様、貴方が、変えてください。悪魔も人間も捨てない選択をみつけてください。これは貴方にしか出来ないことなのです」
しばらく、アミルは何も言葉にできなかった。頷くこともできなかった。
それから長い時間が経った。
トーマは屋敷に戻らなくてはいけない時間になった。彼は心残りのように長らくアミルを見つめていたが、ついには彼女の前から姿を消した。
すべてはアミルに委ねられた。
――人間と、悪魔。
ふたつの存在を。
◇◆◇
ある日の朝、アミルの部屋に研究員が入ってきた。
「あなたにお友達が来ていますよ」
そう紹介されて、飛び出してきた影は、懐かしい色の髪をまとっていた。
「アミルっ」
挨拶もほどほどに、ディーナは変わり果てた親友をうるむ瞳で見つめた。
アミルの髪はぼさぼさに広がり、目の下には黒い絵の具で描いたような濃いクマがあった。そして何より、焦燥と絶望をない交ぜにしたような瞳。あのきらきらと眩しく、大胆不敵でみんなの憧れだったアミルはどこへ行ったというのだろう。
「ああ、アミル、こんなに痛々しい姿になって――」
ディーナは堪らずアミルの頬に触れた。氷のように冷え切った頬は、今のアミルの心の在り方までも表しているようだった。
「ディーナ、どうしてここに……」
ディーナは答える前に、控えていた研究員と向き合って自分たち二人だけで話をさせてくれるよう頼んだ。研究員は少し迷って、彼女たちに配慮した。
部屋の扉が閉められ、ディーナはさっとアミルに向き合った。
「研究発表会が終わってから、貴女しばらく学校に来なくてなったでしょう? あたしもエウリカも本当にびっくりしたのよ。とっても心配だった。学校中、貴女の噂でもちきり。そちらの方はエウリカに任せておいたから大丈夫だけれどね」
「エウリカが……」
妙に懐かしい気持ちがした。自分はもうどれくらい学校に通っていないのだろうか。アミルの目が涙に光った。
「あたしはね、貴女に何があったのかを色んな先生方に尋ねたの。そしてあなたの居場所をつきとめたのよ」
ディーナはわずかに言いよどんだが、続けた。
「事情はきいたわ。貴女、悪魔と関係があることを見抜かれたそうね。本当、あたしが警告してあげたのに、忘れてたの? ……いいえ違うわね。貴女は嘘をつけない人だから」
「……うん、」
「レイア様のことも、カルマ様から聞いたわ。大丈夫。貴女が戻れば、レイア様もすぐに元気になるわ。だから、ね? さっさとここから出ましょうよ」
ディーナは彼女の手をを引いて部屋を出ようとした。が、開かれた扉の手前で、アミルはぴたりと足を止めてしまった。
「アミル?」
「……行けない」
アミルは顔を上げた。
「わたし、ここで、変えなきゃいけない」
「変えるって、何を」
「――人間の、悪魔に対する考え方」
ディーナは言葉を失った。
「な、何を言っているの……? 悪魔への考え方を変えるって、そんなの、むりよ。知っているでしょう、人間は悪魔に偏見しかもっていないの。今更変えられるはずないわ」
ディーナは淡々と、諭すように言った。
「貴女の気持ちはわからなくもないけれど。両方は選べないの。どちらか一方を切り捨てないと、人は生きていけないのよ」
「どうして?」
アミルは声をふるわせた。
「選ぶ道って、ほんとは星の数ほどたくさんあるんじゃないの? どちらか極端な道しか選べないの? 一部の悪魔と仲良くする、一部の人間と仲良くする、そんな風に選ぶことは、ゆるされないの?」
「そ、れは」
「わかってる。わたしは良くても、みんながゆるしてくれない」
アミルの瞳には涙が浮かんでいた。
「でもわたしね、やっぱり、あんなことがあったあとでも……レイが大好き。悪魔のみんなが大好き。みんなと離れたくないよ。だってみんな、わたしを大事に育ててくれた……家族だもん。
でもね、ディーナやエウリカ、学校のみんなとも一緒にいたいんだ。そして魔法を研究する研究者になって、人間の将来のためにがんばりたい。……そりゃあね、人間を誘拐しちゃうような悪い悪魔だっているかもしれないよ。でも、それは悪魔が人間のことをちゃんと知らないからだと思うの。それは、人間も同じ。人間も悪魔のことちゃんと知らないのに、否定しちゃうのはおかしいと思う」
「ねえアミル、そんなこと考えるのはもうやめましょう? むだよ、何もかもが変わることはできても、変えることは難しかったりするものなのよ……あたし、貴女にこれ以上傷ついて欲しくない。大事なのよ、貴女が」
そう言ってディーナはアミルの手を握った。
ディーナは何よりもアミルの身を案じていた。そのことはアミルにも痛いほど伝わってきた。自分をこんなに大事に想ってくれる人がいる。捨て子だった頃のアミルでは考えられなかったことだった。しかし、そんな彼女と出会わせてくれたのは誰だっただろうかと思い始めると、アミルはどうしても譲れないものが出てきてしまうのだった。
黙りこくったアミルの横顔を、ディーナは静かに見つめていた。こんなに憔悴しきったアミルは初めてだ。と同時に、こんなにまで真剣に思い詰めたアミルも初めてだった。その姿はまるで、この窮屈な世界から抜け出ようと、もがく雛のようでもあった。
ディーナは思う。彼女は学校で、一体何を学んできたのだろうかと。
どうにもならなかった社会の歴史を聞いたでしょう? どうにもならない友達の態度を見たでしょう? どうにもならないことが世の中にはたくさんあるのだと、頭ではなく心で感じ取ったでしょう?
――それでもこのどうしようもない世界と戦おうとするのだ。この、小さな雛は。それを愚かに思う。けれども、ここで自分が彼女の親友だとするのなら、今ここで彼女を止めることは本当に正しいことなんだろうか。
ディーナはくすりと笑った。そうして、驚いた顔をしている親友に、ありったけの愛をこめて、問いかけた。
「ねえアミル、貴女はどうしたいの?」
アミルはせき止められていた水がどうどうと流れだしたように、自分の考えを堰切って話し始めた。
「わたし、わたしはね、ディーナ」
「うん、」
「ここで、悪魔は、レイやみんなはほんとうに誰よりも素敵な悪魔なんだって証明したいの、――それが。わたしを拾って育ててくれたみんなへの感謝になるのよ、わたしを捨てたひとたちへの報いにもなるのよ。わたしは、そのために、覚悟したい」
ディーナは静かに目を閉じた。
「もう、逃げたりしない」
ディーナはたしかに、力強い羽ばたきを耳にした気がした。
◇◆◇
誰もが寝静まった夜。アミルは真っ暗な部屋の中、目を閉じて、
「トーマさん、来て」
そう祈るように囁くと、しばらくしてから気配を感じた。アミルは思わず微笑んだ。
「お願いがあるの。わたしの、一生のお願い」
今までやってきたことで、わたしは一体何ができるだろう。
今まで学んできたことを一体どのように活かせば、この事態を変えることができるのだろう。
もし、今までの学んできたことだけでは太刀打ちできないことだとしたら、自分にできることは、あとどれだけ残っているだろう。
わからないなら、仕方ない。
でも。
わかろうともしないのは、きっと違うとアミルは思った。
◇◆◇
とある日の朝。研究員がアミルのために食事を持ってきた時、アミルは初めてその人に口を開いた。
「すみませんが、以前わたしとお話した研究員の方たちを、もう一度集めてはくれませんか? 伝えたいことがあります」
◇◆◇
アミルは例の小ぢんまりとした応接室に通された。そこには、アミルが集めた通り、三人の研究員がそこにいた。
アミルは息を整え、覚悟を決めた。
「お久しぶりです。今日お呼びしたのは、わたしの意見をみなさんに考えていただきたいからです」
こう切り出して、アミルは今までの自分について簡潔に話していった。
自分が『できそこない』だという理由で捨てられたこと、森で生活したこと、そして、そこでレイという悪魔に出会ったこと。拾われて大事に育てられたこと、学校へ行ったことなども順々に話していった。それはあらゆる感情を押し殺した声だった。そこにかえって彼女の深い想いを感じさせた。
話が終わると、研究員たちはひとつ、彼女に質問をした。
「つまりあなたは、あなたを育てた悪魔たちのことをわれわれに認めてほしい、と。そう言いたいのですね?」
アミルは頷いた。沈黙が訪れた。
そして研究員たちは、口々に反論し始めた。
「それはあまりに偏った意見だとは思いませんか」「悪魔が裏切らないという保証は? 今はあなたと親しくしている悪魔であっても、仲たがいによって寝返る可能性は?」「われわれはまず、あなたという存在を信頼しなくてはならないのですね?」「例外を認めることはできない。悪魔はすべて敵だ」
敵。この言葉に、アミルはすかさず言葉を重ねた。
「敵ですか。悪魔を敵とする理由はなんですか?」
研究員はわずかにたじろいだ。
「なぜってそれは、悪魔は実際、無力な人間を誘拐していて――」
「それがすべて解放されたとしたら?」
アミルは不敵に笑った。
「トーマさん、出てきて」
トーマは部屋の扉を開けて悠々と中に入ってきた。研究員たちは、彼の背中にある漆黒の羽根に気付いて唖然とした。悪魔だ。驚くのも無理ないだろうが、アミルとしては別にトーマを使って驚かせたいわけではなかった。
「見てください」
アミルはトーマの後ろを指さした。アミルの示した先には、十数人ほどの人間がずらずらと並んで立っていた。
「これで、悪魔によって誘拐されていた人間は全員かと思います」
これには研究員たちも余裕ぶってはいられなかった。席を立ち、現れた悪魔と後ろの人間を驚愕の色で見た。
「彼はトーマさんと言って、レイに仕える悪魔です。今回、事情を話して助けてもらいました」
トーマは一礼した。
アミルは研究員たちと再度向き合った。
「人間を誘拐するのが敵だと言うなら、解放するのは味方でしょうか?」
「詭弁だ!」
研究員たちは口調を荒げて反論した。
「誘拐された者たちはどれほど傷ついたか。愛すべき家族や友人、恋人と切り離され、どれほどの悲しみを抱いたか。……悪魔のおまえたちにはわかるまい!」
「確かに。悪魔の遊び道具にされていたわけですからね」
トーマは妙に可笑しそうに笑った。
「ちなみに。われわれの遊び方とは、人間を極楽づけにすることですので、あしからず」
「は?」
「大変でしたよ。人間界に連れ戻して差し上げる、とこちらが申しておりますのに、人間たちは魔界に居させろ居させろとうるさいの何の。そりゃあ、悪魔たちは人間の望みを何でも叶えてくれるのですから、人間からすれば帰りたくない気持ちも生まれてくるでしょうね」
「……そ、それは悪魔の」
「もちろん悪魔のせいです。その件については大変申し訳なく思っていますし、後ほど誘拐した悪魔の方からもお詫びをさせますから。――というわけで、お返ししますので、そちらの方で引き取ってくださいね」
と、トーマは言うなり、「魔界に返せ」「魔界に連れていけ」とわめき始めた人間どもを外に追い出してしまった。わめく声が扉を閉めた後も響いていたが、彼はまるで聞こえなかったかのように、微笑みをたたえながら堂々とアミルの側に立った。アミルは彼を見上げて不思議そうな表情を浮かべたが、そのまま話を続けた。
「お分かりでしょうか。わたしなら、このように悪魔に協力をあおいで、人間だけの力では解決できないことも解決することができます。といっても、太東に話せるのは、今まで一緒に過ごしてきた悪魔たちだけ、なんですけれど。でも、その悪魔たちは人間の言葉を理解し、話すこともできますから、わたし以外の人間であっても皆さんの接し方次第では、彼らと友好的な関係を築けるかと思います」
アミルはよどみなく続けた。
「他にも悪魔と協力する意味があります。それは魔法についてです。というものも、魔法とは元々、悪魔が有する特別な力なのです。わたしは彼らと一緒に生活している中で、彼らのすばらしい魔法をいくつも見てきましたし、彼らの膨大な魔力を借りて、魔法陣を発動させたこともあります。ちなみに以前の研究発表会に見せた魔法陣がそれです。
彼ら悪魔は、魔法を、わたしたち人間の知っていることよりもずっと多くの事を知っています。彼らに習って、魔法という技術の質を上げるべきです。そしてそれを人間が使いやすいように改良していくべきです。それが人類の発展につながっていくのです」
アミルは息を吸い込み、言った。
「これらすべては、悪魔との良好な関係を築かなくては何ひとつ実現しないことばかりなのは、お分かりかと思います。……わたしは別に、悪魔みんなを理解してほしいと言ってるわけではありません。ただ、人間に友好的な悪魔とは、今後とも友好的な関係を続けることがどうして悪いことなのか、そのことを教えてもらいたいという、それだけのことなのです」
アミルはぺこりと頭を下げた。これが自分に出せる最高の答えだった。トーマをはじめとする悪魔たち、ディーナをはじめとする人間たち、様々なものたちから知識を借りて、導き出した答えだった。
アミルは緊張の面持ちで研究員たちを見た。彼らが頷けば、ひとまずの道は開ける。悪魔と人間の共存の、第一歩が踏み出せるのだ。
研究員たちは長い沈黙から、ようやく言葉を発した。
「先程の誘拐の件、もしあなたが裏で操っていたとしたら? 悪魔を使って人間を誘拐していたとしたら?」
研究員たちは矢継ぎ早に発言した。
「もし、ここで我々が拒んだら、あなたがそこにいる悪魔を使って攻撃してくる、なんてことも考えられる」
アミルは反論しようと口を開いたところで、遮るように研究員は言った。
「とまあ、何か裏があるんじゃないかと考えるのが、人間社会だ」
「……?」
「あなたを見れば、あなたが純粋に大事な悪魔を想って話していることはすぐにわかります」
研究員は苦笑した。
「われわれ人間をあまり見くびらないで頂きたい」
一人の大人が立ち上がった。そうして、一人、また一人と立ちあがった。
「悪魔が有益であることは重々理解しております。が、言語などの壁によって今日に至るまで、信頼関係を築けなかったのです」
女性の研究員は、アミルを優しく見つめた。
「そこに、あなたという人間が現れた」
若い研究員は頷いた。
「社会は発展し続けなくてはなりません。発展は、変化です。あなたが言う悪魔たちが、我々の変化を阻まないというのであれば、我々は勇んで喜劇の舞台に上がりましょう。それがたとえ、悪魔にとっての退屈しのぎに過ぎなくとも」
女性の研究員はアミルに歩み寄り、手を握った。
「そして、あなたは自覚してください。悪魔とともに生きることを、可能性の一つとしてわれわれが認めたのは、ひとえにあなたという存在があったからだということを」
年老いた研究員は重々しく告げた。
「中途半端に投げ出すことはできません。あなたはそれを選択したのですから。尽力してください。悪魔ではなく人間として、生きてください」
――それは、ひとりの人間としての勝利だった。
アミルは叫び出したい喜びを必死に押さえつけて、一礼した。本来であれば、もっと何か言葉を述べて、これからのことについて話し合いをしていくべきところだったのかもしれない。しかし、少なくとも今のアミルにはこれ以上この場に居続けることはできなかった。
「心から、感謝します!」
ついにアミルはその部屋を飛び出していった。
――その後ろ姿が完全に見えなくなってから、研究員の一人が重く溜息をついた。
「礼儀に関してはまだまだ難アリですがね」
「ふふ、確かにね」
◇◆◇
研究所を飛び出してすぐ、アミルはトーマに縋るように頼み込んだ。
「トーマさん、わたしを魔界の扉があった森まで連れていって」
彼は不思議そうに首を傾げた。
「わざわざ森まで向かわずとも、私が今ここで魔法を使って魔界まで連れて行けますが」
「ううん、あそこに戻らないとだめなの。確かめたいことがあるから」
「確かめたいこと?」
トーマは怪訝そうに眉を寄せたが、それでもアミルの言う通りにしてくれた。
確認したい気持ちがあったのだ。まだあの魔界の扉は、アミルのために開かれているのかどうかを。レイはまだ、自分ことを思っていてくれるかどうかを。
トーマはせっかくだからと自慢の羽根を広げて空を飛んだ。アミルは彼の首元に腕を回し、飛行の邪魔にならないように体を小さく丸くした。アミルは魔法で瞬間移動するよりも、こっちの方がよっぽど有難かった。心の準備がいくぶんゆっくりできるからだ。――魔界の扉がもし閉ざされていたら。それを思うと怖くてたまらなかった。
悪魔の羽根でも、充分早くに目的地まで着いてしまった。
見慣れた森へと降り立ち、アミルはきょろきょろと辺りを見渡す。見るものすべてが何だか懐かしいようだった。そんなに大した時間は経っていないはずなのに。
アミルはトーマにここで待っているように告げ、何度か深呼吸をした。もしも扉が閉ざされていたら、このまま諦めて人間として生きていこうか。そんな思いが一瞬頭によぎったが、アミルは不安を打ち消そうとした。
やっと心を決めた。アミルはふるえる足を叱咤しながら、魔界の扉に繋がるトンネルに足を向けた。
その時。
「魔界の扉はそこじゃないぞ」
アミルは振り返った。トーマの言葉にしては、あまりに荒々しく、あまりに無邪気だった。彼はかすかに笑って、自分の指をパチンと鳴らしてみせた。すると、たちまち彼の姿は、煙に包まれた。風が吹き、煙が完全に晴れると、そこには先程の彼とは全く別の姿の者が立っていた。アミルはみるみる視界がぼやけていった。そこに立っていたのは、アミルが会いたくてたまらなかった者の姿だった。
「魔界の扉はおまえが研究所を飛び出した後に、魔法で移動させたところなんだよ。どこってもちろん、おまえの学校のすぐ近くにな。おまえの頑張りのおかげで、もうこそこそ隠れて学校と魔界とを行き来しなくてもよくなったんだろ?」
「ど、うして、レイがここにいるの……? 確か、トーマさんが一緒に研究所まで来てくれるって……」
レイは髪を掻きあげ、ふふんと鼻を鳴らした。
「おまえとトーマたちがこそこそ動いているのは、ずっと前から知ってたんだよ。トーマが妙にこっちに聞いてほしそうにしてたから、たまらず問い詰めてやったら嬉々して全部話しちまったわけだ。……まあ、せっかくだから? おまえがどんな選択をするのか、見届けようと思っただけさ」
アミルは彼の言葉のほとんどを聞いていなかった。
「じゃあ、じゃあ。今日は、ずうっと、レイがトーマさんだったのね?」
「お、おう」
詰め寄るアミルに、レイは珍しくたじろいだ。
「トーマさんとして、ずうっとわたしの側で立っていてくれたのね?」
アミルの顔は涙にくしゃくしゃになった。
「わたしががんばってるとこ、見ていてくれたのね?」
「ああ」
「わたし、がんばれた……かなあ?」
「よく、頑張っていたよ」
レイは手を差し伸べた。
「おれの誇りだ」
アミルは耳まで真っ赤にして、さらに目をうるませた。差し出された手をぎゅっと力いっぱい握る。人間の肌とおなじくらい温かく優しい手だった。それはアミルの大好きな手だった。
「屋敷に帰ったら、わたしの話いっぱい聞いてね?」
「わかったよ」
「ロジーさんに美味しいお料理作ってくれるよう、頼んでくれる?」
「頼む前から作ってるかもな」
「ミクリさんに、わたしと一緒に遊ぶように言っておいてくれる?」
「言わなくてもあいつなら喜んで遊ぶだろ」
「トーマさんに夜、物語を話してくれるように忘れず伝えておいてね?」
「おまえが言えば、何だって話してくれるさ」
「他には、ね……」
レイはにやにや笑った。
「面倒だからぜんぶまとめて聞いてやるよ」
「言ったわね? 約束よ?」
握った手に頬寄せて、アミルは彼そっくりの笑顔を浮かべた。
「これからは、今まで以上にもっとがんばらないといけないね。まずは何から始めよう? ……そうだ。あなたが持っているような辞典を作ってみるのもいいかもね。人間のための『悪魔辞典』を。どうかな?」
「面白そうじゃないか」
「もちろん、レイにもたっくさん、手伝ってもらうからね」
「はいはいわかったよ」
「……だからもう、はなさないでいてね」
レイとアミルは優しく微笑んで、つないだ手にそっと、力を込めた。
彼らの間に、これ以上、言葉はいらない。
了
悪魔の教育 夢を見ていた @orangebbk
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