第44話 反攻の余波

 東分屋敷の敷地は広く奥行きがある。なだに面した座敷もある。千鶴は惟信との面会を門衛に求めた。屋敷うちにとおされた千鶴を惟信の巨躯が迎えた。表情は存外柔和である。難題を掛けられるかもしれない、と案じていた千鶴にわずかに安堵の想いがよぎった。

「これへお座りなされ、菊乃屋殿」

「そうさせていただきます、お言葉に甘えて」

 座布団に腰をおろし、千鶴はまっすぐ博多奉行の顔を見つめた。

「如何か?」

 かたみ一杯に詰まれた琵琶の実をすすめられたが、千鶴は手でこばんだ。

「これが、なかなか美味でな」

 巨漢は女のまえであることなど素知らぬように、むしゃむしゃと琵琶をかじりつづけた。

「……御用とは、どういったご用件でございましょう?」

「そう急ぐこともあるまい。まあ、茶でも一服どうかな。………わしは琵琶に夢中でな、そこもとは茶を喫したがよい」

 惟信のすすめた茶碗を手にとり唇に少しだけふくんだ。芳ばしい香りが満足感を誘う。女主はこの美味しい茶を用意した女中の気配りに関心していた。

「わたくしを賓客として礼遇してくださっている、と受け取ってもよろしいのでしょうか?」

「無論のこと、菊乃屋殿の商才は認めておる。だからこそお招きしたのだよ」

「嬉しいこと………ですが、その呼び方はおやめくださらないかしら」

「お気に召さぬか?」

「女………であると、侮られている気がしてなりませぬ」

 ピシャリと言う千鶴に、雪下は、かたそうな顎鬚をなでながら、

「よいなあ。それでこそ頼みがいがあるというものだ」

 千鶴の気の強さがかえって、この談合を前へおしやる結果となった。

「ある男と昵懇になりたい………そう、わが主が言うのでな、どうだ、骨を折ってもらまいか?」

「その人物とは?」

 予感どうりなら、簡単にいく仕事ではない、そう思ったとき、

「大夫! 敵勢がこの博多に襲来するとの報告がありました。肥前に放っておいた乱波らっぱからもたらされたもの、まず間違いはないかと」

 惟信の家臣が、廊下からこの博多に迫る危急を知らせてきたのである。

「………どこの?」

「原田、神代などの肥前北部衆でございまする!」

「そうか………背信の奴腹めが。菊乃屋殿………ではなかったな。千鶴殿、お任せしてよろしいな」

 この言には、有無を言わせぬ恫喝のような響きがあった。

「善処いたします………されど由布様、お姫様にお伝えください」

「お姫様、という呼び方は気に入らんな。………小馬鹿にされておる気がしてならぬ、訂正されよ」

「では、わたくしも改めましょう。筑前守護代様にお伝えを、弥十郎様へのお仕打ち、お忘れではありませんこと? 本日のご依頼、少しばかり自儘に思えるのはわたしだけでしょうか? 善処は致します、ですが、あまりご期待になりませんよう」

「ふふっ、承知した、女端木賜たりうることを望むのみだ」

盧橘ろきつは夏………」

「ほう、………相如しょうじょを知ってござるか?」

 この女人の艶っぽい唇から漏れた言葉を雪下は聞き逃さなかった。その関心がますます高まる。

「詩のほうを少々………。ほんの手慰みにございます」

「これは…………いよいよ期待できそうじゃわい! 甚五、皆に伝えよ、出陣するぞ!」

 そう言うと、由布雪下は手に持っていた書簡を千鶴のほうに片手でゆるりとすべらして立ち上がった。東分屋敷の部屋には、千鶴の可憐な嘆息のみが残っていた。

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