第38話 観世音寺

 御笠みかさ川をはさんで、高橋・秋月の両軍が激突していた。

 御笠川とは、太郎と美輪が会話をしていたあの川のことである。古代、白村江はくすきのえの敗戦後、唐・新羅連合軍の侵攻を極度に恐れた朝廷が、九州の統治機関たる大宰府の防衛施設として水城みずきを築いた。そこで必要となった水がこの川から引かれたのである。

『日本書紀』に曰く。


「筑紫国に大堤おおつつみを築き水をたくわへしむ」


この「大堤」、すなわち堀と土塁のことを水城という。博多湾側の福岡平野から筑紫に通じる平野を閉塞する遮断城という位置づけであった。全長1.2キロメートル、土塁の高さが9メートル、堀の底の幅が80メートル、土塁の上部の幅が25メートルという巨大なものであったらしい。ちなみに筑紫国は律令制の導入にともない筑前・築後国に分割された。誾千代の時代からして九百年以上もまえの遺構であるため、往時の姿はすでになかったものと思われる。あるいは堀や土塁の一部分くらいはのこっていたかもしれないが、これにつき筆者には詳細に調べる手蔓がないため明らかにはできない。

 夕刻に両軍が対峙して戦闘が始まり、すでに日は暮れ、月明かりのなか飽くことなく命が散らされる。この戦場は人の命を吸いとる意志を有しているかのようだった。観世音寺かんぜおんじに本陣を構えた高橋・戸次連合軍の指揮官は、今更いうまでもないであろう。

「敵の後詰がくる。若殿、ここは引かれよ!」

「うるさい! 逃げたければ勝手にしろ!」

(……まだ子供だな。……状況判断がまるでできないのか。………初陣ということもあるが……。………それにしても)

左文字さもんじ、あの方を陰ながらお守りしろ。……わたしには他にやるべきことがある」

「承知しました。大夫もご苦労が絶えませんな」

「……高橋家でのわたしは、大夫ではない」

「そうでしたな……」

 弥十郎は統虎あるじの血気を匹夫の勇だと結論付けながらも、的確な指示をくだした。左文字とは、弥十郎配下の力量すぐれた乱波の棟梁である。

「十兵衛! 久作! 左翼に展開する秋月勢を強襲する!」

「若殿は?」

 世戸口十兵衛と太田久作の両名が、旧主の身を気遣った。

「……天運に託すしかないな。………豎子こどもに付き合っていたら戦機を見あやまる」

「承知!」

「承った!」

 世戸口十兵衛と太田久作の手勢が弥十郎の紫騮しりゅうにつづく。観世音寺の本陣からこの情景を凝視していた高橋紹運が我が意を得たりと頷いた。が、秋月と無数の衝突を繰り返してきた司令官に言いようのない不安を覚えさせる何かが此度このたびはあった。それが何なのか、未だ答えは見つかっていない。

「儂の杞憂であればよいが………」

 紹運が小声で独り言ちた。それは帷幄を固める屈強な馬廻衆には聞こえぬものであった。

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