第37話 人吉攻め

 島津義久が重い腰をあげ、2万の大軍を動員したのが天正9年の夏。すでにひぐらしの鳴き声も生き生きとした精彩を失う晩夏であった。傾斜した陽の光が、あたり一面を茜色に染めている。その美しさは、帷幄のなかで指揮を執る義久には血なまぐさい戦場にはとうてい不釣り合いなものに映った。人吉の山河を埋め尽くすような大軍が駐留しているようには思えないのだ。それも義久自身の将器によるところが大きいのだが、本人にはその自覚が著しく欠如していた。伊集院忠棟など、かたわらにいる者たちはこの主人にもう少し自惚れ心をもってほしいとさえ思う。

 忠棟が地図に描かれた人吉の巨城に目を向けて言う。

「お指図どうり水俣落城の報を場内に流しておきましたゆえ、城の者どもの士気はすでに限界にござりましょう。一挙に攻め落とすという選択肢もございますが、如何いたしましょうや?」

 乱波のいた種が芽を吹き始めていた。人吉という名の巨木に宿り木が寄生し、まるでその養分を吸いとるかのように女子供はいうにおよばず意気さかんなはずの城方の将士の戦意までもが干上がる寸前だった。しかし、それも無理はない。義久率いる大軍が八代海に面した相良氏の枝城えだじろ水俣城を猛攻のすえ開場させたのが二日前。その余勢をかって間髪おかずに西へと軍を進め、久七峠を越えて人吉に雪崩込み、球磨川の左岸になぞるように縄張された人吉城を囲むと、薩南の主は何を思ったのか、今度は城には一切手を出さず沈黙の包囲をつづけている。忠棟がいぶかるのも至極当然といえた。

 が、口もとに差した主のほのかな笑みを、忠棟は見逃さなかった。

「なるほど、仰せごもっとも」

「………又六郎は上手くやっているかな」

「御舎弟様のことです。ご心配には及ばぬかと」

「……そうだな」

 人吉は相良氏の本拠地である。ここが落ちれば、肥後の半分が義久のものとなる。島津の覇業はさらに現実味をますことになるだろう。

「殿、かの者どもを連れて参りました」

 新納忠元が、帷幄に伴ってきたのは、侍大将、足軽大将など身分を問わず、あることを為した者たちであった。それら十数人の者たちは縄目を受けている。

 義久はめずらしく冷笑をうかべていた。床几に腰をおろし机で頬杖をつきながら、

「刑を言い渡す前に………お前たちにひとつだけ聞いておきたいことがある。………男と女の間で交わされる、禽獣の行為が………そんなに好きか?」

 人吉近郷の農家に押し入りその女房や娘たちを犯した者たちは、義久の侮蔑の色にたいして、一言も発することができずにいる。一人の武者がたまらず声をあげた。

「お許しくだされ!」

「女たちも………同じことを申したであろうな」

「……」

「……新納……。こ奴らの首を落として、軍中に晒せ。………全軍の将士らのよい見せしめとなる」

「御意」

 新納忠元の家臣に縄で引かれていく男たちが口々に言った。

「お慈悲を!」

「我らのしたことは勝ち戦ではよくあること!」

「殿も男児なら、我らの気持ちがおわかりになりましょう!」

「……わからんな……。………どうしたらそうなる………ふふ……」

 義久の品の良い笑顔が、さらなる侮蔑で歪む。

「クズどもが………ふふ……」

 薩南の主は心底軽蔑し、失笑をもらした。だが、悪心をおこす者がでるという事実は義久の心を深くえぐった。このような者たちを生んだのは、君主としてのおのれの失政のなせる業であることに思いが及ぶ義久なればこその懊悩である。そこに思い及ばぬ者に人の上に立つ資格などあろうはずがない。

「………」

「………小四郎、なにか言いたげだな」

「………相良義陽をお使いになる………どのように?」

 頴娃えい小四郎久虎、まだ二十歳に満たないが、薩摩半島南部に位置する頴娃・指宿いぶすき両地の地頭職を任されており、耳川の合戦にも参陣している。頴娃氏は大隅半島に割拠して島津氏と血で血を洗う合戦を繰り広げてきた肝付氏の庶流である。

「義陽に阿蘇を調略させる…………応ずれば良し、応ぜねば…………あの城を、干し殺す」

「………女子供もですか?」

「それを決めるのは俺ではない…………相良義陽だ。…………そう思わんか?」

「………」

 天鵞絨の瞳が揺れるのが義久にはわかった。

(…………優しいな……………。……………こんな世では、悪徳とさえ言う愚か者どももいるのにな……………)

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