第36話 孫四郎の問い

 あまたの命が散る戦場のただなかで、男の愛用している大太刀が誾千代の細身に向けられていた――龍造寺軍迫る――の報を知らされた戸次勢千五百が敵軍を迎え撃つために出撃したのが6月20日の黎明。すでに戦闘は二ときにおよんでいる。両軍の消耗は物心ともに激しい。副将の由布惟信も原田・神代勢を相手に一歩も引かずに奮戦していた。

 優美な拵えの豪刀を自在にあやつり、誾千代の行く手に立ちふさがった男は、龍造寺興隆の立役者、鍋島孫四郎であった。

「………利益を求めることしか知らぬ愚者どもを………正しく導くためには……。私のような崇高な志を持った先導者が…………ふ……必要だ」

「そこまで言うなら、今すぐ世間に大勢を占める、鹿どもの意識を変えて見せろ!」

「世間の愚者どもの意識を変えることなどできんよ。……それは歴史が証明している………。…………ふ………そもそも歴史、などというもの自体が………そういった愚者どもによる無駄な労力の堆積物。…………なのだからな……」

「馬鹿どもを変えられぬ、というのなら、偉そうなことをほざくな!」

「私が目指すのは、この薄汚い世から愚者どもを排除して…………頂点から新たな、正しく清らかな世界をつくることだ。…………お前がそれに協力するというのなら、ともに進もう」

 この男の言っていることは真理だ、と思うが、

(真実、実現しようと考えているのか………どっちだ……似非か………本物か)

 誾千代は、巨大な魅力に包容される感覚に陥った。このように人の世を変革しようとする人間が、いまだかつて周りに存在しただろうか。少なくとも、上流下層にかかわらず、この世界の大多数を占める、人の世の有形無形の欲望に翻弄され、それを追い求める愚者のを歩いている凡夫(凡婦)たちにはできぬ発想だ。

「お前が世の凡俗どもとは違うことは認めよう。……だが、断らせてもらう、この腐りきった世の中を変える有効な処方があるようにはおもえん!」

 激昂した誾千代が、弓矢を放つ。

「消えろ! 俗物っ!」

 絶叫と同時に、二者のあいだに『黒炎の光』が走る。

 グヲォン――。

 誾千代の漆黒の光束を鍋島孫四郎が――一太刀で討ち払った。漆黒の光が星々煌めく夜空のはるか上空まで、あるいは恒星に直撃するかとも思える速度で宙を直進していく。

「っ⁉ 郷原めっ」

「やめておけ…………といっても。………ふ…………聞かぬか」

 アナトリアから続けざまに黒光が放たれる。薄く笑んだ鍋島孫四郎が円を描くようにして凄まじい高速で太刀をあやつり、すべての光を瞬時に弾き飛ばした。放射状に黒い光束が幾つも拡散する。猛り狂う兵士たちの喊声のなか、千切れ飛ぶ巨木、数十の足軽や武者の命が一瞬で消えた。あたりは火の海と化し、真昼のような明るさが現出される。誾千代の黒い光は、それぞれ直径一丈(1.8m)ほどもあるのである。二人の次元の違う攻防を見て、割り込もうとする武者はひとりもいない。みなそれぞれの持ち場で手一杯ということもある。この九州で、戦いが始まったのだ。筑前国の戸次、高橋勢は、東では宗像氏貞、豊前高橋氏連合軍との。南筑前では秋月種実、筑紫広門との。そしてこの西の戦場で鍋島直茂、原田勢との戦いを展開していた。薩摩の島津も動いた。龍造寺は軍を南北に二分させられたのである。豊後の大友本軍は、北から長野、宇都宮城井氏らの豊前衆、西からは秋月氏に攻めたてられ、筑前国に援兵を送れない。日向国に腰を落ち着けている島津義弘の無言の圧迫をうけ、豊後南郡衆は豊後南部の山岳地帯に立て籠もって、出てこられず。豊前国衆、秋月別動隊との合戦には参加できないのだった。なかでも大友軍を悩ませているのは、田原本家の残党である。それに対し、豊後・豊前の国境で大友軍の指揮をとっているのは、現執政で、マセンシアの叔父にあたる田原親賢である。田原本家生き残りの旧臣たちの親賢に対する怨みは尋常ではない。主家を滅ぼされ、浪人し、捨て鉢となった男たちの起死回生にかける想い――そのような九州に点在する諸侯旧臣のもろもろの思惑を利用しての蜂起反乱――これらは、島津氏の策謀によるところが大きい。

 鍋島孫四郎が目を細めた。

「父君は、達者でいるか?」

「……貴様の相手など、わたしで十分だ……と言っていたよ」

「冗談の好きな御老体だ……」

「………父に、伝えたいことでもあるというのか?」

 誾千代は微笑した。が、

「私の目は欺けん。道雪は死んだのだろう!」

「……ふふ……似非えせ如きが……」

 少女の低い声が、撫でるような穏やかさにかわった。

「……人の心を映す鏡でも持っている………とでも言いたいのか?」

「……そうか。…………お前のなかに、私の理想を補佐する資質を認めたのだが…………残念だ。……そろそろ幕を引くことにする……。足軽どもの疲れの色は隠し切れん。……馬から降りよ………戸次の小娘。……そのほうが楽しめそうだ」

 焔立つ燎原りょうげんのなか、顔立ちの良い男の大太刀が優雅に躍る。

「……やめておく…………今は……」

 利欲に迷う人々が殺しあう世の中で、このように人の世のありようを革新しようとしている男が自分にとって果たして敵であるのだろうか、この疑問は誾千代に戦闘以上の愉快をあたえ、眼もとから拡散されていた憎しみの光芒が虚空に散っていった。

「………どうした。………臆した、わけでもなさそうだな」

 白面の男が大太刀を一振りして鞘におさめる。少女の心の動きが伝わったらしい。

「……………少しだけ………興味が湧いた………。……他が気になる………貴公も去れ。………島津が呼んでいる……」

 誾千代は、アナトリアの馬首を廻らし、

(利益を求める心こそ………悪の根源………か……)

「引くぞ! 全軍、我に続け!」

 白と赤の少女に戸次勢が呼応した。

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