第18話 毛利マセンシア

 しばらくして、十字架を象ったペンダントをした少女が上段の間に現われた。

 下段で正座していた誾千代が少女に対して腰をかがめる。

 侍女二人が、うつむき加減で少女の左右に控えていた。

 明障子あかりしょうじをとおして淡い陽光が、部屋に射し込んでいる。この部屋には、畳が敷きつめられている。この時代の地方豪族の館にしてはめずらしい。普通は板敷であった。少なくとも立花屋形には全面畳敷きという部屋はない。

 格調高い調度品が、違い棚や床の間に並ぶ。南蛮渡りのオルゴールも飾られていた。庭は広く泉水もある、小さいながら築山つきやまも隆起していた。まるで都にある公卿くぎょうの邸宅のように。

 ただ、普段使われていないためか、部屋自体は少しさびれており、畳も新品というわけではない。柱の上塗りのつやだけが昔と変わらないのが場違いに感じられた。

 上段の間に三尺さんじゃく四方の絨毯じゅうたんが敷かれている。少女はそのうえに座っている。

「雨が降りましたね。梅雨はまだ明けぬよう」

「……それも、いずれは止むものでしょう」

「そうね……」

 花を手にしている孝子は、薄桜うすざくらの小袖に淡黄たんこうの打掛姿。ほっそりとした可憐な指で茎をつかんでくるくる回している。

 手に持った花を一途に見つめる孝子の姿に、誾千代は、かすかな不安を感じた。

「何か、お心を悩ますことでもおありか?」

「わかりますか?」

「幼い頃から、お目をかけてくださいました」

 彼女は、数日前、誾千代に手翰しゅかんを送ってきた。しばらく顔を見ていないため、懐かしく会いたい、府内まで来てほしい、自分も臼杵から出て行くから、と。

「……この家は、どうなってしまうのでしょう?」

「それは……」

「あの兄ではね」

「……」

 誾千代は心持ち驚いた。

「わたくしの前で本音を隠す必要はないわ」

「……と仰いますと?」

「あなたもそう思っているのでしょ」

「……わたしがここで愚痴を言っても。……それとも、そうした方がよろしいか」

 孝子は、いわゆる幼友達だった。行事事ぎょうじごとのあるときは、この上原館か大友館に出向き、よく一緒に遊んだ。だから、お互いにその人となりはよく知っている。

「高橋の嫡男を毛嫌いする訳は、なに?」

 誾千代はそのことを孝子への返事に書き添えた。すこし思慮の足りないことをしたと悔いている。幼友達にちょっとした秘密を打ち明けた少女のような心境だろうか。

「……」

 が、なぜかは誾千代にもよく分からない。生理的なものなのか、あるいは何か他に原因があるのか、答えようがなかった。

「それでは逐電ちくでんでもしてみたらどう」

「……」

 誾千代はそれも考えた。どこか、そう例えば京などへ逃避行するのも面白い、などと。だがそれは、ゆるされない遊戯であった。孝子は、やさしい笑みを送った。

「もう少し女らしくなさい。そんな男のような恰好」

 背筋を伸ばして正座をしている誾千代の装束は、純白の狩衣に深紫こきむらさき指貫袴さしぬきばかまという古風な装いだった。が、烏帽子はかぶっていないため、鏡のように輝く髪が肩や背中に流れている。

「道雪はなにも言わないの?」

「最近は不満のようですが、これまでは容認してくれていました」

 誾千代は、父の意思や周りの取り巻きの思惑の変化が気に入らない。

「他に好きな人でもいるの?」

「わたしにそのような者はがあると、思われますか」

 孝子は、畳の編み目をそっと指でなぞった。

「意に添わぬ縁談。わたくしの行く末のよう」

「……」

 誾千代は、この心優しい姫も同じ悩みを抱えているのか、と気が付いた。

「あの嫡男と仲睦なかむつまじく……ね」

「……温かいお心遣い、感謝に堪えません」

 森閑とした屋敷内に鹿の鳴く声が響いた。館近くの森から聞こえる。

 孝子は、瞼をとじた。

呦呦鹿鳴ゆうゆうとしてしかなき

 食野之苹ののへいをはむ

 我有嘉賓われにかひんあり

 鼓瑟吹笙しつをこししょうをふく

 吹笙鼓簧しょうをふきこうをこす

 承筐是將きょうをささげてこれすすむ

 人之好我ひとのわれをよみさば

 示我周行われにしゅうこうをしめせ

 鈴音のように玲瓏な美声が室内を満たす。

呦呦鹿鳴ゆうゆうとしてしかなき

 食野之蒿ののこうをはむ

 我有嘉賓われにかひんあり

 徳音孔昭とくいんはなはだあきらかなり

 視民不恌たみをみることうすからず

 君子是則是傚くんしこれのっとりこれならう

 我有旨酒われにししゅあり

 嘉賓式燕以敖かひんもってえんしもってあそぶ

 安息をもたらす響き。ふたりの侍女も、うっとりと聞き入る。

呦呦鹿鳴ゆうゆうとしてしかなき

 食野之芩ののきんをはむ

 我有嘉賓われにかひんあり

 鼓瑟鼓琴しつをこしきんをこす

 鼓瑟鼓琴しつをこしきんをこし

 和樂且湛わらくしてかつたのしむ

 我有旨酒われにししゅあり

 以燕樂嘉賓之心もってかひんのこころをえんらくす

 調べを終えた孝子が、莞爾として微笑んだ。

(身に余る仰せ……)

 誾千代は、恐懼した。

「貴方は、まだ幸せだと思う」

 はっとした。

(この方は、さらに過酷な政争の具にされるかもしれんのだ……)

 つい感情が昂ぶり、誾千代は膝を前にすすめた。

「孝子様」

「なに……」

「我が屋形にお移りに」

 誾千代はそこで言葉を切った。

「そうね。それができたらどんなにいいか」

「たわいも無いことを……。恥じ入りるばかりです。お許しください」

 誾千代は、不可能なことを感情の赴くまま口走った自分の未熟さを嫌悪した。

「ときにはそれが胸に心地よく響くときもあります」

 孝子は立ちあがり、誾千代の正座している下段の間に降り、障子へと歩いていった。彼女が障子を開けると、梅雨の合間の明るい陽射しが、人気の寂しい部屋に流れ込んできた。


 この上原館からは、別府湾が一望できる。


 瞳を凝らしてその風雅な光景を見る孝子に、誾千代は顔を向けた。そして、身体も庭に向けて正座しなおした。

「幼少の頃は、この海景色を見ることができなかったわね。あの白壁に阻まれて」

「築山に登って宗麟様によく叱られました」

「ええ」

 蒼い海原に白い波濤はとうが、ちらほら立っていた。

「誾千代……。貴方だけでなく、わたくしもいづれ選択に迫られることになる。そして人は変わらねばならない。良くも悪くも」

 悲壮な声音。胸元にあるクルスが光りをたたえている。

「であるとするのなら、より良い選択を心掛けたいものです」

 そのとき誾千代の瞳が何を見つけたのか、つよく輝いた。緑の脱けた畳は幼い頃の記憶を呼びおこす。だが、やはりこの方に会ってよかったと思う。

「そうなるように祈っているわ」

「はっ。お礼申し上げます……。孝子様も」

「わたくしは、この不安定な大友という束縛から逃れることはできない。でもあなたは」

「為すべきことを為そうと思います」

「この部屋に入ってきたときより良い顔になったわね」

「姫様のお蔭でございます」

 梅雨明けは、誾千代の鬱屈していた心が晴れる兆しなのか……。

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