第17話 南郡衆の御曹司

 誾千代は、戸次屋敷の武者溜むしゃだまりに控えていた十時ととき連貞つらさだに視線を投げかけた。連貞は、現在、この屋敷の諸事一切を取り仕切っている男だ。

孫右衛門まごえもん上原うえのはる館へ行くぞ」

 連貞は、行き先が当主義統のいる大友館ではないことに疑問を持った。

「御館様に会われるのではなく?」

「あのような愚か者、主とは思っていない」

「……されど」

「オヤジ殿はいざ知らず。わたしの忠誠の対象は、孝子様ただお一人だ」

 大友宗麟の末娘孝子は、いま上原館に滞在していた。誾千代はそれを知っている。供は忠三郎でもいいが、普段から府内にいて他家と親睦のある連貞つれさだのほうが顔が利くため、無用の摩擦を回避できると考えたのだ。

 馬屋に留めていた黒鹿毛に乗ると、誾千代はむちを入れた。勢いよく門をくぐる。連貞の騎馬がそれを追う。

 立花山屋形への襲撃の日に、天魔のような乱波らっぱから受けた創痍そういは、針で縫って傷口を塞いでいたが、この短期間で完治するはずもない。少女は、焼きごての後に残った激痛に、強靭な精神力で耐えている。普通なら馬に乗ることすら叶わない重症だった。手術を受け持った医者からも、当面激しい動きは控えるよう釘を刺されているほどだ。

 道すがら、両脇に建ち並ぶ板葺いたぶきの家屋が目に映った。屋根の上には掌ほどの重しの石がある。ほぼ等間隔に複数置かれていた。暴風から屋根を守る役割を果たしている。

 それは大友氏の土台を支えてきた人々の生活のもとい

 彼らの生業も多種多様だ。鍛冶屋、傘張り師、桶屋、筆師ふでしなどの職人もいれば、酒屋土倉といった金融業者に務めている者、品物を店先に飾る小売商の奉公人も数多くいた。

 誾千代は馬の速度を下げ、趣味で乗馬をするような速さにまでおとした。そして、道行く老若男女の姿を眺めた。

「博多とどちらがお好きか?」

 これまで扈従し、寡黙であった荒武者が口をひらいた。

「ん……どちらかな……。幼いころはここで過ごしたこともある、愛着はあるよ。どちらも」

「この賑わいは、大友家中の誇りといえましょうな」

「……歴代の館の苦労は察する。だが、それは支配する側の見方だろ……。彼ら民人にしてみれば笑止だろう。視点を変えれば、これらの人々に支えられて大友家はあるということだ。そのことを忘れれば、身に災いを招くことになる……。

 采詩聽歌導人言しをとりうたをききてひとのげんをみちびく

 言者無罪聽者誡いうものはつみなくきくものはいましむ

 下流上通上下泰したよりながれうえにつうじてじょうげやすし

 周滅秦興至隋氏しゅうほろびしんおこりてずいしにいたる

 十代采詩官不置じゅうだいさいしかんおかず

 郊廟登歌讃君美こうびょうのとうかはきみのびをたたえ

 樂府豔詞悦君意がふのえんしはきみのいをよろこばしむ

 若求興諭規刺言もしきょうゆきしのげんをもとめば

 萬句千章無一字ばんくせんしょうにいちじもなし

 不是章句無規刺これしょうくにきしなきにあらざるも

 漸及朝廷絶諷議ようやくちょうていふうぎをたつにおよぶ

 諍臣杜口爲冗員そうしんくちをふさぎてじょういんとなり

 諫鼓高懸作虚器かんこたかくかけてきょきとなる

 一人負扆常端默いちにんいをおいてつねにたんもくし

 百辟入門兩自媚ひゃくへきもんにいりてふたつながらみずからこぶ

 夕郎所賀皆徳音せきろうがするところみなとくいん

 春官每奏唯祥瑞しゅんかんつねにそうするはただしょうずい

 君之堂兮千里遠きみのどうはせんりとおく

 君之門兮九重閟きみのもんはきゅうちょうとず

 君耳唯聞堂上言きみのみみはただどうじょうのげんをきき

 君眼不見門前事きみのめはもんぜんのことをみず

 貪吏害民無所忌どんりたみをがいしていむところなく

 奸臣蔽君無所畏かんしんきみをおおいておそるるところなし

 君不見厲王胡亥之末年きみみずやれいおうこがいのまつねんを

 群臣有利君無利ぐんしんにりありきみにりなし

 君兮君兮願聽此きみよきみよねがわくばこれをきけ

 欲開壅蔽逹人情ようへいをひらきてにんじょうにたっせんとほっすれば

 先向歌詩求諷刺まずかしにふうしをもとめよ

 誾千代は白居易を口ずさみながら、そうあれかし、と痛切に願う。

(この方が、男児に生まれていてくれれば……)

 連貞は、馬上の後姿をじっと見つめていた。

 主従は、ふたたび馬に鞭を入れた。日本建築、特に仏教寺院とカトリック施設が同居している計画的な優れた町並みを抜けると、丘陵の裾が現われる。二人はそれを北上した。

 むくの木やクヌギが繁る森林を駆ける。倒木とうぼくが道をふさぐ。が、それを難無なんなく避けていく。まるで野鹿が俊敏に躍動しているかのように。

 葉末はずえの玉が、風にさらわれる、雨上がりの森林の爽やかな空気は、誾千代の焦燥を和らげてくれた。

 坂道を駆けあがると、上原うえのはる館の茅葺門が、景色のなかに大きく浮かび始めた。見張り台があり、門衛が二人いた。

 門の前で止まった黒鹿毛の前に、連貞が馬をすすめた。

「御館の方々に申し上げる。これは戸次誾千代様でござる。わしは戸次家家中、十時ととき孫右衛門まごえもん連貞つらさだ。いざ、開門されたし!」

 連貞の声におうじて、物見台に登ったのは、身分ありげな若武者だ。

 こちらを見た。

「誠に、十時殿かっ!」

 訪問者二人の面貌を確認している。正体不確かな輩に、この門扉をひらくわけにはいかない。

「おう。この濁声だみごえに聞き覚えがござろう!」

 連貞が声を張り上げた。戦場で、敵を萎縮させるほどの蛮声である。

「確かに! 今開門致す。しばし待たれよ!」

 若者は、がねのような大声に聞き覚えがあるようで、さわやかに微笑んだ。

「あれは?」

「志賀家の御曹司でござる」

「あぁ……。右近の」

「左様」

 誾千代は、あの若者に好感をもった。所作挙動落ち着いており、対応も物柔らか、が反面、瞳炯々と輝き、配下の武士たちも自然と心服しているのが伝わってきた。誾千代の炯眼、この若者の資質を鋭く看破した。

 五年後、薩南の雄、島津の侵略に対してレジスタンスを組織してゲリラ戦を展開、崩壊した豊後で島津の大軍をさんざんに悩ませることになる。戦後、鎮西の驍将、島津義弘に『天正の楠木』と絶賛された。唐入りでの不名誉な撤退進言など、彼の才能に嫉妬した者の讒言にすぎない。ただし、誰の讒言であったのか。

「……そんな男がなぜここにいる?」

「御館様に近習として仕えていらしたのですが」

「いらした?」

「はっ……。いらした、のではございますが」

 馬上、少女は苦笑する。

「言わずとも察しはつく。おおかた諫言でもしてあの愚か者の勘気かんきに障わり、ここに流されたのであろう」

「……そんなところでございます」

 門が開き、あの若武者が迎えに出てきた。誾千代は馬からおりた。

「……出迎えご苦労です。わたしは戸次誾千代と申す者。本日は孝子様に拝謁を願うため当館とうやかたに参りました」

 誾千代の低い声に、親次が応じる。

「仔細は、姫様より承っております。騎馬はわたくしどもにお任せあって、広間へ」

 軽く目礼し、

「左様か。ではそうさせて頂く。孫右衛門、志賀殿の話し相手をして差し上げろ」

 と言い残して、館の広間へ急いだ。

 切れ長の目で一瞥しながら、

(役に立つ男のようだが……)

 自分と姻戚関係をもつ男だが、二人は初対面である。誾千代は豊後の本貫地に帰ったことはないし、そこには、父道雪の猶子となり、豊後戸次氏を継いだ義兄がいる。が、その義兄とさえ幼い頃、一度府内で対面したことがあるだけなのだ。この若者は、義兄、伯耆守ほうきのかみ鎮連しげつら夫人の弟なのである。そして誾千代の言う「右近」とは、二人にとって共通の甥にあたる右近太夫統連むねつらであった。

 その若者、志賀親次の涼やかな笑みが、とおりすぎる誾千代の背中を追う。

 玄関脇に、秋楡あきにれが一本植わっており、露を含んだ鮮やかな青葉と斑模様の幹を横目に式台にあがった。あまり日の差し込まない薄暗い廊下を渡る。広間に着いたとき、孝子の姿がないことは、誾千代を安心させた。

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