第9話 誾千代婿と競う

 統虎の前方を駈ける馬上、少女が弓をかまえた。

 矢をつがえ、しなやかな細い腰を捻ってこちらを向いている。

「おれを殺す気か? あの女」

 統虎は馬首を曲げてけようとしたが、少女の放った矢のほうが速かった。

 矢が鋭利な音をたてて統虎の首筋を掠めた。

「くそっ! あの女っ!」

 少女の口のはしは、少し上がっていた。

 その嘲笑に耐えられない統虎はさらに馬を加速させた。そして、馬上で矢籠しこから矢を抜き弓をかまえた。

 しかし、それを予想していた少女は手綱を引いて黒駒の走る方向をにわかにかえた。

「上手い……。くそっ!」

 統虎はさらに少女を追った。彼女が、ふたたび弓をかまえたため、統虎は今度こそそうはさせまいとして馬の方向をすばやくかえた。

 が、少女の目はそれを逃さなかった。

 二の矢が統虎の顔の辺りを通過する。

「くっ、やる」

 家臣たちが見ている。一方的にやられるわけにはいかない。しかし、すでに旋回運動を終えた驪馬れいばが、向かってくる。

「……まさか……。こんなところで見合いをする羽目になるとはな……。……それにしてもあの年寄おとなめ……ふざけた真似をする!」

 誾千代は今朝この狩り場に行くようにその老臣に勧められた。そこにいたのが、婚約相手になりつつあった高橋統虎だったのである。

 普通の見合いでは誾千代がスッポカスおそれがあったため、年寄たちが苦肉の策としてこの状況を作り出したのだ。

「容赦などするものかっ! ゆけっ!」

 言葉に反し、手心は加えている。全力を注げば、統虎は命を落とすことになるからだ。いまは並の武者がいしゆみを引き絞ったほどの威力しかない。前方を向きながら弓のつるを引き絞った少女が、三度目の矢を放った。それが風を切り裂いて飛んでいく。その攻撃を避けきれなかった統虎は、不覚にも芦毛あしげから落下した。

 黒駒が、駆けよる。

「ふふ……。無様だな」

 誾千代は黒鹿毛の上から統虎を見下ろしていた。

 しかし、雲の切れ間からのぞく太陽によって逆光となっており、統虎には彼女の姿がみえなかった。

「早く立て。それとも……。尻尾しっぽを巻くか?」

 しなやかな黒い影が言った。

「誰がっ!」

 誾千代は統虎が馬にまたがったのを確認してから、黒駒を走らせた。

「やぁ!」

 青年がそれを追う。

(あの女……鬼神か…………おれで遊んでいやがる)

 統虎は舌を打った。

 しばらくして、二人は併走し始めた。

 つよく輝く瞳からは明らかに敵意が読み取れる。

「高橋の惣領そうりょう息子とは、こんなものか? 大友の血脈が泣くぞ」

「黙れっ! 組打くみうちでの戦いなら、貴様ごときに負けるはずがない!」

「匹夫は、遠吠とおぼえが得意だな」

 このとき、統虎の怒りが爆発した。馬のくらに足を乗せ、目を怒らせて飛びついた。二人は折り重なって草原に転がり落ちた。

 統虎が、誾千代の胸ぐらをつかみながら馬乗りになっている。

「手出しは無用っ! これは、わたしとこの男の問題だっ!」

 誾千代の声は助けに駆け付けようとしていた郎党たちを静止させた。

「フン。余裕じゃないか。だが、この体勢から勝てると思うのか?」

「さぁな……。やってみるさ」

 誾千代の笑みは統虎を苛立たせた。

「このっ!」

 青年の拳が少女の頬を強打した。

(あいつ!)

 忠三郎の全身を憎しみの炎が包む。

「ピっ」

 誾千代の血の混じった唾が、統虎の顔に付いた。

「貴っ様!」

 このとき統虎の腰が一瞬浮いた。

 誾千代は下半身を素早く引きよせた。屈んだような体勢となり蓄えられた身体のばねが驚くべき俊敏さで復元される。酸漿ほうずきの形をした鋼が青年の顎を鋭利に捉えた。長躯が頭から吹っ飛ぶ。反動を利用し片手をついた誾千代は後方へと宙を舞い、全身を旋転せんてんさせながら着地し、土を蹴って素早く取り付いた。

 一瞬で形勢が逆転した。

 腰刀こしがたな刃文はもんが間髪入れずに青年の面貌を這う。春竜胆はるりんどうに鮮血が無残に飛び散った。誾千代ののすね当てと頬貫つらぬきは鋼鉄を用いて制作されている。普通の人間なら顎の骨が砕けているだろう。

 立ちあがった少女は、血に染まった刀身を鞘におさめ、統虎を無視して黒鹿毛に飛び乗った。

内侍おぼろづきが欲しければ他をあたることだ」

「おぼろ月、だと?」

 少女の表情が、美しい微笑みに変わった。

「この戸次誾千代、逃げも隠れもしない……。不服があるのなら後日、拝聴しよう」

 め付けてくる統虎を問題にもせず、郎党たちのいる方角に馬首を返した。

「帰城する!」

 袖笠雨が、ぽつぽつと落ち始めている。

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