第10話 鹿児島の老者

「これが、敵の本拠か……」

 ほんのり薄紅がさした桜島のシルエットの背後には、紫がかった茜雲が空中を切れ切れに漂っている。錦江湾きんこうわんに浮かぶそれは、弥十郎にとって見た目よりも瀟洒しょうしゃに映った。

 その感覚は、初めて見る光景に対する感慨が引き起こしたものか。だとしても、この国独自の魅惑的な情景であることには違いはない。

 時刻は卯時ぼうじから四半刻ほど前、伊集院から鹿児島を目指してきた弥十郎は、鹿児島城下の西側にある山地からその一帯を見渡している。

 ここに来ることは、通常業務に穴が開くことを意味するが、この潜入は人任せにはできないことだった。日常の仕事は、他の信頼のおける年寄としよりに任せている。その初老の家老は、情報収集能力とその中から見落としなくぎょくを取捨選択する力は、弥十郎にはおよばないものの、謹厳実直さでそれをカバーしてくれるはずであった。

 初夏の鹿児島は暑く、小袖の生地きじがうっすらと汗を吸い込んでいる。

 弥十郎から見て左の方角には島津義久が普段生活している内城うちじょうが見えた。おそらく、彼もそろそろ起き出している頃だろうと思った。

 そもそも内城は現在いまからおよそ三十年前に島津氏の居城となった。それまで島津氏は別の城を拠点にしていた。義久の父貴久がこの城にきょを構えたのである。

 城郭様式としては平城ひらじろであった。文字通り平地の上に築いた城をこう呼ぶ。ちなみに、誾千代の立花山城は平山城ひらやまじろ、信長の安土城は山城やまじろと言われている。

 平山城は丘陵の上、山城は険阻な山を利用して築かれるものである。山城としてもっともイメージしやすいのは、近江浅井氏の小谷城だと思われる。

 一般的には、平山城、山城、共に防御的側面が強い。

 平山城や山城の場合は、城主やその家族は普段は麓にある屋形に住むことが多い。外敵が侵攻してきたときだけ城を要塞として活用する。

 だが平城は違う。

 もちろん、城であるかぎり防御を目的の一つとしているの確かだが、それ以上にそこに住む人々の生活の場という意味合いの方が強い。

 島津しまづ修理大夫しゅりだいぶ義久は、拠点を内城においたまま動かさない。

 中央を制圧した織田信長のように、攻略目標に応じて頻繁に居城を変更するというようなことはしていなかった。

修理大夫しゅりだいぶの目標は、九州制圧らしい……。さしあたってはな)

 弥十郎はそう見ている。

 そういう意味では信長は割拠する諸侯の中でもやはり格別の存在であった。

 弥十郎は坂をくだり始めた。

 城下に着く頃には太陽はすでに桜島の御岳おんたけから顔を出していた。

 弥十郎は通りに面した質屋の軒柱のきばしらに寄りかかっている。腕組みをしながら立っていた。そして、通りを歩く人々を眺めている。何かを物色しているようにも見える。

 しばらくすると、人品骨柄じんぴんこつがらいやしからぬ侍が現われた。

(あの壮者そうじゃにしよう)

 弥十郎はその男に近づいていった。

「失礼。わたしは、武者修行のため諸国を行脚あんぎゃしてる羇旅きりょの者です。ご当家の腕自慢の猛者もさ一手ひとて手合わせ願いたく、声をかけさせて頂きました」

 その武士は弥十郎の身なりを上から下まで眺めた。

「当家においては、身分のさだかならざる者との太刀合いを禁じておる。諦めなさい」

「でしたら、これをご覧ください」

 弥十郎は自身が相馬家の一族であるというあかしを差しだした。

「なるほど。確かに」

「それでは?」

「よかろう。が、本日すぐに、というわけには参らん。十日はかかるが、それでも異存は無いか?」

「結構です。では、十日の後どちらに伺えば?」

拙宅せったくに参るがよい。場所はそれ、その通りを右に曲がれば、門が見えてくる」

 その老体は顎をくいっと曲げて、自身の屋敷のある区画を示した。

「承知しました」

「相馬……三郎、とか申したな」

「はい」

「わしは、伊集院いじゅういん忠棟ただむねだ。微力ながら、とう島津家の家老を務めておる」

「感謝致します、大夫たいふ。では後日」

「ふむ」

 その男は、去り際に弥十郎を一瞥いちべつしてから歩いていった。

「十日……。さて、どうするか。まあ、大人しくしておいた方がよさそうだ。あくまでここにきた目的は、……なのだからな」

 弥十郎は、ポツリとつぶやいた。

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