第32話 宗像統氏
博多に到着した少年は、湊にいた船頭に声をかけた。
「これは、若、今日はどこまで?」
壮年の、赤黒い鍾馗のような船頭が、忠三郎の姿を嬉しそうに見つめた。船戦では、ためらうことなく敵を惨殺する男である。
「父上に会いに行こうとおもってね」
「じゃあ、釣川の戸まで送りましょう」
「ありがとう、頼むよ」
骨格逞しい頭が櫂を鼓す。小舟が、博多湾を沖合へと進む。停泊していた安宅船に乗り込んだ忠三郎は、潮香る空気を胸一杯に吸い込みながら、広い海を眺めた。安宅船が玄界灘に乗り出す。志賀島を右手に見ながら、大船は東へと航路をとった。
「大島には行かないので?」
「今日はやめておくよ」
船頭の浅黒い笑顔が、忠三郎に懐かしい記憶を想起させた。
かつて、誾千代とともに、別の安宅船で対馬まで渡ったことがある。子供の頃の忘れられない思い出だ。
対馬に着いた二人は、偶然そこにいた朝鮮人に絡まれ、聞いたこともない高い音色で難癖をつけられた。忠三郎の心臓は波打ち呼吸も激しくなって足の
ごろつきどもは意気消沈し、呆然とへたり込んでいた。
忠三郎は、ひとり現場で目撃し、
(本当に人なのか……)
という恐れを抱いたのを覚えている。
あのときの誾千代は、恐怖を抱かせるだけの存在だった。その思い出に浸るうち、玄界灘に浮かぶ島々が姿をあらわした。
「今日はよく晴れてますからね。沖ノ島が綺麗に見えるでしょ」
大島に行ってみませんか、と隣に立つ船頭が聞いてきた。
「そうだね。でも、今日は急ぎの用事があるんだ」
そうですか、と言った船頭の逞しい身体は、麻でできた小袖に包まれている。柿色の粗末なものだ。忠三郎の着衣は
釣川の河口に着くと、忠三郎は川沿いを歩いて父親のいる城へ行くことにした。川岸で、舟を拾ってさかのぼる、という手段もあったが、久々に戻った故郷の、風情ある景色を心ゆくまで楽しみたいと思った。それに、父に会う時を遅らせたい、という感情も歩くことを願った。
真夏の太陽はすでに南天にある。
川のせせらぎが聞こえてきた。聴覚で涼を味わいながら川の左にある堤を歩く。左右に開かれた田圃景色を忠三郎は喜ぶ。波立つ青い穂が、今年の豊作を約束している。この川は夜になれば蛍が舞う。弟を連れてこの道を何度歩いたことか。弟は微笑ましいほどに可愛い。弟の美点を思いながら、忠三郎は、現在の宗像市にある城に近づいている。
忠三郎の名。
宗像大社第79代大宮司宗像氏貞の庶長子。
弟に、正室の子塩寿丸がいる。忠三郎の母親は側室だから、宗像氏を継ぐ権利はなかった。正室の子である塩寿丸が家を継ぐことが決まっていた。これは当時としては普通のことだ。
例えば織田信長は三男だが、正室の子として織田家を継いでいる。信長のふたりの兄は側室の子だったため織田家を継げなかった。この当時正室の子として生まれるか、側室の子に生まれるかは、生後の待遇に隔絶した差を生じさせる。
現代は一応、憲法上、平等権が謳われているため、民法上あからさまなことはできないことになっているが、この時代は違った。第一憲法などないし、惣領による独占的な相続が、武士の法慣習上常識となっていた。つまり、忠三郎の生きる道には自然と影が差す。
ちなみに大宮司とは、神官の役職名で、当時、神郡からの徴税権を握っていた宗像大社の大宮司は大名の権威をもっていた。
父の
「父上、なにやらご機嫌がお悪いようで、
少年は、面差しに皮肉な笑みを浮かべた。
「誾千代様が、よろしく、とのことでございます」
「戯けめがっ! わしを愚弄するかっ!」
氏貞は目を剥いて、忠三郎に強烈な罵声を浴びせた。
「戸次の小娘に魂をぬかれたかっ!」
忠三郎が睨む。
「それがしはともかく、あの人を貶めるような暴言は許しませんぞ!」
「偉くなったものだな。……小童が」
木綿の小袖の胸元をつかみ、なかの体に風を送り込んでいる。庶子とはいえ息子が、賢しらで小面憎い小娘にこうまで肩入れしている。
「戸次の家に奉公していれば、大抵の者は、おのずから鍛えられます」
「お前、思い違いをしてはいないか?」
「仰る意味が計りかねます」
大城郭である。
その城域は東西1キロ、南北800メートルに及ぶ。
緑に囲まれた美しい城だった。長男が戸次氏の娘を立てることが気に入らない氏貞は、外の景色を見て顔をしかめた。
「あの家に送ったのは宗像に有益な情報を流すためだったはず。それにしては、家に十分な資料が提供されているように思えんぞ」
「ご命令どうり、月に一度、書簡は送っているはずです」
「それが使えないといっているのだ」
宗像氏の水軍衆は強力で、誾千代も府内への旅では、この家が所有する船か、対馬の
対馬の宗氏は日朝貿易を独占しており、貿易のために必要な『象牙符』を大友氏が握っているため、宗氏と大友つまり戸次氏は同盟関係にあった。
「ならば、叔母上がいらっしゃいましょう」
忠三郎の瞳が稟と光る。
「お色は女だ! 政治向きの話がわかるはずがなかろう!」
父と兄の口論に不安を覚えたのか、塩寿丸が幼い身体を震わせながら、指を咥えていた。
忠三郎の叔母色姫は道雪の側室として、立花山城の松尾の丸曲輪にあがっていた。義理とはいえ忠三郎と誾千代は
「それがしとて戸次の中核を担うような身分ではありません!」
「あの小娘の側近くにいるだろう」
忠三郎はうつむき、床を見たまま前を見ずにいる。
「裏切れませぬ」
目を固く
「なに?」
「あの人を陥れるような真似は……できません!」
忠三郎は、全身から振り絞るような声で激しく叫んだ。
「惚れたな、あの小娘に」
「……」
「……ものの役に立たぬ奴」
忠三郎は悔しさで肩を振るわせている。
泣きたければ泣けばいい。わたしは笑わない。だが、泣き飽きたなら――自分の足で立て――。
(泣きません……決して)
忠三郎は、口を堅く結んだ。この少年は道雪によって半ば人質のようにして戸次の家に来た。
「この宗像は天子の一門なるぞ! 神代よりの名家だっ! 戸次ずれ……」
「あの人には、箱崎宮の
息子の静かな微笑に、
「当家に比べれば、あんなものは飾りにすぎん」
と吐き捨てた。
苛立つ父をを見た忠三郎の胸に、言い知れぬ不安がよぎった。
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