第31話 忠三郎の風景

 立花山の屋形の見える深い森の中に一軒の家があった。灰色の樹皮をもつ犬四手いぬしでや実をつけはじめた酸実ずみの木、とうに葉だけになったソメイヨシノ、樹林に囲まれた板葺。

 そこで、雪枝ゆきえという娘が両親とともに暮らしていた。今朝起きてすぐ忠三郎は彼女を訪ねた。その娘との会話は、少年にとって起き掛けの眠気を払う儀礼となっていた。

「忠三郎、あなた誾千代様のこと好きなんでしょう」

「なんで、わかるんです?」

「あれで隠しているつもり、呆れるわ……態度に出過ぎよ。見ていればわかります」

「でも、そういうこと、大きな声でいいます?」

「苛々させるのね。そんなことでどうするの」

「好きでなったんじゃないんです。おれだって」

 忠三郎は、言葉を呑み込んだ。

 立花山の麓にある壮麗な屋形が目に映る。

 憧れの対象が日々忙しい時間を送っている。でも、あの人は自分のことを幼馴染以上には思っていない。それでも、自分たちは単なる幼馴染にはない信頼関係がある、という想いが、子供から大人への過渡期にいる不安定な精神をなんとか均衡させ、憧憬が愛憎という厄介な感情に変化するのを自制していた。

「雪枝さんに、この微妙な立場はわかりません」

「あ、そう。じゃ、勝手にしなさいな。私、先に行きますから、いつまでも悩んでればいいわ」

 雪枝は、戸次氏に奉公する侍女のひとり。

 縫物ぬいものを片手に抱え、木々のおい繁る小径こみちを歩いていった。人差し指を下瞼にあてて舌をだすような仕草をし、犬四手いぬしでの緑の下を遠ざかっていく。雪江の姿が、ウツギのなかに消える。季節はずれの白花はくかを咲かせたウツギは、あの年上の女性がまだそこにいるのかと、少年を錯覚させた。

 縁側に腰をおろしながら吐息をつく。輝くような年上の魅力を身につけた娘との恒例の口論はおわり、出仕の時刻が迫っていた。

 と、雪枝の家の竹格子ごしに声をかけてくる人がいた。

「忠三郎さん、もう行くの?」

 竹格子には蔓が絡まり、ぼんやりとだが顔が確認できた。

「ええ、お邪魔しました、おばさん」

 竹格子ごしの自分の笑顔は、この穏やかな人にとどいているのだろうか。

 雪枝の母親は、娘と若者の仲を気にしていた。だが、それを詮索するような野暮なことをする人ではない。繊細で洗練された心映えの持ち主なのだ。忠三郎は、この家の大人たちの優しさが好きだった。だから呼ばれもしないのに、ほとんど毎日のように通っている。それをこの家の人々は嫌な顔一つせず、受け入れてくれるのだ。親元を離れ自活している忠三郎にとって、身近な親族ともいえる存在であった。

 今日も蒸し暑い。森を抜けると町が姿をあらわした。一陣の風もなく、真夏の太陽が燃え輝き、辻に燦燦さんさんと光を浴びせる。忠三郎は、じりじりと背中をあぶられながら、生業を始めようとしていた人々を横目に城に急ぐ。この目抜き通りには、新鮮なねぎや無花果いちじくなどを扱う青物屋、ざるや桶、といった生活雑貨を扱う店、扇や紅などの女物の装飾具を扱う小売商、男物の小袖、腰紐、帯などを商う問屋の出先の店が並ぶ。他にも木銭宿、裏路地には、日輪の光を憚るような店も軒を連ねている。客を呼び込もうと声をあげている三十ぐらいの小太りな男、冬瓜かもうりや山芋を籠に入れて売り歩く温厚そうな菜売なうり。女は大道に面した店棚のある「屋」を持たぬため、大道から大道へ、市から市へと籠をかついで売り歩いているのである。暑さからか、ぼっとしているようだった。

(大丈夫だろうか……あの人……)

 忠三郎はその女に声をかけに足早に近寄った。すると女は忠三郎を客とみたのか、愛想のよい笑顔で応じてきた。やもなく忠三郎は、冬瓜を二つ買うことにした。

 銭を払う。

「まいど!」

 意外としっかりした声をだしたので、忠三郎は冬瓜を両手に持って登城することにした。城の台所にもっていけば喜ばれるかな、と思った。

 城門で門衛に人別確認をうけ、門を通りすぎた。政務の助手や雑用事務などが忠三郎たち若者の仕事であった。立花山城の一年を通した歳入歳出の計算は想像を絶するほどの手間暇がかかる。算盤で、ときには手でそれらすべてを計算する必要があった。

 洪水が起きれば、決壊した川の堤の普請に黒鍬衆をひきつれ出向く。用水や水車小屋などの灌漑施設の建設も新田を開くために必要だった。そこでも黒鍬衆(=現代でいう兵站を担う部隊)や領民とともに力仕事に励む。

 財務や行政だけでない。

 この頃の武士は司法も担当している。裁判である。所務沙汰、雑務沙汰、検断沙汰などと呼ばれている。所務が国衆や地侍たちの所領関係の争い事、雑務がそれ以外の契約にともなう不履行あるいは意思の瑕疵にまつわる争い事などを扱う。判決結果を文章に起こすのも若者たちの仕事だった。民事だけでなく刑事もあるため、犯罪がおきれば検断権を行使して罪人の捕縛にも赴く必要もあるのだ。抵抗されれば、命の危険を伴う戦闘となる。

 ただ、立法に関しては大友本家が握っているため成文の変更を勝手に行うことはできない仕組みとなっている。

 忠三郎は、今日一日は暇乞いするつもりだった。台所によって侍女たちと二三言葉を交わした。雪枝のきつい眼差しが辛い、だから適当に会話をきりあげて台所から退散することにした。忠三郎はいま、屋形の庭で片膝をつけ、主人を待っていた。

 誾千代が、小袖打掛姿であらわれた。しっとりとした立ち姿。忠三郎の心を乱す女は、そのことを知らぬ表情のない美貌をむけてくる。いつものことだ、と少年は自らを鼓舞する。

「本日は」

「……父君に、よろしく言っていた、と伝えてくれ」

「はっ」

 誾千代は、心を読むように言い当てた。忠三郎は唸りそうになるのを必死で堪える。

「いいよ……。身支度を整えて、親父の顔を拝んでくるといい」

「早速のお聞き届け、有り難き幸せ」

「よそよそしいな」

「城のなかです……」

「伯母君も達者でいる、ともな」

「御意」

 頭を下げてから二三歩後ずさり、城門へむかった。

「……王質夫おうしつふ…………戻ってくるのだろうな」

 少年の後姿を見送った誾千代は、迴雪かいせつのように打掛をひるがえし邸内へ消えた。主人の心情を知らない忠三郎は、父との久々の対面に心は波立っていた。

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