第30話 宵闇の帳

 少女は脇息にもたれくつろいだ。

(物憂いな……)

 紫の薄絹であまれた打掛に小袖はうすい黄檗きはだ色。この二色のくみ合わせを好む誾千代は、似た小袖打掛を数着所有している。夏物の比較的薄手の仕立てであった。

「老体からのたっての願いだ……。話を聞こう」

 貌を、少し斜め下にむけた少女は、瞳だけを男にむけた。

「お父君の死を明かされたと聞きましたが」

 弥十郎の眼光は、誾千代を鋭く射貫いている。

「言ったよ。なにか不都合でもあるような口吻だな」

 少女は、家老の不敵で攻撃的な態度をむしろ悦んでいた。統虎の放逐以来、家中の者たちがろくに諫めもせず追随するばかりで、いささか張り合いがないと物足りなく感じていたのだ。

きじみつならざればすなわちがいなるという言葉をお忘れとは思われぬが」

 弥十郎は、『易経』の箴言しんげんを借りた。

ことごとくしょをしんずればすなわちしょなきにしかずとも言う……。……ここでお前と『四書五経』を語るつもりはないよ」

 誾千代は、『孟子』を使って切り返した。煩わしいことを聞くつもりはなかった。今日はなぜか気だるい。その倦怠を晴らしてくれるような、もっと激情を誘う説諭をしてくれればよろこんで応じようという少女にとっては、面白みのない応酬となった。

(あの童女がよく……)

 そばに控える男が凍てつくような視線を浴びせてくるのに気づいた。役目を放擲ほうてきした理由を問いただす必要がある。

「和泉殿。あなたが付いていながら、なぜみすみす好きにさせられたのか」

「……私は誾千代様の輔翼を大殿から正式に仰せつかったわけではない」

 と、男は顔色ひとつ変えずに抗弁してきた。

「しかし!」

「大殿はもはや薨じられたのだ。この戸次の家を背負っているのは誾千代様である。それを家臣が覆せるものではなかろう」

「だが、大殿の御意思は婿を迎え戸次の家を」

「その必要を認めんな」

「なんと!」

 弥十郎の面貌に鬼気が走る。

「幸い誾千代様は大殿にも劣らぬ将器をそなえている。私はその可能性を信じるものである」

 和泉は、反駁によって挑む者を常にたなごころの内でころがし、その無機質で論理的な知性で相手を高圧的に追いつめる。この男に希望を失った弥十郎は、誾千代に向きなおった。

「後の殃禍おうかとなるとは思われぬか」

「殃禍? だとすれば……お前のような頑迷な男が要路にいるためだろう、秋毫しゅうごうの杞憂を論じて惑わすのか? 取越し苦労だよ、それは……老人のように……。……ふふ…………あのままでは城を乗っ取られるだろう………それは、御免だ」

「子供のようなことを仰る」

「わたしは子供だよ。……弥十郎」

 脇息に左手も預けた誾千代は、虫のいい言い訳をしていることに内心苦笑し、笑みを浮かべている。

「世間一般の者ならそれも通るでしょう」

「博多の女には、徒労をさせた、と伝えてくれ」

 菊乃屋のことを知っていて、この家老の反応を楽しもうとした。が、期待どおりの動揺を見ることができなかったため、白けた表情でほうづえをついた。

「それで済めばよろしいが」

「気になる言い方をする」

「彼女の心証はかなり悪い」

「わたしは許しを請うているのではないよ」

「この際、あなたの感情は問題ではない」

 少女のいまの行いを非難するつもりはない。ただ、千鶴の尊厳は守りたかった。

「感情的になっているのは、お前のほうだろう。……つらつらおもんみるに……あの男にこの城を託すほうこそ危殆きたいであるとみた。目がねにかなわぬ者を斡旋したあの娘にこそ落度があるように思う」

「ですが、好意から我らのために立ち働いてくれた者です」

「そう考えるのはどうかな」

「何を言われる」

 誾千代の瞳に、嗜虐的な光がやどった。

「純粋な好意だけと思えないのはわたしだけかと聞いている。……だが、女に嬖惑へいわくするような柄でもなかろうに」

「……」

「……ふふ……。別にその点をあげつらって責めているのではない。見境なく女に手をつけるお前の色好みはよく承知している。それに、彼女も分限ぶんげんの者なら見返りを求めるのはごく普通のことだからな。が……なぜ我らに寄り添う気になったのか……。それが気になっただけだ。つまびらかにする必要があると見るが」

 信頼していた師が島津の蝶者であったという事実は、深く誾千代にあり、いまだ心の傷痍しょうい癒されずにいる――蕭寥しょうりょうとして心中風吹けども、我が志屈せず――と、少女は自らを鼓舞した。

「他家との繋がりを疑っている?」

「交わりを深めるのは、その後のことだ」

「ならばそのこと、はっきりさせましょう」

「あぁ……。任す」

 と、戦場で慣れ親しんだ鬨の声がやんだ。

 練兵が終わったなと少女は思った。声のしていた方になんとはなしに視線をうつした。真夏の残照によって金色に染まり、まばゆく波立つ海。二階から展望するそれは濃絵だみえのように煌びやかだ。

 この屋形の一階は書院造、二階は唐様。贅の限りを尽くした、戸次氏の権力を象徴する荘厳な建築様式だった。

「秋月の動きはどうだ?」

 小野和泉は、弥十郎の九州一円の旅程の立案者であり、島津や秋月の動静を気にかけていた。

「大きな変化は見受けられない」

 だが、これは精確な答えではない。

 この機略縦横の若き権謀家は詭計をめぐらし、道々の者に扮した忍びを秋月領に潜伏させ、金に糸目をつけず敵の詳しい内情をさぐり、書簡を捏造して家臣同士の離間を謀り、自分を売ったと思いこませて猜疑心を煽り手なずけ、すでに内部に造反者をつくりつつあった。が、もう少し自身や相手の間で約定を醸成してから戸次氏の主な人々に提供しようと考えていた。

「……以前の報告とは違うようだが?」

 まるで感情がないかのような和泉の口調は、この部屋の空気を張りつめたものにする。

「背後で島津の具体的なたくらみが進んでいる、という可能性もある」

 男は人の心底を見透かすような半眼で、じっと弥十郎を見つめながら現在の状況、島津の望み、秋月の変節ぶりやその背後にいて向背定まらない筑後の国人領主層などを総合的に勘案していた。

「これは、十時殿の意見です」

「孫右衛門の?」

 脳裏に、府内に赴任している男の顔が浮ぶ。

「源五兵衛の仕事は進んでいるのか?」

 あるじの声が小野和泉を現実世界の思考にもどした。

「博多の市政のことなら、ご心配には及ばないかと」

「政の進展具合を聞いているのではない」

「あの話ならば、進んでいるようです」

「よろしい」

 由布雪下の風貌からは想像できない、繊細で根気強い交渉力に期待していた。もちろん、雪下自身が相手国に赴くわけではない。弥十郎は、この試み自体は悪くないと思う。が、

「彼らを信用なさる?」

 なにしろ、刺客を差し向けてきた勢力である。

「信用というのとは違う」

「応じますか?」

(遠慮もなしに、人の領分に入ってくるっ!)

 誾千代は眦を決し、左腕を一閃させた。

「すべてをお前と共有せねばならんのかっ! わたしはオヤジではないぞ、倉田景定!」

 三人のいる部屋に入ろうとしていた侍女が、あるじの激昂に驚いて自分の役目を忘れ身をこわばらせている。暗くなった部屋の燭台に明かりを灯すのが務めであった。若き家老はそんな娘に優しい眼差しをなげかけて落ち着かせると、なにも言わずに立ちあがった。

(過ぎた時はもとには戻らん、そういうことか……)

 立花山屋形に夜の帳がおりようとしていた。

「……苦労をかける」

 誾千代はそっと呟いた。左目の喪失に心痛めているであろう広い背中に。

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