第23話 飯塚

 周防灘のの沖合いでは、弁才船が滑らかに進んでいた。白雲を頂く冠山かんむりやまの緑は富み、その風色の清浄さは、夏の到来を感じさせた。

 弥十郎は、独り微笑する。

 それが理由があってのことか、彼自身も分かっていない。編み笠を目深まぶかにすると、この美景に別れを告げるかのように再び馬腹を蹴った。

 豊前の宇佐を抜け、隣接する下毛郡しもげぐんの海岸沿いの街道を西へ進み、同じく豊前の上毛郡こうげぐんに入ろうとしていた。この時期、下毛郡は大友氏の支配する領域であったため、敵に誰何すいかされることなく馬を走らせることができたのである。

 下毛郡の国衆の一人、野中のなか鎮兼しげかねは、下毛の比較的山岳部にある長岩という城に拠っているのだが、二年まえの天正七年(1579)に大友家に反旗を翻し、それに多くの国衆が呼応して一端は下毛郡の大半が反大友に塗りかわった。

 しかし、下毛の沿岸部にある大畑城を拠点とする国衆の賀来統直がこれを破り、以降下毛はふたたび大友氏の支配領域となった。野中鎮兼はこのとき、嫡男を大友宗麟に人質に出している。

 したがって現在は、山国川以東(現・中津市)は大友、以西(現・豊前市)は秋月という構図になっている。

「……若狭守わかさのかみの進退はどうなのだ」

 弥十郎のいう若狭守とは、豊前上毛郡の有力国人領主、広津ひろつ鎮頼しげよりのことをさす。

 上毛こうげより北の豊前諸豪族は、ほぼ秋月種実の与党であり、毛利とも近しい。そのため、未だ去就を明らかにしていない上毛の広津鎮頼が、今後どう出るのか弥十郎には不明であり、それ如何では行路を変更する必要があった。

 広津鎮頼は広津城を根城としている。外観は、山国川西岸の小さな丘陵に張り付いているように見えた。もちろん天守閣はない。天守の初めは織田信長が築いた安土城だからだ。小さな物見櫓が四基よんき建てられてはいたが、別段特徴のある城という訳でもなかった。力にまかせても攻めあぐねるということはないように思える。

 しかし、

しろをせむればすなわちちからくっすしろをせむるほうやむをえざるがためなりひとのしろをぬくせむるにあらざるなりこれぼうこうほうなり。……ふっ……善いことを言う」

 緑の濃い対岸の城塞群を見ながら山国川の東岸を上流へ向かうことにした。南へ進む。慎重を期したい。

 一里(約4キロ)ほど南下したあと、山国川を押し渡った。

 ここまでくると川幅が狭くなり流れが速く急流になっているため、かえって馬の制御が難しい。青鈍あおにびに澱んだ川はときおり逆巻くような表情をみせる。弥十郎は深い淵に落とさないように手綱を掴んで馬首を巧みにめぐらせた。岸から見ると、まるで馬の首が水面をすべっていくように見える。

 森林からくる涼気と川の水は、一時いっときだが弥十郎に暑さを忘れさせた。ただ、この上毛郡を過ぎれば、敵中に潜り込むことになるかもしれないため、急がねばならない。

 広津鎮頼の動向が不明だからだ。

 弥十郎は素早く押し渡ると、山間部を北上し始めた。まず仲津なかつまで行き西へ向かおうと思っている。

 飯塚いいづかを目指すことにした。

 梅雨も終わりに近いため周りでは油蝉が鳴きはじめている。もう十日もすれば、耳の奥にじりじりと響くような鳴き声が時雨となって降りそそいでくるこだろう。

 弥十郎は、馬腹を蹴って騎馬の速度をあげた。暢気に蝉の重奏に耳を傾けて風雅に浸っている場合ではない。

「この様子なら若狭守の変節は無いか……。そう願いたいものだ」

 この上毛も下毛同様、難なく通り抜けられるかに思われた。

 が、そのとき戦場でやしなってきた勘が殺気をとらえた。微かだが火縄の焼けるような臭いを感じ取ったのだ。戦場で鍛え上げられた者だけが持つことのできる、生き延びるための感覚であった。

 弥十郎は、心中舌を打った。

「身を隠す場所は……。あれか!」

 弥十郎は馬上身体をのばし、林道にりでていた木の枝をつかんだ。騎馬による慣性力を利用し、枝の上にしゃがみ込む。長躯を感じさせない素早い身こなしだ。

「これでやりごせればいいのだが……」

 だが、相手は執拗だった。鉄砲を持った足軽四人と騎馬武者が後方から追跡してきた。

「まだ何処かにいるはずだっ! 探せっ!」

 足下では、怒声があがっている。

(……そう上手くはゆかんか……。許せよ……)

 弥十郎の双眸そうぼうが冷酷な光を放った。

 均斉のとれた体躯が、水滴のように静かに馬に尻に落下し、爪先をついてしゃがみ込む。音もたてずに脇差を抜き、喉笛に抜身をあてて素っ首を落とした。武者の怒声から寸刻もたたずに血煙ちけむりが舞い上がる。

「……な……ん、だ……おい……」

 首を落とされた武者が言葉を発した。まだ自分が殺されたことを認識できていない。無残に飛んだ首が唇をうごかした、まるで遺言でも残すかのように。

 周りの足軽たちは、突然現れた手だれの容赦ない攻撃にまだ気づいていない。雨のように頭上からふってくる赤黒い血糊ちのりによってようやくこの異常な事態を把握した。

 その間にも、弥十郎は次の行動に移っている。

 馬上のむくろを左腕で荒っぽく押しのけ、鞍に跨りながら脇差を投げつけて足軽ひとりの抵抗力を奪う。両側にいる二人は太刀で斬り裂き、馬を棒立ちにして残りの一人を踏みつぶした。

 だが、首を落とした武者はともかく、足軽への斬撃には深々と肉をえぐる十分な手応えを感じなかった。太刀による斬撃が不十分と考えられたため、素早く馬首を廻らせて林のなかに押し入った。

 姿を暗ますためだ。

 左眼を喪失したことが影響し、思うようにやいばが敵の身に届いていないのだ。致命傷を負っていない二人が射撃の準備を始める。

 一拍おいて、後方で二度種子島の爆音がした。

「甘いな、この森のなかではそうそう当たらんよ!」

 弥十郎は、嘲笑った。

 馬ごと森に分け入り、すでに敵からは狙撃しにくい状況になっていた。

 しばらく往き深い森を抜け、すでに蚊柱かばしらの立っている山道に現れると北西に進路を取った。馬を走らせ三叉路さんしゃろがあらわれると、左に折れた。

 低く濁った瀝青の如き黒雲が西の空を覆い、稲光が所々に走っている。飯塚までは騎馬で移動し、古処山までは徒歩かちのほうがよさそうだと思った。

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