第7話 薩摩潜入

 弥十郎は弁才船べんざいせんに乗っている。

 菊乃屋の所有するものであった。

(彼女には、借りができたようだ)

 千鶴が金に物を言わせたのかは分からないが、高橋鎮種たかはししげたねは誾千代と統虎むねとらの婚約を意外とあっさり承諾したのである。

「しかし……」

 左手には天草の山々がそびえている。

 この舟は天草灘を南に向かっていた。

「良い風景だ。心が洗われる」

 弥十郎は、気分がよかった。

 船縁ふなべりに置いた手にかすかに波飛沫なみしぶきがかかって、さわやかだった。

 彼は舟の反対側に行ってみた。広がる大海原が目に入る。

「……これは……。素晴らしい」

 弥十郎は、感動した。

 空は晴れ渡っている。白い帆が風をはらんで大きく揺れるようにはためく。鳥たちが大空を自由に飛びまわっていた。

 陸地から大海を見たことはあったが、それとはまた違う印象だった。海の上に浮かんでいるという感覚が彼の琴線を共鳴させたのだ。

「これほどとはな。よい土産話ができそうだ」

 弥十郎は微笑した。

 彼は道雪が右筆ゆうひつに書かせた書状をたずさえている。それはふところにあった。

 弥十郎は、背中に巻いていた弁当包みの結び目をといた。

 この大きな海を見ながら食べる中食ちゅうじきは、この上なく美味い。

 そのとき海面がキラキラ輝いた。小魚の群れが泳いでいる。

(この底には、一体なにがあるのか……。……そうだ、たしか……珊瑚、とかいうものがあると聞く。一度見てみたいものだ。……頼めるかな。彼女に)

 海面を見つめている弥十郎は、ぼんやりとそんなことを考えていた。

「お侍様」

 突然背後から声をかけられ弥十郎は少しせた。男たちが三人こちらに近づいてくる。職人のようにみえた。

「……ああ。……何だ?」

「どこまで行きなさる?」

「特には、決まっていないがね。そう言うお主らは、どこに行く?」

「うちらは鹿児島ですよ。聞いていませんか、島津様のこと」

「島津っ」

 弥十郎の鋭い視線が、その男を刺す。

「へ、へえ……、うちらは番匠やら職人でして。し、島津様の内城うちじょう改修普請かいしゅうぶしんに、よ、呼ばれたんですよ」

 男は怯えを隠せない。だが、ひとりだけ弥十郎を真っ向から睨みつけている者がいた。まるで敵意をかかえたような目だ。その番匠の仲間のようだったが。

「そうなのか」

 弥十郎は視線をそのままに、顔だけを大海の方に移した。そして、一度瞬きをしたあと、視線を海に戻した。

(島津は潤っているらしい。……厄介な)

 そのとき船体が揺れた。舟の進行方向が少し東南よりとなったようだった。弁才衆べんざいしゅうが舵をきったのである。

 弁才衆とは、この弁才船の船乗りの呼び名だった。

「で、では、うちらはこれで」

「ああ。よい旅を」

 感謝の気持ちを込めてあの男たちに軽く手を振った。あの親切な番匠はそれに応えてくれた。

(面白い情報を得ることができた)

 だが、体格のしっかりした男だけはまだ睨みつけてくる。弥十郎はその敵意剥き出しの男に対しても変わらぬやわらかな微笑をなげかけ、軽く手を振ることをやめない。毒気を抜かれた男は困ったような硬い笑顔で応じるしかなかった。

 この日は船室で休むことになった。もちろん個室などない。あの番匠たちも同室である。他に水夫かこが数人いる。番匠と職人らは水夫たちをまじえて、博打に興じていた。

 騒がしい声が響くなか、弥十郎はごろりと寝転がった。両の手のひらを枕がわりに船室の天井板をながめる。長い足を組み、くつろぎながら眺める天井板にはきさが流れるように浮かんでいた。いま航海している天草灘の波に似ている、と思う。

(いろんな人間がいる……。愛想のよい奴、悪い奴……これだから世の中、面白い。……そういえば、孫右衛門は府内だったな……帰りに寄ってみるか)

 と、つい笑みがこぼれた。朴訥な人柄が懐かしく思い出されたのだ。友と呼べる廉節の士。練達した武技だけでなく温かみのある人柄もてつだって、下の者からの声望が厚い。あの知己にもうすぐ会えると思えばそれだけでも嬉しくなる。そんなことを考えながら、弥十郎は深い眠りについた。


 舟が市来に着いた翌日、弥十郎はさらに東南に向かった。徒歩である。これから起こることを愉しみにしているような顔つきで弥十郎は歩いている。

 街道はけっこうな人で賑わっていた。あの職人の言っていた内城の普請が原因となっているのだろうと思われた。

 弥十郎はこの日一日で目的地まで行こうとしたが、日が暮れてしまい、それはできそうになかった。

(さすがに木銭宿きぜにやどに泊まるか……)

 さらに一里ほど歩き、その近くにあった木銭宿に入った。

「ようこそ、おいでくださいました」

 店の主人がをしながら彼を迎えた。どこか胡散うさん臭い親父だった。

「一夜の宿を借りたい。相部屋でかまわんのだが……」

「ええ、ええ、いておりますとも」

「……そうか。では頼む」

「はい、有り難うございます。おい! 早くすすぎをお持ちしないか。早くしなさい、早く!」

 すると、額や頬に茶色い土を付けた童女が小さめのたらいを抱きかかえながら現われた。

 その幼女は健気けなげにも弥十郎の足を洗っている。

「この子は……。なぜここで働いている?」

 弥十郎は憐れに思い、その亭主に問いただした。

「親の借金のカタとして売られてきた者です」

「きちんと食事は与えているのか?」

 少女はかなり痩せていた。

 弥十郎は、亭主の返事を待つことをしなかった。

「わかった。ならば、わたしが買い戻す。いくら必要だ……こんながんぜない子を……。また立ち寄ることにする、次に同様の悪事を為せば……その首はないと思うのだな」

 言いざま太刀を一閃させた。宿の亭主は後ずさり、おのれの首がまだついているかどうか確認している。が、すでに太刀は鞘におさまっている。親父はその一瞬の早業におののいて尻から倒れこんでしまった。目の先の空間を切り裂いた刃を見ることすらできない。雷光のような刃影じんえいによって、脳中に生死の錯覚が生じたらしい。

(我ながら大人げのないことを……)

 弥十郎は童女とともにその店を出た。そして女の子を右肩にかるがるとかつぎあげた。

「高いね~楽しいな~」

「そうか、楽しいか」

「うん。……でもどこいくの?」

「……そうだな……どこかか」

 弥十郎はこの子の家を知らない。

「家族はどこにいる?」

「家族ってなあに?」

「……すまない。お父ちゃんはどこにいる? お母ちゃんでもいいが。わかるかな?」

 童女は、あっち、と言って弥十郎の肩のうえで飛び跳ねんばかりだ。結局その日は宿には泊まらず親元に送った。童女の親は嬉しそうにしていたが、これよりのちのあの童女の生活を保証できるわけではない。

 それを思うと、弥十郎は自己の無力さを感じずにはいられなかった。

(……自己満足……。だということはわかってはいるのだが……)

 弥十郎はその村をでて細い道を歩きはじめた。左右に竹林のある道だ。しばらく行くと、向こうに廃寺が見えてきた。今日はその寺に旅寓することにした。

 うらびれて幽寂とした廃寺、茅屋が人影もなくひっそりとたたずむ。かつて、弥十郎には知るよしもない悲運に見舞われたかのように朽ちている。雑木で編まれた牆墉しょうよう、かこまれた簡素な佇まいの金堂と庵。

閼伽棚あかだなか……)

 金堂の脇にある閼伽棚もどこか寂しげだった。

 弥十郎は、子柴垣のそばで香しく咲きほこる梔子くちなしを一輪おり、閼伽棚に供えた。少女の人生に幸多かれと……。


 翌払暁、目覚めた弥十郎は庵から出でてさらに辰巳たつみを目指した。伊集院に差し掛かる頃、前方に関所が現われた。

「上手く……。誤魔化せればいいが」

 その歩みが緩くなる。

 関所の前では人々が並んでいた。弥十郎はその最後尾に並んだ。

 そこでは、島津家の役人たちによる厳しい詮議せんぎが行われていた。どうやら、昨日このあたりで野盗による強盗殺人があったらしい。もちろん関銭も払わねばならない。

 弥十郎は編笠を深めにかぶり、うつむき加減にしている。顔を見られたくはない。後ろで束ねた髪が風に揺れている。

 木箱を持ち、こちらに歩いてきた役人に関銭を払う。銅銭が互いにあたりはじかれる、鈍い金属音が響いた。

「次! そこの男、前に出ろ!」

 弥十郎は、その声に素直に従う。

「姓名、それに、この地に赴いた目的を答えよ」

 その役人は顔全体に痘痕あばたがあった。なにより、弥十郎を不快にしたのはその横柄おうへいな対応だった。

 官憲にありがちな権力を傘に着た物言い。

 溢れでる驕慢な気質。

 役人たちは、この場にいるすべての人々を見下していた。旅人たちも、自分たちを賤しめるような気分を敏感に感じとっていた。みな一様に眉を顰めている。

「相馬三郎利忠。廻国修行のため、この地に立ち寄った」

「相馬とは、東国の相馬か?」

「そうだ」

 役人の顔が一瞬たじろぐ。わざわざ遠国の変名を選んだのは、遠く薩摩からではすぎには確認のしようがないからだ。

「ならば、その証拠は?」

 検問所の板敷に座っている役人が、疑いの目を向けてきた。

(証拠ときたか……。……ふ……まあいい)

 弥十郎は、ふところに手を入れながら言った。

「そんなものは必要ない。わたしは武芸者だからな。……だが……。それほど見たければ……」

 書状を取りだして、両手でその両端をつかみ、大きく示した。

 役人たちの目は書状に釘付けとなっている。

「我が主君の花押かおうが記してある。役人風情やくにんふぜいが拝めるものではない。控えろっ! 島津義久公への親書であるっ! 見らば首が飛ぶぞっ!」

 その役人は検問所から転がり落ちそうなほど動揺していた。

「さあ、答えてもらおうか。通行の可否を」

 弥十郎の鷹揚おうような態度に、役人たちはすでに及び腰となっている。

「性根を据えて返答してもらおう!」

 弥十郎は畳み掛けるように言う。

 肝をつぶした役人たちはみな平伏してしまった。

 弥十郎の口元には冷酷そうな微笑が浮かんでいた。

「どうした。返答がないのは黙認したものと受け取るが、それでよいのだな」

 役人達は言葉も出ない。ただひたすら地面に頭をこすり付けているしかなかった。

「……ならば、許可がおりたと理解するぞ」

 そう言い残してその場を立ち去った。

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