第6話 胡蝶の舞

 今宵こよい、立花山城の中庭には舞台がしつらえてあった。その舞台でいま、猿楽さるがく師が平家物語の一幕を演じている。その両隅には、舞台を赤く照らす松明たいまつが掲げられていた。

 舞台の向かいにある板敷の間の奧には大きな松の木が描かれている。その枝の蒼は、右から左へと力強く伸びていた。

「例の話は、どうなっている?」

「……ある人物に一任してございます」

 道雪の斜め後ろに座っている弥十郎が答えた。

「信頼できる者なのか?」

「ええ……。そう、思っています」

 猿楽師の足運びは遅々として遅い。

 道雪の背後には、弥十郎ら年寄おとなたちが控えている。

「誾千代は戻ったか?」

 道雪が近習に聞いた。

「はっ。先ほど遠駆とおがけからお戻りになりました」

はよう、ここに参るように申せ」

「はっ」

 その近習は下がっていった。

 誾千代とともに城に戻っていた忠三郎ちゅうざぶろうが、客席の最後列に座った。

「弥十郎、秋月らの動きは……?」

「順調です」

「結構だ。……ふっふっふっ……だが。ちっ」

 道雪は舌を打った。猿楽師の緩慢かんまんな動作がなぜか気に障ったのである。

「誾千代はまだか?」

湯浴ゆあみののちいらっしゃるそうです」

「わかった……。下がれ」

「はっ」

 近習は再び下がって行った。

 道雪は、それでもやはり、龍造寺の動向に対する懸念を捨てきれずにいた。

「あの肥満の化け物(龍造寺隆信)め……。奴の心が量りがたい……。杞憂きゆうであればよいが……」

「……ご自分の予測に誤りがある……と?」

 弥十郎は、蝶者の報告から確かに龍造寺方の動きが妙だ、との情報を得ていた。だが、この老将の直感を信用していたため少し楽観していた。

「わしは、甘かったかな?」

「いえ……。恥じるべきは、わたくしでございます」

 戦になるかもしれない。

 しばらくして、誾千代があらわれた。

 刈安で染められた淡黄蘖うすきはだの小袖。そのうえに薄紫の薄絹うすぎぬまれた打掛うちかけを羽織っている。その立ち姿は楚々として美しい。家臣らの目を引くものだった。

「遅かったではないか」

「申し訳ございません。お父様とうさま

 誾千代は、彼女のためにしつらえられた席に着座した。それは道雪の隣りにあった。脇息きょうそくには手をおかず、打掛けのおくみを軽くつかんでいる。鳶色の虹彩は、まっすぐに舞台に向けられていた。

「そなたの婿となる男が決まりそうだぞ」

「……左様、でございますか……」

「相手の名を聞かんのか?」

「……聞いて、どうなるのです?」

 誾千代は少し声を張った。おくみをつかむ両手に自然と力が入る。

「ふむ。……理屈じゃな」

 誾千代の瞳は父との会話の間中もずっと、足をすりながら動く猿楽師の姿を見続けていた。

 そして、猿楽の演目が終わった。

 その役者たちは客席の道雪たち戸次家主従に深く一礼し、脇へと下がって行く。

 道雪は娘の横顔を見た。薄雲に隠れている月明かりに照らされて、ほのかに白い。

一差ひとさしし舞わぬか?」

「もし……。本当にお望みなのでしたら……」

 誾千代は座を離れ静かに舞台にのぼって行った。

 舞台の両端にある松明が一時消される。


 ―――― しばらくして ――――


 再び火がともされた。

 そこには扇子をもって片膝をつき、背筋を伸ばして年寄おとなたちを真っ直ぐ見つめる少女の姿があった。

 細いしなやかな腕を前方に上げながら、ゆっくりと扇子を広げる。

 先ほどの猿楽とは打って変わって物静かな曲調となった。笛の音は穏やかに、つづみおとも抑えられる。

 誾千代の舞は世に広まっているような平凡な曲舞くせまいではなく、娘の男子化を怖れた道雪が、猿楽師に命じて徹底的に女らしさを追求させてつくらせたものである。

 強いて言えば、唐の国の美姫びきのするそれに、すこし似ていた。

 それでも、誾千代本来の凛々しさが残っている。それが彼女の舞姿をよりいっそう引き立てた。

(……あぁ……)

 忠三郎は少女の舞いに酔いしれた。心の中に彼女の夫となる男に対する敵愾心てきがいしんが生まれていた。

 家臣たちの前でこの舞を披露するのは初めてだった。

 舞台の上で繰り広げられる舞はたおやかであった。ゆったりとした笛の音色にあわせて少女の舞はつづく。

 誾千代は男たちに舞を披露しながら、母のことを想っていた。母の仁志は、前夫との間に子までなしながら、何の疑問ももたずに父道雪の継室となった。誾千代は、幼いときからそんな母の生き方に強い疑問をもっていた。無論、父や男たちの身侭みままな欲求は論外であるが、母のもつ女の従順さに対する憎悪と、女を物としてあつかう男たちへの反発が、誾千代の人格に影を落としていた。

和尚わじょう……。わたしは、あおいの上となるのか? それとも、運命さだめあらがえるのか?)

 少女の細い身体が優雅にまわる。打掛が、風をびたようにはらりとなびいた。

 左手に持っている扇子をゆっくりと返して首を左へ傾けながら、扇子を持つ細い左腕をゆっくりと前方に送る。そして、春の名残を惜しむかのように傾けていた顔を月に向けた。

 顎を少し上げ、月を見つめる姿はどこか哀しげだった。

 ふたたびたおやかに旋転する。

 月が淡雲たんうんからその姿をあらわした。

 煌煌と照らす月明かりのもと、純白の足袋たびを起点としたゆるやかな旋転はつづいている。彼女の想いを一人残して。

 客席へ流した瞳が弥十郎の視線と一瞬重なった。

(ほう……)

 弥十郎は、感心した。この舞を見るのは初めてだったのである。

 散る桜とりなす舞はどこかはかなげで、そのまま淡雪のように消えてしまいそうだった。

(……老師……。わたしは……)

 知らぬまに、誾千代の舞に熱がこもっていた。白居易の詩が心に浮かび、口ずさみながら、激情が少女を突き動かし、舞にも自然と激しさがくわわる。

綠衣りょくい監使のかんしきゅうもん宮門をまもる

 ひとたび閉上じょうように陽多とざされてより少春いくばくのはるぞ

 玄宗げんそうの末歳まっさいはじめて選入えらばれている

 入時いりしときは十六じゅうろく今六十いまはろくじゅう 

 同時どうじに采擇さいたくす百餘人ひゃくよにん

 零落れいらくして年深としふかし殘此身このみをざんす

 おもうむかし吞悲かなしみをのみて別親族しんぞくにわかれ

 ふされて入車中しゃちゅうにいれども不敎哭こくせしめず

 皆云みないう入内うちにいれば便すなわち承恩おんをうくと

 かおは芙蓉ふようににてむねは似玉ぎょくににたり

 いまだくんのう君王のめんをみるをうる見面をいれざるに

 すでにようひ楊妃にはるかに遥側目そくもくせらる

 ねたみてひそかに潛配じょうよう上陽宮きゅうにはいせしめ

 一生いっしょうついに向空房くうぼうに宿やどる

 あきのよるはながし

 夜長よるながくして無寐いぬるなくてん不明めいならず

 耿耿こうこうたる殘燈ざんとう背壁影かべにそむくかげ

 蕭蕭しょうしょうたる暗雨あんう打窻聲まどをうつこえ

 春日遲はるのひはおそし

 日遲ひおそくして獨坐ひとりざし天難暮てんくれがたし

 宮鶯きゅうおうは百囀ひゃくたびさえずるも愁厭聞うれえてきくをいとい

 梁燕りょうえんは雙棲ならびすむも老休妒おいてねたむをやむ

 鶯歸うぐいすはかえり燕去つばめはさりてとこしえに悄然しょうぜん

 春往はるゆき秋來あききたりて不記年としをしるさず

 ただ向深宮しんきゅうに望明月めいげつをのぞむ

 東西とうざい四五百しごひゃっかい迴圓まどかなり

 今日こんにち宮中きゅうちゅう年最老としもっともおゆ

 大家たいかははるかに尚書たまわるしょうしょのごう

 小頭しょうとうの鞋履あいりせまき衣裳いしょう

 靑黛せいたい點眉まゆにてんず眉細長まゆはほそくながし

 外人がいじん不見はみずみれば應笑まさにわらうべし――天寶てんぽうの末年まつねんの時世じせいのよそおい――」

 唐の玄宗の頃、中国全土から美女を集めるための専門の吏がいた。花鳥使という。この詞は、そうして宮殿に囚われ、一生を終わらせた、宮女の悲しみをうたったものである。

 嫋やかな舞を続けながら、時を超えて、彼女の魂魄がのり移ったかのように、切れ長の瞳に輝きと鋭さが宿る。

 誾千代の胸に宮女の悲しみがかさなる。月影に映える姿は、花のまわりで舞っている蝶さながらに可憐であった。

 居並ぶ男たちは彼女の舞に陶酔している。

 舞ながら誾千代は、自身がしょせん籠の鳥であることを思い知らされていた。男たちに対する憎悪が湧きあがり、そのような男たちのなすがままになった母への怒りが全身の血を奔流させた。しかし、その想いが舞に表れることはなかった。乱世を城督として生き、培われた精神力によって、感情が外界へ表出するのをおさえていた。

 そして、舞は終焉を迎えた。

 誾千代は閉じた扇子を手前において片膝をつき、群臣ぐんしんを真っ直ぐ見つめている。

 黒曜石のような瞳が凛然りんぜんと輝いていた。

 きゃしゃな両腕で打掛のたもとを大きくひるがえした誾千代の瞳は、眼前の男たちに対して挑戦的な色をびていた。

「これにて終幕とさせてもらう!」

 誾千代は声を強く張った。

(わたしは、母のようにはならない。……男の脇を飾るだけの人形になど……なるものかっ!)

 夜は、深々と更けていく。

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