第6話 胡蝶の舞
舞台の向かいにある板敷の間の奧には大きな松の木が描かれている。その枝の蒼は、右から左へと力強く伸びていた。
「例の話は、どうなっている?」
「……ある人物に一任してございます」
道雪の斜め後ろに座っている弥十郎が答えた。
「信頼できる者なのか?」
「ええ……。そう、思っています」
猿楽師の足運びは遅々として遅い。
道雪の背後には、弥十郎ら
「誾千代は戻ったか?」
道雪が近習に聞いた。
「はっ。先ほど
「
「はっ」
その近習は下がっていった。
誾千代とともに城に戻っていた
「弥十郎、秋月らの動きは……?」
「順調です」
「結構だ。……ふっふっふっ……だが。ちっ」
道雪は舌を打った。猿楽師の
「誾千代はまだか?」
「
「わかった……。下がれ」
「はっ」
近習は再び下がって行った。
道雪は、それでもやはり、龍造寺の動向に対する懸念を捨てきれずにいた。
「あの肥満の化け物(龍造寺隆信)め……。奴の心が量りがたい……。
「……ご自分の予測に誤りがある……と?」
弥十郎は、蝶者の報告から確かに龍造寺方の動きが妙だ、との情報を得ていた。だが、この老将の直感を信用していたため少し楽観していた。
「わしは、甘かったかな?」
「いえ……。恥じるべきは、わたくしでございます」
戦になるかもしれない。
しばらくして、誾千代があらわれた。
刈安で染められた
「遅かったではないか」
「申し訳ございません。お
誾千代は、彼女のために
「そなたの婿となる男が決まりそうだぞ」
「……左様、でございますか……」
「相手の名を聞かんのか?」
「……聞いて、どうなるのです?」
誾千代は少し声を張った。
「ふむ。……理屈じゃな」
誾千代の瞳は父との会話の間中もずっと、足をすりながら動く猿楽師の姿を見続けていた。
そして、猿楽の演目が終わった。
その役者たちは客席の道雪たち戸次家主従に深く一礼し、脇へと下がって行く。
道雪は娘の横顔を見た。薄雲に隠れている月明かりに照らされて、ほのかに白い。
「
「もし……。本当にお望みなのでしたら……」
誾千代は座を離れ静かに舞台に
舞台の両端にある松明が一時消される。
―――― しばらくして ――――
再び火が
そこには扇子をもって片膝をつき、背筋を伸ばして
細いしなやかな腕を前方に上げながら、ゆっくりと扇子を広げる。
先ほどの猿楽とは打って変わって物静かな曲調となった。笛の音は穏やかに、
誾千代の舞は世に広まっているような平凡な
強いて言えば、唐の国の
それでも、誾千代本来の凛々しさが残っている。それが彼女の舞姿をよりいっそう引き立てた。
(……あぁ……)
忠三郎は少女の舞いに酔いしれた。心の中に彼女の夫となる男に対する
家臣たちの前でこの舞を披露するのは初めてだった。
舞台の上で繰り広げられる舞はたおやかであった。ゆったりとした笛の音色にあわせて少女の舞はつづく。
誾千代は男たちに舞を披露しながら、母のことを想っていた。母の仁志は、前夫との間に子までなしながら、何の疑問ももたずに父道雪の継室となった。誾千代は、幼いときからそんな母の生き方に強い疑問をもっていた。無論、父や男たちの
(
少女の細い身体が優雅にまわる。打掛が、風を
左手に持っている扇子をゆっくりと返して首を左へ傾けながら、扇子を持つ細い左腕をゆっくりと前方に送る。そして、春の名残を惜しむかのように傾けていた顔を月に向けた。
顎を少し上げ、月を見つめる姿はどこか哀しげだった。
ふたたびたおやかに旋転する。
月が
煌煌と照らす月明かりのもと、純白の
客席へ流した瞳が弥十郎の視線と一瞬重なった。
(ほう……)
弥十郎は、感心した。この舞を見るのは初めてだったのである。
散る桜と
(……老師……。わたしは……)
知らぬまに、誾千代の舞に熱がこもっていた。白居易の詩が心に浮かび、口ずさみながら、激情が少女を突き動かし、舞にも自然と激しさがくわわる。
「
唐の玄宗の頃、中国全土から美女を集めるための専門の吏がいた。花鳥使という。この詞は、そうして宮殿に囚われ、一生を終わらせた、宮女の悲しみをうたったものである。
嫋やかな舞を続けながら、時を超えて、彼女の魂魄がのり移ったかのように、切れ長の瞳に輝きと鋭さが宿る。
誾千代の胸に宮女の悲しみがかさなる。月影に映える姿は、花のまわりで舞っている蝶さながらに可憐であった。
居並ぶ男たちは彼女の舞に陶酔している。
舞ながら誾千代は、自身がしょせん籠の鳥であることを思い知らされていた。男たちに対する憎悪が湧きあがり、そのような男たちのなすがままになった母への怒りが全身の血を奔流させた。しかし、その想いが舞に表れることはなかった。乱世を城督として生き、培われた精神力によって、感情が外界へ表出するのをおさえていた。
そして、舞は終焉を迎えた。
誾千代は閉じた扇子を手前において片膝をつき、
黒曜石のような瞳が
きゃしゃな両腕で打掛の
「これにて終幕とさせてもらう!」
誾千代は声を強く張った。
(わたしは、母のようにはならない。……男の脇を飾るだけの人形になど……なるものかっ!)
夜は、深々と更けていく。
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