滝沢紺が死んだ日

宮崎笑子

滝沢紺が死んだ日

 滝沢たきざわこんの葬儀は、それはそれは派手に執り行われた。

 極道者の兄・はなだによって、まるで組長かそれに近しい重鎮の葬式であるかのごとく、盛大に、しめやかに。

 滝沢紺の遺骸は焼け爛れ、もはや見ただけでは彼であると分からない。DNA鑑定をしてやっと「そう」だと分かる。

 縹は多くの部下を抱える身分であり、強い男である。泣き言や愚痴はおろかほんのわずかな弱音ですら、吐いたところを見た者はいなかった。

 過去形。


「あああああ!」


 唯一の肉親である紺の葬儀で、彼が好きだったスイートピーを棺からあふれるほどに敷き詰めた。

 棺の前で、縹は膝を床につき泣き叫び、棺に縋りつき泣き喚き、出棺の際には葬儀屋の者を殴らんばかりの勢いで棺をどうにか霊柩車に乗せぬよう奪おうとまでした。


「俺の紺を! 返してくれ!」


 無様なまでに咽ぶ男に、部下たちは同情を越していっそ困惑すら覚えた。

 返してくれ、返してくれ、そればかり喉が焼けて血が滲むほど叫んだ挙句、縹はその巨躯を部下数名に押さえつけられて、葬儀屋はどうにかこうにか出棺の儀を終え車は火葬場に向かった。

 違う車で火葬場に向かう車の後部座席で、縹は魂が抜けたように悄然と座り込んでいた。

 両わきを部下に固められ、変な気を起こさないように見張られている。

 すっかり、骨だけになった紺を見て、縹は枯れ果てたと思われた涙を一粒零し、箸で、骨壺に収めるためにいくつか骨を拾った。最後に、喉仏の骨を拾おうとした。

 震える手で操られる巨大な箸にそんな器用な真似ができるはずもなく、小さな喉仏の骨は、二本の棒の間をすり抜けて床に落ちて、割れた。


 ◆


 とにかく敵の多い男だった、滝沢縹という男は。

 大学生の頃、両親が多額の借金を抱えて自殺、借金を拵えた相手が悪く、つまり闇金だったため、学校や弁護士に相談する前に、金貸しのバックについていた男たちに少し乱暴に言いくるめられ、縹は大学を中退してそちらの道を選んだ。

 少し乱暴、の中では当時小学生だった弟・紺への暴力をほのめかされたこともあり、縹の中では、自分がこの男たちに逆らえばいたいけな弟の身が危ういのだという認識が築かれた。

 どんな汚れ仕事もやった。鉄砲玉のようなこともしたし、グレーどころか真っ黒い仕事も何個も請け負った。

 その甲斐あって当時の若頭には目をかけられ、成人する頃にはそこそこの地位につけていた。


「にいちゃん、また怪我したの?」


 中学生になった紺は、何も知らないこどもではなかった。

 兄が両親の遺した借金のため、そして自分のために、悪事に手を染めていることはもちろん分かっていた。

 当然、やめてほしかった。いつ兄が物言わぬ遺骸となって帰宅するかもしれぬ。そんな危機感に怯える日々を過ごすのは、嫌だった。

 危険な仕事をこなして帰ってきた兄には、決まってどこかしら負傷の跡がある。その怪我を案じながら、紺はただ毎日兄の無事だけを祈っていた。

 ふたりだけの、きょうだいだった。


「紺」

「おまえはちゃんと大学を卒業しろ」

「おまえは道を踏み外すな」

「にいちゃんが、絶対に守ってやるからな」


 紺。紺、紺。

 甘やかすように名を呼ぶ兄の声が好きだった。ふたりだけのきょうだいで、反抗期にかまける暇もなく、紺はいつの間にか、高校を卒業しようとしていた。縹は、二十八歳になっていた。

 鉄砲玉に使うには惜しいと、上司に思わせる功績を立てていて、縹は、かつての自分のような境遇の部下を抱えるようになった。

 彼らに、縹は厳しくも優しく当たった。当時の自分を重ね合わせるように。

 望んでこの世界に入ってきた者もいれば、縹のようにどうしようもなかった者もいた。

 紺と似たような年恰好の若者だっていた。

 だから縹は、こんな場所でも彼らをしっかりと人間らしく生かしてやりたいと、決して無駄で乱暴な使い方はしなかった。

 縹には敵が多かった。

 若くして上層部のお気に入りとなったら、彼のことを気に食わぬ輩も出てくる。

 組のために立派な功績を残せば、敵対する勢力からも煙たがられる。

 縹には敵が多かった。

 そして矛先はいつしか、無力な紺に向いた。


 大きな仕事を終えて帰ってきた縹を迎えたのは、紺の笑顔ではなく、部下の沈痛な面持ちだった。


 ◆


 強い縹が泣き崩れ、とうとう疲れ果てて声も出なくなり、喪主を務めた葬儀でろくに使い物にならなくなっていたのを見ていた部下たちは、ひそひそと、悲しげな表情で囁き合った。


「兄貴は、紺さんをほんとに大事にしてらした」

「あの人がいなかったら俺たちだってどんな扱いを受けていたか」

「最後に見るのがあんなぐちゃぐちゃの顔だなんて可哀想に」

「もはや顔か足かも分からないくらいだった」


 部下たちにとっても、縹が自分たちを弟のように扱うきっかけとなっていた紺の存在は大きく、当然彼に護衛はついていた。

 当日護衛についていた部下の男が一瞬目を離した隙に、紺は連れ去られ亡き者となった。

 彼は、死んでも死に切れないと、贖っても贖い切れないと、縹にみずからの死で詫びようとした。

 葬儀を終えて三日後、少し落ち着いた縹が、目の縁を赤く染めた悲愴な面持ちで彼を止めた。


「おまえが死んだところで、紺は帰ってくるのか?」

「紺はおまえの死を望んじゃいねえだろ」

「自分の命を紺に委ねるな」

「一生その罪を背負って生きろ」


 ◆◆◆


「紺、死んじゃったな」


 男があっけらかんと言う。縹は、目を伏せて少し悲しげに笑みを浮かべ、首肯した。


「そうだな」


 羽田空港の国際線ターミナルで、経由地であるドバイ行きの飛行機を待っていた男は、窓から見える滑走路の様子を見ながら、迷彩柄のキャップを深くかぶり直した。


「紺の兄貴は、乱暴で口が悪くて、がさつで気に入らないことがあるとすぐ手が出て……」

「おい」

「ハハハ、そんで、目玉焼きすらひとりでつくれない奴なんだよなァ」


 男がけらけらと笑いながら、縹をからかう。視線は、今にも離陸しようとしている飛行機に釘付けだ。


「家事はからきしダメでさ、だからいっつも紺がメシをつくって、洗濯して掃除して、あいつ大変そうだった」

「悪かったな、からきしダメで」

「別に俺に関係ないから、いいけど」

「そうかよ」


 滑走路を速度を上げて飛び立っていく白い機体を、上空に消えるまで目で追って、男はやっと縹のほうを振り向く。

 男を見るには逆光になってしまう縹が目を細めると、男もにんまりと目を三日月型に歪ませた。


「だから、紺がいなくなって兄貴がちゃんと生活していけんのか、天国で心配してると思うんだよな」

「できるわ、俺を舐めんなボケ」

「ほんとか~? 昨日も目覚まし自分で止めて寝坊したとか言ってたじゃん」

「それは……」


 分が悪くなり、縹は言葉を詰まらせる。にんまりと笑った男は、緩んだ頬を隠すように更にキャップを深くかぶった。


「紺がいないとなんにもできないようなダメダメ兄貴だったから、心配だな~」

「……」

「イギリスって雨ばっかり降るんだろ? 俺晴れが好きだからちょっとな~」

「……」

「しかも英語で生活するの、不安なんだよなァ」


 だって高校の授業で勉強しただけの言語だぜ。と笑う男に、縹は一歩近づいてキャップの上にぽんと手を置いた。


「おまえなら平気だろ、どこでもやってける」

「そうかなあ……すぐノイローゼになって日本が恋しくなったりして」

「そうなっても、二度と戻ってくんな」

「ふは」


 ひでえ、と笑った男が、もう一度滑走路のほうに身体ごと向き直り、今まさに着陸した様子の飛行機が乗客を降ろそうと準備をしているさまを見て、くるりと縹のほうを振り向いた。

 静かに凪いだ瞳だが、どこかぎらぎらと燃えるような熱を宿した、強い瞳だ。

 縹は、心臓の深いところが、ちりちりと焼けるような心地になる。


「あのさ、最後に一個だけお願いがある」

「なんだよ」

「最後にもう一回だけ、にいちゃんって呼んでもいい?」

「……もう呼んでるわ、ボケ」

「ハハッ、そっか、そーだね」


 縹は敵の多い男だ。

 いつ紺がその恨みの標的となるやも分からない。

 だから縹は紺を殺したのだ。


「今までありがとう。……にいちゃん、行ってきます!」

「おう、達者でな」


 滝沢紺という男は、もうどこにもいない。


 ◆了

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