第五話 決壊
【5/18(Wed) 15:10】
「じゃあ今日の練習はこれで終わり。楽譜とか動画とかでみんな歌詞覚えてきてなー」
「アルトがちょっと音量足りないから、明日からどんどん鍛えていこー」
五、六限の総合の時間は合唱コン練習に充てられていた。ホームルームもその内で済ませてしまっているので、チャイムが鳴ると共に練習は切り上げられ、後ろに下げた机を元の状態に戻してから解散となった。颯爽と部活に向けて駆けていく運動部の男女快活さが眩しい。近くの席の友人に別れを告げて教室を出る。別に不自由はない。だけど、少しだけクラスは窮屈だ。
廊下は有象無象の生徒に満ちている。学年も、クラスも、部活もバラバラ。そんな中ひとりでいるのは間違いなく孤独ではあるけれど、誰も茜を気にする人間はいない。だから廊下は居心地がいい。
それでも今日の茜の足取りは重かった。水曜の放課後は、共同制作を進める日だ。
気づけば美術室のある階層より一つ下まで階段を降りてしまっていた。特別棟に向かう渡り廊下をのろのろと進む。先に生物室や物理室くらいしかないこの道を使う人間は少なく、放課後の喧騒は途端に遠のいていった。
脳裏に過るのは先週の光景。もしかしたら、今日も文化室にいるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていたから、足はこの道を選んだのだろうか。
「失礼します」
「⋯⋯おっ。こんにちは」
この空間だけが学校から切り離されたかのような、そんな錯覚を与えてくる静寂が降りた文化室。いつもと変わらない委員長席に、その人物はやはりいた。
翔太は机に裁縫道具を広げ、桃色の可愛らしい靴下を縫っていた。一瞬の静止のあと、彼は口を開く。
「ごめん、みっともないところ見せてる」
「あ、いえ。それは全然っ」
僅かばかり上擦った声に赤面したが、翔太はまるで意に介さず作業に戻った。指先部分でしきりに布地を縫い合わせているのをみるに、空いてしまった穴を塞いでいるのだろう。既に修繕を終えたのだろうか、彼には不釣り合いで色とりどりな布の山が机の隅に形成されていた。
いつもの席に腰を降ろす。翔太のななめ左手、一メートルの距離。近くでみるとその手際は男子にしては中々のものだった。
口の開閉を数度繰り返して思考を逡巡させる。沈黙は苦痛ではなかったが、意を決して茜は声を紡いだ。
「それ、先輩の……じゃないですよね?」
「ん?」
間の抜けた疑問符を浮かべ、茜の顔と靴下を交互に見やる。意図を理解すると翔太は小さく吹き出した。
「妹の。流石にこんな女の子っぽいのは履かない」
「渡部先輩、妹さんがいたんですね」
「小四の元気盛りがね」
縫い終えたのか、針の周りに糸を三周巻き付けさせ玉結びをした。余らされた白い刺繍糸は断ち切られる。針に残った長さは五センチ程しかなく、これでは続けて縫うことができない。案の定、翔太は用済みとなった糸を抜き取って捨てた。
「量多いですね。ずっとやってたんですか?」
「昼休みと、いまちょっとね。あいつフットサルとか休み時間とかで頻繁に動き回るからすぐ穴開けるんだよなぁ」
「フットサル……?」
「サッカーって捉えてくれていいよ」
穴が塞がった靴下を片付けると今度はバックから紅白帽を取り出した。小学生が体育の時間に着用する、懐古心をくすぐる品だ。やんちゃな男子が無理な被り方で国民的ヒーローの真似をしていたのが印象的だった。
「先輩もサッカーを?」
「いや……でもまぁ、似たようことはやってたか。よく休日とか放課後、練習に付き合わされるよ」
「妹さんに好かれてるんですね」
「んん、どうだろう」
苦笑し、手元のヨレヨレな帽子に視線を落とす。よく見るとそれには顎紐が付いていなかった。そこを修繕するつもりなのだろう。
茜の小学校では休み時間などで外で遊ぶ際、帽子の着用が義務づけられていた。外に行くことなど授業以外ではなかったため、六年経過しても茜のものは新品然としていたけれど。
「じゃなきゃ自分の靴下なんか、兄に渡したりしませんよ」
「秋間さんは兄弟いる?」
「いえ、一人っ子ですけど……なんとなく」
唐突に振られた質問に判然としない返答をしてしまう。一方の翔太は茜の返事など気にしていない様子だったが、作業の手を止めてしまっていた。
「兄妹ねぇ」
掌に握られた新品のゴムが力なく項垂れている。沙栄子のと比べて骨ばっている翔太の手は、スポーツをやっていた人間のもののように見えた。
一時の静寂に違和感を感じたのか、顔を上げた翔太は当たり障りのない問いを繰り出す。
「やっぱり欲しかったりする? 兄弟姉妹」
「ええと、下の子が欲しかったです。もし弟か妹がいてくれたら、もう少しは皆さんみたいなしっかりした人になれたかなぁ⋯⋯なんて」
「そうかな。秋間さんこそ十分にしっかり者でしょ」
「いえいえっ、私なんて全然⋯⋯」
この間の書道課題だって、期限ギリギリでしたし。そう続けようとして些か話し過ぎたと思い込み、自分の中の何物かが自制心を働かせてしまった。
口にした言葉を自ら耳にして、頬に仄かな熱が灯る。自身のことを話すのはちょっとだけ恥ずかしい。けれど先日の香苗みたいな、茜の知らないあなたのことを、もっと深く知ってみたい。
翔太が持つ穴にも似た心の深層に踏み込むためには、その対価を、ここで払わなければならない気がした。
「先輩方はみんなそうです。あずさ先輩とか自信に満ちていて、凄くかっこいいです。生徒総会の時は驚きましたけど⋯⋯あんなにハキハキできるなんて、尊敬です」
衆前でもあのように発言できればと願わずにはいられない。大人数でなくてもいい。せめて友達とか、クラスメイトの前でくらい。
翔太は静かに、茜の語りを待ってくれていた。
「香苗先輩は理性的で教え方も丁寧ですし、文香先輩も生徒会とか三つも掛け持ちしてるのに全部並立してて。三浦先輩は気さくでいつも盛り上げてくれますし、こんな個性の強いメンバーをまとめてる渡部先輩は、凄いです」
大したことのない文言の羅列だったが、後半になるに連れて耳が赤らんで、気がつけば視線は下に落ちてしまっていた。自身の声がか細くなっていくのが、身体の内から知覚できる。
「色んな人の良いところが、私には眩しくて、羨ましいです」
最後の声は、届いただろうか。こんな恥ずかしい思いをするなら、端から喋らなければ良かった。そんな考えを起こしてしまう自分自身が、やはり嫌いで仕方がない。
総務の皆の。いや、身の回りの人間が持つ何かが、茜にはひたすら羨ましく映るのだ。
あなたたちの『当たり前』に、私はずっと焦がれ続けて止まない――。
「今くらいバラバラな方が釣り合い取れててちょうど良いよ、俺としては。それに秋間さんみたいな後輩が近くで見ていてくれているから、俺たちはちゃんと『先輩』をやれているんだ」
顔を俯けて黙りこくってしまった茜に、翔太は相変わらずの調子で続けた。顔を上げると彼は、縫い終えたばかりの紅白帽をこちらに差し出していた。反射的にそれを受け取ってしまう。
「ごめん、ちょっとそれ被ってくれない? 紐の強さどうだろうか」
「えっ⋯⋯そうですね」
翔太は「一応洗ってはあるから」と付け加えた。帽子自体、被るのは何年ぶりだろう。先程の羞恥心なんて忘れて、茜はその感触を懐かしんでいた。
サイズは少しばかり密着が過ぎるくらいで、茜でも奥まで被り切ることができた。小学四年生の頭のサイズなんて、いまと大差ないのだろうか。ゴム紐も留めてみたが、下顎が締められ少々喋り辛くなる程度で苦しくなる訳じゃない。
「丁度良さげ?」
「特に問題は⋯⋯」
「じゃいまのままでいっか」
常時表情の乏しい彼が、この時だけはうっすらと口角を緩めた。
「はい」
優しく帽子を取り外して、乱れてしまった髪を整えつつ翔太に手渡す。
沙栄子の輪郭をなぞるように残ったゴム紐の感触が、いまは少しだけ名残惜しかった。よし、とゴム紐を引っ張り翔太は最終確認をする。その手つきを、意味もなくただ目で追っていた。
「⋯⋯さっきの続き」
「え?」
「うちは、好かれてはいると思うよ。家に帰ったらこんなゆったりと作業できない」
「今日はありがとう」と告げた翔太の感謝は、一体何に向けられていたのだろう。視界に映った帽子の内側は、真っ赤な布地に満ちていた。
【15:38】
紅白帽が最後だったらしい翔太は散らかした机周りを整え、「じゃまた月曜日」と言って昇降口に消えていった。何か熱にも似た感覚がずっと体内に籠っていて頭が働かない。数秒してようやく自分の用事を思い出した茜は、美術室へと足早に向かった。
そして、ドアを開いて自分の行いを後悔した。
「あーっ、茜ちゃん来た!」
「お疲れー。仕事大変だった?」
もう放課後になって三十分近く経っている。てっきりふたりで制作を始めているものだと思っていた。絵筆やブラシ、絵の具、その他必要な小物がキャンバス周りに置かれている。茜が来たら直ぐに取り掛かれるように待っていてくれていたのだった。
「始めて⋯⋯なかったの?」
「そりゃ勿論。三人いなきゃ共同制作の意味ないでしょ」
「ほらー、早くつなぎ着よ? 四時には健一くん行っちゃうから」
健一が途中でバレー部の方に行くことなんて知っているはずだった。一週間の内に制作に掛けられる時間が少ないなんて、分かっていたはずだった。
菜々花が茜のつなぎを手渡してきた。余程時間を持て余していたのだろう。少しだけ絵具汚れが付着した黒い作業着は、菜々花の手によって綺麗に折り畳まれていた。
「着替えて、来るね⋯⋯」
「はーい」
茜が来ることを信じていた。そんなふたりの信頼を、裏切ってしまった。トイレに向かう茜の背を、ふたりはまだ温かく見送ってくれている。
このまま下校時刻になるまで個室に閉じ籠っていたかった。けれどこれ以上は、もう――。
近くに、確かに存在していた大切な友人たちを蔑ろにしてまで、私は何を求めていたのだろう。翔太のことを深く知ろうとして、結局何を得た。
また大きく、自己嫌悪が茜を蝕んだ。
【15:42】
【16:36】
「恥ずかしい」
下校途中、何度もそう口にしてしまう。何度も今日がフラッシュバックしてしまう。恥ずかしい、恥ずかしい。
それは今日に限ったことではなかった。何かのきっかけで記憶のパンドラに閉じ込めた恥ずべき思い出が想起され、何年も遡ってまで自分を痛めつける。今日の出来事もその一つとして収納され、ある日また思い返したりして恥ずかしがるのだろう。例えば、共同制作が完成した時とか。
「恥ずかしい⋯⋯っ」
自分が嫌いだ。何も持ってないくせに、大切な友達の時間を奪って。
自分が嫌いだ。思っていることの半分も、相手に伝えられない情けない自分が。
自分が嫌いだ。誇れるものは何もない。大切な人の期待に応えられない自分が。
自己嫌悪は濁流の如く流れてくる。半紙に水を垂らしたら、色は残らないが紙面は歪んでしまって、もう元の平坦な状態には戻ることはない。いまの茜はそんな状態だ。まだ何も書かれていないのに、ふやけてしまった和紙はなんと情けないことか。
自分は、『いい子』なんかじゃ決してない。
「死にたい」
死にたいわけじゃない。そんな気は毛頭ない。
「死にたい⋯⋯っ!」
けれどもそれは、蛇口から水が流れるように溢れ出して止まない。
「ッ……!」
周囲に人の気配は感じた途端、口は閉ざされた。言っている内容とは裏腹に、冷静な自分がどこかにいる。そんな自分が嫌いで堪らない。自己嫌悪が止まらない。
けれど、蛇口を捻るには少しだけ遅かった。
「茜ちゃん……?」
振り返る速度は、反射と言っても差し障りないほどに速かった。視界に飛び込んできたのは白と黒のコントラスト。それは、弓道着姿の文香だった。
もう茜の中身は、不透明色をパレットで練り合わせたようにぐちゃぐちゃだった。感情が入り乱れて、もう自分ひとりでは収集がつけられない。
恥ずかしさに駆られて咄嗟に足が動き出す。逃げる。文香から。それもまた遅くて、文香に腕を掴まれ停止さてしまった。
再び、二人の視線がかち合う。
「あ……」
無意識的に動いていたのは文香も同じだったようで、自身の行動を飲み込めず唖然とした面持ちでいた。高い位置で括ったクセ毛のポニーテールがクリクリと振れる。「ごめん」と離れた文香の手の感触が、茜の手首にじんわりと残っていた。
「い、いえ……こちらこそすみません、先輩」
「ううん! 突然ごめんね! えっと⋯⋯」
「あの……聴いてしまいましたか?」
「うん……」
お互いにアスファルトに視線を落とす。会話によって気恥ずかしさは少し収まったが、いたたまれない気持ちは変わらない。早く家に帰りたい。もう、寝たい。
そんな思いに支配されて口も動かせないでいると、文香の足元に何かが滴り落ちて、地面を僅かばかり湿らせた。
「⋯⋯たい」
「えっ⋯⋯」
「私も、死にたいっ!!」
文香は号泣していた。小さな体躯を更に縮こまらせて、彼女は握り締めた拳を自身の太ももに何度も打ちつける。事態が分からず、茜はただ混乱するしかない。そんな茜に今度は抱き着いて、文香は胸の中で大きく声を張り上げた。
「だからっ⋯⋯百草園行こっ⋯⋯!!」
【16:40】
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