第三話 黒点
【5/11(Wed) 16:42】
百草園の展望台。ちょっとだけ気分が沈んだ時にはここに来ることにしている。梅が売りの植物庭園において現在はシーズン外なので、園内には従業員の方々以外に誰もいない。いまだけは茜の特等席だ。
そういえばいつだったか。誰も来ないと高を括って読書に勤しんでいたところに、文香とあずさが現れたことなんてあったっけ。徐に取り出した小説をパラパラと捲りながらそんな思いに耽る。百草園の正面に弓道場は建てられている為、彼女たちは練習の只中であることは容易に把握できた。
文香たちは今日ここに現れない。それでも何気なく振り向いてしまった茜の頬を、温かみを孕み始めた五月の風が撫でつけてきた。もしかしたら会いたいと思っている自分がどこかにいるのかもしれない。口数が少なくなってしまうのは、クラスでも美術室でも、委員会でも大差ないというのに。
「ふぅ」
健一が消えてから現れた繁沢に共同制作の方針を伝え、スパッタリングに使う金網やブラシの手配を済ませた。しかしこれ以上は進められる下準備も見当たらない為、美術部はもう解散となった。それでも何か消化不良感否めなかった茜は真っ直ぐ帰路には着かず現在に至る。
いま読んでいる小説は、学園ものの日常ミステリー。頻繁に現れる知らない語彙に辟易しながらも、スマホの検索エンジンの手助けを借りて読み進めていく。年齢は離れていないのに小説の中の主人公たちは随分と成熟して見えて、少しだけ自分の幼さに嫌気がさす。文字を書くのと同じくらい流暢に喋ることができたなら。なんて思念がずっと渦巻いている。
登場人物のひとりが、不満を露わに舌を鳴らした。そういえば舌打ちなんてしたことがあっただろうか。自分の人生を思い返してみても、そんな場面は一つたりとも浮かびはしない。思い立ったが吉兆、『舌打ち やり方』なんて直球な検索ワードをスマホの画面に打ち込んでみた。
意外にも手順が事細かく解説されていたのでそれに従う。唇を窄め、舌を上顎に密着させて、それから――
「いっ」
頬の奥が小さく痛んだ。自分の体だからよく分かる。これは後々、口内炎になる。
慣れないことはするもんじゃないなと苦笑した。口内炎は面倒だけど嫌いじゃなかった。うまく喋れなくても言い訳ができるから。
「茜ちゃーん。もうあと十分ちょっとですからねー」
「あ、はーい! もう帰ります!」
顔馴染みである松連庵のおばさんスタッフの声を受け、茜は帰宅すべく本を閉じた。小説カバーの布地に描かれた一匹の猫と目が合う。聖蹟桜ヶ丘の雑貨店で買った生地を、茜が裁縫して作ったものだ。その手順は祖母が教えてくれた。
百草園の草木は斜陽を受けてオレンジ色に輝いている。花が咲き乱れていなくても、茜はこの場所が大好きだった。いつでも大切の人の面影に触れることができたから。
「気をつけて帰ってね」
「はい。ありがとうございます」
「それと⋯⋯別に律義に入園料入れてくれなくてもいいのよ?」
「ええっ!? そういう訳にはいきませんよ」
「全く、そういう頑ななところは里子さんによく似たんだから。いい子に育ってくれておばちゃんも嬉しいわ」
「いえいえ⋯⋯」
謙遜もそこそこに別れを告げて、茜は百草園の長い段差を降りていく。石階段の間隔は其々不均等で、同じ歩幅と同じペースで進み続けることができない。それでも何百回と通った道であるため、備え付けの手摺に頼る必要もないけれど。
「⋯⋯いい子」
先程自身に向けられた言葉を反芻する。口にしたところで誰も聞いてないし見ていない。その舌触りは舌打ちや口内炎の感覚以上に、茜には異質に思えて仕方がなかった。
【16:54】
【――――】
「いい子になったねぇ」
記憶の中のその声は、弱弱しくも酷く優しい。幼い頃の茜の傍らには常に祖母の姿があった。
多芸な祖母は、幼少より色々な事を茜に教え与えてくれた。写生や書道、裁縫など。他人より少しだけ胸を張れるものの多くは祖母から教わったもので占めていた。
梅の気配が香る時分に、百草園内の茶室で二人過ごす時間が好きだった。ただ一緒にいるだけで満足だったけれど、何かにつけて愛でてくれた祖母をもっと喜ばせたくて、習い物にも精が出た。
茜はいい子だねと褒めてくれた。小さい頃からずっと。
作品が良い仕上がりになったり、学校のコンクールで表彰されたりする度、いい子になったねと。そう言っては皺だらけの相好を崩して嬉しがってくれた。
たとえ茜の名前を忘れても。
切欠は些細な転倒だった。茜が中学一年生の冬のこと。骨折までは至らなかったが、胸部を軽く打撲した。
八十七歳になる身体は骨粗鬆症を免れない。転倒自体は過去にも多々あり、茜が小学校に通っている間だけでさえ三回の骨折をした。しかし過去に起きた大腿骨の骨折などと比べれば、誰も危機感を抱いていなかった。その変調は確かに、緩やかににじり寄り始める。以来里子の認知症は急加速した。
この家に来てから何年経ったのか。群馬にある実家に帰らなければ。敬三さんはまだ帰らないのか。ここは東京か。あんたたちは誰だっけ。
調子の良し悪しが如実に現れ、不調の際はそんなことを口走るようになっていた。認知症なのだから無理もない。分からないことが増えて、不安で、怖くて、しょうがなかっただけだろう。だとしても、その不安を家族に当たることで晴らそうとするのは止めて欲しかった。大切な人が、大切な人に粗悪な言葉を向けて、それで父母も機嫌を悪くして。そんな負の感情に板挟みにされた茜は、ただ大人しく『いい子』に徹底するしかなかった。
半年以上過ぎたある日の朝、登校の身支度をしている最中に階下から激しい衝突音がした。里子がまた転倒したのだと確信し、階段を駆け下りてみれば案の定、彼女は狭い廊下で仰向けになって嗚咽を漏らしていた。
第二頚椎損傷。即座に病院に運びこまれ入院することとなる。一度は覚悟したものの里子は屈強な回復力を見せ、その四ヶ月後には欠けた骨は最低限固まった。しかし一向に退院することができず、いくつもの病院や施設を回り、もう認知症どころではないほどの憔悴具合となっていた。
秋間家はその間に里子を老人ホームに入居させようと手筈を整える。不幸中の幸いか、骨折した場所が場所なので、早い段階で要介護度4と認定され手続きは順調にすすんだ。三人とも日中は家を空けるのだから、今後はデイサービスだけでは心許ない。いや、きっともうそれ以前に、誰もが精神的限界を迎えていたのだと今になって思う。あんなに大好きだった里子が家にいないことを安堵している自分がいて、それが当時の茜には何よりも不快で堪らなかった。
秋間里子は現在、日野市内にある『高幡苑』という特別養護老人ホームに入居している。一時期は食事もままならず栄養失調状態になることもあった。しかし茜が中学三年生を終える頃には、持ち込んだ果物や和菓子を食べられる程に回復し、その血色は良いものに変わっていった。
「茜はいい子になったねぇ」
時折名前を間違えることはあれど、久しぶりに会う孫の姿を見る度、里子は何度もそう繰り返した。言ったこともすぐ忘れてしまうから、何度も、何度も。
「うん。いい子になったでしょ?」
そう茶化して言い返してみると、「まーたこの子は」なんて嬉しそうに口端を綻ばせた。そんな笑顔を見せられては、また何か大切なものを失っていく感覚に蝕まれる。徐々に、身動きが取れなくなり始めていた。
いつだっただろうか。高幡苑に向かう足取りが重くなったと自覚したのは。
【――――】
【20:16】
ああ、面白かった。この小説の作者は筆が遅い為、シリーズ続編が出るのは何年後になるのだろうかと不安になる。発行日を調べてみたらなんと七年前だった。丁度茜が書道を始めた時期である。食後の休憩はこれくらいにして、今月の書道課題に取り組むことにした。
リビング脇のテーブルはもう茜の作業スペースと化している。硯、筆、下敷き。いずれも書道を始めるに際し、茜が里子から譲り受けたものだ。茜自身が気に入って購入した筆もあるが、その穂先はようやく灰色味が出てきた程度。どれだけの枚数を書けばそれほどに黒くなるのだろうと、毛先の丈が疎らになっている里子の筆を見つめる。染み込んだ墨の香りが懐かしい感情を想起させた。
次に取り出したのは『清源』という月刊誌。群馬に拠点を置く翠流会という書道団体が発行しているものだ。毎月出される課題を半紙に書いて提出し、段位の認定を受ける。幼年から中学三年生までは課題が細かく分かれ、高校生以降は大人と同等に扱われる。毎月十四日消印有効なのでそろそろ提出作品を確定しないとまずい。ちなみに茜は現在二段の人という段位である。人、地、天と三回昇格しなければ上の段に上がれない。
元々里子が地元の縁で始めたものだった。始めたのは六十歳過ぎと遅かったみたいだが、里子は師範資格まで取り終えたようだ。この翠流会に所属している親戚は多いらしく、見えない繋がりに少しだけ気分が高揚してしまう。里子の教えを受けた私が、東京の地で頑張っているぞ。なんて。
「あれ?」
半紙を用意しようとしたものの、ケースには数枚しか残されていない。買い足すのをつい失念していたようだ。
文房四宝をひとつでも欠いては書道は行えない。現在は父が利用している里子の和室に余り物はないだろうかと思い立ち、部屋へ向かう。戸の隙間から光が差し込んでいたので中を確かめてみたら、珍しくも父は物置棚を物色している最中だった。
「何、お父さ⋯⋯わっ」
「茜、丁度いいところに。ちょっと手伝ってくれるか?」
一面に広げられた書道作品。隷書や草書の領域はまだ教養がないため何枚かは読めないが、どれも翠流会の課題として書いたものなのだろうか。一メートル近い長大な和紙はそれだけで存在感がある。
「お父さん何やってるの?」
「せっかくだからおばあちゃんの書を軸装しようと思ってな」
「軸装?」
「老人ホームのレクの一環で、入居者さんたちの作品展示会みたいなのやるらしいんだ。昔作った物でも構わないらしいから良い機会だと思って」
なるほど。一瞬廃棄するつもりなのかと焦ったが、よくよく見渡せば作品は破れないよう丁寧に扱われている。
「依頼すれば二週間くらいで、結構安値でやってくれるみたいだから。茜も選んでくれ。どれがいい?」
「うーん」
恐らくこれは漢文を引用したもの。これは、書体の癖が強すぎてよく分からない。これは⋯⋯なんて親子で四苦八苦していると、茜の身長に少しだけ届かないくらいの長さの書が発掘された。
相変わらず読めないが文字数は四文字と少ない。二文字目と四文字目の形が似ているけれどひょっとして同じ字なのだろうか。一文字目もどこか見覚えがある気がするが、この崩れ方は俗にいう前衛書なのかもしれない。激しい素振りで書いたのだろうと推察されるが、筆蝕は粗雑というわけではなく流麗で伸びやかな印象を与える。字の一部分は紙の外側まで到達していた。
「あー、何だっけなそれ。確か茜が生まれた時に祝いで書いてたような」
「えー! しっかり覚えていてよお父さん」
「悪い悪い、それにする?」
「うん」
「けどこの作品、名前書いてないしなぁ」
「⋯⋯本当だ」
他の書には記されている雅号と落款が見当たらない。もしかしたら父の記憶違いで里子の字ではなく、他の誰かのものかもしれない。
裏面も覗いてみたが、題名らしき記載なども残されていなかった。
「せっかくだから一度おばあちゃんに見せてからにしようか」
「そうだね」
「来週の日曜行くか?」
「⋯⋯うん」
気乗りはあまりしないが、高校に入学して制服を見せに行った時を最後に会えていない。会いたい気持ちは確かにあるはずなのに、どうしてか返事は快いものではなくなってしまった。そんな気も知らない父は、片付けを始まめながら茜に問う。
「そういえば何か用でもあったか?」
「あっそうだよ。半紙余ってないかなぁって」
「さっきの書と同じサイズのやつならあるぞ」
「そんな大きなの、何書けばいいか分かんないよ」
「それもそうだな」
どうやら無いようなので潔く諦める。明日にでも聖蹟の画材屋さんに行って調達しよう。ついでに優花の言う通りに、油絵の具のコーナーを見るのも悪くない。
数枚だけでも練習しようとリビングに戻って来て、硯に墨液を垂らした。洗うのが面倒なので使い切れる分だけ。
毛筆の先端で墨を拾い、陸に何度も何度も撫でつけて全体を湿らせていく。もう目を瞑ってでも行える程に反復した所作だ。背筋を天に向けて伸ばし、胸を張り、半紙の端を文鎮と左手で押さえつける。里子には到底及ばないかもしれないが、茜も幾千枚と練習を重ねて来たんだから。そう自分を鼓舞して、右手を半紙の頭上に移動させた。
紙に垂らした筆は一切の躊躇いもなく、白に黒を沈ませていった。
【20:52】
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