第二話 居場所

【5/11(Wed) 13:37】



「じゃこれから曲が順々に流れるから、ちゃんと歌いたいの三つ選んでね」


 合唱コン委員が進める水曜日の五、六限目。この日の総合は六月上旬に行われる合唱コンクールの曲決めに充てられていた。当日は多摩センターの大ホールを借りて行う模様。五月下旬には中間テストが控えているので、本番なんてあっという間に来てしまうだろう。委員が黒板に曲名を書き記していく。自分の方がちょっとだけ上手いかな、なんて思考は相手に失礼だからすぐに掻き消した。

 合唱コンが終わればすぐに文化祭準備に取り掛からなければならない。黒板前で進行しているあの委員の立ち位置が自分にも回ってくることを思うと、茜は憂鬱でしかたかなかった。いまから恥ずかしさに打ちのめされそうになる。

 あ、良い曲。手元のプリントに目を落とせば、その曲が森山直太朗の虹だと分かった。自然、風、自由。壮大な文言が頻出する合唱曲が多い中、『スニーカー』の一言でその曲はとても身近なものに感じられた。後ろの席の男子たちが「いいんじゃね」と小声で話している。

 放送で流れる合唱曲はいずれも一番だけだ。全部流していては時間が足りないのだろう。十二ある候補はどんどん消化されていった。


「次最後、『決意』。皆ちゃんと二つ決めるんだぞ?」

「ごめん寝てて最初のしか聴いてねぇ」

「お前な!」


 そんな男子たちの応酬を遠くから眺める。同じ歳、同じクラス、そしてこれから同じ歌を唄う仲間だというのに、どうしてここまで別次元の存在に思えてしまうのだろうか。衆前で声量を気にせず友達と盛り上がるなんて、茜にはとてもじゃないができそうにない。そんなことを一々考えてしまうのは、僅かばかりでも焦がれている自分がいるからだろうか。

 決意の歌詞は合唱曲の例に漏れず相変わらず壮大だが、茜好みのメロディだった。歴史を愛し、自然を愛する。そんな大層なことは多分できない。自分に厳しくも、ちょっと怪しいかも。それでも、他人に優しくくらいなら。

 曲は全て終わり、投票の時間となった。茜はちゃんと決めている。最初の『虹』と最後の『決意』だ。


「それでは採決取りまーす。まず『虹』が良い人」


 教室中から聴こえてくる布擦れの音。後ろは見ないで、誰かが挙手したのを確認してから茜は手を上げた。もし手を上げる人が一人もいなければ、他の人気曲に投票するつもりでいた。どうせ一人くらいじゃ結果は変わらないし、他クラスと被ればまた抽選をしなければならない。希望の曲が通る確率は低い。そんな考えだった。

 

「十一番、『いっしょに』」


 思いの他多くのクラスメイトが手を上げた。茜の内に一抹の不安が芽生える。もしかしたら、最後の決意には票が集まらないんじゃないかと。

 気づけば周りに合わせて茜も挙手していた。十八票。

 そして、続く最後の『決意』。茜の心配は杞憂だけでは終わらなかった。

 

「⋯⋯『決意』も十八票か。二十票の『虹』は確定として、第二第三候補を決めなきゃいけないんで決戦投票しまーす」


 えぇーと、声が上がる。一番そう思っているのは紛れもなく茜だった。

 一度『いっしょに』に投票した以上、候補を変えるのはあまりにも不格好だ。茜の席は最前列なので誰に覚えられているか分からない。優柔不断な、意志力のない己を悔いらずにはいられなかった。止む無く茜は、『いっしょに』に票を投じた。



「――じゃ、二番目が『いっしょに』ってことで。月曜の放課後には結果が出て、水曜のこの時間から練習始まるからよろしくお願いしまーす」


 結局全てが裏目に回った。本題はこれからだというのに、何か随分と気疲れしてしまった。退散する合唱コン委員を見送り、教室の端で眺めていた担任教師が呼びかける。


「合唱コン係さんありがとう。次に報告ある委員会はいるか?」

「はい」


 出番だ。意を決して立ち上がり、教卓の傍まで出ていく。肌に刺さる視線が痛くて堪らない。もうひとりの文化祭実行委員である男子生徒、畑中はたなかもその横に並んだ。単身で前に出ないだけ心強い。美術部の優一と同じくバレーボール部に所属しているらしい畑中だが、身長はそれほど高くなく平均程度で細身。茜も彼もどちらも、ジャンケンに負けて文化祭実行委員を任せられた身であった。

 

「文化祭実行委員からプリントの配布です。先生、配るの手伝ってもらえます?」

「おう」


 茜が話を切り出せないのを見兼ねてか、畑中はさほどの躊躇いもなく進行を始めた。一昨日の委員会で翔太が用意した印刷物を担任と分け合って列に配っていく。生徒総会の内容よりも踏み込んだ、文化祭本番までの細かいスケージュールや注意事項などが記載されているものだ。

 そんな中、ひとりの男子生徒が声を発した。


「それよか生徒総会で揉めてたけど大丈夫だったかよー?」


 プリントを回している所為もあるが、その発言で教室内はより一層騒がしくなった。昼会議の様子を知らない畑中も、茜に視線を送る。


「あっ、大丈夫です。昼休みには仲良くふざけ合って会議してましたので⋯⋯」


 どっ、と笑いが起こった。「なんだー」や、「あそこどういう関係だよ」などと。別に嘘は言っていないけれど、解決はされてないような気もする。ともあれ皆の受け答えができたことに茜は胸を撫で下ろした。

 あの騒動が無くとも、やはり片居木あずさという存在は人目を引くのだろう。縁遠い一年生にもここまで周知されているとは思わなかった。昼会議という場で自分みたいな存在が関わり合えているのは、もしかしたら凄い幸運なことなのではと浮ついてしまう。

 戻って来た畑中が「良かった」と言ってくれた。そのまま彼は続ける。


「その総会で委員長が言ってたけど、五月下旬に文化祭スローガンを決定させます」

「メイドカフェやりたい!」

「まだだよ後にしろ。そのスローガン候補ですが誰でも応募可能なので、皆も何か案があったら文化室前の投書箱に入れてください。今日から来週の金曜日まで設置されてるんで」

「ちなみに去年は何だったの?」

「⋯⋯何だっけ?」


 そう問われ、文香と翔太が口にしていた文言を思い出す。大丈夫だ。二回も聞けばもう覚えている。


「羽ばたけ八百万の青春たち!~Sky is the LIMIT~⋯⋯です」


 また少しだけざわついた。今度はあまり反応がよろしくない。

 自分が考えた訳じゃないのにとてつもない羞恥心が茜を襲う。ここで言葉を切ったら、まるで自分が場を冷まさせてしまったみたいになる。

 決死の想いで頭を回転させ、昼会議の会話を簡潔にまとめて文章を形成させた。


「えっと、更に昔だと百花繚乱とか、短くてシンプルなのもあります。『百』とか『植物』とかがスローガンに入ってると百草高校らしさがグッと出るので、何か候補があればよろしくお願いします⋯⋯」


 後半に向かうに連れて声が小さくなってしまったのを、茜は自分でも知覚した。ちゃんと後ろの席まで届いただろうか。もう一度言い直すことなんてとてもできないので、そうであることを願う。

 文化祭実行委員からの連絡は終わる雰囲気となってしまった。これ以上伝えることも無いので構わないのだけれど。と思っていたら、最後に畑中が付け加えて締めに入る。


「あとまぁ、合唱コン終わればすぐ文化祭の準備に忙しくなるんで、やりたい企画があればいまの内から考えておいてくれるとありがたいです」

「メイドカフェ」

「だからまだだっつの」

 

 丁度ここで五限の終了を告げるチャイムが鳴る。普段からクラスの中心にいる男子のお陰で、なんとか場は和やかな雰囲気で終わることができた。畑中に頼りっきりだったが大きな失敗したわけでもないので良しとし、自身の席に腰を下ろした。

 教卓と、最前列の席。どちらも皆の前であり、その直線距離は数メートルしか離れていない。それなのに自分のスペースというものは、どうしてこんなにも安心感を与えてくれるのだろうか。本日もうひとつ残された本題に憂慮しつつ、ひとまずは休み時間の心地良さを甘受することにした。



【14:10】

【15:39】



「――って感じで、スパッタリングとかスタンピングみたいな誰でもできる技法を使って、賑やかな絵にしたいと思うんだよね」

「うん、いいと思う」

「三人で同じ絵を描くのは流石に難しいもんね!」

「そうそう。絵肌統一なんて無理があるからなー」


 長机の端で茜、菜々花、健一の三人はスケッチブックを囲む。どうやらバレーボール部の練習の最中にも関わらず共同制作の構想を練ってくれていたようで、その話にふたりは耳を傾けていた。

 バレー部は経験者の顧問がいないらしく、あまり厳しくはないそうだ。運動部に所属した経験なんて微塵もないので想像し難いけれど。


「今日は他にも使えそうな技法とか調べて、金曜から制作始めちゃおう。ふたりは都合大丈夫?」

「家庭科部は問題ないよー」

「私は、美術部だけだから」

「健一くんは?」

「金曜は休みー。下校時間までここにいられる」


 兼部してまで美術部に籍を置いているのだから随分と制作に精力的だ。もはやこの学年のリーダーは彼と言っても過言ではない。「先生いるかな」とフラッと立ち上がって準備室を覗きに行く背中を見て漠然とそんなことを考えていた。


「なんか面白くなりそうだね」

「うん」


 菜々花が彼のことを『健一くん』と呼んでいるのは、同じクラスに双子の片割れがいるかららしい。最初は面食らってしまったのが記憶に新しい。弟の名前は『誠一』というらしく弓道部に所属しているようだ。文香なら知っているかもしれない。


「ダメだ先生いねぇ。何かアドバイス貰おうと思ったのに」

「職員室かなぁ?」

「じゃっ、私行ってくるよ」

「ホント? それじゃお願いするわ」


 言って、ふたりを背に茜は美術室を後にする。今日は他の先輩方の姿もなく、あのだだっ広い空間にふたりだけ。何も考えなかった訳ではないが、茜には関係のないことだった。


 先生の呼び出しを買って出たのは、自分の発言数が著しく少なくてあの場から逃げ出したくなったからだ。健一のように発案することも、菜々花みたく会話を盛り上げることもできない。ただ同調して頷くのみ。それが何より情けなく思えただけのこと。


「⋯⋯恥ずかしい」


 自分の立ち位置も、何もかも。考えすぎなのは理解している。人は他人にそこまで関心は無い。それでも拗れた自意識が悲鳴を上げて、自らを苦しめて止まない。

 哀れな思いは連鎖して別の記憶を呼び覚ます。総合の時間での発言だ。もしかしたらクラスの皆、委員会総務のことをおざなりな集まりだと勘違いしていないだろうか。『ふざけ合って』ではなく『冗談交じりに』と言っていれば、もっと誤解無く伝えられたのではないか。なんて誰も覚えてはいないだろうに細かなニュアンスが今更気になってしまう。過去をいくら嘆いても、どうしようもないというのに。

 職員室の扉を前にし、そんな思考は瞬きの間に消えていった。室内に入ったらまず述べる口上を頭の中で反芻する。先生は友達じゃなく、他人だ。大人と接するほうがよっぽど気が楽だった。


「失礼します。美術部の秋間です。繁沢先生はいらっしゃいますか?」

「⋯⋯いま進路相談中だな。大事な用事か?」

「あっ、いえ。そんな大したことでは」

「戻って来たら美術室で部員が待っていると伝えればいいか?」

「はい。よろしくお願いいたします」


 一番近くにいた男の若い先生が応じてくれたが、強面な面貌と語調だったので緊張してしまった。「失礼しました」と告げて退室する。廊下に戻った瞬間、肺に溜まっていた空気を無意識に吐き出していた。

 既に日が傾きかけていて、教室棟と特別棟を繋ぐ渡り廊下には斜線のような幾本もの影が差し込んでいる。等間隔に並んだそれを一本一本踏み越えていく度、美術室に近づくに連れて遅くなる足取りを自覚させられた。

 遠回りもしなければ歩みを止めることもないので、当然特別棟一階に差し掛かる。文化室を横切って階段を登ろうとした矢先、突如そのドアが開け放たれた。


「⋯⋯あ。秋間さんこんにちわ」

「渡部先輩っ、こんにちわ」


 文化祭関係以外で遭遇したのは初めてかもしれない。特徴的な太目の眉毛が馴染深くて安心する。スローガン候補が集まるまで委員会の活動は無いはずだけれど、何か用事でもあったのだろうか。


「文化室で何してたんですか?」

「ん? いや、早く帰っても暇だから本読んでた」


 学ランのポケットから出した文庫本は、茜の知らないミステリー小説だった。委員長以外の顔を知らなかったので、彼のプライベートの一端を垣間見れた気がして嬉しい気持ちがこみ上げてくる。想定外の理由に思わず苦笑すると、翔太か相変わらずの無表情で「何?」と返してきた。


「秋間さんはこれから部活?」

「はい」

「じゃ、また昼会議でね」

「はい。お疲れ様です」


 言って翔太はシンデレラ階段を降りていく。別れ際にちらりと見えた口角の緩みが、茜にはどこか印象的に焼き付いていた。

 美術室に戻ると、さっきまで打ち合わせしていた場所は書棚から抜かれた技法書で埋まっていた。茜の帰還に気づいたふたりが快く迎えてくれる。


「繁沢先生どうだった?」

「今、進路相談してるみたいで」

「あー、じゃあ暫く戻って来ないかな」

「一応待ってるってことは伝えておいたよ」

「おっけ、ありがとう!」

「茜ちゃん、こんな案が出たところだったんだけど、どう?」


 菜々花はいつもと変わらない懇ろな面持ちで、共同制作構想の進捗を見せてくれた。ふたりの間に置かれたアイディアスケッチは、茜がいない数分の間にも着々と進行していた。

 和気藹々と進めていたのかな。自分でその環境を作っておきながら、茜の脳裏にはそんな思考が現れては消えてを繰り返していた。


「うん。凄い楽しそう」


 その内容は、実を言うとあまり頭に入って来なかった。


「⋯⋯あっ、やべ。ごめんもう抜けるわ」


 と、健一は途端に慌ただしく身支度を始める。時計を見やればもうすぐ十六時になろうとしているところだった。


「部活?」

「そうそう。水曜自主筋トレだから抜け出せちゃうんだよね。ただノルマはあるからそろそろ始めないとヤバいっ!」


 そう言ってはいるものの、ご丁寧にも自分が広げた本と重量のありそうな資料集はちゃんと片付けようとする健一。茜も手伝おうとしたが流石は運動部。その俊敏な動きには敵いそうにない。


「それじゃまた金曜日!」

「部活頑張ってー」

「お疲れさまー」


 急いで駆けていくその背中をふたりで見送る。共同制作であるため、今日はもうこれ以上進行させることはできない。企画の発案者がいないのならば尚更だ。

 これからどうしようかと菜々花と相談していたところ、健一が立ち去ってから五分もしないで繁沢が美術室に戻って来た。下はつなぎ、上はセーターといった少々頓珍漢な恰好をしている。タイミングの悪さと、失礼ながらその様相に可笑しくなって、茜と菜々花は互いに顔を見合わせて苦笑した。


「共同制作、無事に進んでいるかな?」

「はーい。先生もちょっと見てください」


 どうやらまた、説明する役を自分以外の誰かに任せてしまうことになりそうだ。



【16:04】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る