第二章 秋間茜篇

第一話 あなたの色

【5/9(Mon) 12:38】



「あのふたりは何やってんだか⋯⋯」


 文化祭実行委員会総務の世話焼き屋である香苗が、今日は一層眉根を寄せて深いため息を吐いている。生徒総会にてあんな口論を見せられたら無理もない。

 正直な気持ち、文化室に足を運ぶことを躊躇った。招集はされてないから来なくても構わないはずだし、会ったら会ったでまだ諍いを引き摺っていたら気まずい思いをするのは確定である。それでも茜がこの場所に訪れたのは、日頃から優しく接してくれる先輩たちに何が起きたのか気になったからだ。


「職員室の方に向かったみたいっスから、大川先生に絞られているのかもです」

「ならいいけどね」


 普段翔太が座っている席でダラダラっと姿勢を崩しながら、悠人は古文単語帳を片手に推察する。小テスト勉強だろうか。彼が誰よりも早く文化室に到着していたみたいなので、内心一番気に掛けているのかもしれない。一方の香苗は部活でもここまで不機嫌さを露わにしたことがない。何が気に障ったのか、茜には皆目見当もつかない。


「あ、こっち来た。マツさんもいるな」

「マツさん⋯⋯?」

「都先輩だけミヤさん呼びは何だかなーって。片居木先輩はカタさんにしよっかな」

「なんか水戸黄門みたいね」

「渋いですね」

「そういう秋間さんはアキさん? んー、あっきーの方が良いかな」

「わ、私は何でも⋯⋯」


 小学生の頃そう呼ばれたこともあり、何だか懐かしい気分になった。いずれにせよ男の人にそんな呼ばれ方をされたのは初めてで気恥ずかしくなってしまった。急に渾名なんて付け出したのは、翔太たちが剣呑な空気で戻って来た場合を想定して、少しでも空気を和ませようという意図あってのことだろうか。

 戸が開け放たれる音に、反射的に背筋が伸びた。最初に入ってきたのは翔太、続いてあずさと文香だった。


「おかえりー。お叱りでも受けた?」

「いや、そんなには⋯⋯。それより今日は会議の予定は無かったはずだけど」

「それは気になるでしょう? あんな事の後だから」


 口を尖らせた香苗が、珍しく鋭い眼光を飛ばす。たじろいだ翔太とあずさは互いに顔を見合わせ、仲良く横に並び頭を下げた。息の揃ったその様は、生徒総会でのやり取りは全て嘘だったという証明にも思えた。


「すみません、心配させてしまいました」

「ごめんなさい」

「それだけ?」

「まあまあ」

 

 更に追及せんとする香苗を悠人が宥める。翔太たちふたりの間で和解が成された様子ではあるので、香苗はもう一度息を吐き出すと諦めたように腰を落ち着かせた。それを合図に、皆が其々の馴染みの席に向かう。

 隣に座っている文香は苦笑いを浮かべていた。もしかしたら先程まで委員会監督係の職務を全うしていたのかもしれない。横顔を眺められていたことに気付いた文香はこちらに振り向いて、改めて相好を崩した。


「心配かけちゃったよね。ごめんね、このだらしない先輩たちが」

「いえいえ! あの⋯⋯えっと、文香先輩もお疲れ様です」

「⋯⋯んっ?」


 不意に呼ばれた『文香先輩』。悠人みたくちょっと親しみやすい呼び方で。と思って呼んでみたら、もしかしなくとも気に入ってくれたみたいだ。徐々に緩み始めた頬がなんだかあどけなくて、見てるこっちも幸せな気分になってくる。勇気を少しだけ出してみて正解だった。


「⋯⋯ふぅ。ではせっかく皆集まっているので、文化祭スローガンについて打ち合わせますか」

 

 全員が着席したのを確認して、翔太は今日の議題を切り出した。茜も議事録を取る用意を済ませる。思い思いに言葉を交わす彼らに、生徒総会の不穏さはもう見る影もない。


「去年のスローガンって何だっけ?」

「羽ばたけ八百万の青春たち!~Sky is the LIMIT~」

「渡部よくすぐ出てくるね」

「松木も最初覚えてたでしょ」

「あれは一応⋯⋯予習したから」

「にしてもなっがい」 


 溶けたアイスクリームのように机の上で潰れているあずさが、気怠げな声で呻いた。確かにいささか長い気がするが、他の学校ではどうなのだろう。

 「去年それにどれだけ苦しめられたか⋯⋯」と、横で香苗が相槌を打っている。その訳を文香が、小さな体躯を傾かせて問い掛けた。

 

「文化祭のポスターデザインって選択美術の課題の一つなのよ。油絵で製作するの」

「二年生で履修してる子はちょうど今頃描いてるんじゃない?」

 

 二年生の三名が互いに顔を見合わせた。翔太だけかぶりを振る。どうやら彼だけ受講していないようだ。

 

「あれってそういう課題だったんスね」

「ちゃんと先生の説明を聞け。多分最初に言ってるわよ」

 

 選択美術の作品なら美術室の壁際に並んで乾燥させられている。あとで二人の絵を探してみよう。美術室に足を運ぶ楽しみがひとつ増えた。

 あずさと悠人の会話は余所に香苗は淡々と解説を続ける。


「ポスターを想定して描いてくわけだから、『八重祭』とさっきのスローガンの字を画面に入れなくちゃいけないの。油絵でレタリングはただでさえ困難なのに、文字数多いと地獄でしょう?」

「手間極まりねぇ⋯⋯」

「ね! まったく繁沢先生ったら何考えてんだか」

「あずさ。美術部が二人いること忘れないでね」

「香苗いま地獄って言わなかったっけ⋯⋯」

「さあ?」


 プイッとそっぽを向いた仕草はわざとらしく、悪戯のつもりでいるのだろう。今日の彼女は怒ったり解説したり、子どもっぽくなったりと忙しい。そんな普段では見ない姿を拝めるのはちょっとだけ嬉しく思う。

 ちなみにふたりの語る先生というのは、美術教師であり美術部顧問でもある繁沢悟しげさわさとるのことだ。現在四十路で二人の娘がいると聞いている。校内をつなぎ姿で闊歩している先生を見かけたならそれは繁沢で間違いない。

 

「大学の文化祭なんだけど、一貫したテーマ性を掲げるところがあるわね。大正ロマンとかアラビアンとかを題材に毎年更新していくシステムなの。そうして出店とか案内所をどう装飾するか指標を決めて統一感を出す」

「ほー、なるほど」

「面白そうですね!」


 その一例に、悠人と文香が関心を寄せた。香苗のことだから引き合いに出した大学は美術大学なのだろうか。面白いと感じたのは茜も同じだったので、メモ欄に記録を残しておく。


「でも有象無象をひと括りにしているのが高校の文化祭ですから、スローガンは去年のみたいな当たり障りのないワードを羅列した方が都合がいいんですよね」

「確かに強いテーマを提示しちゃうと劇とか店のバリエーションが被っちゃうわ」

「そうよねぇ」

「スローガンは短くてもいいの?」

「俺たち次第。過去には『百花繚乱!』みたいに簡潔なのもあるから、良い言葉が出たらそれでもオッケー」

「うーん」


 一応翔太が上げた過去のスローガンも書き留めておく。百花繚乱。いざ去年のものと比較すると、些か物足りないかもしれない。

 会議が中断していたので、せっかくだから書いていて気づいたことを口にしたみた。


「百草高校だからか、どちらも『百』が入ってますね」

「⋯⋯あ、ホントだ」


 文香が茜の手元を覗き込み、感嘆の声を上げた。作品ならともかく、自分の書いたメモを見られるはとても恥ずかしい。咄嗟に隠そうとして危うく無礼を働きかけたが、寸前で思い留まれた。いまの挙動は周りの目に変なふうに映らなかっただろうか。

 もし皆気付いていて、当たり前の事実として理解されていたらどうしようかと思ったが、そのリアクションからして杞憂だったようだ。


「てか茜ちゃんめちゃくちゃ達筆⋯⋯!」

「どれどーれ?」

「あっ⋯⋯後で私のいないところでお願いします⋯⋯っ」


 席を立ってまで嘱目しようとするあずさ。流石にそれは制止させざるを得ない。

 すぐ引き下がってしまったが、期待していた反応が来るのはちょっとだけ快感だ。小学三年生から続けている書道は、他人に誇れる数少ない茜の特技であった。


「じゃ生徒たちを植物に見立てて、百を含んだワードと組み合わせて百草高校らしさを演出する。ってのが王道スかね?」

「千磨百錬! うなれ数多の草花たち! ⋯⋯みたいな感じ?」

「ぽいわね」

「ぽいです」

「百姓一揆! 我らの稲穂を取り返すときは今!」

「それは違います」


 間髪無く行われる応酬に皆吹き出してしまった。よく即座に思いつくものだ。悠人なんかは声を上げて笑っている。あずさならばこの調子で何百通りもスローガンを生み出してしまいそうである。

 「昨年はどうやって決定したんですか?」と、場が落ち着いたところで翔太に伺ってみた。


「まずは一応、文化室前に用紙と投書箱を置いて案を募ります。これから文化祭の詳細をまとめたプリントをクラスに配布するんだけど、そこで告知してね」

「まぁこれは、二十集まれば随分多い方だよなー」

「片居木先輩とか去年やってくれました?」

「ごめん、プリントすら見た記憶ないわ」


 公募という形では、自分もわざわざ案出しなんて関わらないだろう。それに匿名とは分かっていても、自分の考えたスローガンが誰かに見られるなんて気が引けてしまう。


「こんな有様だから、基本は委員が精力的に案を出さなきゃなんだ」

「ちょっと渡部氏?」

「皆が出した文化祭らしい単語を上手く文章として成り立たせる。それが再来週の委員会内容になります。片居木先輩、文系トップなんですからビシバシ働いてもらいますよ」

「そういう感性的なのは香苗中心で頼むよ⋯⋯」


 この二人はいがみ合っているのか、ただ冗談を交えているだけなのか本当に掴めない。いま現在は戯れているだけのようだけど。

 予鈴に耳にして時計を見やればもう十三時十五分だ。ほとんど雑談で消化してしまった。


「⋯⋯ま、いい感じの土台はできた訳だし、妙案が上がらずともとりあえずなんとか作れそうだな」

「無難なものになりそうだけどね」

「別に奇を衒う必要はないですからね?」


 皆席を立ち始める。そういえばお昼を食べ損ねていたことに今更気づいた。五、六限間の休み時間では目立ってしまうから放課後に食べようかしら。でも委員会もあるし。そんなことに思いを馳せていると、「勉強全然できなかったー」と告げた悠人が勢いよく単語帳を閉じ、全員の注目を集めた。


「そうだ! 毎週月曜の昼休みは集まりません?」

「別にそんなまだ忙しくないぞ?」

「いーじゃん、別にすることなくても。そん時はテキトーに遊ぼうぜ。この間の掃除で色々出てきたしさ」


 言って悠人はトランプやウノを戸棚から取り出す。中には過去の文化祭実行委員が持ち寄ったらしき遊び道具が積まれていた。人生ゲームやオセロ、麻雀なんてものもある。他にもやったことのない遊戯がいくつか見受けられ、茜の心は人知れずに高揚した。


「小テストから逃避してるだけじゃないのかお前は⋯⋯」

「私は賛成!」

「マツさんと合わせて現在二票! 先輩方は?」

「いいよ」

「構わないわ」

「あっきー?」

「わ、私も大丈夫ですっ」


 四人の賛同を得て、どうだと言わんばかりの面持ちを翔太に向ける。彼は逡巡したものの数秒で観念し、その提案は受理された。


「じゃ来週の昼休みもここに集合で。ひとまず放課後の委員会でまた会いましょう」


 それが解散の合図だった。

 「ところでマツさんって何?」なんて会話をしながら二年生たちは捌けていく。特に進展のなかった議事録を書棚に戻し、三年生のふたりに挨拶を済ませ茜も教室に向かった。

 しかしながら特別棟を出る辺りで、何か物足りない感覚に襲われた。筆箱だ。時間に追われて少し急き過ぎたか、ついうっかり机の上に置き忘れてきてしまった。

 文化室の廊下にはあずさと香苗がまだ残っていた。もうすぐ授業が始まるというのに何やら話し込んでいて、その雰囲気に気圧され咄嗟に支柱の影に隠れてしまった。


「あずさ。今日のことは忘れないわよ」

「⋯⋯ごめんて」

「相手が違うでしょ」


 日が差し込まない立地のため、ふたりの表情は陰って見えない。途端に生徒総会がフラッシュバックする。何故翔太に対してあのような態度を取っていたのか。あずさは一体何と戦っていたのか。


「あれぇ茜ちゃん、どしたの?」

「あ、あずさ先輩⋯⋯」

「お、下で呼んでくれた。嬉しいねぇ」


 気づけばふたりは茜のすぐ傍まで近づいていた。角があるとは言え一本道なのだから見つかるのは必定だ。


「ちょっと忘れ物をしてしまって」

「ああ、これね。茜ちゃんも意外とうっかり屋さんね」


 言って香苗は茜の筆箱を取り出す。「教室まで届けるところだった」と言ってくれた香苗は、いつもと変わらない穏やかで優し気な瞳をしていた。

 礼を言って受け取り、成り行きで階段前まで三人で歩く。こうして並んでみるとふたりの背の高さがより際立つ。あずさも香苗も、どちらも芯のある女性像の体現のような存在で、一緒にいるだけで目が眩んでしまいそうだった。


「それじゃ、放課後の委員会で」

「またねー」

「お疲れ様です」


 あずさは一組で、香苗は七組。互いの教室は三年生フロアの対極に位置している。別れてもなお毅然と歩みを進めるその様はふたりの人生観を表しているようで、どちらもよく似た背中をしていた。



【13:19】

【15:56】



「あー。茜ちゃん委員会お疲れ様ぁ」


 美術室に入ると、馴染深い間延びした声が茜を迎えてくれた。油絵の具特有の刺激衆が鼻腔を刺激する。入部してもうすぐ一ヶ月となるこの空間は、着実に茜の居場所になりつつあった。

 声の主は伊東菜々花いとうななか。小学校五学年生の時に同じクラスになり、席の近さからすぐに仲良くなった。その後一緒に地元の中学に進み、高校まで同じという長い付き合いの親友だ。普段は家庭科部の活動に勤しんでいるが、茜が美術部に入ると聞いて即座に兼部を決めた。残念ながらクラスは離れてしまったが一番の友達であることに変わりはない。


「ななちゃんもお疲れ。家庭科部は今日お休み?」

「うん! だからそろそろリンゴ仕上げようと思って」


 リンゴとはいま菜々花が描いている油絵のことだ。茜もいま別のモチーフを描いている。ふたりとも油絵に触るのはこれが初めてだったので、先輩部員や顧問の繁沢に見守られながら手解きを受けた。


「香苗先輩見た? 今日来るかなぁ」

「今日は⋯⋯確か予備校だって言ってたような」

「あらー、油絵教えてもらおうと思ってたのに」


 香苗だけでなく、室内に部員は菜々花の他に二人しかいなかった。挨拶を送ると、気の抜けた返事が戻って来た。

 美術部は土日以外は全て活動日であるが、強制参加ではないため部員の姿はいつも疎らだった。三年生含め合計十二人いるはずだが入部時の挨拶でしか全員を見たことがなく、名前が判然としない先輩が何人かいる。どうやら文化祭や十二月に行われる『中央展』というコンクール直前でないと集まらないようだ。それ以外の時期は基本的に雑談をしているか、宿題で居残っているか、はたまた稀に制作しているかのいずれからしい。

 繁沢は美術準備室にいるのだろうか。月に二回デッサン会があるが、基本は生徒の自主的な制作に委ねているようである。こちらから絵のことについて尋ねれば快く応じてくれるし、描いているところを見回ってアドバイスを授けてくれもする。それでも準備室にて自分の制作に没頭したり、授業計画を練ったりするなどして過ごしている時間が多い。

 菜々花の近くにスクールバックを置き、美術部専用のロッカーに向かう。立て付けが悪いのか、一回引っ張っただけでは簡単に開いてはくれない。苦戦していると茜の背後から一本の腕が伸びてきた。


「ここを持ち上げるとね、空きやすいんだーこのロッカーは」

「わっ」

「あっ、水越先輩!」


 茜の傍らで微笑むのは三年生の先輩、水越優花みずこしゆうかだった。ミディアムショートの下で輝く笑顔は溌溂としていて眩しい。彼女は取っ手部分を両手で思いっきり持ち上げると、ロッカーの扉そのものが数センチ浮いていとも容易く開放された。


「あっ、ありがとうございます」

「いえいえ、どういたしまして。秋間さんも伊東さんもこんにちわー」

「こんにちわ!」


 優花は美術部の前副部長だ。部活に顔を出しているところをあまり見たことがなかったが、名前をちゃんと憶えていてくれて嬉しく思う。三年生は役職を引き渡した後は自然消滅していくらしいが、今日はどんな用事なのだろう。

 挨拶を済ませると、優花は颯爽とロッカーの中からお菓子を一握り取って、自分の荷物が置かれた席に向かった。ロッカーの一角には部員達が持ち込んだお菓子のスペースがある。減っているのに気づいた人間が補充するシステムであり、バスケットの底をまだ見たことがない。他人任せになってしまいそうだが、居心地の良い空間を保とうという意識が余程高いようだ。

 「一年生も遠慮なく」と言われているので、クッキーの包みを一つだけ頂戴した。本命は最下段に押し込められた作業服である。茜は自身の黒色のつなぎを取り出すと戸を閉じた。開ける時と比べて、何故こんなにも大人しく従ってくれるのだろうか。慣れるにはまだ時間が掛かりそうだ。

 菜々花が切る桃色のつなぎも茜と同様、まだ新品然としている。入部してから買ったのだから当然なのだけれど、あと二年で香苗のような状態になれるとはとても思えない。

 トイレの個室で下着とシャツだけになり、つなぎを身に纏う。ごわごわとした質感が直接触れるのが少しばかり違和感だが、絵を描き始めれば気にならなくなってしまう。厚手の素材だから寒くもない。ただ手足の裾がやけに長い構造をしているので、多少捲らなくてはならなかった。


「水越先輩今日はどうしたんですかー?」

「んー。これから進路相談とかね」


 美術室に戻ってみれば、どうやら菜々花の集中はすっかり切れてしまったらしい。滅多に現れない優花と話がしたいらしく、自分の絵から離れてしまっていた。

 ひとまず支度を進めよう。重ねられたイーゼルから手頃なサイズのものを取り、自身の6号キャンバスを乗せる。次に筆洗器とパレットとトイレットペーパーを一つずつ持ち出す。パレットは不要となった学習机の天板を八つに切ったものらしく、とても重量がある。ペインティングオイルや絵の具がまとめられている授業用の初心者油絵セットを広げ、あとはモチーフを用意すれば準備完了だ。

 水道下の引き出しを開けて、茜が描いているモチーフを取り出す。白いユリと黄色のポピーの造花。そしてこちらも偽物ではあるが、枝付きの柿。この三本を机上でうまく組み合わせる。

 絵を描くのはどちらかと言えば得意だ。創作好きな祖母とよく百草園で写生をした経験が生きて、小中学校では何度かポスターなどに選出されることがあった。けれどそれはアクリル絵の話。

 油絵はこれが初めてだとしても、どうして私の絵はこんなにも平面的なのだろう。モチーフと自身の絵を見比べて、そう嘆く。答えは絵の中にあるはずなのに、問い掛けても返事がやって来ることはなかった。

 

「面白い組み合わせしてるね」


 再び背後に現れた優花が、少し離れた位置で茜の絵を見つめていた。そのあまりにも真剣な眼差しに、紅潮する余裕すら失せてしまった。


「なんか柿みたいな丸いものがあれば、アクセントになるかなって」

「おー、しっかり考えてるねぇ。私なんか感覚に全投げだよ」


 そんなことを言って愉快そうに笑っている。もう引退してしまった身であるが故に、香苗と優花がどんな美術部を作り上げていたのかを知る術はない。多分、笑顔絶えない長閑な部活だったのだろうと想像する。

 菜々花は他の先輩のところに行って談笑に勤しんでいる。その人懐っこさが、茜には少しばかり羨ましい。自分は面白いことを言ったりとかできないから、他人の時間を取ってしまうのではないか。そんな懸念がずっと渦巻いている。

 でも、ふたりだけのいまなら。


「⋯⋯えっと、アドバイス貰ってもいいですか?」

「いいよー、なになに?」


 快く引き受けてくれた。これから進路関係の用事が控えているというのに、なんと優しい先輩だろう。舌足らずな自身の口に鞭を打って、話を聞いてもらう。


「あの、うまく言葉にできないんですが⋯⋯なんかこう絵が生き生きとしていなくて」

「ふむふむ」

「平坦と言いますか、味気ないと言いますか」

「秋間さんは何色が好き?」


 唐突な問い。真っ直ぐに向けられた視線が熱い。この人は紛れもなく真剣に、茜のことを考えてくれている。


「⋯⋯紫ですかね」

「焼き芋色だね。よーし」


 返事を聞くなり途端に優花は駆け出した。再びロッカーを開け放ち、何か私物らしき袋をまさぐっている。戻って来たその時、手には一本の油絵の具が握り締められていた。


「レッドモーブシェード。私これよく使ってたんだ」

「こんな色もあるんですね」

「画材屋さんに行ってごらん。秋間さんが気に入る色、いっぱいあると思うな」


 そんな屈託のない笑顔を保ったまま、優花は言葉を続ける。


「どこでもいいから、この色を画面に使ってみて」

「え、でもモチーフにそんな場所は」

「いいからいいから」


 そうは言われても、無い色は使えない。

 優花のレッドモーブシェードは三分の二くらい消費されていて、端の方から丁寧に折りたたまれていた。渡された絵の具のをどう扱っていいか分からず、キャンバスの前で茜は立ち尽くす。暫くは待ってくれた優花だが、一向に動けないでいる様子を見兼ねてひとつの提案をした。


「難しいなら私が一か所だけ、何か描き入れていい?」

「はい、それは勿論」

「指出して」

「はい⋯⋯?」


 言われるがままに手を差し出すと、優花は絵の具のキャップを空け、

茜の人差し指の腹にその中身を塗り付けてきた。

 呆気に取られ反応できないまま、右手の自由を優花に奪われた。彼女の柔らかな肌の感触が茜の手を包み込み、そのまま赤紫に染まった指先を、キャンバスの表面に押し付ける。

 我に返ったのはキャンバスのザラつきを知覚した瞬間だった。


「わわっ、いいんですか!?」

「それは秋間さん次第。さぁ、どうする?」

「どう、って⋯⋯」


 レッドモーブシェードが付着した位置は、柿の影の灰色と机の白色の境界線だった。

 突如として現れた特異点。どうする、何をするのが正解だろう。優花に視線を合わせても、口端を緩ませるだけで彼女は何も返してくれない。ひとまず茜は絵筆を握った。

 茜の筆がパレットから咄嗟に拾った色は、机と同じ色であるチタニウムホワイトだった。紫の点をなかったことにすべく、その上を撫でる。


「あっ」


 紫が広がっていく。筆の絵の具と、影の灰色と、机の白を巻き込んで。


「安心して広げていっていいよ。渇いてないからこそできる油絵の醍醐味なんだから。もっと思い切って」


 思い切って。

 今度は柿のオレンジを捉え、大きく横に筆を滑らせる。ダムが決壊するかのように、くっきりと分かたれた境界線からオレンジ色が流れ出した。灰と白と橙と紫とが混ざり合って、色に幅を与えていく。そこには確かな関係性が生まれていた。


「統一感、ちょっと出たね?」

「⋯⋯はいっ!」 


 茜も優花も、今日一番の笑顔を見せた。頬に熱が籠っていく。緊張などでは決してない、久しぶりに心地のいい感覚だった。

 優花は茜の初心者用セットに目を落とす。その視線の先は、十二色の絵の具が入ったケースだ。


「色は自分で生み出していけるんだよ。だからその素材になる色を、いっぱい見つけてあげてね?」

「はい」

「今日がその第一歩だ! お祝いにそれあげるね」

「えっ!? いやそんな申し訳ないですよ」

「ううん、これは私のわがまま。今日が秋間さんの栄養になったらいいなーって」


 えへへと破顔する優花は見てるだけでは子どもっぽいのに、どこかそうは感じさせない。そんな面持ちで譲られたら、受け取らなくては逆に失礼ではないか。感謝の辞を述べると、彼女はそれで満足したようだ。


「あの、ちなみになんで指だったんですか?」

「私が画面に筆を入れたり、べたべた触れるのは違うなーって。でも秋間さん、キャンバスの感触面白かったでしょ?」

「はい。ざらざらとした塊のような⋯⋯」

「油絵は厚塗りした分だけ、どんなストロークで描いたか軌跡が残るの。描くって行為は色を置くだけじゃないんだ―」

「⋯⋯なるほど」


 あまり腑に落ちてない反応を察してか、優花は手を大きく広げた。身長は茜より数センチばかり高いだけなのに、その存在は飲み込まれてしまいそうなほど大きく、陽光のように温かかった。


「何でも画材にしちゃっていいんだ。何を筆代わりにしてもいいんだよ。秋間さんが好きなものを、好きなように組み立ててみて欲しいな」


 透き通った羽根みたいな、不思議な人。

 今日ほどふたりで話したことはない。香苗の親友で前副部長。その存在の一端を少し知れたように思う。茜にとっての印象だが、優花はあまりにも優しすぎるような気がしてならなかった。

 気がつけば菜々花は戻って来ていて、茜と同様優花に指導をせがんでいる。何喰わぬ顔でまた引き受けた優花だが、ふと美術室の端に視線を留め、動かなくなった。その先には、現在制作中である香苗の80号キャンバスがある。


「⋯⋯お! あれは一年生の共同制作ですかな?」

「はい! でも何を描こうか全然まだ決まらなくてぇ」


 いや、違ったようだ。優花の注目はその隣、まだ何も描かれていない水彩用キャンバスだった。

 共同制作。入部したばかりの一年生同士で何か作品をひとつ作り上げることが、百草高校美術部の習わしとなっているようだ。現在一年生は茜と菜々花に加え、男子バレーボール部と兼部している中野田健一なかのだけんいちという生徒の三名だ。優一は水曜と金曜の放課後にしか美術部に来れないらしく、共同制作の進捗はあまり芳しくない。ちなみに双子の弟も百草高校らしいが、まだ茜は遭遇したことがなかった。


「私たちの代が勝手に始めただけのことだから、無理に続けようとしなくてもいいんだからね? 伝統は拘束になっちゃいけないからさ」

「ええー、全然そんなことないですよ。むしろ一年生で交流できて楽しいです」


 「そっかー」と、優花はもうそれきり話題に触れることはしなかった。

 乾燥棚の上に鎮座する、30号のキャンバス。木の板に水張りされた和紙はいまだ純白を保ったままだ。油絵と違って一度色を落としたら容易く引き返すことはできない。水彩で厚塗りは困難なため、別の色を上から乗せることで無かったことにすることもできないのだ。

 制作が進まない理由はもっと身近なところにあるように思えた。そのあまりにも眩しい白さに、一年生の茜たちはただ怯えていただけなのかもしれない。



【16:35】

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