第七話 欠乏
【4/25(Mon) 12:32】
「ああっ! お弁当忘れた⋯⋯」
「あちゃー」
「何やってんの」
鞄の中にその存在が欠落しているのを認めて、文香は天井を仰いだ。正面では川口渚が愉快そうに笑い、隣の名村詩音は呆れ顔を浮かべている。新クラスにも慣れた頃、この三人で昼食を取るのが日常になっていた。渚だけ自身の椅子を持ってきている理由は、彼女の席の周りが軒並み男子だからである。いわば避難だ。最初の文化祭実行委員会以降、すぐに打ち解けて現在に至る。
「何か、何か一口お恵みください」
「はいっ」
「ん」
「ありが⋯⋯」
速攻で差し出されたのはチーズちくわと牛乳のパック。カルシウムで身長を伸ばせということか。渚は紛れもなく親切心だが、詩音の牛乳は確実に冗談だ。それなのに何故思惑が合致するのかと二人に問いただしたい。
チーズちくわだけ食べさせていただき牛乳は返却した。
「購買早く行かないと売り切れちゃうよ?」
「うーん。でも絶対いま激戦区だし、空いたら行くとするよ」
母親に忘れてきたことを心の中で謝る。家に置いてきたお弁当は、文香より早く帰宅する弟が平らげてしまうだろう。無駄にはならないが、あのデカブツの更なる栄養源になるのはちょっと腹立たしい。これ以上大きくなるんじゃない。
机に伏せて、適当な話題を振る。
「そういえば吹部、結局どれくらい入ったの?」
「十五人。で合計四十三人」
「コンクールって確か上限五十五人じゃなかった?」
四十三人の時点で十分大所帯だが、やはり音の厚みが物足りなくなったりするのだろうか。数多の人間が時間を掛けてひとつの何かを作り上げるなんて、少し想像が難しい。合唱コンクールが一番経験に近いか? なんて他愛もない思考に浸る。
「多ければいいってもんじゃないから。一人一人の質を上げれば事足りる話」
「達観してるねー。流石吹部指導係」
「そのために私がいる! って感じ」
持て囃しても大層なリアクションは見せてくれないが、その代わり瞬きの回数が多くなった。食事に集中を傾けるその姿が面白い。
多ければいいわけじゃない。あずさと宮原も同じことを言っていた。やたらに矢数を重ねればいいのではなく、少なくても一本一本を丁寧に引けと。九キロの『氷水』で数を引いても疲労が蓄積しない実感は確かにある。それならばやはり、強い弓力に上げるべきだろうか。
詩音に右の頬を摘ままれて現実に引き戻された。「弓道のこと考えてる顔してた」とのこと。どんな顔だ。「私もー」と面白がって、今度は左の頬を渚に摘ままれる。どんな状況だ。
「大会といえば弓道部は土日試合だったでしょ。どうだったの」
「そうなの!?」
「いやー、惨敗だったよ。男子も女子も。あずさ先輩のチームは凄い惜しいとこまで行ったんだけど、結局関東大会逃しちゃって⋯⋯」
男子AチームとBチームが準決勝まで進んだが、決勝トーナメントには至らずそこまで。「本番崩れるのどうにかしよう」とミーティングで北野が嘆いていた。
一昨日の出来事が連想される。大会帰りに出会った渡部兄妹のことだ。何んとなしに振り返ってみたが、普段翔太が仲良くしている集団の中にその姿はない。もしかして今日も昼会議はあったのかしら。気になってSNSアプリのグループトークを確認してみるが、そんなログはどこにも無かった。
「どうしたの?」
「いや、そろそろ購買の様子見て来よっかなーって」
「⋯⋯なんか台風の時の常套句みたい。田んぼ?」
「バッドエンド」
「やめてよー」
なんてやり取りの内に詩音が道を空けてくれたので、お礼を告げて列から抜け出す。そういえば文化祭実行委員会だって、文香を入れれば四十三人ではないか。つい忘れていた。いま自分たちは、『八重祭』を作り上げようとしているのだと。
教室を抜け出す直前振り返ると、渚がスケジュール帳を開いて何やら提案をしているように見えた。内容が気になる。早々にパンを入手して戻ってこようと、気持ちだけ足を走らせた。
【12:36】
バッドエンド。ものの見事に購買はすっからかんだった。辛うじて一つだけ手に入れた揚げパン(小)を弄び、これだけで放課後の練習まで持つのか思案する。コンビニまで買い出しに行くのも視野に入れるべきか。そんなことを悩んでいるうちに背後から声を掛けられた。
「松木さんじゃん。何してんの?」
「あ、三浦君。そっちこそ」
パン六つとペットボトル二本を抱えてフラついていたので助けてあげると、悠人は「助かったー」と笑いながら感謝してくれた。
フィッシュサンド、カレーパン、チョコデニッシュ⋯⋯羨ましく見過ぎていたか、はたまた揚げパン(小)に同情したのか。彼はいつものおどけた調子で喋り出した。
「あー、さては昼飯買い損ねたな。それではお礼に渡部の分のチーズハンバーグパンを進呈しよう」
「いいの? 本人に確認は?」
「これから」
それは良くないだろう。一人分にしてはあまりに多いと思いきやそういうことか。何故使いっぱしりにと問えば、どうやらスマホゲームで勝負を挑んで返り討ちにされた罰ゲームらしい。如何にも男子の戯れといった感じだ。その嫌味のない友人関係を、文香は少しだけ羨ましく思う。
聞くに翔太は文化室にいるらしいので、悠人についていくこととなった。教室の詩音と渚に少し遅れるとメッセージを送る。グループ名の『ふなし🏹┌(;・_・)┘🎺』は其々の名前の頭文字を並べ、所属部活のイメージを加えたものだ。別に誰も某マスコットが好きなわけではない。苗字の頭だったら『なかま』とかになっていたかもしれない。
≪おっけー!≫
≪('__')≫
≪ゴールデンウィークどこか行こうって話してる!≫
≪え、行く行く!≫
≪(・o・)≫
スケジュールを確認していたのはその為だったのか。それはともかく詩音の顔文字が意味不明過ぎて意図が読めない。いや恐らく意味なんてない気がするが。
シンデレラ階段と呼ばれた昇降口正面の階段を登れば、文化室はすぐ左だ。ドアを開けばまたあの埃っぽい空気が文香たちを出迎えてくれた。より一層酷くなってると感じたのは間違いではなかった。
「おわ、掃除してたのか」
文化室の床はラックから降ろされた段ボール箱で埋め尽くされていた。大振りのビニール袋にゴミを詰め込んでいる翔太。とその傍らには汚れまみれの作業着を着込み、髪を乱した見知らぬ女子生徒の姿があった。
誰だろう。記憶の引き出しを漁る間もなく、躊躇いなく悠人が話しかける。
「ミヤさん来てたんスね。やっぱつなぎ姿似合いますね」
「そう? ふふ、ありがとう。あら松木さんも」
「⋯⋯こんにちわ?」
『ミヤさん』が都を差すことと、正面の女生徒が香苗だと判断するのに失礼ながら時間を要した。疑問形の挨拶に香苗は思わず吹き出す。眼鏡もしていないし髪も結っていないからまるで気付かなかった。これが彼女の絵を描く時の正装なのだろう。「かっこいい」とつい零すと、また香苗は嬉し気な笑みを浮かべた。普段はお淑やかな印象だが、いまの彼女は野心に満ち溢れているような精悍さを纏っている。
「都先輩、受験対策で絵を描いてたんですか?」
「あ、聞いたのね、全くあずさったら」
呆れ顔もどこか凛々しい。つなぎの汚れは近くで見れば、様々な色の絵の具が幾層にも重なって凝固したものだった。触らせてもらうとその硬さに驚嘆する。右の太ももに汚れが集中しているのは彼女が右利きだからだろうか。
「三、四限が美術だったんだけど、三年生の選択芸術の時間ってもう自由なのよね。だから推薦で使う用の油絵を描いてたの」
「はぁー凄い。⋯⋯じゃいま美術室行けば最新の絵が見れるんですか!?」
「下地の状態だから、いまは一面茶色なだけよ」
それでもどんな絵を描いているのか気になる。文香も選択芸術では美術を取っているため、次の授業が途端に楽しみになった。
隣では掃除を中断した翔太が、悠人へ代金を支払っているところだった。ゲームの再戦を申し込んでいる悠人を軽くあしらっている。
「そうだ翔太。ハンバーグパン松木さんにあげたから」
「おう。⋯⋯ん?」
「お世話になります」
「うん。⋯⋯え?」
「はい、百一〇円」
「ああ、これはどうも。⋯⋯いや、なんでだっけ」
と、冗談はここまでにしてちゃんと経緯を説明する。嫌な顔することなく受け入れてくれたので売買成立だ。
まだ休み時間はこれからだが、三人は一旦お昼休憩の様子。目的は果たしたので立ち去ろうとした文香だったが、帰り掛けに机の上に置かれた一冊のスケッチブックが気になった。
「vol.2⋯⋯なんだこれ」
ただ数字だけが記されたそれ開いてみると、他愛もないコメントや落書きイラストで埋め尽くされていた。と思えば装飾の本格的なデザイン案が何ページも連なっていたり、文化祭バンドのタイムスケジュールメモなども残されている。色んな筆跡があるところを見るに、過去の実行委員たちが思いのままに利用していたのだろう。横から悠人が懐かしそうに覗き込む。
「去年の企画構想ノートだな、ほぼ落書き帳と化してるけど。懐かしいわー」
「随分仲良かったんだね。一巻はないの?」
「翔太ー、どうだっけ?」
「さっきから探してる」とカレーパンで塞がった口を動かしながら、近場の棚を物色する。その翔太の反対側で香苗も本棚を漁っているが、それらしきスケッチブックは見当たらない。
「無いな」
「やっぱり見つからない?」
「出て来ないですね」
「間違って捨てちゃったのかしら。勿体ない」
そこには何が描かれていたのか。二巻目をパラパラと捲っていると、不自然に破かれたページの断片が針金部分にへばりついていた。以降ずっと続く白紙は、あまりに物寂しい。
「今年も置く?」
「んー、どうしよう」
「美術部に使ってないのが何冊かあるわね。持って来ましょうか」
「いいんスか!」
そう談笑する三人は、去年どんな委員会生活を送ったのだろう。
数年分の議事録。過去全てのパンフレット。使い切れていない大量のアクリル絵の具。そして、スケッチブック。文香の知らない時を生きた遺物たちに囲まれて、何か疎外感に似た感覚が喉元までせり上がってきた。
過ぎてしまったことは欠乏したも同義だと思う。文香はもう、過去の文化祭実行委員会の当事者になることはできない。
【12:47】
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