第四話 願いの味はジェラートより苦く、

【4/17(Sun) 13:05】



「フミちゃん今日歩きよね?いつかのジェラートこれから行く?」


 体験会の翌日、日曜日の午前練習を終えた後のことだった。体験入部生に道場の後片付けや作法、弓道の基礎となる射法八節をあらかた教え込み、解散を言い渡したところにふらりとやってきた。今日の練習は午前のみ。承諾しかねる理由はない。「行きます」と返したあまりの早さに、あずさは堪らず笑っていた。


 ジェラート屋は百草高校正門から徒歩三分。薄緑の屋根に赤い壁面が特徴の可愛らしいお店だ。もぐさファームという牧場の新鮮な牛乳を用いたしぼりたてミルクは絶品の一言である。

 放課後は百草高校の生徒で賑わう店内だが、日曜日の今日ではその姿は見られない。そう思っていた矢先だった。


「あれ? あずさに松木さん」

「都先輩!?」


 いらっしゃいませの声が妙に聞き馴染みあるものだと思えば、カウンターの向こうで都香苗が店員の格好をしていた。あずさがこちらを見下ろし、したり顔を見せてくる。どうやら香苗のシフトを把握しての犯行らしい。


「何になさいますか?」

「え? あ、ジェラートのシングルのコーンをふたつでお願いします」

「はい。お会計、六四〇円になります」


 営業モードへの切り替えが早い。と思いきや、二人分の会計を済ます文香に違和感を感じてか、背後のあずさへ怪訝そうな視線を送っていた。


「奢り奢られを繰り返してるから問題なし」

「ならいいけどね。三六〇円のお返しです」


 納得したのかしていないのか。

 実際あずさの言っていることは真実だ。何かにつき相手側にジェラートを要求するのは文香も同じ。奢られたらいつの日か奢り返すのがふたりの間で妙な通例となっていた。「相手にプレゼントするって気持ちが大事なのよ」とあずさは講釈を垂れていたが、どこまで本気なのかはわからない。

 次はいつ奢ってもらおう、なんて考えながらお釣りを受け取る。とうのあずさ本人は、何を食べようかと冷ケースと睨めっこを始めているが。


「季節限定びわジェラートおいしそう! フミちゃんどれにする?」

「私は⋯⋯ミルクベリーにします」

「いいねぇ。後でちょーだい」

「先輩こそ一口くださいね」


 二人の要望を聞き、香苗はディッシャーを取り出した。すでに何度も掬い取られたのであろう。容器の中、溝だらけのジェラートを更に掘り下げていく。コーンに盛られたオレンジ色の山を前に、あずさの頬は無邪気にも綻んでいた。

 続いて文香のミルクベリーだ。濃厚なミルクに埋もれた赤と黒の斑点が輝いて見える。人のことを言えず見とれている文香に、香苗は優しく語りかけた。


「仲良いのね」


 すぐに、返事ができなかった。

 当たり障りのないお喋りのはずなのに、どうしてか喉が強張ってしまう。悟られないように、笑顔だ。口角を上げるんだ。


「ふふ、どうなんでしょう」


 声色も冗談めかして、うまく取り繕うことができたと思う。それでもどうしてか、肯定の言葉は出て来なかった。ジェラートを受け取った時に触れた香苗の手は、先程まで冷凍ケース作業していたため冷えているはずなのに、何故かそうは思えないでいた。

 やはりあずさはそんな文香の気も知らないで、コーンに巻かれた包装紙と格闘していた。どうせ剥かれてしまうのなら、最初から一緒になる必要なんてあったのだろうか。なんて考えは野暮だから口にはしない。


「じゃ香苗、また今度ね」


 そう言ってあずさは、文香の手を引っ張っていく勝手に進んでいく。暖かなその手は、触れているだけで溶かされてしまいそうだった。



【13:18】



「香苗って美大志望なのよ」

「え!?」


 駅へと向かう帰り道、あずさは唐突に話題を振ってきた。驚嘆の限りだ。目の前のミルクベリーをあずさが掬い取っていくのに反応できないほどに。 「うまー」と呟くあずさが自身のジェラートを差し出してきたので、遠慮なくその山を切り崩す。


「あ、おいし」


 びわの爽やかな口当たりが心地良い。時折紛れているジェラートが濃縮された硬い部分を舌で押し潰すのが快感である。

 それにしても美術系の進学とは、未知の領域過ぎて想像し難い。三年七組に所属していることの合点がいった。どの学科かは知らないが私立の倍率は七倍、国立ともなれば二十倍に迫ると聞いたことがある。百草高校入学時の倍率なんて到底及びもつかない。


「でも、大変ですよね。受験も特殊だし⋯⋯その、学費とか」

「猛反対されたみたいだけどね。でも予備校代と大学一年目の学費は自分で稼ぐって啖呵切って、一年生の頃からずっとバイトしてる。他のところも掛け持ちで」

「なんか香苗先輩、初対面のイメージと違います」


 意外の一言につきる。もの柔らかそうな印象を与える彼女が声を荒げる姿も、脇目も振らず創作に没頭する姿もいまいち掴めない。


「まぁ、あの店の採用倍率だって五十倍上回るって聞くし、香苗なら平然と乗り越えちゃいそう。ほら、昇降口脇の柱に一時期飾ってあった油絵、覚えてない?」

「折り鶴の絵ですか」

「それ香苗の」

「え!」


 雲海が掛かる山の峰を超えていく、折り鶴たちの絵だ。朝焼けを思わせる青の雲と白い空。その方角に向けて飛ぶ朱色の折り鶴が印象的だった。確か去年十二月のコンクールで入賞した作品だと記憶している。二学期終業式にて表彰されていた女生徒の姿が香苗と重なった。確かに思い返せばあれは彼女だったかもしれない。眼鏡はしていなかった気がしたが。

 あずさがコーン素材のスプーンを構え文香のジェラートを狙っていたので、後退してその手を避ける。


「もう一口!」

「いいですけど、先輩もくださいよ」

「食べ切っちゃいました」

「じゃ、あげません」


 どうやら自身が頼んだびわではなく、ミルクベリーの方が気に入ったみたいだ。いまだ照準を絞ってきているので、残りを早々に口へ放り込むとついに観念した。片居木あずさでも、文香と同じものを頬張り、楽しむ。当たり前であるはずの事実が文香には少しだけ嬉しかった。

 そんな戯れを繰り返していたら、もう百草園駅は目前まで迫っていた。こうしてふたりで過ごすのどかな日曜日を、あと何回味わうことができるのだろう。引退の影がチラつき始めた先輩の横、文香は心の中で指を折る。

 気付けば口が開いていた。

 

「先輩、少し散歩しましょう」

「今からぁ?」


 苦笑で応じたあずさの唇は、ジェラートを舐めた後が故に艶めいていた。抱いた想いは焦燥だったのかもしれない。頭の中で整理がつかないまま、言い訳じみた説得を試みる。


「今だからです。デザート食べたんですから歩いて脂肪を燃やしましょう。まだ日は高いですし」

「いいよ」

「えっ?」

「どこまで行く?」


 まさか即答されるとは思わなかった。にやけた面持ちでこちらを見下ろしてくる。これは冗談交じりで返している顔だ。それでも、こちらから言い出したのだから、待たせるわけにはいかない。


「⋯⋯じゃ、百草園に」

「ほう。なんで百草園?」

「モヤモヤしてる時によく行くんで、なんか咄嗟に⋯⋯」

「なになに、悩み事ですかいな? 年頃の女の子だねぇ」

「なんでおばあちゃんじみてるんですか」


 せっかく秘密を一つ曝け出したというのに、おどけた口調で誤魔化されてしまった。笑いを絶やさないあずさを見てると、赤面したくなる気持ちすら呆れに変わる。まぁ、今日はもういいか。なんて諦めかけたその時だった。


「おばあちゃんにはあの急勾配は厳しいけど、私たちは女子高生だからね。よし行こっか」

「え! 行くんですか!?」

「違うの?」


 違くない。もっと一緒にいたい。冗談に冗談で返したら本当に行くことになってしまった。正負の数みたいに。

 首を横に振ると、「おっけー」と軽々しい返事が帰ってきた。この人は文香のことをどこまで理解して、その言動に至っているのだろうか。そんなことを尋ねればまた茶化されてしまうだろう。

 考えていても答えは手に入らない。いずれにせよいまは、ふたりの時間が伸びた喜びを噛み締めることにした。


 

【13:26】



「免許取ったら絶対通りたくない道ナンバーワンだね」

「それには同意です」


 時折通りかかる自動車を眺めそんな他愛もない会話を繰り返す。激坂も後半に差し掛かり、百草園の一角が見えてきた。身体は火照り、姿勢がどんどん前のめりになる。一方のあずさは余裕綽々としているが。

 このまま進めば右手にその入り口と、左手にはさっきまで練習していた弓道場が顔を覗かす。もう少しだ。


「にしても今年の一年めっちゃ多いね。指導する側も大変だわ」

「あずさ先輩効果ですよ。間違いない」

「照れるわー」


 そんなことを言って、顔色一つ変えないでいる。

 結局新入部員は十三名となった。まだ体験入部期間なので多少の前後はあるが、一番大所帯の学年となるのは確定だろう。試射会では危険を考慮して、数メートル先の的を補助付きで狙うだけのことしか体験させてあげられなかったが、余程の満足度だったようだ。しかしこれから二、三か月間、夏休み直前まで彼らは的前に立たせてもらえない。何分、一歩間違えたら人が死にかねないのが弓道だからだ。徒手、ゴム弓、素引き、巻き藁練習での許可を得てようやく的前に立つことができる。長い長い行程の中で、何人かは辞めていってしまうだろう。

 気が付けば百草園の正門が出迎えてくれていた。最近設置されたであろう案内板や欄干は汚れが目立っていないが、質素な造りの門戸は随分古いらしい。

 シーズンから外れれば余程客足は少ない。見たところ人の気配は感じられないし、受付ですら無人だ。窓口に置かれた『入園料三〇〇円』と書かれた木箱に百円を投入する。モモ高生なら割引なのだ。


「入園料分でダブル頼めば良かったんじゃないの?」


 盲点だった。バツが悪いのでここは聞き逃す。

 百草園に入ってからも階段が続く。五十メートルも歩けば広場に出る。ツツジやシャクヤクが咲いているが、五百本越えの梅が鳴りを潜めているため園内は少しだけ彩に欠けているように思えた。松連庵と呼ばれる趣ある日本家屋では蕎麦や甘味をいただくことができる。ここを右手に曲がれば、ようやく展望休憩所だ。


「あれ?」


 すでに一人の先客がいた。日野の景観をバックに、ベンチに腰を下ろして読書に勤しんでいる。私服ではあるが、その黒髪のストレートには見覚えがあった。 


「秋間さーん、こんにちわ!」

「片居木先輩に松木先輩!? こっ、こんにちわ⋯⋯」

「珍しいねー。どうしたの?」


 驚かしてしまっただろうか。休日に二人の先輩に遭遇すれば無理もない。この時期の百草園には誰も来ないだろうと思っていたのは茜も同様らしく、尚更のことだった。 


「いえ⋯⋯風に当たりながら本でも読もうと。お二人こそどうしたんですか?」 

「散歩。フミちゃんが『行きたいーッ!!』言って駄々こねるから」 

「先輩、そろそろ止めましょうか」

「はい」


 茜みたいな純朴そうな子は、嘘だと否定しないと信じてしまいそうだ。案の定文香たちの応酬を前に目を瞬かせていた。ダボついた白のセーターにモスグリーンのチノパンという組み合わせは、いまの百草園みたいに落ち着いている。茜も散歩がてら訪れたのだろうか。問いてみたら想像以上の答えが返ってきた。


「遠縁が元々ここを管理している家でして⋯⋯よく遊びに来るんです」

「ええ!?」

「うっそ!」


 あずさも珍しく仰天している。彼女の想定を上回ることなんてそうそうできるものではないので、ちょっとだけ羨ましく思う。それにしても百草園の運営は京王電鉄のはずだが、以前は個人の所有する庭園だったのか。

 

「まさかあそこに住んでたり?」

「流石にそういうわけでは⋯⋯。あの茶屋はスタッフのバックヤードとして使われたり、時々宴会用などで貸出されるだけですね。でもまぁ、自宅はここから徒歩二分くらい近くです」

「ほー! 名家の子だね」

「いえ、全然!」


 話過ぎたことを恥じてか、途端に耳を赤くさせた。茜の白い肌に灯った熱がシャクヤクみたいで可愛らしい。全力でかぶりを振っているので、彼女の家は一般家庭となんら変わりないことは事実なのだろう。

 思い出したかのように文庫本を勢いよく閉じる。猫柄のハードカバーは手作りなのか。端から刺繍糸のほつれが顔を出していた。


「もうこんな時間ですねっ。お昼を食べに帰りますので、私はこれで⋯⋯」

「うん、また明日お昼休みにね」

「じゃねー茜ちゃん」


 あずさに下の名前で呼ばれ、また茜は赤面した。わざわざ「失礼します」と頭を下げてから、梅の木の向こう側に消えていく。お休みのところを失礼したのはこちらだというのに、何か申し訳ない気分になってしまった。


「いい子ですね」


 弓道部の新入部員もそうだが、あどけなさ残る後輩たちは皆一様に可愛い。

 一方のあずさはというと、先程まで茜のいた木製テーブルに弓具を降ろしている最中だった。我が子に触れるが如く、弓に負荷が掛からないよう慎重に扱っている。背中越しに「そーねぇ」という返事を向けられた。


「ところでフミちゃん。ここには一体何をしに?」

「お祈りです」

「ほう」


 ここからは文香のターンだ。自身も鞄をベンチに降ろし、展望台の柵に手を付いて街並みを見渡す。百草高校はもちろん、浅川と多摩川やART GELATERIA等も一望できる。青空の果てに浮かぶ白いわた雲たちが穏やかに流れていた。

 隣にあずさが並ぶ。 


「入園で百円払ったじゃないですか」

「うん」

「あれが参拝料です。この景色に向けてお願いごとをします」

「きみ面白いことしてるね」

「気持ちの問題ですから」


 高幡不動尊とか、どこかの神社とか。願掛けなら相応しい場所は確かにいっぱいあるだろう。でも詳しく知らない神様なんかにお願いごとをするより、自分が好ましく感じた何かに向かって、自身の想いを噛み締める方が効果があるように思える。


「神社方式? それとも寺?」

「寺⋯⋯かな?」

「よっしゃ」


 普段は意識していなかったが、拍手をしていないので寺院だと思われる。あずさはそう意気込むと口元で合掌し瞳を閉じた。

 静寂を伴った秀麗な横顔に、吹き抜けた風に靡く長い頭髪。美しいという意味の熟語が人の姿を得たら、きっと彼女になるのだろう。自分の願い事なんて忘れて、文香はただそこに立ち尽くしていた。

 全部自分の力で片付けてしまいそうな先輩も、何かにすがらなければ解決しない問題を抱えているのだろうか。なんて。


「⋯⋯いやちょっと、フミちゃんもしてよ。ひとりにさせないでおくれ」

「あ、すいません」


 気づけばお祈りは終わっていた。降って湧いた疑問とさっきまでの横顔が脳裏に焼き付いて消えない。それでも手を合わせ、今度は文香が目を閉じる。周囲に人がいないからできることだ。そうして、願いを心の内で唱える。誰かに向けた祈りを、隣の人にだけは聞かれないよう――


 あずさ先輩みたいになれますように。



「はー」


 つい息を止めてしまっていた。なけなしの胸が雀の涙ばかりに膨らむ。振り向くと横ではあずさが、まじまじと文香を見つめていた。人の事を言えない。途端に恥ずかしくなって目を逸らす。その一連の挙動が面白くてか、あずさは途端に破顔した。


「何をお願いしたの?」

「言ったら意味無いじゃないですか」

「存外そんなことないかも」

「だとしても先輩には言いません!」

「えぇー?」


 可笑しさが伝播して、こちらも自然と笑いがこみ上げてくる。やはり、いまにあずさに想いを告げるわけにはいかない。その手助けなんて乞おうものなら、必ず困らせてしまうから。


「さ、座って部活の話をしましょう! 去年どんな指導を心掛けてたか教えてください」

「なに、先輩然としてきたねフミちゃん」

「もう先輩ですので」


いまはそれよりも、この幸福な昼下がりをもう少しだけ味わっていたかった。



【13:56】

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