第三話 変わらないモノ
【4/16(Sat) 12:41】
土曜日の授業は午前中で終わる。いつもより早く帰れて嬉しいと取るか、たった四限のために登校するのは億劫と取るか。空に滲んだ鈍色の雲を眺め、そんな些末な思考の境界を行ったり来たりする。どちらにせよ、今日は欠かせない大切な用事があった。
号令、起立、気をつけ、礼。一連の動作をやや食い気味で片付ける。この日も文香の足取りは早い。なにせ今日は新一年生たちの部活動体験開始日なのだから。
やや薄暗い特別棟を抜け、まずは格技棟に設けられた更衣室に向かう。廊下は既に生徒たちで溢れ、案の定更衣室は運動部員でごった返していた。。人口密度がいつもより高く感じられるのは一年生がいる影響だろう。彼女たちは見分けやすい。落ち着きなく周囲に遠慮しながら、みな一様に緑のジャージに着替えているからだ。
一方、試合用のユニフォームだろうか。『MOGUSA』の名を背負うバスケ部やバレーボール部の少女たちは、普段よりも精悍で勇ましく見えた。文香も彼女たちも一様に、今日から誰かの先輩になるのだ。
上衣の袖に腕を通し、帯を腹付近で締める。長めに余ってしまった帯を貝の口という結び方で整え、あとは袴を帯の高さに揃えて取り付ければ完成だ。男子は骨盤の位置で巻き付けるようだが、女子の締める高さは胸の下辺りである。その方が身が引き締まって心地良い。
この高さの関係上、全体の配色を見ると女子の方が黒の占める割合は広い。きっぱりとしたコントラスト。白と黒の境界線に指を滑り込ませ、崩れていないことを確認する。滑らかな袴の感触が指の腹にしっとりと馴染んでいた。
部室棟は体育館に併設されている。運動部が所狭しと押し込められた、その一階部分の片隅に弓道部の部室はあった。主に弓と矢筒が場所を取るので部室はほぼ物置と化してしまっている。既に支度を終えている数名の部員が部室の外で弓を携えて待機していた。
「あ、来た」
会釈を行う前に、三年の男子部員から「ほら」と弓を渡された。文香が現在使用している物である。弦は既に張られていて、所々にできた節は触ると気持ちがいい。
「はい、これも」
現部長である彼女の名は北野という。受け取った矢筒を肩にかけると、続いて数十枚の紙束を手渡された。いままさに矢を放たんとするあずさが、でかでかとプリントされた勧誘チラシ。裏面には高校から道場までの道案内図や活動の様子が印刷されていた。
チラシのあずさは用紙の遥か外を見据えていて、カメラの存在などまるで意に介していない。良いカメラを使っているのだろう。長い睫毛も、道着の皺も、傷んだ矢羽根さえもよく見える。文香のスマホカメラとは画質がケタ違いだ。
「やっぱり綺麗ですね」
「ね! 流石写真部、頼んだ甲斐があるわぁ」
「おい部長、時間押してっぞ。松木はそれ持って昇降口向かって。片居木が先行ってるから一緒に部員勧誘頼むわ」
「え、呼び込みですか」
「凸凹コンビが一番目を引くだろうからな。荷物運びはこっちでやるから」
今日は新入部員用の弓具を持っていく必要があるため少々荷物が多い。部室内の物足りなさ、部員の少なさを見るに既に何人かは先行しているみたいだ。
「ほい、行った行った! あずさが暴走してたらフォロー頼むよ!」
幾ばくかの後ろめたい思いはあるが、これは適材適所だ。背中を押す北見たちに向けて、「いってきます」と声を上げた。
いまだ人の群れる廊下を抜け、昇降口前の広間を目指す。
人間の身長など軽々しく上回る弓は好奇の視線を集めた。文香はこの瞬間、小さな快感を覚える。ただ純粋に長大な弓は、端麗な流線形を保ったまま文香に身を預けてくれている。望むらくはこの弓のような人間になりたい。帯の締め付けに抗うように、肺に空気を送り込む。今日は強く巻き過ぎたかもしれない。漏れ出してしまった呼気はすぐに霧散して、自分の領分が分からなくなった。もう一度、深呼吸。それに合わせて伸びをする。危うく弓が天井に触れるところだった。
人だかりの中から弓が突き出ていたので、あずさの発見は容易だった。弓の先端、末弭が左右に揺れるたびに黄色い悲鳴が上がる。弓と矢筒が当たってしまうのは致し方なしと諦め、人の間隙に身を滑り込ませた。
「弓道部見学大歓迎よ、是非いらっしゃーい。あっら可愛い子! 一年生かしら、弓道部はいかが?」
「何やってんですか先輩」
こちらの呆れ顔など我関せず。文香を見つけるやいなや雑に絡み、観衆の前に引きずり出した。文香より背の高い後輩しかおらず目のやり場に困る。
「いまならお買い得、入部したらこの先輩が付いてきます! ちっちゃな子ですが、れっきとしたウチの二年生! 最初は未経験者だった先輩ばっかりだから安心ねー」
再び歓声が起こる。「かわいい」、「ちっちゃい」などなど。不本意極まりないが反応が良好だから致し方なく受け入れる。一年生たちの初な瞳は期待で輝いていた。
去年の自分もこんな感じだったのかな。
その存在に興味さえなかった文香が弓道の門戸を叩いたのは、去年も勧誘を行っていたあずさの影響が大きい。当時からあずさは美しく、一挙手一投足は自信に満ち溢れていて人を魅せる引力があった。一年生の瞳には魅力ある先輩として映っているのかどうか、自信に欠けてしまう。いまの自分は一年を経て、あの頃の片居木あずさにどれだけ近づけただろう。
少しだけ浮かない気分になってしまった。その様子に気付くことのないあずさは文香の肩に腕を回し、二人だけに聞こえるよう顔を寄せる。髪を縛り上げているので、惜しみなく晒された目と耳がいつもより近くに感じる。接近する二つの泣き黒子に、文香の心拍は途端に上昇した。
「助けてぇ⋯⋯フミちゃん⋯⋯」
「なになに!? なんですか!?」
「自分の写真ばらまくのは流石に恥ずかしい⋯⋯」
あずさが胸元で抱いているのは、文香の手にあるチラシと同じものだ。人寄せは大成功しているが、厚みがある山の様子を見るにまだ一枚も配れてないのだろう。
「あー、ですよね」
「だから頼んだ!」
なんと調子の良い人か。紙束を押し付けるや否や、再び衆前に躍り出る。軽やかに弾むポニーテールが実に愉し気だ。願わくばいつまでも、その横顔を隣で眺めていたい。そんな絵空事を音にしても、きっと彼女の溌溂とした声に掻き消されて届きはしない。
「はいはーい、この後弓道場で見学会やりまーす! お試しで弓も引けるよ。是非お立ち寄り!」
さっきよりも立ち止まっている一年生が増えている気がする。羨望の眼差しを向けるこの子たちと、文香。その違いは、どこにあるのだろうか。
【12:55】
地獄の百草参りルートでは大回りとなるため、裏門を抜けて弓道場へ一直線に向かう。百草高校の敷地自体に高低差があるため、裏門に辿り着くまでも十分な徒労だ。ちなみに朝は開錠されていないので、朝練に参加する場合はあの激坂を通らねばならない。
新たに得た体験希望者を引率しつつ、簡単な質問などに応じながら進む。さして広くもないグラウンドを野球部、サッカー部、陸上部が分割して、各々一年生たちの相手をしていた。瑞希生徒会長や悠人、渚の姿も見受けられたがこちらに気付く気配はない。運動部の活気に満ちたグラウンドを横目に文香たちは歩く。弓道場を利用するのは当然弓道部しかいないため、練習場の取り合いとは縁がなかった。
新入生歓迎会や事前告知ポスターの甲斐あってか、辿り着いた弓道場は賑わいを見せていた。現部員は三年生が六人で、二年生は九人。見学者はすでに十名ほどいた。道場の敷居を跨ぐ際に、神棚に向けて揖を行う。道すがら作法について軽く説明しておいたので、一年生たちも文香とあずさに習って頭を下げて入場していく。緊張からくるぎこちない動きが実に初々しい。
到着に気付いた顧問の宮原が、文香たちが引き連れた一年生の人数に感嘆しながら歓迎してくれた。
「片居木さんに松木さん、勧誘お疲れ様。今年は大盛況ね。見学希望者はこっちにいらっしゃい」
宮原陽子は現代文の教師だ。四十歳を過ぎてからお腹に肉が付いて⋯⋯とよく愚痴をこばしているが、確かに少々恰幅がいい。今年は一年二組の担任を持っていると聞く。
一年生たちは部員の射が見やすいようまとめて上座に集められていが、どう見ても収まりそうにない。二年生は看的所に数名、残るは射場の隅にスタンバイしていたので邪魔にならないよう合流する。控えでは用具の準備を整えた三年生たちが立の始まりを今か今かと待っていた。三年生の中で北野部長だけが弽を付けていない。代わりにその手にはあずさの弽が握られていた。
「ぶちょー、私も?」
「当たり前でしょ。大前お願いね」
「えー、二的辺りがいい」
「ほらほらさっさと支度する!」
「勧誘行かせたの真弓のくせに⋯⋯」
言って渋々と支度を始める。ぶつくさと子どもっぽく頬を膨らませていたが、弽を受け取った瞬間におどけた相好は鳴りを潜めた。紫色の紐で弽を右手に固定する振舞いですら年季を感じさせる。幾万の射に付き合ってきたであろう用具たちは色褪せ、擦り傷にまみれていた。自分の手元を見ているようであずさの焦点はどこか遠く彼方に向けられている。もう、彼女だけの世界に入り込んでしまった。
「じゃあそろそろ、立を始めましょうか。部長さん?」
宮原の合図に応じて、一年生に向けて部の紹介をしていた北野やその他部員が場を鎮める。百草高校弓道場は五人立であり、各々が射る的の名称を上座側から大前、二的、中、落前、落という。あずさを最前に五人が本座に並ぶと、その緊迫感に場内はいやでも静寂が満ちた。
「はじめ」
形式は試合と同様、坐射のようだ。四つ矢を一回だけ行うらしい。恐らく時間の都合だろう。それでも布擦れの音と弓矢が触れ合う音だけが耳に届くこの空間では、時間なんて止まっているように錯覚してしまう。
大前のあずさは足踏み、胴造りを終え、弓構えに入ろうとしいた。勧誘時のお転婆は凪のように静まり、美しい面貌からは感情が消え失せている。呼吸の度に唇が微弱に開閉し、射場から吹きつけた風に頭髪がたゆたう。的を捉えるその視線は揺るがない。弓道に耽溺するあずさを邪魔立てすることは何者にも出来ない。その後ろ姿が去年とは何一つ変わっていなくて、文香は心の底から安堵した。
――私が目指した先輩の背中は、まだ変わらずそこにある。
そのまま弓手を押して弓を開いてから、打起す。肩が不自然に上がったりしないことから、綺麗に力が抜けているのが見て取れる。そこから更に引分けていっても、体軸が揺らぐことはない。教本に書かれている「天地縦横に伸び合った状態」。あずさの会はその体現だった。会とは矢を射る機会を待つ、多くの人がイメージしやすいであろう弓を引き切った状態のことだ。会に入ってからもあずさの精錬された型は弓の強さに押し負けない。弓は骨で引くものと言われているが、ここまで筋肉に頼ることなく射法八節をなぞることができるものなのだろうかと疑問に思えてしまう。
無窮にも感じた会は、現実に引き戻されるかのような凄烈さを伴った弦音とともに解放された。矢が帰巣本能を持っていて、本来あるべき所に戻っていくのが必然のように的に吸い込まれていった。パンッと、小気味いい破裂音が反響する。
「よし!」
反射的に上がる部員からの矢声。その迫力に驚きながらも、一年生たちから拍手があがる。「的中したらいまみたいに声で称えるものなのよ」と宮原が優しげに説明しているのが見えた。一方のあずさは感慨に浸ることもなく、残心を終えて次の行射に備えている。
続く三年生たちも流石に洗練されている。男子部員の射は気迫に満ちていて、矢は一直線に飛んでいく。女子も一連の所作が流麗で美しい。がしかし、一年生たちは大人しく鑑賞しながらもひとつの違和感に戸惑っている様子だった。それもそのはず、あずさと他の四人で射の型が違うからである。
彼女の流派は日置流というらしく、百草高校弓道部で教えられる小笠原流とは会までの過程が大きく異なる。もっと広義的に言い換えるならば、あずさは斜面打起しで他の部員は正面打起しだ。弓構えの段階で一度弓を開いてから、弓手妻手を肩よりやや上まで掲げ、会にまで持っていくのが斜面。正面は身体の中心に弓を置いて弓構えし、そのまま大きく上げてから弓手を押して弓を開き、引分けて会に至る。前者は手の内を定めやすいが、姿勢が崩れかねない。後者は手の内を定め辛いが姿勢が安定するという、各々メリットデメリットを抱えている。顧問の宮原は東京で多く採用されている小笠原流を中心に教えているが、あずさはすでに母親から指導を受けていたらしく、日置流を貫いている。
流派は違えど片居木あずさという存在がみんなの指標であったことに変わりはないだろう。彼女のようなまたとない手本があったからこそ、この世代はここまで精錬されたのだ。
この日の立は二十本中、十四本的中という結果となった。皆中はあずさのみとは言え妙妙たる成績だ。後になって北野が「来週の試合でこれやってよ」と漏らしていたが、その顔はとかく満足気だった。
【13:48】
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