第二話 まだ何も知らない

【4/11(Mon) 15:19】



 文化祭実行委員会は普通棟三階の講義室で行われるとのことだった。

百草高校の本校舎は鳥瞰して見ると『エ』の形をしていて、多摩丘陵側が特別棟、国道沿いが普通棟となっている。普通棟の一階には図書室や教員用の会議室。二階から四階までは順に三年生、二年生、一年生の教室が押し込まれていた。以前はどの学年も八クラスまであったらしく、現在の七クラス体制では必然的に教室が余る。それらの教室は数学や英語等の少人数クラスに。または今日みたいな委員会の集会に活用されていた。

 ちょうど目的地は二年生の階に位置している。それどころか文香の二年一組とは隣合わせであったため、心の準備はホームルーム中に済ましておく必要があった。

 

「では号令」

「起立、気をつけ」

 

 礼。

 担任の中年女性古典教師のやけに長いホームルームも、新しい学級委員長の号令もようやく耳に馴染んできた。あたふたとクラスメイト達が動き出す。部活に勤しむ者、家に直帰する者の他に、委員会に向かう者が今日は多い。所属委員会が確定して最初の月曜日、以降は第二と第四月曜日が委員会集会日と定められていた。

 周囲を見渡し、一組の文化祭実行委員を探す。見つからなかったのは文香の身長が低かったからではない。いつも通りホームルームが若干伸びたがために、早々に移動してしまったからである。廊下を流れる他クラス生徒の姿が視界の端に映り込み、文香の歩みを焦らせた。

 

「じゃあ文香、また明日」

「うん、バイバイ」

 

 別れの挨拶を交わすのは、一年に引き続き同じクラスの友人だ。吹奏楽部の名村詩音なむらしおん。新しいクラスに踏み込んだ直後、隣の席に親しい存在がいた時の安堵をふとした瞬間に思い出す。

 詩音に手を振り、前方の扉から教室を抜ける。二歩先が講義室だ。

 

 どうやらまだ完全に集まり切ってはいない。窓側から三年より降順、黒板側からは一組より並び通りに着席している様子だった。

 教室中央列の最前列に見知った顔を二つ見つける。一組の文化祭実行委員の二人だ。女子生徒の方はまだ交友が少ないが、名前は川口渚かわぐちなぎさ。男子生徒とは話したことすら無いけれど、確か渡部と名乗っていたと記憶していた。なにやら渡部は他クラスの男子と話し込んでおり、渚はその様子を傍観している。

 ふと辺りを見回した渚が文香に気づき、怪訝そうな表情を見せるも小さく手招いてくれた。机の隙間を練ってそこへ向かう。他学年が混在する教室を抜けるということに、どこか奇妙な感覚を得た。

 

「松木さんってこの委員だったっけ? まさかうちのクラスだけ三人?」

「ううん、生徒会の仕事の一貫で」

「そういえば自己紹介の時言ってたね。そんな仕事まで請け負うとは、生徒会は大変だぁ」

「会長に頼まれちゃって、もうなんとも」

 

 文香の苦笑が渚の笑みを誘った。戯けた口調から親しみ易さが滲み湧く。日に焼けた肌の中に、白い歯が仄かに顔を覗かす。何部だったまでかは思い出せないが、頻繁に屋外に出ているのだろう。高い位置で結われた髪が快活な雰囲気を醸し出していた。

 良い人そう。思考停止の見解が脳裏に浮かび出た。どんな人間かは、まだ名前くらいしか知らないのに。

 

「生徒会長っていうと高汐先輩でしょ! あの人部活の先輩なんだー」

「ああ、川口さん陸上部だったっけ?」

「うん!」

 

 共通の知り合いが一人いるだけで会話はいくらでも広げられる。交友を深めたいところであったが、いまは優先すべきことではない。

 

「そうだ、どこに座ろう」

 

 横は六列、縦は七列で座席数は四十二席。各クラスから二人派遣で、学校全体で二十一クラスだから実行委員は四十二人。文香が座れる余地がない。当てもなく周囲を見渡していると、見兼ねた渡部が声をかけてきた。少し太めの眉毛と、掴みどころのない無表情が特徴的な男子だった。

 

「座る席なら、あれはどう?」

 

 言って渡部は窓際を指差す。黒板消しクリーナーの横、そこでは使い古されたパイプ椅子が西日を浴びて細長い光沢を纏っていた。

 

「ありがとう!」

「どういたしまして」

 

 ほぼ全員が席に着きかけているを見て、慌てて文香は駆け出した。

 背もたれに手を回し、黒いクッションを掴む。日向にあったはずなのに、金具部分はやけにひんやりと冷めていた。黒板横に座るのは流石に小っ恥ずかしい。教室後方に席を確保すべく、椅子を持ち上げたや否やだった。

 

「あらフミちゃん、奇遇じゃないの」

 

 すぐ背後から聞き慣れた声が文香に向けられる。フミちゃんという省略した呼び方は、文香が知る限り一人しかいない。案の定その人物は眼前に座していた。

 

「あずさ先輩!?」

「どもー」

 

 間延びした口調で、頬杖をついたあずさが文香の挙動を眺めている。下唇に添えられた小指がやけに艶かしく感じられた。

 

「どうしてここに!?」

「文化祭実行委員だからに決まってるじゃない。他に理由ある?」

 

 ない。それでも思わぬ人物の出現に驚きを隠せないでいた。

 「フミちゃんこそどうして?」と返すあずさに経緯を語ると、瑞希の名前に対して訝しげな面持ちを見せた。片居木あずさと高汐瑞希の組み合わせは、百草高校における高嶺の花だ。ふたりが並んでいる様は、両者の後輩である文香でも近寄りがたい。親しい仲のはずだが、何か引っかかる様子のあずさは遠い空を眺めて考え込んでいる。

 

「ふぅん、瑞希にねぇ」

「はい。皆さん座ってください」

 

 教員の登場により会話を途切れた。振り返ると教室前方の扉にて中肉中背の男性教諭が呼びかけていた。声の主は大川という、科学を担当する定年間際の先生だ。静かでやさしげなだが太くて年期のある一声。反射的にその場でパイプ椅子を展開させて座り込んでしまった。

 

「あ」

 

 気づいた時にはもうタイミングを逃していた。

 正面であずさが笑いを堪えて突っ伏しているのがちょっとだけ癪に障る。これを狙って話しかけていたのならば、いやに計算高い悪戯だ。

 ヒクついている頭に一言物申したい気持ちもあったが、教室の注目を一身に浴びている文香にはそんな余裕はなかった。

 

「ええと、君は」

「あっ、生徒会から監督役にと派遣された松木です! よろしくお願いします」

「あぁ、聞いてますよ。なるほど」

 

 どうやら話が通っていたようで、文香の存在をすんなりと汲み取ってくれた。僅かばかり声が上擦ってしまったのが羞恥心をくすぐる。

 あずさは依然、自身の腕に頭を埋めて笑っていた。放課後の部活動時には目にもの見せてやると人知れずに誓いを立てる。

 

「じゃあせっかくだから、役員決めまでは生徒会さんに進めていただきましょうか」

「えっ」

 

 さっき以上に情けない声が漏れた。

 余程素っ頓狂だったのだろうか。教室内の空気が緩んだので、あまりマイナスに受け止めないでおくことにする。やむなくおずおずと教卓の側まで出ていく。正面に立たなかったのは、教卓で首元まで隠れてしまうからである。

 役員決めなんて、一番難しいところじゃないか。

 内心で不服を漏らすが、壇上に立った以上引くことはできない。大川が軽く自己紹介を始めたので、それが終わるまでに腹を決めることにした。

 

「ちなみに私は科学を扱ってます、大川俊之おおかわとしゆきです。文化祭実行委員会の顧問ですので、これから半年間、どうぞよろしく」

 

 白髪交じりのやや薄くなった頭を緩やかに下げる。応じてまばらな会釈が返ってくるが、教室には沈黙が落ちていた。机のずれる音、制服が擦れる音がいやに耳に障った。

 

「本日はいませんが、副顧問は現代文の宮原陽子みやはらようこ先生です。何かありましたらこの二人にどうぞ」

 

 宮原陽子は弓道部の顧問だ。親しみのある丸くて穏やかな笑みが脳裏に浮かぶ。馴染み深い大人の存在に安堵する。これにはあずさも意表を突かれたようで、「へぇ」と漏らしていた。

 

「僕が長ったらしく話しても仕方ありませんね。あくまで文化祭の主体はあなた達です。もちろん、教員一同は全力でサポートしますし、学生の希望を叶えられるよう善処します。ただその根幹には、皆さんの意欲があることを忘れないでください」

 

 と、大川はそこで締めくくった。

 

「では松木さん、進行をお願いします」

「はい」

 

 数多の視線が文香に向けられた。生徒総会などの進行で衆前にて喋る機会はあったが、教室のような近い距離感で全学年を相手にするのは身が引き締まる。

 すぐ目の前で渚が、拳をつくって小さく揺すっている。口が「頑張れ」と音を発せずに告げていた。

 

「改めまして、生徒会の松木文香です。二年一組です。文化祭は実行委員だけでなく生徒会とも連携して開催する行事ですので、その橋渡し役を務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いします」

 

 軽く揖をすると、小さな拍手がまばらに帰ってくる。リアクションがあるだけ心強い。人より大きく手を打ってくれているあずさや渚の存在がありがたかった。


「さて、今年の文化祭は九月の十、十一日に行われます。それまでの期間、皆さんには各々のクラス企画の取り纏め、パンフレットや広告の作成、当日の運営などに関わってもらいます」


 欠片も関心がなさそうな面持ちの人間がちらほら見受けられる。存外、自分も数学とか科学とかの授業中はこんな顔をしているのかもしれない。教師とは余程胆力のある人間でなければ務まらないのではないか。教室の端で静観している大川を見て、ふとそんな考えが過った。

 

「ちなみに去年は『羽ばたけ八百万の青春たち!~Sky is the LIMIT~』というスローガンのもと開催されました。ちょっと長いですね。一年生の子たちも見に来てくれたかな?」


 視線を廊下側の列に送ると、何人かが頷き返してくれた。その中の真面目そうな可愛らしい女の子とがっちり目が合ってしまい、お互いに気恥ずかしくなった。それでも、自分の話を真摯に聞いてくれる人がいるのは嬉しい。


「ともあれこういうスローガン決めなども委員会の仕事です。頑張っていきましょう」

 

 少々不格好だったかもしれないが、手始めの挨拶としては上々だろうか。

 さて、問題はここからである。


「では最初に、委員長を決めていきたいと思います。委員長は二年生に務めていただくのですが、誰か立候補してくれる人はいますか?」


 役員決め。明らかに面倒な仕事を率先して引き受ける物好きは稀だ。小中高、どの世代でも難儀した課題である。

 去年も実行委員を務めた人間がひとりくらいいるだろう。沈黙が落ちればその人に持ち掛ければいい。そんなことを画策していた矢先だった。

 

「はい」

 

 淀みない返事が、屹然とした挙手とともに発せられた。教室が静かにざわめく。中でも驚嘆していたのは文香と渚。

 手を挙げたのは渡部だった。

 

「話してもいい?」

「あっ、うん。どうぞ」


 壇上に上がった渡部に立ち位置を譲る。これだけ注目を集めても顔色ひとつ変えないでいるのは、予め立候補を決めていたからなのか。

 着席していた時は気がつかなかったが、こうして対面すると男子にしては低身長だ。一六〇cmを少し超えているくらい。その体躯で彼は堂々と語り始めた。

 

「二年一組、渡部翔太わたべしょうたです。昨年も文化祭実行委員として八重祭に携わりました。八重祭までの一連の流れ、当日の動きをよく知る人間が運営の中心にいた方が円滑に進めると思います」


 改めて受けた自己紹介で、『ワタナベ』ではなく『ワタベ』であると自分の記憶違いに気付かされた。名前を呼ぶ機会が無くて助かったと胸を撫で下ろす。そんな文香の内心は露知らず、渡部翔太は続ける。

 

「正直な話皆さん、一、二年生は部活を。三年生の方は受験を控えあまり委員会に注力したいとは思ってないでしょう。いまは委員会は月に二回と言えど、どうしても夏休み辺りは時間を多くいただいてしまいますから。けれど、何かに関わった以上、そこで過ごした時間はその人にとっても大切なものであって欲しい。実行委員も当然に」


 言葉がつかえない。予め用意したものを反復したのか、はたまた自然体で本心を告げているのか。いずれにしても、器用な人間だと思った。


「部活も学業も、どの分野も蔑ろにさせません。そんな運営を目指します」

 

 そこで言葉を切って、翔太は文香へ目配せした。演説はここまでのようだ。他に立候補者がいないのを確認してから、「彼に委員長を任せてもよろしいという人は拍手をお願いします」と促した。みな一様に手を動かす。

 早々に委員長が決まって良かった。掌を弾く音は、そんな思いを代弁しているようにも聞こえた。翔太の言葉に賛同しているかは別として。

 

「賛成多数と窺えましたので、この件は承認されました」

 

 おおよそ生徒会長の真似事だったが、難関は無事に超えられた。翔太に視線を戻すと、ようやく彼は少しだけ口角を緩めてくれた。

 

「松木さん、進行ありがとう。もう代わる」

「え、あ、じゃあお願いします……」

 

 あまりにも淡々としていて、感傷も何もなかったが。

 決定したのは何よりだが、ちょっとだけばつが悪い。ただ突っ立っているのも格好が悪いのでパイプ椅子に腰を下ろす。正面のあずさが小声で「お疲れ」と労ってくれた。

 

「では他の役職も決めましょう。その前に簡単に、委員会の構成の説明を」

 

 白のチョークを取り組織図を書いていく。ぶれた直線と、上手くも下手でもない不器用な字にちょっとだけ親しみを覚えた。

 

「まず副委員長を二人、三年生と二年生から一人ずつ選出します。仕事は主に運営に纏わる決定事項の精査や、実行委員の取り纏めなどを行ってもらいます。次に書記が一人ですが、これは一年生にお願いします。仕事は議事録の作成や総務の補佐です。最後に会計が一人。学年は問いません。また副委員長と書記の三名には、其々の学年の代表も兼任してもらいます。」


 これに委員長と生徒会監査役を含めた六名を大きく四角で囲む。


「次に広報班、企画班、機材・飲食班、装飾班があり全員がいずれかに所属してもらいます。この所属班を決めるのはさ来週なので、細かい説明は総務を確定してからにしましょう。では、立候補者はいますか?」


 きた。肌に突き刺さる、不快な静寂。互いが互いに様子を伺い合い、自分は関係ない存在だと視線を手元に落とす。

 けれどもその静けさは思いの外早く打ち消された。


「はーい」


 委員会が始まる前、翔太と話していた男子だった。間延びした声とともに立ち上がる。一八〇cm近いだろう上背は屹立しているだけで存在感を帯びる。前に出ようとして、翔太に手で制止させられていた。


「あ、ここでいい? おっけ。二年四組の三浦悠人みうらゆうとです。自分も翔太と同じで去年も文化祭実行委員でした。他に副委員長やりたい人いないようなら、俺でどうでしょうかね?」

 

 もしかして二人は示し合わせていたのだろうか。悠人は確認を取るように周囲を見やる。人懐っこそうな笑顔と運動部特有の締まった体付きが印象的だった。

 ポツポツと拍手が送られ始める。再確認しても立候補者は現れなかったため、翔太は悠人の名前を黒板の空欄に書き添えた。


「では二年は三浦君ってことで、次は……」

「はい」


 続けざまに声が発せられる。天井に向けすらりと伸びた腕。

 それは紛れもなく、あずさのものだった。

 小さく零してしまった「えぇ!?」はその耳に届いたようで、あずさは一瞥すると不敵に笑った。この人間はいつも、文香の想定外を歩いていく。

 列の最後列で別の生徒が挙手しかけたように見えたが、あずさを見て手を降ろしてしまった。最前列のあずさは勿論、教室内のほとんどは見逃しているだろう。


「三年一組の片居木あずさです。二人みたく経験者じゃないけれど、私が副委員長を担っても構わないかしら」


 無表情の翔太とは対照的な笑みを浮かべる。あずさの問いは実行委員の皆ではなく、翔太にだけ向けられていた。


「⋯⋯他に立候補者はいますか?」

 

 あずさの背後、並ぶ三年生たちに翔太は意識を向ける。いや、その視線は見渡してるように見えて、明らかに一点を注視していた。

 悠人のように、恐らく三年生の誰かにも根回ししていたのだろう。その人物が名乗りを上げる気配はない。新しい候補者を待つための時間が酷く重苦しい。二人の妙な距離感を全体が察し、怪訝な空気を帯び始めていた。

 

「弓道部での活躍はよく耳にします。学内での成績もトップみたいですね、頼もしい限りです」

「おや、ありがとう」


 耐えかねた翔太から話し出した。急な賞賛を軽く受け流すあずさに、「だからこそ問います」と翔太は前置いた。二人の焦点が交錯する。


「片居木先輩は、大丈夫ですか?」


 含みのある言い方だった。あずさの口元が真一文字になったのを文香は見逃さなかったが、それは一瞬にして掻き消された。

 

「勿論」

「⋯⋯わかりました。しっかり僕達のこと支えてください」

「ええ、よろしくね委員長。委員の皆もこれから半年間、よろしくお願いします」

 

 どこまでが本気だったのだろう。先程感じた剣呑な気はもう見る影もない。十分に満足したのか、翔太は黒板に踵を返し、あずさも後髪を整えつつ着席した。

 教室全体から胸を撫で下ろす空気が露骨に伝わってくる。当の二人はもう関心がないのか、あずさに至っては窓の外をぼんやりと眺めていた。ビー玉のように大きな瞳に斜陽が射し、零れそうな輪郭に反射光が纏わりついている。

 外の景色を望むには、その視線はやけに高めに思えた。

 

「私もよろしい?」


 あずさの名前を書き終えるのを見計らって、またもや名乗りが上がる。


「三年七組、都香苗みやこかなえです。会計に立候補します」


 最後列で起立したのは、先程手を挙げかけた女子生徒だった。三年七組といえば、専門学校や就職など少々特殊な進路とる人の集まりだったはず。彼女のうねりある髪は低めのお団子で纏められ、黒ぶちメガネの奥に佇む垂れ気味の目は穏やかそうな印象を与える。しかしその割に声は明瞭で、どこか芯の強さを持ち合わせているように思えた。


「渡部君と三浦君と同じく、継続してこの委員会に入りました。去年は副委員長を務めましたので勝手はよく分かってます。差し支えなければ、会計を任せていただけますか?」


 悠人の時と同じだ。採決が流れるように進み、香苗の名前が総務に書き加えられた。まだ進行を翔太に渡してから五分しか経っていない。役員が決まった二、三年生たちから安堵の様子が窺い知れる。問題は一年生たちだった。


「では最後に一年生の皆さん、どうでしょうか」

 

 いよいよ残すところ書記のみ。中学生の名残を残した一年生たちはお互いに顔を見合わせるばかりで進展しそうな気配はない。むしろいままでが順調過ぎるのだ。二、三年生を待たせてしまっているというこの状況は、先輩側にその気はなくともプレッシャーを感じさせてしまうだろう。少し気の毒に思えてきたが、文香にできることは何もない。

 翔太が口を開いたのは、そんな時だった。

 

「入学したばかりでこの高校のことも分からず、不安が多いよね。部活の体験入部もまだ始まってないし、どんな高校生活が待ってるか見当もつかない。もう受験を見据えて勉強を始める人もいるだろうし、バイトしたり、友達と遊びつくしたいことだと思う。だから初めに聞かせてください」


優しい口調が、鼓膜を撫でる。

 

「総務の仕事にちょっと専念できなそうな人は手を挙げて」

 

 ズルい。純粋に、そう思った。

 書記の仕事をやりたくない人。みたいな強い言葉は使わず曖昧な表現にぼかして、挙手しやすい状況をつくる。そうして手を挙げなかった人は言質を取られ、指名されたらもう断ることができない。

 おずおずと半数弱の手が上がった。翔太は一度頷くと、ひとりの女の子に向けて手を差し出した。


「一年二組の君、任せても構いませんか?」

「私⋯⋯ですか?」


 さっき文香の話に反応してくれた子だ。肩よりやや下まで伸びた黒髪はストンと真っ直ぐ落ちている。第一ボタンまで絞められたシャツ、膝丈まである折られていないスカートは彼女が真面目な子であることの体現だろう。恐らく、翔太の指名を断れない。故に選んだのか、それともただ前の方に座っていたからだけなのか。

 ただ文香が考えすぎているだけなのではないだろうか。

 固まって逡巡している少女を見かねて、翔太は再び口を開いた。

 

「⋯⋯言い忘れてたけど、実は俺も去年書記でした。板書はちっとも上手くならなかったけどね」


 自身の字を見て肩を竦める。後に続いた自虐的な苦笑が、教室の空気を和やかなものに変えた。


「無理にとは言わないけど、引き受けてくれたらちゃんと全力でサポートします。二人の経験者は慣れてるし、松木さんも片居木先輩も愉快そうだしね。どうでしょう」


 振り返る翔太の後を追った彼女の視線が、文香たちを捉える。隣であずさが手をひらつかせていた。

 まだちょっとだけ不安そうな顔をしている。その背を押してあげるように笑顔で何度か頷くと、ついに「わかりました」と立ち上がった。


「えっと、一年二組の秋間茜あきまあかねです。よろしくお願いします」


 丁寧にも翔太と教室全体に向かって二回、深々とお辞儀した。これで総務メンバーは確定だ。そのため心なしか、茜に向けられた拍手一際大きいものに感じ取られた。最後の名前を記すべく、翔太はチョークを取る。


「アキマはなんて字を?」

「あ、季節の秋に、時間の間です。アカネは一文字のです」


 紅葉の情景が浮かんできそうな名前だ、なんて適当なことを思考する。いずれにせよ黒板の四角内は見事に埋まった。自身の名がその中にあることに少しだけ特別な気分になる。

 一方の翔太はもう次の仕事に取り掛かっていた。大川から受け取ったプリントを等分にして列ごとに配っている。委員の人数分ぴったりだったようだが、翔太は自身の分だったらしいプリントを文香に渡してくれた。


「ではこれから皆さんに各々入っていただく四つの班の説明と、文化祭までの日程を説明していきます。手元のプリント一番上から――」





「――質問は無いようですね。では、所属を希望する班を第三希望まで決めて、今週の金曜日までに文化室前のボックスに提出をお願いします」


 広報、企画、機材・飲食、装飾班の説明は簡単な読み合わせだけで終わった。広報班はパンフレット・ポスターの制作やその周辺地域への頒布、ウェブサイトの運営など。企画班はその名の通り、上がってきた企画の精査や直接的な運営などを務める。機材・飲食班は備品管理とともに、飲食企画と保健所との仲介をこなしたりする。装飾班は学校を飾り付けていく役割だ。美術部とも連携してデザインを確定させていく。大まかにはそんな感じだ。

 プリントの下辺には切り取り線があり、希望を記入する欄があった。進路調査票を連想してしまい、どこか苦い顔になってしまう。


「最後に文実の連絡用グループを作って、今日は解散にしたいと思います。さっき配った用紙の右下を見てください」

 

 先程の記入欄の隣にQRコードが印刷されていた。これを専用のSNSアプリで読み込むことで特定のグループに招待され、コミュニティに参加することができる。この機能はつい最近日本語版が対応したものだ。それにしてもこのプリントはいつの間に作成したのだろうか。随分と準備が良い。

 

「このQRコードは、文化祭実行委員のグループのものです。スマホを持ってないか、アプリを入れてない人はいますか?」

 

 反応はない。流石現代っ子の群れ。早速スマホを取り出してスキャンしている生徒が散見され、文香も反射的に動く。整然と並んだ高校生がスマホをいじっているのを教室前方から眺めるのは、どこか珍妙で可笑しく思えた。

 いざ入ってみるとグループの参加者は既に何名もいて、文香参加後も着々と増え続けている。その中のひとつのアカウント、『ワタベ』が目についた。アイコンに設定されているゴールデンレトリバーは翔太家で飼われている子のようだ。

 実行委員たちが入ってくるまで、今日までこのアカウントはひとり佇んでいたのだろうか。数多のアイコンの波に埋もれた犬の顔が何故か、より哀愁あるものに感じられた。


「最後に先生、何かございますか?」

 

 教室の隅で傍観していた大川が、翔太の問いかけに応じて教卓の前まで出てきた。やはり教師が立つと様になる。


「渡部くんの手際が良くて聞き惚れてしまいました。私もこうテキパキと授業をできたらよいのですが、普段はついつい雑談を挟んでしまいたくなって」

 

 三年生側で小さな笑いが起きた。お世話になっている生徒が多いのだろう。その様子ではせっかく翔太が短く終わらせてくれたのに、長引いてしまうのではないだろうか。なんて思いは杞憂だった。

 

「出店者、来場者、運営者を合わせて参加者と括ります。文化祭を運営する。という立場ではありますが、皆さんも主役であることには変わりません。楽しまなきゃ損ですよ。その心を忘れないように」

 

 端的に挨拶を済ませ、翔太に目配せをする。手を一度叩いて注目を集めると、翔太は締め括った。

 

「では本日は解散となります。次回は再来週の月曜日です。では、お疲れ様でした」

 


 【15:56】



 一般の委員はこれで解散となったが、総務のメンバーだけはもう少しだけ残ることとなった。委員会に掛かった時間は三十分もない。退散する生徒からは「早く終わって良かったー」などの声が上がっていた。放課後の活動に勤しむためか生徒の足は早々に去り、教室はすぐさま六人だけの空間になった。


「今年も実行委員なんだね香苗」

「あずさこそ、ここにいるなんて思いもしなかった。ましてや副委員長なんてビックリしちゃったよ」


 あずさの後ろの席に香苗が座る。やけに親し気な様子だった。


「お二人は友達なんですか?」

「一年の時クラスが一緒でそれからね。香苗、この小っちゃい子は弓道部の後輩。ほらフミちゃん、挨拶」

「私を何だと思ってるんです?」


 文香とあずさのやり取りに、香苗は口元に手を添えて笑っていた。レンズ越しの瞳はちょっとだけ小さい。恐らく度の強い眼鏡なのだろう。


「よろしくね松木さん。あんまりあずさに好き勝手やらせちゃダメだよ?」

「香苗が弓道部の何を知ってるのさ」

「やりたい放題ですね、この先輩は」

「あっ、こら!」


 そんな応酬をしているうちに他の三人も集まってきていた。悠人がふざけたことを言って絡んでいるが、それを翔太は雑に受け流している。遅れて茜が着席したのを見計らって、翔太は再び口を開いた。


「お疲れ様でした。早くに決まって何よりです。総務のグループも作ってあるんで入っちゃってください」


 と言って、翔太のスマホがまずは文香に渡された。画面にはまたQRコードが示されているので、アプリのコードリーダーを開いて読み込む。液晶に残った気泡たちが気になって少しだけ押し出そうとしてみたが、年期があるのかピクリとも動くことはなかった。

 続いてあずさに渡す。画面を見るなり呆れたように表情を崩すと、その感情を剥き出しのまま翔太に声を掛けた。


「『文化祭実行委員 総務』⋯⋯ってなんか味気なくない?」

「それ見たことか翔太!」

「⋯⋯じゃ追々考えましょう」


 翔太は相変わらず無表情であったがあずさと悠人に指摘され、その声色は僅かに口を尖らせたものだったように聞こえた。確かに参加したグループの名前は漢字の羅列で可愛げがないし、アイコンもデフォルトのものだ。翔太、悠人、文香に加えて、あずさのアカウントが参加したというメッセージがポップアップする。

 スマホは香苗に渡る。


「それは置いといて⋯⋯ひとつ言い忘れていました。この後でいいんで、各々の学年のグループを新しく作って、実行委員の全体グループで呼びかけて学年毎に委員を招待してください」

「学年毎なんですか?」


茜が問う。これには茜の一番近くに座っていた悠人が応じた。

 

「出し物の被らせないために情報共有したりとか、まぁ色々ね。それにしても秋間さん、書記を任せちゃって悪いねぇ。翔太が強引に決めちゃってさ」

「あ、全然大丈夫です! それに⋯⋯一応書道をやっているので、字にはちょっとだけ自身がありますから⋯⋯」


 「おおー」と歓声が上がる。好意的な反応に高揚してか、柔らかい輪郭をした茜の耳が赤く染まった。後輩という存在に加え、その純朴さが輪をかけて可愛らしい。


「名采配だったな翔太。確かに秋間さん、字上手そうな雰囲気してるわー」

「どんなだよ」

「まさしくこんな感じ」


 適当なジェスチャーも交え、悠人がまた囃し立てる。目を伏せてしまったが茜の口角は和らいでいた。穏和な雰囲気に緊張が払拭されたのだろう。


「でも渡部委員長より読み易そうでなによりね」

「え? 俺そんなに字汚いですか?」

「自分で言ったんじゃーん」


 わざわざ黒板に振り向いて確認する翔太に、初対面ながら馴れ馴れしく接するあずさ。その間に邪な気配はない。あの陰険な様子は最初から嘘であったかのように、どちらもなりを潜めていた。

 香苗の手から茜にスマホが流れる。


「はい、秋間さん。でもウチに書道部ないよ?」

「え、そうなんですかっ?」

「うん」 


 驚きで背筋が少し伸びた。悠人やあずさは故意で大袈裟なリアクションを取るが茜のそれは自然体で、見ていて面白い。香苗が穏やかな面持ちで言葉を続ける。

 

「じゃあ美術部なんてどうかしら? 一応私が前の部長だったんだけど、みんな好き勝手に制作してる緩い部活だから字を書いてる人がいても違和感ないよ」

「おっと、体験入部前から勧誘ですか!? ……生徒会的にこれはアリ?」

「え、別に問題ないですよ」

「そーなの!? じゃウチもやろーよ!」


 途端に入ってきたあずさが騒がしい。自分の用事が終わって暇なのと、早く弓が引きたいから落ち着かないのだろう。こういうところは妙に子どもっぽい。奥で香苗と茜が苦笑いしている。美術部への誘いには「ちょっと、検討してみますね」と応じているようだった。

 グループ参加を終えた茜が、渡部にスマホを返却する。


「⋯⋯じゃあ、最後に連絡事項を。さっき班決めの希望調査票を提出するよう皆に言いましたが、総務の人もお願いします」

「こっちの仕事と両立できる?」

「基本的に総務の事務仕事専念で、手隙の時に班も手伝うって形で。各班に最低一人は入って、進捗具合とか内側から知れたらいいと思ってます」

「りょーかい」

「それともうひとつ。希望調査票を集計して班の割り振りをしなきゃいけないのですが、流石に俺ひとりじゃ厳しいです。来週の月曜日また集まりたいのですが、昼休みと放課後どっちなら時間取れますか?」


 あまり練習時間を削りたくないのだろう。いの一番にあずさが昼休みを希望した。それは文香も同じ気持ちだ。文香も昼休みに一票を投じる。他の面子はどちらでも構わないらしくそのまま可決となった。

 いよいよ終わりらしい。短いようで濃密な時間だった。全員にさらりと目を合わせてから、翔太は締めた。


「では来週の昼休みにまた。お疲れ様でした」



【16:07】



「三浦君と都先輩、予め打ち合わせてたの?」


 帰る気配がなかった翔太が気になったので戻ってみれば、彼はひとりで黒板を綺麗にしている最中だった。流石に意表を突かれたらしい。翔太の持つ黒板消しから、白い粉がはらりと零れる。


「そう。中々手早く終わったでしょ」

「結構なお点前で」

「使う場面違くない?」


 堅苦しく説明的な口調ばかりが印象に残っていた為、さっきまで声を聞いていたの言うのに、同級生に使う砕けた物言いがどこか新鮮に思えた。


「大川先生ともね」

「あー、そうだね。色々手伝ってもらった」


 「やっぱり」とつい口にしてしまう。随分と周到に根回ししていたものだ。

 机にでも腰を下ろして楽になろうとと試みたが、天板が思いの外高かったので止める。翔太はすでに向き直っていたのでそんな間抜けは挙動は見られずに済んだ。


「それにしても先生、人が悪いなー。渡部君が委員長になるのが決まってたなら私を前に立たせる必要なくない?」

「生徒会から派遣された人間がちゃんと監視しているぞ。ってことを委員に周知させたかったんじゃない? 分からんけど」

「⋯⋯なるほど」


 書かれた役職と名前を消していく。その手が、文香の名前の横で静止した。


「字面だけ覚えてたから、松木『アヤカ』かと思ってた」

「え? あー、たまに先生にも間違われたりする」

 

 まだクラス替えして一週間だから仕方ない仕方ない。なんてフォローすると翔太は苦笑した。黒板消しはまた動き出して、今日の軌跡をなかったことにしていく。だだっ広い黒板には、青海波模様みたいな擦れた白が残るだけだった。


「まぁ、よろしく」

「こちらこそ」

 

 内心、文香も間違えて覚えていたのは秘密にしておくことにした。




【16:10】

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