第一章 松木文香篇

第一話 身の丈

【4/8(Fri) 8:05】 



 梅の枝が静かに震えている。通学路、花冷えの風が頬を撫でつけてくる。家宅の間隙をすり抜けた冷気に松木文香まつきふみかは肩を竦めた。袖を手の甲が隠れるまで伸ばして暖をとる。

 四月と言えど朝はまだ寒い。陽溜まりが帯びる熱は心地良いけれど、柔らかな青い影はいまだ冬の面影を孕んでいた。

 眼下を流れる用水路のせせらぎ、椋鳥の囀りが普段よりもよく耳に溶け込んでくる。浮遊感漂う馴染みの道を、本当に浮いてしまわぬよう一歩一歩を踏み締める。いつもは自転車で駆ける道を今日は歩いているのは、ただの気紛れに他ならない。それでも文香が通う東京都立百草高等学校までは徒歩十五分。たまの散歩気分で朝の気配と戯れるのが文香のお気に入りだった。

 やがて行路は程久保川と交差する。視界が一時だけ開け、錆びついた欄干の下に生い茂る草花がやけに眩しく思えた。自分が知らないだけで、あの雑草達にも一つ一つ名前が与えられているのだろうか。などと思考を巡らせてみるものの文香の足は止まらない。これで幸せの青い鳥、カワセミなんかが飛んでいれば、嬉々とした心地で足取りも軽くなったことだろう。カワセミは文香が住まう日野市のシンボルのはずだが、その宝石のような形貌は動画サイトの中でしか拝めたことはなかった。

 京王線百草園駅の横を抜けると電車通学の少年少女たちが流れ込み、道は制服で埋め尽くされる。無意識のうちに、文香は襟に手を添えていた。その小さな掌の中には生徒会役員の証である記章が収められている。百草高校の校章が刻印されたそれは、凹凸があって触ると気持ちがいい。自身を飾りつける他者との差異。これを付けているときは、少しだけ特別な存在になれた気がした。

 手は襟から離れ、服の皺をなぞるように下へ下へと降りていく。入学当初は大きく思えたセーラー服が一年を経てちょうど良くなったと感じるのは、幻想ではないと信じたい。雑踏より突き出た弓のシルエット。それを携える一人の人間を見て、文香は小さなため息を吐いた。

 

「おはようございます、あずさ先輩」

 

 ヒラヒラと手を振り、砕けた面持ちを向けるのは弓道部の主将、片居木かたいぎあずさだ。横断歩道を越えたところで、対面した先輩に会釈する。文香の隣に並んだあずさは頭ひとつ分も背が高い。いや、むしろ文香が発育不良故の身長差である。弓を抱えているその様は、長身の彼女にはとてもよく似合っていた。端正な顔立ちに加え柔らかな曲線美は、性別問わず周囲の熱い視線を拐う。それでいて特別進学クラスに属する秀才なのだから非の打ち所がまるで無い。

 比較は疾うに飽き飽きしていた。

 

「はよー」

 

 出会い拍子に、あずさの指が文香の髪を梳かすように撫でつけてくる。頬が緩く綻んだのを誤魔化すように、文香は少しだけ背筋を張った。彼女の悪戯には敵わない。大きく凛とした瞳を細められると尚更だ。文香を捉える明眸から視線を逃すと、今度は右の目尻に並んだ二つの泣き黒子に吸い込まれた。ひとつくらい分けて欲しいところだが、きっと自分では持て余してしまうだろう。

 

「もう、くせ毛が一層ひどくなるんでやめてください」

「何を今更」

 

 そう満足気に言って、最後のひと揉みを終えるとあずさは踵を返した。人を足止めしておいて「行こ」の一言で済ませるのだから、随分と勝手な先輩である。人通りの多い道でいつまでも立ち尽くしているわけにはいかず、あずさの背中を追いかける。撫でられた箇所に手を当ててみると、セットした朝の状態がそのまま保たれていた。

 

「フミちゃん小さいから毎回見つけるの大変なんだけど」

「えぇ?」

 

 そう訴えられても、発育の問題はどうしようもない。三食の栄養管理は勿論、日々のトレーニングも欠かさないのに成長が伺えないのはどういうことだろう。歩幅の広いあずさに遅れを取らぬよう、細い体躯に鞭打った。

 私について来れるかな。そう問われているような気がして、彼女の隣にいる時は常に気が抜けない。きっぱりとした足取りに呼応するように、あずさの胸元ではスカーフが嬉々として弾んでいる。少し古風な白黒のコントラストに、赤のワンポイント。身なりにあまり頓着がないのか、制服には細やかな皴が浮いていた。


「何? そんな見つめちゃって」

「いえ⋯⋯なんでもっ」


 才色兼備、秀外恵中。彼女を彩る言葉は手に余る。けれどどこかあずさには整容を疎かにするきらいがあった。最低限の艶だけを残して、乱れ捻れたスーパーロング。文香が弓道部に入部した頃、美しい頭髪は重力にそのまま従っていた気がする。

 集団から溢れたほつれ毛は、触れてはいけない境界線のようにも思えた。

 

「今日も朝練ですか?」

「そ」

「もうここまでくるとルーティンですね」

「朝一番に弓を引かないと一日に張りが無いのさ」

 

 朝練には文香も度々付き合ってはいるが、あずさは毎日六時には弓道場に足を運び、一人だけでも営々と矢を射続けている。強制ではないが故に彼女の克己心は部員の中でもより際立っていた。呆れた顧問があずさ用に合鍵を用意してくれたほどである。

 そしてあずさは何も言わなかった。他の誰が朝練に参加しても、しなくても。

 弓道場は百草高校から少し離れたところに位置している。最寄り駅がその名を冠している、『百草園』という植物庭園の真正面だ。そこに到達するまでには最大斜度二十度を越える急勾配を登り切らなければならず、多くの部員が長続きできない一因となっていた。この激坂は巷では『地獄の百草参り』とも呼ばれており、運動部ですら怪我防止のためランニングコースから外していた。

  百草園は都内でも指折りの梅の名所とされているが、そんな立地の影響かシーズンを除けば園内はいつも閑散としている。入園料三百円のところをモモ高生は百円で入ることができたがそんな物好きは稀有だった。

 

「ねぇ。二年生は次の月曜日、実力テストなんじゃない?」

「うっ」

「図星だね」

 

 唐突に繰り出してきた指摘に喉がつかえる。その通りだ。露骨に相好を歪めたのを見て、あずさはケタケタと愉快そうに笑った。

 

「……先輩って何組でしたっけ?」

「三の一」

「特進ですよね」

「うん」

 

 進学校を自称している百草高校は、相応の設備と体制が設けられている。二年生は学年にひとつ、三年生は文系と理系にひとつずつ、進学重視のカリキュラムを用意した特別進学クラスが設置されているのだ。一年生の三学期中頃に文理選択票を提出したのち、試験の結果等で適正なクラスに割り振られる。

 四十人中、三十七位。

 特進に無事進めたはいいものの芳しい結果とは言えない。故に次の実力テストで成果を出し、受験への弾みをつけなければならない。

 少し大袈裟な素振りで頭を垂らす。

 

「何卒、私めに数学の施しをいただけないでしょうか」

「私文系なのだけれど」

「理系クラス差し置いて一位取ってたじゃないですか」

 

 「そうねぇ」と呟いて、弓を抱えていない方の手であずさは顎をさすった。弓道部内において先輩後輩間の垣根は低く、気さくに冗談を交えることができる仲であった。基本的には個人技であるし、団体戦においても小さい所帯なため頻繁にレギュラー争いが起こることもない。文香は今の環境にとかく安住していた。

 一考していたあずさは指の形だけを変え、口元でピースをつくる。

 

「ジェラートのダブル、コーンで」

 

 対価としてジェラート屋の品をご所望の様子。高校の近場に位置する『Art GELATERIA』は、モモ高生で立ち寄ったことがない人は皆無という程の名店だ。ダブルは四百円で、ワッフル仕立てのコーンは追加二十円。痛い。

 

「シ、シングルのカップで」

「ダブルのカップ」

「シングルのコーン」

「駄目。これ以上は負けないよ」

 

 そう言ってあずさは口角を吊り上げる。間から除く白い歯列は極めて整然としていた。

 

「じゃあ今日の練習で十射、あたる毎にワンランク下げてあげましょう」

「それは……ズルいです」

「当て射はなしね」

 

 あずさは文香の力量を正しく見抜いている。最低価格まで到達できるか曖昧なラインを、彼女はどこ吹く風で提示してきた。

 熱にも似た感覚が足指の先からせり上がってくる。気さくな仲、というのは決して誤りではない。そう信じている。


「数学だけでよろしいのかしら」

「⋯⋯古文も少々」


 あずさは子どもっぽく笑って、弓を持つ手を入れ替えた。文香の位置からでは、弓に巻き付けられた矢筒に隠れて顔が見えなくなってしまった。和傘の模様の弓袋は部の備品ではなく私物だ。その中身も同じく。矢や道着を初めとした道具は体格によって適したサイズがあるので各自で購入するが、弓やそれを包む弓袋は弓道部より借用する。部内で自分の弓を持っている人間はあずさだけであった。毎日家に持ち帰るその姿は、今日も文香の目に羨ましく映り込む。

 国道沿いに歩いてものの数分、百草高校の一角が姿を現した。丘陵地帯に強引に建てられた校舎とその付近に位置する民家は、下から見ると押し寄せてくる波のような威圧感を纏っている。百草高校は少し特殊な構造をしている。京王線側から教室棟、特別棟、体育館と三棟が連なっているが、多摩丘陵を開拓した折りに広面積を整地出来なかったためか、各々の一階が同じ高さに位置していない。教室棟二階が特別棟一階に。特別棟二階は体育館一階に通じている。つまりは三つの棟が階段状にずれているのだ。

 ほどなくして百草高校の正門が視界に入る。そこには生活指導の教員の姿もあり、やましい思いは無いがなんとなしにショルダーベルトを握り締めていた。スクールバッグには体操着と弓道着が詰め込まれていて、普段よりも丸く膨らんでいる。その柔らかい感触が少しだけ面白く、肘と脇腹で挟んでは開くを意味もなく繰り返した。

 

「浮かない理由はテストだけじゃないでしょ」

 

 言って、あずさは文香の鞄に指を差す。同様に丸みを帯びた鞄を、あずさも周囲の生徒も携えていた。

 

「今日は身体測定だもんね」

「ついにこの日が来ました」

 

 そう。この日は文香にとってはクラス替え、定期試験や学校行事に比肩しうる一大イベントである。この日は一時限目から四時限目まで、実に午前中の授業を全てを身体測定にあてる。保健委員の友人はさぞ忙しそうに、前日準備に奔走していた。

 

「今日生徒会の仕事は無いのかしら」

「はい、他の子の担当です。うちは大所帯ですから」

「ちなみに今年は何センチ目標かな?」

「一五〇越えです」

「えー?」

 

 極めて真面目な大望を苦笑で片づけられた。むくれた頬をあずさに向けるが、一七〇センチを越える彼女にはどう映っているか皆目見当もつかない。

 校門を過ぎ、中庭に差し掛かった辺りであずさは大きく数歩踏み出した。長く瑞々しい脚が跳ねるように前後し、スカートがはらりと靡く。釣られて文香の歩幅も広まったが、彼女にはとても追いつけそうになかった。

 

「ま、吉報を待つとするよ。じゃね」

 

 ただ一度だけ振り返ると、現れた時のように掌をひらつかせた。弓を巧みに操り、人にも天井にも当てず昇降口に消えていく。

 弓道において、肉体と用具を一体とし、生命を通わせる行為に『生かす』という言葉を用いる。あの弓はまさに、何時いかなる時も片居木あずさの一部だった。

 彼女は今日も、文香が抱える柔らかい部分を踏み抜いていった。

 それでも文香は、天を貫かんばかりに伸びたその背中に焦がれざるを得なかった。



【8:19】

【11:26】



「一四六・二センチ」

 

 宿願は潰えた。

 保健委員の筆記音が後に続く。カリカリカリ。計りが脳天から離れても、文香は軽く放心して身長計から動けないでいた。

 

「はい、次の人どうぞー」

 

 流れ作業のように台から軽く押し出される。緑の身体測定用紙を受け取ると、先程の数値が乱雑な書体で記されていた。加えて備考欄にもチェックが。

 

 低身長症の恐れがあります

 

 入学時より確かに伸びているはずなのだが、まだ足りないというのか。去年の測定結果を見比べ、首を捻る。

 校内の至る教室で身長体重、視力、聴力から歯列まで余すことなく実測されるが、女子生徒の本命は胸囲と体重測定だろう。「下着まで外すのが嫌」「膨らみが足りない」「太ったあああ」等々、待機列から思春期特有の黄色い声が嫌というほど聞こえてくる。まだ文香はその段階にないというのに。

 いつまでも肩を落としているワケにもいかない。来年の自分に期待を込めて、測定場所を後にしようしたその矢先だった。

 

「松木ちゃんは相変わらずちっちゃいなぁ。ちゃんと食べてる?」

 

 視界がジャージの赤色に染め上げられる。デジャブを感じ、浮かない顔を上げるとこれまたよく見知った先輩の笑みがそこにあった。

 高汐瑞希たかしおみずきという、百草高校の現生徒会長。あずさ程ではないが瑞希も随分と長身だろう。スタイルもいい。ただでさえ人と顔をつき合わせるには見上げる必要があるというのに、身近な先輩は軒並み長身であるため首が凝る。

 

「開口一番にキズをつつかないでください」

「これは失敬」

 

 ムスッとした相好を取り繕うことなく、そのまま向けてしまった。瑞希はそれを見て苦笑し、文香も応じて頬を綻ばす。生徒会ではこのやり取りは日常茶飯事だ。体操着を着込んだ先輩の姿は少しだけ珍しく、まじまじと観察してしまう。赤い生地に包まれた彼女の胸元は、気のせいか窮屈そうに見えた。

 学校指定のジャージと上履き、加えて制服のスカーフは学年を区別するために色分けされている。一年生から緑、青、赤の順番だ。色の違いはあれどこのシステムは、どこの高校でも同じだろう。

 瑞希は口辺で手を合わせ、ごめんねと小さく陳謝した。肩から袖口まで引かれた白いラインに目がついていく。

 

「見るとついからかいたくなっちゃって。でも良かった、ちょうどお話があってね。少しだけ時間いいかしら」

「お話ですか。大丈夫ですよ」

 

 少しだけ長くなりそうな気配がしたので、待たせてしまっていたクラスメイトに手を振り先へ行かせる。よくよく辺りに目を凝らせば、剣道場の端に三年生の集団が確認できた。わざわざ文香を見かけてやって来たのだろうか。

 よほど重要な話なのかと身構えてしまう。その反応は、間違ってはいなかった。

 

「ねぇ、松木ちゃんは生徒会長に立候補する気はある?」

 

 喉がヒクついたのを身体の内側で知覚した。想定外の問いに文香の思考は一瞬静止する。

 露骨に息を呑んだこと、瑞希はきっと見逃さなかっただろう。気恥ずかしさが先行してやって来て、瑞希を直視できなくなる。思わず視線を剃らした先は剣道部の竹刀立てだった。立て掛けられた竹刀の一本は折れていて、ささくれが持ち手側に向いてしまっている。

 

「会長だけじゃなく、副会長と書記、会計も。要は役職に立候補したいと思っているかどうか、確認しにきたの」

「そう、ですね」

 

 この一年間、彼女の働きは近くで見てきた。おおよその仕事内容も把握している。しかし、その役職に就いた自身を思い描くことはどうしてもできなかった。

 焦燥にも似た汗ばんだ感情が喉を塞ぐ。即答できなかった時点で、返答は決まったようなものだった。文香を瀬踏していたのかどうか、顔色ひとつ変えない生徒会長からは察することができない。

 

「もし立候補を考えてなくて、次の任期も庶務を志望するつもりなら……ひとつ、頼み事を聞いてもらえないかしら。生徒会のよしみで、ね」

 

 話す内容をどこまで用意して、文香の前に現れたのだろう。瑞希の淀みない声音は半ば一方的に続く。

 

「頼みとは」

「文化祭実行委員会の監督役を担って欲しいの」

 

 文化祭実行委員。反芻して口から漏れた言葉に、瑞希はそうと頷いた。切り揃えられたセミロングが緩やかに上下する。少しだけ癖があるようで、毛束には細やかなウェーブが潜んでいた。前髪を脇で留め、惜しみなく晒された額がいやに眩しい。

 

「確か去年の文化祭後に議題で出た……」

「そう。庶務の子を一人、文化祭専任の役職に就かせようって話ね」

「以前はそういう人、選出してませんでしたよね」

「去年の実行委員の子が前もって提言してきたの。ほら、ゴタゴタがあっていくつかの企画が頓挫したでしょ? 今年はもっと情報共有なりの連携を徹底したいのよね」

 

 生徒会に入って間もない時期のことだ。自分の仕事で手一杯だったため記憶は定かではないが、実行委員幹部間で衝突があったという噂は耳にしていた。

 

「私の任期はもうじき終わるから、一抹でも後継に厄介事を残したくはないの。どう、引き受けてくれる?」

 

 小首を傾げさせ、瑞希は改めて持ち掛けてきた。些細な仕草が彼女の魅力をより引き立てる。手本のような優等生で、責任感もカリスマもある。生徒会長はやはり瑞希のような人間に相応しく、その後継は務まりそうにない。


 「私でよければ、引き受けます」


 相応しい人間なら、他にもいるだろう。

 進学校の自称できる程度の百草高校では、大学受験に推薦を使う生徒は少なくない。故に内申点アップを図る学校側の意向か生徒会役員の席は多く設けられている。同学年だけでも六人はいた。

 「やった」と喜ぶ瑞希の前に安堵している文香がいた。それでも何かが胸につかえているのは、もしかしたら、柄にもなく生徒会長なんてものを羨望していた自分もいたのかもしれない。けれどそれはもう過ぎた話。

 

「集会日は来週の月曜でしたよね」


 仕事があるのは良いことだ。自分が求められているのなら、尚の事。



【11:32】

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