09/ユイコ
営業準備中の店の中。
カウンターに突っ伏して、赤猫は軽く咳き込んだ。
「・・・こほ。…ユイちゃーん、俺、風邪っぽいかも~。」
「え。…珍しいですね。赤猫さん滅多に風邪ひかないのに。」
「うん。だりぃ。だからカルーアちょーだい。」
「なんでだ。」
赤猫の隣で無関心に新聞を読んでいたファズが思わず振り返る。
「だって、疲れた時はミルクでしょ。甘いものでしょ。両方一気にとれるじゃん。」
「あ、アドヴォカートにしときましょうか。風邪って言ったら玉子酒でしょ。」
返事がてらにまた咳き込む赤猫に、背後から声が掛かった。
「…風邪ですか。近寄らないで下さいね。」
丁度降りてきた処らしい虚が、全身で嫌そうな雰囲気を放って通り過ぎていく。
「貴方の様な人でも、引くんですね。風邪。」
「どういう意味だクソガキ…」
捕まえる気力は無いらしく、一睨みしただけで顔を戻すと、
「駄目だ。寝てくるわ。」
「そうしとけ。」
大人しく部屋に帰っていった。
翌。
「・・・こほ。」
顔を真っ赤にして時折小さく咳を漏らしているのは、虚だった。
「・・・38度7分。」
ユイコが感嘆しながら体温計の数字を読み上げる。
「またしっかり染されたな、虚。」
「…だから傍に寄るなと言ったのに…」
「うっわ、お前凄ぇ声だな。大丈夫なのソレ。」
ふらふらとベッドに腰掛けている虚に対して、染した本人はもうけろっとしている。
「染すと治るとはいいますけど…はやくないです?」
染すのも治るのも。
「まぁともかく…今日は寝てなさい。」
「言われなくてもそうしますよ。」
半分倒れる様にして虚が眠りに着いた処で、フロアに戻ったユイコが思案する。
「虚君、大丈夫かな。病院ってもアレだし、闇ちゃんは暫く戻って来ないし…」
「えー、あんなん寝ときゃ大丈夫だろ。ガキだから大げさに熱が出るんだよ。」
「一理あるが…赤猫が言うと違和感あるな。」
「なにが。」
「子供に詳しそうな処が。」
形容しがたい沈黙が落ちる中、ユイコがふと声をあげる。
「あ。」
「「?」」
「や、直す術を知ってそうな人、一人居たなーと。」
「イヤです。」
気持ち良い程、一刀両断。
「病人には極力近寄りたくありません。」
頼りの綱の祈は冷たく言い放った。
「えーと。じゃあ、薬貰う程は…だめですか。」
「薬というものは、症状を把握して処方しなければ無意味です。
そして私は近寄りたくありません。」
諦めろ、と。
「うあー…。困ったなぁ。」
あの状態で放っておくっていうのも気が引ける。
「子供の風邪は大げさなんですよ。放っておいてもその内治ります。
部屋で寝てるわけですし。」
困り顔のユイコをフォローするように、祈が付け足す。
それを聞いて、思わずユイコは祈を見つめた。
「…なんです。」
「いや、赤猫さんと同じ事言うなぁと思って。」
一瞬で眉根に皺が寄る。
「……非常に不愉快ですが事実ですから仕方が無いですね。」
「でも、虚君が発生源ならまだしも、赤猫さんからの貰い物なんですよね。」
祈が怪訝な顔になる。
「彼はぴんぴんしているようでしたが?」
「そうなんですけど、昨日は確かに風邪気味だったようで。
一日で快癒ってすごいですよね。」
怪訝を呆れに変えて嘆息する。
「本当に風邪だったんですかね。」
「証拠は今日の虚君ですよ。」
「成程。まあなんにしろ、私には関係ない事です。」
「うー。粘っても無理そうですね…。解りました。」
戻ったユイコに気付き、ファズが声を掛ける。
「駄目だったろ。」
「でした。」
「やっぱなー。」
「まあ、あんま効いてないみたいだけど、もう暫く市販薬でがんばって貰おう。」
翌。
「・・・悪いユイコ。今日店休み。」
壁に凭れ掛かって、然もだるそうにファズは現れた。
「マスター…まさか。」
「ぉぅ、貰っちまったわ。」
「えぇええぇ…。」
マスターがダウンしていては店は開けられない。
「うわー、感染拡大。虚はまだ寝てんだろ?」
諸悪の根源は他人事のように驚いている。
「ええ。熱は大分下がったんですけどね…。」
そこにまた、面倒なのが帰ってきた。
「たーだいまー♪・・・あれ?なに?皆どしたの?」
「おかえりキリちゃん。…大丈夫かな…。」
「…コイツは大丈夫だろ。ひきそうに無い。」
クビキリはきょとんと首を傾げる。
「?何の話?」
「お前、夏風邪くらいしかひいた事ないだろ。」
「?よく解んない。風邪なんてひいた事あったかなぁ。」
あっけらかんとした丈夫さに、ユイコも口を噤む。
「…ほら、大丈夫だってコイツ。」
「いやでも。赤猫さん発だし。」
「え、なにそれ。どういう意味よ?」
流石の赤猫も、如何ばかりかショックを受けたようだ。
「だって、赤猫さんだって滅多にひかなかったじゃないですか。」
置いてけぼりの状況に、クビキリが口をはさむ。
「??誰か風邪なの?かんびょーしてあげよっか?」
「看病の意味が解ってない奴は静かにしてろ。」
「えー知ってるよー。おかゆ作って、顔に白タオル被せとけばいいんでしょ。」
「「お前は何もするな。」」
「えー・・・」
予想外のユニゾンにしゅんとするクビキリ。
台詞かぶりに驚いて赤猫が振り返ると、ファズの姿があった。
「って、マスター。起きてきていーの?」
「いや、不穏な気配を感じてな…。クビキリか…。」
「うん。ただいま。」
「おかえり。」
「ただいまー。………って、誰も居ねぇのかよ。珍しい…っと…」
カフスが店の戸を開くと、いつも迎えてくれる二つの影はなかった。
代わりに、奥からゾンビのようにクビキリが這い出してきた。
「おーかーえーりーかーふーすー」
「うわッ!!どうしたお前!悪いもんでも喰ったか。」
「なんかねー、風邪らしーよー…カフスー、かんびょーして…」
ずるずると倒れこむクビキリ。
「うわ、おい!?ちょ、ユイコ!?」
叫んで呼ぶと、ふらふらとユイコもやってきた。
「…はぅ、おかえりなさいカフスさん…。すいません、今、全員ダウンしてます…。」
「げ。マジか…」
ちょっと帰ってくるんじゃなかったと思った。
「赤猫も?」
「いーぇ、赤猫さんと祈さん、闇ちゃんの三人は今出てます…。他は全滅。」
赤猫はともかく、闇撫と祈は退避中なのだろう。
「…ぁー…解った。ユイコも寝てろ。辛いんだろ。」
「でも…そろそろ夕飯を…。」
「いいから寝てろ。何か作っといてやるから。」
「…すいません、お願いしますー…」
そしてふらふらと部屋へ戻っていった。
「………クビキリ。お前も戻れ。」
「やだー…カフスー…」
「だぁ!いいから!ここで足ホールドされっぱなしじゃ飯が作れねぇだろうが!
あとで持ってってやるから部屋で大人しくしてろ!」
「…ほんと?うん。じゃあ待ってる。」
「―――はぁ。」
そしてカフスは、四人前の病人食を作る羽目になった。
「入るぞー。」
扉を足で蹴開いて、ファズの部屋へ入る。
ファズは寝ていたソファから半身を起して、ダルそうな瞳を向けた。
「うぉ、カフスか。帰ってたんだな。」
「たった今だよ。いいから喰え。早く直せよ。」
「カフス、そこは治せで頼むよ…」
乱暴に粥の乗った盆を差し出して、近くにしゃがみ込む。
「ったく、全滅ってどういうことだよ。」
「ああ、赤猫→虚→俺→クビキリ→ユイコ…とな。」
「ユイコは絶対看病疲れだよそりゃ。」
家事がマスターかユイコしか出来ない以上、どちらかが倒れた時点で負担は酷く増加する。
その上3人分の看病込とあっては、倒れるのも当然だ。
「だろうなぁ。いい子に育って…本当に。」
「泣くな親父くせぇ。おら、とっとと食い終われよ。」
食欲もないのか緩慢な動作で粥を突く。
「…うん。久しぶりに喰ったが、やっぱりお前料理上手いよな。」
「はぁ?何言ってんだ粥くらいで。」
「いやホント。偶にはユイコと代わってやったらどうだ?」
「やだよ面倒臭い。」
「偶にでいいよ偶にで。あいつも大変だろうからさ。」
「・・・。」
それ以上は何も言えず、カフスは無言で椀を回収した。
「なおったー!」
真っ先に回復したのは、予想通りというか、クビキリだった。
「おー、良かったな。頼むから、少なくとも他が回復するまで大人しくしてろよ。」
「かんびょー手伝うよ?」
「おとなしくしてろ。」
「うー」
クビキリをカウンターから摘み出し一服していると、店の戸が開いた。
「あ、カフス帰ってたか。良かった。皆どう?」
カウンターに歩み寄り、刀を椅子に預ける。
「赤猫か。諸悪の根源らしいじゃねぇか。」
「風邪って恐ぇなー。」
「インフルエンザ並だぞコレ。」
飄々と言ってのける赤猫に呆れと苛立ちを覚える。
「お前大丈夫なの?」
「今の処な。まぁいい、これユイコに届けてやってくれ。」
差し出された水差しを思わず手に取って、赤猫はひどく驚いた顔をした。
「え。」
「えってなんだよ。そんくらい働け。」
「や、でもさ、ほら、」
珍しく要領を得ない赤猫を怪訝に思いつつも、イラッとして身を起こす。
「あーもう、じゃあいいよ俺が行くから。」
「いや行く!行ってくるわ。」
赤猫は慌てて刀を掴むと、奥へ消えて行った。
「はあ?なんなんだアイツ。」
コンコン。
「ー…」
部屋まで来たは良いものの、ノックに返事がない。
扉の前で水差しを持ったまま暫しうろうろと逡巡する。
「いや、うん。」
意を決して、ノブに手を掛けた。
「ユイコちゃん、大丈夫―…!!?」
言いながら戸を開けた瞬間、腕を掴まれ凄い力で室内へ引き込まれた。
「なっ、」
頬に絨毯の感触。
押し倒された姿勢で、密着した人の体温―。
「―赤猫さん」
耳元に吐息。
近すぎる、熱すぎるその正体は、風邪で臥せっている筈のユイコ。
「ユイコ、ちゃん?」
熱い吐息が、首筋へ落ちる。
「赤猫さん、お願いがあるんですけど、聞いて貰えます?」
「う、んー…内容にも、よるかな?」
低いトーンのユイコの声。
抑え込まれた腕がジリジリと痛む。
少女の細腕にしては力強過ぎるだろう、コレは。
「死にはしないと思うので、少しだけ―…下さい。」
「な、なに…?」
首筋に落ちる唇。熱の所為にしたって熱すぎる。
「―ッ、!?」
次の瞬間、ユイコは赤猫の首筋にがっぷりと齧り付いていた。
鋭い犬歯が肉を突き破り、どくどくと血が溢れ出す。
ミルクを吸う幼子の様に、ユイコはそれを啜っていた。
「―ユイコちゃん…?」
恐怖はあった。
理解も出来ていない。
しかし、赤猫はユイコ相手なら命を差し出す事すら厭いはしない。
痛みに眉を顰めても、ユイコを引き剥がす事無く、成り行きを見守った。
「ユイコちゃん、落ち着いた…?」
「・・・」
ユイコに動きが無くなり、恐る恐る声を掛けてみたが反応がない。
ゆっくり体を起こすと、ユイコがドサリと崩れ落ちる。
慌てて確認するが、どうやらただ眠っているだけのようだ。
(なんだってんだ…?)
倒れたユイコを見つめながら、赤猫は自分の首筋に手を当てる。
「―…?」
咬まれた傷口が、見当たらない。
押し当てられた熱の感触は未だ鮮明に残っているのに。
不可解な気持ちのまま、取り敢えずユイコをベッドに戻し転がった水差しを拾って部屋を出た。
「おい?結構な音がしたけど大丈夫か?」
階段の中腹からカフスが覗いていた。
「あ。コレ落としちゃってさ。悪ぃけどもっかい水入れてくれる?」
「なにしてんだよ、ったく。…転んで首でも痛めたのか?」
「え?」
「いや、ずっと首抑えてるから。変に痛めてもアレだし、シップでも貼っとけよ。」
「ぉ、おう。」
カフスは水差しを持ってバーカウンターへ戻っていく。
それを見送ってから、赤猫は洗面所へ向かった。
「うーん、やっぱ痕ねぇな…。」
咬まれた筈の首筋には何の痕跡も見て取れない。
時間が経つほど、本当にそんな事が起こったのか不安になってくる。
翌日には、ユイコは快復していた。
「いやあすいません、お世話かけました。」
「は~よかった。ユイコが回復してくれたら大分違うぜ。」
バーカウンターにぐったりと凭れ掛かってカフスが漏らす。
「残るはマスターと虚君ですね。虚君、長いけど大丈夫かなぁ。」
「元々丈夫じゃなさそうだしな。ファズはやっぱ歳か?」
茶化しながら、カフスはファズの様子を見に立ち上がる。
バー内にはユイコと赤猫。
暫しの逡巡の後、赤猫が気まずそうに切り出した。
「あ、あのさ、ユイコちゃん。昨日の…」
「?昨日、ですか?あ、何度かお水持って来てくれたの赤猫さんだったんですね。ありがとうございました。」
「え?…あぁ、うん、いや。どういたしまして…」
「??私何か変な寝言でも言ってました?やだなぁ、そういうのはスルーして下さいよ?」
「寝言…ぁ、うん。ごめん。なんでもないわ。」
熱に浮かされて、覚えていないのか。
それとも―…
赤猫は何か化かされた様な心持のまま、しかしそれ以上聞く事は出来なかった。
ザレンス 炯斗 @mothkate
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