永劫のトゥーランドット

＊

　会場内はすでに熱気とざわめきで溢れかえっていた。

　もうじき最終滑走が始まる。名前をコールされれば俺の出番だ。

「まさか、緊張しているわけではあるまいな」

　リンクサイドで叱咤激励（しったげきれい）するコーチの隣にもう一人、ふんぞり返る男がいる。トランプのキングがそのまま飛び出てきたかのような、いかにも偉そうな風貌の男だ。

　他の誰にも認知されないその存在は、俺に向かって生意気そうに金色の眉の端（は）をつり上げた。

　半透明の体の向こうで、壁に掛かった日の丸が揺れている。

「我が歌に見合わぬ演技をしてみろ、一生呪ってやるからな」

「今だって似たようなもんだろ」

「誰が亡霊か！　助言者（メンター）と呼べ！」

　金髪の顎髭をしごきながら、男――パヴェウはふんと鼻を鳴らした。

　周りに聞こえないからといって、このちょび髭の幽霊はいつも偉そうなことばかり言う。普段なら言い返すところだけど、今はそれどころじゃない。

『四年前、ポーランドで偶然出会った一枚のレコードが彼に引退を思い留まらせたそうです。この曲でもう一度、五輪の舞台に立ちたいと』

　会場にコールが響くと、たちまち霧雨（きりさめ）のような拍手が起こった。

　コーチに肩を強く叩かれる。俺はこくりとひとつ頷いて、リンクの中央へと滑り出た。

　会場がしんと静まり返る。ブレードが氷を削る音だけが耳に届く。

　氷上の真ん中から、俺はたった一人に目がけて力強い視線を向けた。

――喜べ、パヴェウ。今からあんたに金メダル以上の演技を見せてやる。

「ふん、馬鹿をいえ。我にではない。世界に見せてみよ」

　普段と変わらない挑発的な笑みを浮かべて、パヴェウはそう言い放った。

――上等だ。

　俺はにやりと笑い返して目を閉じた。

『長らく失われていた八〇年前のテノール歌手・パヴェウ。彼が遺（のこ）した奇跡の歌声と共に――曲は｟トゥーランドット・誰も寝てはならぬ｠』

　静寂の中、コントラバスの重低音がひと筋、始まりの尾を引いた。

　すべらかに滑走し、湾曲したリンクに沿って大きく軌道を描く。

　最初のジャンプ――着氷（ちゃくひょう）、歓声！

　今回のFSプログラムに使う曲の後半二分間に、彼の歌のすべてを詰め込んである。そこで彼は、生前果たせなかった夢を叶えようとしているのだ。己の歌声を（・・・・・）世界中に響かせる（・・・・・・・・）という夢を。

　伸びやかに、スピードを上げて、もう一度。

　トリプルルッツ、トリプルトゥループ。

　歓声――。

＊

　 四年と少し前、俺はワルシャワ行きの飛行機に乗っていた。

　その昔、テレビで偶然見てからすっかり気に入った映画がある。潜伏生活を送りながら戦禍を生き抜いた、とあるピアニストの回顧録（かいころく）。その舞台がワルシャワだった。

　小さな窓から空を眺めている間じゅう、頭の中ではショパンの｟ノクターン第20番 嬰（えい）ハ短調 遺作｠が流れていた。ひとり生き残ったピアニストが、廃墟に取り残されたピアノに座って奏でる曲だ。偶然そばを通りがかった敵国の陸軍大尉（たいい）は、しかし彼の演奏にただただ耳を傾けたのだった。

　そんな力が、自分にもあればよかったのに。

　別に、フィギュアスケートに人生を掛けていたわけじゃない。

　たまたま地元にスケートリンク場があって、周りの子より上手く滑れて、この年まで続けられる環境があったから、スケーターになっただけ。

”キモい”

“本気出してないとか言い訳がダサすぎ”

“若い子に枠譲って”

“ウザいんだけど”

　公認マークの付いたSNSアカウントに日々届く、顔も名前も知らない他人が指先で打っただけの大量のメッセージ。

“死んで”

　シンプルなたった三文字が、あるとき背中をトン、と優しく押した。

　二十四歳のときだった。

　選手生命としては大往生（だいおうじょう）だろう。

　気付けば俺は、逃げるようにして日本を飛び出していた。この国に骨を埋めたくなかったのだ。

　降り立ったワルシャワの街並みは、記憶の中の景色よりもいくらかカラフルで整然としていた。行く当てもなく街中をふらふらと彷徨（さまよ）い歩く俺に、馴染みのない街は知らん顔をする。もうこのまま眠りについてしまいたい——そう思ったとき、霞（かすみ）がかった意識の向こう側から、歌声が聞こえてきた。

　よく通る男の声だ。

　俺は半ば無意識にその音を追って歩いた。

　やがて辿り着いたのは、一軒の廃墟だった。誰も住んでいないとわかるほどボロボロの外観なのに、その屋敷の中から、たしかに歌声は聞こえてくる。

　豊かな男の声は、ジャコモ・プッチーニの ｟トゥーランドット・誰も寝てはならぬ｠を奏でていた。

　俺は夢心地でその廃墟に足を踏み入れた。

　ヴィルム・ホーゼンフェルト陸軍大尉（たいい）はまさにこんな気分だったのだろうか、と思いながら。

　*

「自らの手で己に終止符を打つくらいなら、その命、我（われ）のために使ってみよ」

　出会い頭、一発目の発言がこれだ。

　思えば、最初に出会った時からこの男は傲慢（ごうまん）の化身（けしん）みたいな奴だった。

「な……なんで……」

　身体が透けてんだよ。お化けじゃん！とか。なんでこの男は、俺が人生を諦めようとしているって知っているのだろう、とか。とにかく情けなく狼狽（うろた）えることしかできなかった。

「同じような状態の人間にしか、我は見えぬからな」

「同じような……？」

　男は金色のちょび髭を指先でいじりながら、得意げに鼻を鳴らす。

「死んでも死にきれぬ、生きようとも生ききれぬ。どちらも彷徨（さまよ）い人であろう。これも何かの縁。さぁ、我を救い出すがよい」

「いや、無理だし！」

「我が名はパヴェウ。志（こころざし）半ばで息絶えたテノール歌手である！」

「無視かよ」

「そなたにこのレコードを預けよう」

　俺は目だけを動かして、ちらりとパヴェウの手元を見た。レコードから白いもやのようなものが漂っており、それはパヴェウの霊的な身体と繋がっていた。つまり、いわく付きのレコード（・・・・・・・・・）だ。

「我が命よりも大切な、魂のこもったレコードである。くれぐれも慎重に扱うように」

「命よりも大切って。あんたもう死んでるだろ」

「誰が死人か！　我にはまだやるべきことが残っている。だからこの世に留まっているのである」

「結局死んでんじゃん。なんだよ、やるべきことって」

　パヴェウはニヤリと笑う。

　次の瞬間、彼は雰囲気を変えた。

　真剣な眼差しで腹を蛙のように膨らませ、歌を歌いはじめた。

　それは空気をビリビリと震わせ、魂までをもグラグラと激しく揺さぶった。

　廃墟に色が蘇り、窓から差し込む光の中で埃が舞い踊る。

　頭の中のどこか遠いところで、ブレードが氷を削る音がする。

　ダブル・ルッツ、トリプル・アクセル。ここでコンビネーションスピンを持ってくると気持ちいいはず——。

　ハッと我に帰る。気付いたときには目の前でパヴェウがふんぞり返っており、「決まりだな」と言わんばかりにレコードを押し付けてきた。

「我の望みは、我が歌声を世界中の人間に聞かせることだ」

「こんなボロボロのレコードで？　冗談だろ？　今はみんなスマホで音楽聞くんだよ。スマホってほら、こういう小さい電話――」

「冗談などではない」

　言葉を遮られて、ぎくりとした。

「我は本気だ」

「な……なにが本気だよ。だってあんたもう死んでるんだぞ。夢を叶えたって意味ないだろ！」

「意味があるかどうかは我が決める」

「！」

「協力するか否かはそなたに任せよう。ただし、そのレコードに触れた者は、我に憑りつかれる運命（さだめ）にある」

「……はぁ！？」

　ぎょっとしてレコードを体から引き剥がした。そこから出ていたはずの白いもやが、今は俺の体にまとわりついている。バンバン叩いてみても、白いもやは一向に晴れない。

「くそっ、何なんだよこのっ」

「呪われたくなくば、意地でも我の望みを叶えてみせよ！」

「いやっ、え、そんなの卑怯（ひきょう）だろ！？」

「ウハハハハ！」

　廃墟じゅうに亡霊の高笑いが響いたあの日から、俺の隣には常にパヴェウが居座っている。

　傲慢（ごうまん）で、口うるさくて、生きているどの人間よりも生き生きと死んだその瞳を輝かせる。彼は、奇妙奇天烈（きみょうきてれつ）な俺の相棒だ。

＊

『コンビネーションスピン、からのステップシークエンス……良いですね』

　悲壮感漂う前半の演奏が終わりに差し掛かった。

　俺は弧を描いて氷上の中心へ向かう。

“我は本気だ”

　再びパヴェウの声が耳元に蘇る。

　ずっと不思議だったんだ。

　どうして傷付くことを恐れずに夢を口にできる？

　無謀だとわかっていて行動する？

　臆病な俺は本気じゃないことを言い訳にして、逃げてばかりの人生を歩んできた。本当はずっと、本気になれる人間が羨ましかったんだ。

　この四年間、あんたと過ごしてきてようやくわかったんだよ。本気にならきゃ、手に入らないものがあるってこと。

　なぁ。そうだろう、パヴェウ。

『いよいよ後半に入ります。この後、大きなジャンプを三つ控えています――』

　弦楽器の音が、霧に融けるように消える。

　遠くに佇む男の、大きく肺を膨らませる音が聞こえた気がした。そして――。

――Ma il mio mistero è chiuso in me

　パヴェウの声が空気を震わせた。

　それは原始の時代から受け継がれてきたヒトの心の琴線を、根本（こんぽん）から揺るがすような深い歌声だった。

　圧倒的な力に抗（あらが）いきれず、衣装の下を鳥肌が駆け抜ける。

　その瞬間、俺の中のあらゆる感情が一切の姿を消した。

　彼だって同じだろう。無念の死を乗り越えるとか、積年の思いを晴らすとか、建前や理屈なんてものはすべて吹き飛んだに違いない。ただ歌える喜びに身を任せ、喉を震わせている。

　俺は心の打ち震えるままに氷上を駆けた。

　無尽蔵（むじんぞう）に湧き上がる歓喜と自信。

　このプログラムを滑りきれるのは世界中でただ一人しかいないという自負。

　めちゃくちゃな熱を帯びたパワーが、けれど冷静に身体を突き動かす。

　しなやかに弧を描く四肢（しし）。

　ぐらぐらと沸き立つ熱い塊をバネに、高く跳ぶ。

　クワド・アクセル――着氷！

『降りた……！』

　会場が沸き立つ。

　なめらかに滑走し、もう一度、ジャンプ。

　音階を登る、荘厳なるテノール。

　クライマックスに向けての躍動（やくどう）。

『美しいスピンです。これこそが彼の真骨頂――』

　ラストのコンビネーションスピンに入ると、ビブラートの波はいよいよ最高潮に到達する寸前だった。ふたつの魂が、精神よりももっと深いところで縒（よ）り合わされていく。

――Ed il mio bacio scioglierà！

　身体が指先から神の息吹（いぶき）に変わっていくのを感じる。

　それは情熱の塊になりごうごうと渦を巻き、会場をまるごと飲み込んだ。

　拍手が湧き上がる。

　歓喜に満ちた喝采（かっさい）が鳴り止まない。

　喝采が、鳴り止まない！

――今、すべての魂に、同じ瞬間を共にした奇跡を突きつけてやる。ここに永遠があると証明してみせる！

――All'alba vincerò！

　最後の一節をパヴェウが歌い上げた瞬間、俺はダンッと片足を氷上に叩きつけた。

　音楽が霧消（むしょう）する。

　一切の名残を留めずに。

　＊

　沸き起こる歓声も拍手も、どこか遠くの方で聞こえていた。

　客席を埋め尽くすスタンディングオベーション。

　次々と投げ込まれるギフトの雨。

　パヴェウ。

　身体中が熱に浮かされていた。

　茫然としたまま振り返った先に、リンクサイドが見えた。

　コーチが涙を流しながら、手放しで喜んでいる。

　隣にぽっかりと空いた空間にはもう、誰もいない。

　俺はもう一度前を向いて、世界中から注がれるあらゆる情熱のただ中に立ちすくみ、天を仰いだ。

　永遠はここにある。

　そうだろうか。

　そうであるといい。

　さようなら、パヴェウ。

　俺はもう振り返らなかった。

　そうして力強く氷を蹴り、皆の待つキスアンドクライへと滑り出した。