幼年期の終わり

 ◇


 激しい動悸がしていて、イオンは尻餅をついた。現実に戻っていた——〈インヴィジブル・ケージ〉を使おうとした瞬間だった。何というか、それは今。

 使えるようになっていた。

 その独特な感覚は……今までなかった腕が一本、身体に接続されたような。その腕が掴み、操作するのは——〈人間の集合無意識〉。


 あの世界は……——〈仮想の五感〉で体感できる人間の願い、想い。願いを汲み上げて世界を創り、そして『仮想現実を現実にする』には、その在処である無意識を操る能力がいる。無数の触腕……フィラメントが描かれたカードが、自分の一部になっているのをイオンは感じた。

 得たのだ……使える。


「……生きてるよね? 見た目、生き生きとしてないけど……遊生?」


 それがそういう代物であると、あの世界で初めて手にした瞬間から——〈仮想の五感〉に情報が流れ込んで来ていた。だから、真希人さえいなければ、イオンはカードを放棄したはずだったが。

 立ち上がって周囲を探すも透宮はいなくなっていた。帰ったのか……? 残り二人は、明らかに意識を失調し、呼びかけても反応がなかった。



 帰ろう……。既に、真希人の記憶は戻っているはず。だが、一度に大量の記憶が流入したせいで、しばらくは使い物になりそうにない。遊生の方は、透宮がいないことからしてデストリップを食らったのか?

 透宮も、記憶を失う前の遊生も、もしかしたらアラン・プラデシューも……カードを持っていたはず。



 一抹の不安——否、疑問が残った。しかし真希人が回復すればそれも明らかになる。だから。


 終わったのだ。——。世間的にはUWEの——〈ゼノリアリティ・アウト〉、イオンにとってはその少し前から始まって、水面下で世界を揺るがした騒動は全て。

 誰も知らないだけで、きっとこういう……極限られた人間しか関わらない重大事件は、至る所で起こっているのだろうと思う。


 終わったはずだった。しかし。マシュマロなど焼きつつ。真希人の焚き火の跡に火をつけ、ピザがギリギリ宅配圏内だったので串に刺し、炙って食べる。

 翌朝、爆速で家に帰った。朝になっても二人は起きて来なかったので、死んだ可能性が若干あった。家着。ドレスを脱いで髪を解き、サンダルだけ履いたまま全裸でシャワーに直行し入浴一時間半。ヘアケアなど諸々二時間。ベッドでしばらくもぞもぞすると、冷蔵庫によってからサウナへ。本体が行動中、分割した無数の別人格はVRゲームのプレイと各種制作、遊生から奪った(どうせ本人は忘れているし、人気ゲームのIPは捨てがたく、コアーズを探したのも本当の目的は回収)——〈新生! イオンラウンド・コロシアム〉の運営に追われる。


 正八角形、しっとりとした白檜の温もりの空間。室の入口の床にはたった二段だけ下り階段を設け、地上とレベルを隔絶。サウナストーブは中央に配され、ロウリュのアロマウォーターの香気——。

 冷蔵庫からアイスベールに入れて持ち込んだエナジードリンクを全裸で浴びる程に、ストーブへ草などを焚きながらキメる——。


 ——。



 ——全身が痙攣して、目が覚めた! 失禁しながらダッシュして、室の外のシャワーの所まで行くと、日焼けしたみたいに赤くなった身体から白い湯気が立ち昇っている。鏡の前でぺたん座りする。

 やや漏れだったのを音を立てて本失禁した——サウナから点々と漏らしてきたのを、全放出する。『おしがまサウナ(最近開発されたエクストリーム競技であり、本来は——〈おしがまサウナ対決〉。多人数戦で行われる。通常のおしがまと異なり、ある一定のラインを超えると制御不能)』、失敗。

 死体のようになって手をのばすと、シャワーを出して床に突っ伏した……十五分かけ、床に流れる冷水を徐々に啜り。


「〜〜っ、と〜とのうーっ。——。……?」


 そろそろ、引っ越しの必要があった。床に足の踏み場がなく、所々に謎めいた液体が溜まっている。だが正気を取り戻して蘇生すると、ラウンジに戻った時に幾つかのことに気がついた。

 事件は終わった。

 間際、あの世界のルールをイオンはケージで改変し、HPがゼロになっても死亡しないよう変更した。不明な点は、だから真希人から聞き出せばいい。

 そもそもしかし、終わったのだ——不明のままでも良いと考えてもいた。——。



「——?」



 何か、地鳴りのような感触があった。地面、窓……? マンションは地上四九階。警告のような音がどこか——もしかしたら脳内から、延々と聞こえた。何だ。

 それに。

 終わっ——た?


「キューブだ——」


 ——〈イマジナリー・キューブ〉。記憶を失う前の暁遊生から渡された立方体が、ラウンジ。部屋の出口と、その他色々な場所へ向かう中央に、立ちはだかるように置かれてあった。

 よろめいて、イオンは全裸にサンダルのまま床に尻餅をついた。何なのか考えたくない、床に溜まっていた粘液のような腐敗した臭い濃汁が顔まで飛んで半身がべとべとになる。

 再生される。自動的に……。


『ゲームクリアおめでとう。……あんたがこれを見ているということは——俺のゲームが最終段階に入ったか、非常事態が起きたってことだ。実際には、どっちにしろ非常事態が起きてる! それを検知して、再生されてるんでな。今、あの世界は崩壊し——〈インヴィジブル・ケージ〉は誰にも、二度と使えなくなったはずだ』



 え……?



 それは、——確かにそうなるはずだった。ヴィジョンと会話は通じないが、これを撮った遊生は——透宮をイオンが倒し、あの世界の真実を知ると、そう思っていたはず。

 けど実際は……イオンは透宮を倒していない。あの世界では。——〈ブラックラースインクリーター〉のブースターモードで、だから——まだ使えるはず。透宮は記憶を失っておらず、カードを今も持っている。



『俺が、唯一恐れていたのは——』



 ヴィジョンは言う。だが……イオン自身も、ケージを使える。確かに、そう。もし、彼の想定の通り——『透宮を——〈アビス〉で倒し、真希人が最後に現れなければ、イオンはケージを放棄していた』。誰にも使えないようになっていたはずだが。



『——二周目のプレイヤーに、あんたが会ってしまうこと。つまり。ゲームオーバーになって記憶を失ったけど? もう一度あの世界に来た、そういう二周目のプレイヤーと出会うことで』


『その概念を知ってしまうこと。あんた自身が——二周目のプレイヤーだということに、気づかれること』



 床の液体を舐めると甘い刺激が痛烈に、感覚を覚醒させた。嘔吐しそうになった。まさか……。

 それにはイオンは気がついていた。気がつく……否、寸前までは行っていた。

 ・透宮は、どうしてイオンを知っていたんだ?

 ・一人足りない。


 ——〈アビス〉は、極端に広大な世界だ。一周目の遊生たちは攻略のために——〈ブラックラウンド〉というゲームをつくる必要があった程。

 最初の呼び名——〈裏VR世界〉を、

 ——〈裏側のブラックラウンド〉と思わせ、

 騙していたから、管理者の遊生たちはそう呼ばなかった。そして……——一方。



 自信があった。



 遊生には——〈ブラックラウンド〉が必要だとしても、イオンなら一人で誰よりも先に、あの世界を攻略できたはずだ。

 けど。



『でもそんなことは起こらない。UWEの前日にRTAして、あの世界にいたプレイヤーは俺が一人残らず殺した——〈爆縮レンズ〉、ありがとう。それで十分だったよな? あんたなら、万が一透宮に一度負けたとしても、一週間もあれば攻略できる』



 遊生は、イオンが透宮に負けるとは微塵も考えてない。

 彼らが第百層に辿り着いた時、そこにいたのは一周目のイオンだったはず——。


 ——違う。


 違う、違う違う。遊生の目的は、『透宮をイオンに倒させて、あの世界を破壊。仮想現実が現実になるのを阻止すること』。それは絶対に間違いないのに、何故一周目……先に辿り着いたイオンがケージを破壊していないんだ?


『だから、思い通りになったはずだ。全ては——俺の。一周目のあんたの強さからして、透宮には絶対に勝てる。勝ったよな? じゃ、最後に俺からあんたへプレゼントがあるんだ』



 壊すはずだ。イオンが——あの世界の真実を知れば(そして、一周目の段階では誰よりも早く知っていたはず)誰にも使えず、二度と生まれないようにしていないのはおかしい。

 絶対に壊すはずなのだ。だって……。


『一個前の動画で言ったよな。——どっちが良い? って。仮想現実が現実になるか、永久に今のままか。俺からしたら、透宮を倒すだけじゃダメ。あんたには、ケージを壊して貰わないと』



 ——。



『あの動画で言ったように、今がかけがえのない素晴らしいものになれば、一周目でケージを守ろうとしたあんたは……心変わりしてくれるかどうか? わからない。あんたは誰より、皆と同じになりたかったはず。むしろ疑わしい——じゃあ、どうしたらあんたはケージを破壊してくれる?』


 ⁉︎


『仮想現実が現実になり、誰もがそこで——〈誰でもない誰か〉になる。そうなることができる手段を、あんたが自ら破壊する状況があるとしたら、せっかくそれが手に入ったのに、もう使えない。使う意味がない時だろ?』


 遊生はケージを使える。地鳴りと羽音が周囲で大きくなっていた——何か来る。



『もうわかっただろ——?』



 自分でも、一応不思議には思っていた。『何故許されるのか?』、と。普段はまだしも——〈ゼノリアリティ・アウト〉は七万人もの。



『ゲームクリアおめでとう‼︎ というわけで、俺からのクリア特典プレゼントは——『その後の世界』だ! あんたの脳は酷使されているが、医学的には健康そのもの。ケージでそこを変えていた。一年間で寿命が尽きてしまったりしない。しかし俺はあんたのせいで、一人残らず仲間という仲間を失ってしまった……』



 自分が死ぬと思っているから。世界がどうなろうと関係ないから。

 否——自分が退場した後で、全てが望んだ通りになるというから、嫉妬でそれを破壊するのだ。

 ドガッ! と轟音がした。どこかの部屋で窓が破られ、大量の足音。そして警察ヘリの鳴らすローター音とサイレンがけたたましい勢いで鳴り響いて——。


『だから、ペナルティを貰う。あんたはもう——『許されない』。この動画が再生されている時点で、俺がケージを使ってやった改変は全て元に戻っている。それが誘発トリガーになってるんで。あんたはケージを使えないよな⁉︎』


 ——ラウンジのドアが、外から開き……重武装の警官隊が全裸のイオンを見た。サーチライトにも、照らされる。

 『どうしてこんなことをした!』

 『死ぬと思って……』

 そんな言い訳が通じるかな——? とヴィジョンが大笑いして消えた。イマジナリーキューブのあったところに、一台のダイブ端末だけが残っていた。


 しかし——使える。


「……」


 思いっきり嘔吐した。座り込んだまま吐いて、まず膝の上が吐瀉物まみれになる。

 床の液体とマリアージュしながら、床に手をついて体勢を変えて吐き切る。もう出なくなると、水溜まりに顔からいきそうになった。耐える。

 耐えた……息を整える。

 イオンは立ち上がると、周囲を見回して言った……。



「——もう一回シャワー浴びてくるから、この辺の掃除とお片付けやっといてくれる……?」


【了】

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ゼノリアリティゲーム・オンライン 神乃 遠近 @MrAlexanderDeLarge

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