#13 卒業

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【卒業】

 1967年 アメリカ映画

 監督:マイク・ニコルズ 出演:ダスティン・ホフマン キャサリン・ロス アン・バンクロフト

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         ◎


 ゆるやかな風が街を和ませる季節になった。

 桜前線が日本列島を北を目指し駆け抜ける中、それに追われるように各地の学舎では卒業式典が催された。


 幸生の高校でも、3月中旬の晴れた日に卒業式が行われていた。

 この地にはまだ桜前線は押し寄せてはおらず、蕾の膨らみ始めた程度だったが、道端の草の芽吹きや野鳥の囀りから、春はもう街の所々に気配をあらわせつつあった。


 普段はルーズに着こなしている生徒たちも、この日は曲がったネクタイも整え、正式な着方で式に臨んだ。



 幸生は一浪が決まった。

 この1年、身辺で起きた様々な試練は、少なからず幸生の心に影響を及ぼし、学業にも身が入らなくなっていた。志望だった東京の大学も受験したが、試験が終了した時点で不合格は覚悟した。




 式次第がすべて終わり、講堂の出口で幸生を見つけたヘンリーが呼び止め、


「で、どうすんだ?」


 と幸生を問うた。進路のことを訊かれているのは明らかだ。

 幸生は当たり前のことを回答した。


「どう、って――浪人生だから、予備校に通うさ」


「こっちでか?」


 返された幸生は黙ってヘンリーに笑みを返した。それが答えだった。

 東京で下宿しながら来年の受験に臨むつもりだった。

 ヘンリーがそれを覚り返答する。


「そっかぁ……東京かぁ。映画館がいっぱいあるから、勉強するヒマなんてなくなるぞ。井崎の二浪は決定したようなもんだな」


「二浪なんかしねぇよ。ぜったい」


 幸生がついムキになって言葉を返す。

 それを無視し、ヘンリーが自分語りを始めた。


「大学なんかどこでもおんなじだろー。ま、俺は大学の肩書なんて、就職するときの優待クーポンみたいなもんと思ってっからなー」


 安全牌を選びあっさりと競争率の低い地元の不人気校への入学を決めたヘンリーがそううそぶく。


「お前――ただ自慢したかっのかヨ……」


 幸生が言い返しかけたところで、その遣り取りを遮り、ヘンリーが幸生の肩越しに視線を投げ「おっ」と呟いた。


 ヘンリーの眼を追って幸生が振り返る。

 ハイネがそこに立っていた。



 戸惑う幸生にハイネのほうから歩み寄り声をかけた。


「あの……卒業、おめでとうございます」


 ハイネと言葉を交わすのは、あのとき以来だ。

 どう応じていいか硬直していると、ヘンリーが背中を押して促した。

 幸生はようやく言葉を発して、


「あ・ああ……さんきゅ」


 と短く答えた。

 ハイネが口籠りつつ続ける。


「その……今まで、ありがとうございました」


「こっちこそ……ありがとう、ハイネ」


 短い言葉の交歓だったが、凍りついた二人の間柄を解かすには、今はこれがせいいっぱいだった。



 言葉詰まったハイネを気遣い、幸生が声をかける。


「C5……エントリされるのを祈ってる」


「きっと。約束します」


「言ったな」


 そう言い返したものの、幸生は心で思っていた。



――梯映日かけはし はいねは、この映画研の中興の祖になるんだ――



 この1年余り、ハイネとはまったく口をきかなかった。

 最後の最後で、ようやく氷解の端緒を掴んだ二人の心は、ふたたび微かに通じ合った。



 かつての仲間に囲まれて、幸生は思った。



 ヘンリーがいる。ハイネもいる。

 だが、ここに菜津はいない。


 幸生はこの十字架を生涯背負っていくことを改めて覚悟した。







 翌年。

 C5には、『梯 映日』の名があった――



    *   *   *



 桜は秋彦の待つ大学への進学が決まった。

 これから秋彦との大学生活が始まると、心弾ませた。



 3月末。

 残り短くなった春の休みを利用して、秋彦は桜を連れ出した。


「どこに行くの――」


 桜は行き先を教えられていない。


「合格のごほうびだよ」


 秋彦はそれだけを伝えて、「ゼミ仲間から借りたんだ」という軽自動車で桜を迎えに来た。待ち合わせたのは、初めて誘われたときの城跡のある公園の入口だった。


 秋彦はかなり早い午前の時間を指定してきていた。

 待ち合わせ場所に到着した桜は、空を見上げ深呼吸をした。雲ひとつない快晴。気持ちのいい春日和だった。

 桜をピックアップした車は、秋彦の運転で市街を通り抜け、鉄道沿いの道路から逸れ県道に入ると、桜の座る助手席側に日本海が見え隠れしてきた。左前方に巨きな観覧車が視界に昇ってくる。

 車は更に脇道へと入り、その観覧車を目指して行くようだった。


「遊園、地……?」


「そ。遊園地」


 桜の思わず口に漏らした呟きに秋彦が答える。


 観覧車を右手に眺めながら回り込み、海沿いの駐車場に車を停めると、秋彦は桜の手を取り海岸へと降りていった。


 車外へ出ると、昼前の時間となり、気温もぐんぐんと上昇してきいた。

 穏やかな風が頬へそよぐ。心地よさが桜の全身を包んだ。


 こんな町外れの場所にも拘らず、周囲には親子連れやカップルの姿がかなりあった。春休みとはいえ予想外の人の数がここを訪れている。

 子供たちは海岸で貝殻拾いをしたり各々勝手気儘に遊んでいるが、大人たちやカップルは皆一様に海の彼方、遠くの水平線を眺めているようだった。


「なにしてるのかな、みんな」


 桜が不思議に思い秋彦に問いかけると、秋彦は思わせぶりな雰囲気で


「ま、もうしばらく待ってみようよ」


 と焦らすように返した。


 仕方なく、桜は黙って周囲と同じように海の遠方を見詰める。


 視界に広がる日本海には、ぽつぽつと漁船が浮かぶ。その手前を大きな客船が通過する。きっと夜にはイカ釣り船の漁火がこの海に群れなしているのだろう。


 桜がそんなことを連想していると、水平線が歪んで動いているように思えた。


 目の錯覚か? と考える矢先、隣にいた秋彦が


「ホラ――」


 と桜を促した。


 桜の目に入る水平線際の客船がぐんぐんと縦に伸びていく。これまで無かったはずの島のようなものが浮かんでくる。東大がにょきりと立ち上がる。それらがゆらゆらと揺れダンスを踊る。


 驚く桜に秋彦が


「蜃気楼だよ」


 と答える。


「蜃気、楼――」


 秋彦が持参していた双眼鏡を桜に渡す。レンズを通して見た蜃気楼は更に動きを微細に観察できた。

 桜が思わず感嘆の声を漏らす。


「すごぉい……」


 水平線の陰は常に形を変え、桜の目を幻惑させた。


「昔の人は、っきなハマグリの吐く息が作った幻だと思ってたんだって。蜃気楼の『蜃』て、そのハマグリの妖怪なんだ」


 秋彦が薀蓄を披露したが、桜は眼前の風景に魅せられていた。



 桜だけではない。この海岸にいま居るすべての観客が、この妖怪の吐く息の幻の楼閣に魅了されている。


 暫くその風景を堪能していたが、やがて出現したときと同じように水平線に出現した島は薄まっていき、海岸の観客たちも次第に立ち去って人数が減っていった。


「これを、桜に見せたかったんだ」


 秋彦がそう言い、桜の背に手を回すと、揃って車へと戻った。


 車内に入りエンジンを回すと、来た道を戻りながら秋彦が


「もっとも、ぜったい確実に見られる保証は、なかっんだけど、ね」


 とちょっと舌を出して口角を上げた。


「ありがとう。うれしい」


 滅多に見れない自然現象に遭遇させてくれた秋彦に、桜は感謝した。


「僕のお陰じゃないよ。たまたま天気や気温がそういう条件になってくれて、偶然うまく出現するのが見られただけさ。――ま、感謝するなら、僕より神様に、かな」


 それでも、この偶然が重ならなければ、蜃気楼を見るという奇跡にも出遭わなかったろう。

 桜は改めて感謝の思いを募らせた。




 観覧車の裏側の駐車場に戻りエンジンを切ると、秋彦はまた桜の手を引いて


「あれに乗ろっか」


 と、正面に聳える観覧車を指差した。


「うんっ」


 桜も応じ、ふたりはやや小走りに『ミラージュランド』と看板に書かれたゲートをくぐり、その巨大な輪に近づく。

 麓まで近寄ると、改めてその高さに驚かされる。


 見上げながら秋彦が


「日本海側では、いちばん大きな観覧車なんだってさ」


 と、事前に調べた情報を桜に話した。


「へえー……」


 自分を悦ばすためにいろいろと調べてここまで誘ってくれる、秋彦の心配りがくすぐったかった。




 係員の促した籠に入ると、外からガチャリと閂がかけられ、そのままぐんぐんと籠が円弧に沿って上昇していく。


 施設内の地上の遊具がどんどんと視野から下がっていき、桜たちの視界に空と海の交わりが拡がっていく。


 彼方を見遣ると、先ほどの蜃気楼がまだ名残を揺らし、蔭が絶えずくっついては離れを繰り返している。


 桜はまた見惚れてしまった。


 ――蜃気楼――ミラージュ――


 光の屈折が生む現象。


 知識として理解はしていたが、それを目の当たりにすると、異世界の扉が開かれたような印象だった。


 籠が円の頂上ピークに到達するとき、桜は秋彦に向き直り


「きょうはありがとう。ホントに」


 と礼を述べると、秋彦に口吻くちづけを寄せた。


 小さな籠の中で秋彦の腕に包まれ、桜は満ち足りた心を抱いていた。



 来週からは桜は大学生となり、

 秋彦と同じキャンパスへ通うことになる。


 愛する秋彦と、ずっといっしょにいられる――





――きっと今が、自分の幸せの頂点ピークなんだ。


  ずっとこのまま、この幸せが続けばいいのに――






 観覧車の籠が下まで降りてきた頃、水平線に漂うハマグリの吐く虚影もしずかに消えていった。



    *   *   *



 大学の最寄り駅、改札の頭上の梁に燕が巣作りをしている。ひっきりなしに親燕が出入りし巣の雛たちの口に獲物を運んではまた翔んでいく。巣の下には『ツバメの巣があります “落とし物”にご注意ください』との掲示。

 “落とし物”の箇所の下に赤の二重線が引かれ目立つようにされている。


 この駅では長年の恒例となっている、と秋彦が教えてくれたとおり、通勤通学で利用する人々にとっては日常に溶け込んだ風景なのか、雑踏の合間を縫うように飛び交う燕たちを特に気にするふうもなく巣の下の改札を往来していく。



――これから4年間、ここに通うことになるんだ――



 そう考えるだけで桜の足は地面から浮き上がりそうだった。

 駅から大学へ抜ける商店街は、あたかも学園城下町の様相を呈し、胸弾む桜を出迎えている。


 輝く未来がこの商店街の突端にある。

 桜はそれを信じて疑わなかった。



 大学の正門をくぐると、サークル勧誘の洪水が新入生に押し寄せる。

 高校でも入学式の際に似たような光景はあったが、大学となると学生数も増し、サークルの数もケタ違いに多い。目的の学科棟に辿り着くまでに桜の両手は部員募集のチラシでいっぱいになった。


 新歓の洗礼を受けながら、桜は、いよいよ大学生活が始まるんだな、と思った。


 スロープのある大教室。


 新入生のためのオリエンテーション。


 どれもが桜の新たな門出を祝福しているようだった。



 大学では第二外国語にフランス語を選んだ。


 どうしてフランス語に興味をもつようになったのか――

 桜もその動機のみなもとを忘れてしまっていた。



 桜は毎日秋彦とLINEで会話した。

 大学構内は広く、学部も違う秋彦とはキャンパス内で遭うことは稀だったが、会おうと思えばいつでもすぐ会える、という安心感が桜にはあった。


 秋彦も新年度でカリキュラムの選定や、4年になって始まったゼミへの日参、加えて就活の準備などでなかなか時間がとれない、とLINEで愚痴を綴っていたので、桜も「そんなものか」と納得するしかなかった。




 けれど、気が付けば、あの蜃気楼を見て以来、ふたりきりでは過ごしてはいない――



 合格以来、大学の話をするたび、一瞬秋彦の表情がかげるのを、桜の心は瞳に覆いをし、見ないフリをしていた。


 

    *   *   *



 新入部員勧誘のためのオリエンテーションの一環で、映研サークルが過去作品の上映会を開催した。


 桜の出演した一昨年の作品もプログラムにラインナップされている。



 秋彦からは特に誘いのメッセージはなかったが、キャンパス内のあちこちに貼られている上映会告知のチラシやポスターで桜はこのイベントを知った。



 桜は上映会に行くことにした。



 会場となっている教室に着くと、一昨年の撮影の際に顔馴染みになった部員の何人かが桜に声をかけてくれた。


「ひさしぶりだね、桜ちゃん。来てくれたんだ」


「うんっ」


 会話の雰囲気から、どうやら部員たちは桜がこの大学に入学したことを知らない様子だった。


「あたし、ここのメディア創造科に入ったんです」


 桜のほうからそのことを告げると、部員は


「えっ」と戸惑いの表情を現し、「そ・そうなんだ……おめでとう」と、気まずさを含みながら祝福の言葉を述べた。


「ありがと」


 そう返したものの、桜もいまひとつスッキリとはしないものが残った。

 桜が改めて訊ねる。


「あの、きょう元川さん――は?」


「あ? ああ――きょうはゼミがあるって言ってたけど……後から来るって話だったよ」


「うん。わかった。ありがと」


 話を了えると、桜はやや後方、右寄りの席へと着いた。

 座りながら、なんとなく歯切れの悪い今の会話が引っかかっていた。



 教室の明かりが消され、スクリーンにこの映画研のロゴが映しだされ本編が始まった。

 幾つかの過去作品の短編の後、桜の主演した一昨年の作品が始まった。

 C5という、大手シネコンの映画祭で上映された作品ということもあって、これを目当てに来場した外部の観客もいたようで、場内の反応も悪くない様子だった。


 各作品の合間に短い休憩が入り、場内が明るくなるたびに桜はぐるりと見回してみたが、まだ秋彦は来場していないようだった。



 昨年度に秋彦が監督を務めたものも上映した。

 主演は、桜の知らない女性。


 この作品を、桜は初めて観た。


 これまで秋彦がこの映像を桜に見せたことはなかった。



――そういえば、どうして私にこれを見せてくれてないんだろ……



 桜はふと疑問を抱いたが、すぐに「きっと、自分も受験で時間がとれなかったから見せる機会がなかったんだろう」と自分を納得させた。



 やがて桜はその理由を知ることになる――



    *   *   *



「荻野――桜、さん?」


 終映後、背中から突然女声で自分の名を呼ばれ、桜は振り返った。

 桜の目に入ったのは、今の映画に出ていた女性の姿だった。


 なんで自分に声をかけたのだろう。

 戸惑う桜にその女性が歩み寄り自己紹介をした。


「始めまして――よね? あたし、2回生の北見早季です。」


 桜の手を握り、早季が畳み掛ける。


「荻野桜さん、でしょ? 一昨年の秋彦の映画に出てた――」


 『アキヒコ』と呼び捨てにする早季の口調が、彼との関係を如実に示していた。


「あれ? 来てたの?」


 桜が早季に挨拶をされていた直後、馴染みのある声が背中から聞こえた。

 秋彦だった。


 桜よりも早く、早季がその声に反応した。


「あンっ、秋彦ォ、きょうは上映会に出れないって言わなかった?」


 早季に言われた秋彦は、ややバツが悪そうにチラと桜に目を送ると、


「いや、出ないとは言ってないし――ただゼミがあるから遅れて行くよ、って伝えたハズだけど?」


 と早季の問いに答えた。


「え~、そぉだっけ?」


 早季が馴れ馴れしく秋彦に言葉を返す。

 置き去りにされたままの桜の固まった態度に気付いたか、改めて秋彦が桜のほうに向き、


「あ……もう挨拶し終わったの? こいつ、サークルの後輩。2回生の北見――」


「――早季です」


 秋彦の言を遮り、白々しく早季が再度自己紹介する。

 ぺこりと軽く会釈した早季を確認し、秋彦が続いて桜の紹介に移った。 


「――で、こちらが荻野桜さん。えと――一昨年の僕の映画で……」


「観たから知ってる。あの女子高生さんよね?」


 間髪入れず早季が言葉を差し込んだ。秋彦がやや面食らいつつ、


「そ・そう」


 と応えた。

 紹介された桜は早季にぺこりと頭を下げ、挨拶を返す。


「はじめまして」


「ヨロシクね、荻野さん」






 早季が教室の前方、スクリーンのほうから他の部員に「おーい」と呼ばれ、秋彦に「じゃ」と軽い言葉をかけると声をかけられたほうへ去っていった。

 離れ際に桜にも


「またネ、荻野さん」


 と短く手を振るのを忘れなかった。



 早季が向かった壇上では、映画研のメンバーたちが機材の片付けを始めている。数人がこちらを向いた際に秋彦を見つけ、軽く頭を下げた。秋彦も片手を上げ挨拶を返した。

 うち何人かは桜も知ってる部員だ。桜を発見し両手を大きく振る者もいる。桜も笑顔を返した。


 秋彦が目配せで桜に合図し、教室の外へ連れ出した。


 大教室から出たところで、秋彦が桜に


「ちょっとコーヒーでも飲もっか」


 と誘い、いちばん近いカフェテリアへと足を向けた。




 学部研究棟の半地下になったフロアにカフェテリアがあり、学生たちの憩いの場となっている。

 土曜の午後のこの時間はもう軽食と喫茶のみの営業となっており、フロアのテーブルも空いていた。

 秋彦は窓際のテーブルへ桜を誘うと、椅子を引いて桜を座らせ


「ホットでいいよね?」


 と言い、セルフカウンターにコーヒーを購入しに行った。



 待つ間、桜は窓から外の風景を眺めた。


 ここのカフェテリアに入ったのは初めてだ。

 自分の学科棟からはやや離れているし、一昨年の撮影のときは夏休みだったので、ここは開いていなかった。


 崖に立つこのカフェの窓から見える景色は広い視野が拓け、遠方の街々の風景も臨むことができた。山のほうに位置するこの大学なら、晴れた日には湾まで見渡せるかもしれない。

 素敵なロケーションだな、と桜は思った。



――こんないい雰囲気の大学に通えるなんて、夢みたい……



 もちろん、桜が夢見心地なのは、この立地からだけではない。

 これからの大学生活を夢想すればするほど、桜は多幸感で満たされた。




「おまたせー」


 秋彦がコーヒーを2つトレイに載せて戻ってきた。

 カップの脇にはちょこんとチーズケーキが2個、ベイクドとレアの2種類が並んでいる。


「桜はどっちにする?」


「えと……じゃあ、レアチーズのほう」


 桜の返答を聞いて秋彦がレアチーズケーキを桜の前に置く。

 トレイをテーブルの真ん中に置き、コーヒーカップを分けた。


 桜は自分のカップに砂糖とプチカップのコーヒーフレッシュを2つ入れ口をつけた。

 秋彦はブラックで飲んだ。


 一服して、秋彦が桜に訊ねた。


「そういえば、サークルはもう決めた?」


 飲んでいたコーヒーをテーブルに置き桜が答える。カップがソーサーと接触しカチャンと高い音を立てる。


「映画研に入ろうと思ってるんだけど――いい?」


 口に運んだカップをいったん離し、秋彦が言う。


「べつに、僕にわざわざ断る必要ないだろ」


 秋彦のやや尖った返しに、桜は少し躊躇いをみせた。


「だって……」


 桜が何か言いかけようとしたが、次の句が告げなかった。

 そもそも何を口にしようとしたのだろう。桜にも分からなかった。


「――桜がそうしたければそうすればいいさ。僕なんかに気を使うことなんてないよ」


 何故か強い語調の秋彦に、桜はたじろいで俯向いてしまった。




 そのまま少しの間が過ぎ、


「……うん……」


 桜はゆっくり、こくりと頷いた。




 好きだったはずのレアチーズケーキが、苦く感じた。




 結局、桜は映画研サークルへの入部を決め、活動に参加するようになった。

 一昨年に参加した撮影の際のメンバーのほとんどは4回生となり、サークルの中心部員ではなくなっていたが、3回生になった顔見知りの何人かは活動に顔を出していた。桜もそんな彼らを頼りに、他の新顔らと時間を経ずに馴染むようになった。


 なんといっても、あのC5で上映された作品の主演女優だ。入部の時点から桜はその顔を知られていた。




 だが、あれほど楽しみにしていた映画研サークルに入部したものの、

 心弾ませた桜の期待した場所とは違っていた。


 活動そのものは活気があって楽しい。部内の雰囲気もいい。


 けれど。


 “伝説の主演女子高生”の入部ということで、サークルではウエルカムで歓迎されたが、桜の心は寂しさが宿るようになった。



 なにより、秋彦が活動に顔を出さない。



 他の4回生は学内にいればゼミの合間に部室に来てくれるものの、秋彦はほとんどそんなことはないままだった。


LINEでメッセージを送っても、『既読』は点くがレスを返してくれることが減っていった。次第に『既読』さえ点く間隔が開くようになっていった。


「あたし、避けられてんのかな……」


 桜は必死に心に湧いた疑念を振り払おうとしたが、消そうと思えば思うほど、その暗い考えは膨らんでいった。




 5月を迎え、サークルは次の映画の準備を始めた。今年は3つの企画を同時に進めていく。スタッフを招集する中、桜もそのひと組に加わった。


 一昨年の撮影時と比べ、部員数は倍増していた。これも秋彦がC5への出品を遂げた波及効果らしかった。複数の企画の同時進行は、部員を多く抱えてしまったサークルができるだけ各メンバーに制作の機会を与えようという苦肉の策でもあった。


 企画が3つも立ち上がれば、自ずと使える予算も3分割される。各々の作品の規模は縮小され結果として前年度までのような“ひとつの企画に皆で注力する”といった体制は崩れてしまった。大所帯ゆえのジレンマだった。


 加えて、根っからの映画好きだけではなく、C5出品でメディアにも露出したことで「このサークルに入れば目立てる」といった下心が勝るメンバーも抱えてしまうことになってしまった。

 桜が一昨年に見、憧れたサークルはいつしか姿を変え、歯車は軋みの音を呻らせ始めていた。




 2回生の早季もまた、C5での上映で興味を持ち次の年に入部してきた組の1人らしかった。


 桜は早季とは別の撮影班での制作となった。

 班も違っていたため、桜と早季は同じ映画研にいながらあまり接触の機会がなかった。


 別に避けているわけではなかったが。

 ただ、互いに特に興味のある存在ではない、といった感じだった。

 内向的で引っ込み思案な桜に対し、社交性に富み溌剌とした早季。性格的にも接点が見出だせる要素はほぼ無かった。


 人見知りせず誰とでも気のおけない早季は人気があった。


 早季の仕草は嫌味がなく、サマになってカッコよかった。

 サークル内でもかなりの男性が早季に熱を上げているようだった。


 そんな早季を、桜は後輩の視線よりも羨望の眼差しで見ていた。




 早季は喫煙者だった。

 煙草は前に付き合っていた男から覚えたらしい、とのもっぱらの噂だ。


 キャンパス内の喫煙スペースは限られており、そのひとつが桜のいるメディア学科棟の近くにあった。


 早季がよくそこの喫煙所で紫煙をくゆらせている姿を桜はよく見かけていた。

 桜はよく知らないが、あまり見かけない外国産の銘柄のパッケージのものだ。



 ガラスで囲われた喫煙スペースは水族館の水槽のようだった。その広くない空間に押し込まれ煙に巻かれる学生(時には教授連)の姿を眺めるたび、桜は見世物の風景のようだと滑稽に感じた。


 たまに桜が近くを通りかかると、ガラス越しに早季と目が合うことがあり、早季は小さく手を上げて桜に挨拶した。桜も軽くぺこりと頭を下げた。




 そんな日常の或る日、早季が喫煙スペースから通りがかった桜を呼び止め、水槽から首だけ伸ばし唐突に話かけてきた。


「ねえ、桜ちゃん――あなた、以前に暴漢に襲われたことがあるって、ホント?」


「え!?」


 戸惑う桜を置いていったん顔をガラスの向こうに戻し、内側に残した手の中の煙草を一服吸うと、早季はまた顔を出して続けた。


「前にね、秋彦から聞いたことがあるんだ」


「元川・さん、から?」


 自分の口から秋彦のことを『元川さん』と呼ぶことに桜はやや抵抗を覚え、一瞬発音が詰まった。

 だが、桜と秋彦の関係を知らないであろう早季にいちいち説明するのは省くことにした。


 そんなことを桜が思ううちにも早季の話は続く。


「んーとね、以前にどっかのイベントの帰りに、頭おかしいのが襲ってきてぇ――とか?」


 灰の伸びた先端を灰皿に落とすため、早季が一旦奥に引っ込む。指で弾いた煙草から灰がポトリと据え付けの灰皿の中へ落ち、早季がまた出入口へと戻ってくる。


「そンときに、桜ちゃんが、なんか刺されたとか、って聞いてるんだけど――」


「いえ――いやいやいや、それは――」


 桜が遮るのも聴かず早季は語り続ける。


 話が中断する様子もなく、早季が片手の煙草を消そうともしないでいたので、仕方なく桜は喫煙スペースのガラスの衝立の中に体を押し込んだ。


煙が充満している。目に沁みる。桜は煙草の煙が苦手だったが、サークルの先輩に応じるため我慢した。


 水槽の中へ入った桜が話を聴く準備ができたと見た早季がまた話し続ける。


「なんか、ナイフで切られたとか? なんとか」


 煙が目に沁みるのを我慢しながら、桜が答える。


「ちがいますよぉ、あたしは……大丈夫だったんですけど……元川――先輩のほうが……」


「え!? ナニなに、じゃあ刺されたのは秋彦だったのォ?」


「あたしは無傷でしたから」


 それを聞いて早季は両手を広げ呆れたような表情を作った。


「えーっ、あたし騙されたのかなァ。だって桜ちゃんがナイフで刺されて、救急車で運ばれてタイヘンだったって」


「あー、それも……」


「なに、ぜんぜん違うの?」


「ハイ」


「え? ええ!? じゃさじゃさ秋彦どうなっちゃったの?? 大怪我? 死んじった??」



――いや、べつに今も元気なんだから、死んじゃいませんよ~~……



 桜は脳内でそう突っ込んだが、声は出さずにぐっと我慢した。


「ちょっと切られたのは確かだけど、先輩の怪我はたいしたことなかった、です……それに、ナイフじゃなくて、カッターだったので」


 実際に標的になったのは桜自身で、秋彦はそれを庇ったために負傷したことは伏せた。


「なンだぁ。あいつ、ぜんぜん違うコトあたしに言ってんじゃない」


 秋彦を『あいつ』呼ばわりする早季の馴れ馴れしい口調に桜の心は少しざわついた。


「秋ひ――元川先輩は、腕を切られて……」


 『秋彦』と口に出しかけたのを飲み込み、改めて言い直すと、話を続けながら桜は秋彦の怪我をした箇所を自分の左の二の腕で指し示した。


「へえー」


 そう返事をすると、早季は記憶を辿るように視線を仰がせると、思い出したように


「……あー、そういえば、あいつの左肩に、なんか傷痕があったっけ……」


 と独り言のように呟いた。


 早季の何気ない言葉に桜はぎくりとした。


 あの疵は、目立つほどの大きさではなく、肩にかなり近い場所にあって、夏でもシャツの袖に隠れて見えない。



――それを、このひとは知ってる――



 桜の胸がキュンと痛んだ。



 その後も早季は続けて桜に何かを話し続けたが、桜の耳に入ってはこなかった。



 早季が短くなった煙草を灰皿に捨て、続けて2本目に火を点ける。


 うっすらと紫煙で曇った金魚鉢のような空間に、早季の吐く煙が混じり合う。その煙が漂い、桜の顔を撫でていく。

 早季の手の煙草の煙は、この水槽の他の人が吸っているものとは違い、ややツンとした独特の薫りがあった。



 この鼻腔の刺激が桜の記憶の何かに触れたが、そのときは何か思い出せなかった。





 早季が対話で焚き付けたお蔭で、桜はあの事件のことを記憶から甦らせた。


 もう、1年以上も昔のことなのに。



 結局、あのときの少女はまだ捕まってはいない。

 彼女が誰だったのかも、わからず終いのままだった。



――どうして自分を襲ってきたんだろう――



 桜の中で、幾度も巡らせた答えの無い疑問が沈めた闇から浮かび上がり渦を巻く。

 それを思い出すと、録画されたヴィデオが再生されるように、あのときの自分に向かってきたカッターの光が脳裏から蘇る。

 恐怖がフラッシュバックし、桜の頭の芯から心臓へ電流がはしる。

 そのたびに呼吸が詰まり、胸に楔を刺されたような苦痛を感じる。



 忘れたい。



 トラウマを記憶から消そう消そうと努めていた。



 あの事件は、部内でも3回生以上の部員でなければ、知らないことだった。

 桜を気遣う上級生たちは口を噤んでいた。



 なのに。


 どうして。


 秋彦はあのことを早季に話してしまったのだろう……




 怒りや戸惑い・疑心暗鬼が入り混じった感情で、桜は己の躰の芯が小刻みに震えるのを覚えた。



    *   *   *



“話がしたいんだけど いい?”


 どうしても質したくなって、桜はゼミに出ている秋彦を待ってLINEで呼び出した。


“少し遅くなるかもしれないけど、いいよ”


 かなり間を置いて秋彦からの返信が付いた。



 陽が西に傾く頃、ゼミを終えた秋彦が呼び出された大学近くのファストフードに現れた。


 店の入口に秋彦の姿を確認すると、桜は目を逸らし秋彦が来るのを待った。


 秋彦は片手を軽く挙げながら「なに? 話って」と桜に声をかけた。

 秋彦が席に着くなり、桜は矢庭に切り出した。


「きぃちゃんに、話したの?」


 “きぃちゃん”とは部内での早季の愛称だ。


「きぃに? 何を?」


 一瞬、秋彦の目が踊り、何かを誤魔化すようなかおをみせた。

 だが、そのことよりも秋彦が早季の呼称を『ちゃん』付けでなく“きぃ”と呼び捨てにすることに桜はささくれた。



 ひと呼吸し、心を落ち着け桜が言葉を続ける。


「カッターで、襲われた――こと」


「――ああ、あのことか。話したけど」


 桜が、キッ、っと秋彦を睨みつける。


「こないだいきなり訊かれたの。――切られたの、あたしだって思ってたよ」


「切りつけられたの、桜だと思ってるって?」


 ハハハと呆れたように笑いながら、


「あいつ、ぜんぜん俺の話を把握してないんだよなぁ。いっつもそうだよ」


 秋彦の軽い受け応えに桜の苛立ちが増す。


「どうして話しちゃったのよ!?」


 思わぬ激昂した桜の態度に、秋彦がややむくれて返答する。


「どうって――別にいいじゃん、たいしたことじゃないんだし」


 秋彦にとっては『たいしたことではない』らしい。

 それが尚更桜にはショックだった。



――あの娘が襲ってきたのは、明らかにあたしだった――


  そのことを、このひとは気にしてないんだ……




「――もういいっ」


 そう言うと桜は席を立ち、トレイに載ったバーガーの包装の屑やドリンクの紙コップをダストボックスに投げ捨てると、秋彦の制止も聞かず立ち去った。


 去り際に秋彦の横を通り過ぎるとき、秋彦のシャツに残る移り香がふわりと匂うのが桜の嗅覚に届いた。


 桜の中の秋彦の記憶にはこれまでになかった匂い。



――なんだっけ、この匂い……



 記憶を辿ろうと、桜の歩みが束の間だけ鈍る。

 けれど解答は見つけられず、桜はモヤモヤとした疑問を抱えたまま店を出ていった。




    *   *   *



 夏が近づくにつれ、桜が秋彦にLINEで連絡をとっても“就活でヒマがなくて”だの“卒論のせいで時間がない”だのと言い訳ばかりが続き、会う時間を作ってくれなかった。



 前期試験が終了し夏休みに入ると、サークル各班の撮影は本格化していった。



 一昨年の出演の経歴から、桜は主要な役を任されることとなった。

 今年は天気に恵まれ、他の班も撮影は順調に進んだ。



 ロケの合間も、桜は秋彦のことを気にかけていた。

 自分も撮影で忙しいが、もうひと月以上も秋彦とは逢っていない。


 撮影にも立ち寄ってくれていない。



 にも拘らず、部内の噂では、秋彦は早季のいる組へはよく顔を出しているらしい。



――あたしの組には、ぜんぜん顔も出してくれないのに――



 桜の心に、次第に靄が覆い始めていた。





 8月に入った日、桜の組が撮休だったので、手の空いているメンバーは他の組へ応援に散開した。

 撮影が無ければキャストは暇になる。桜は早季の班のロケ現場への応援担当になった。


「ひっさしぶりぃー。桜ちゃんの組はどう? 撮影順調?」


 現場に到着すると、早季が屈託ない笑顔で桜を歓迎してくれた。

 班が違うので早季と顔を合わせるのも久しぶりだ。


「ええ、まぁ――」


「ウチのほうはトラブル続きでねぇー。じわじわ遅れてて困っちゃう。香盤表直すのもうタイヘンよぉ」


 出演と同時に進行担当を兼ねる早季が桜に愚痴を零す。


「ハハハ」と桜が相槌の笑いを返す。


 他の部員から「じゃ、桜ちゃん、きょうはこのカポックお願いネ」と大きな厚手のスチロール製の白い板を手渡された。いわゆるレフ板だ。


 桜も「はーい」と気さくに請け負う。


 渡された物が嵩を取るので、桜は人通りの妨げにならないように脇へ避けた。


 移動する先にたまたま近くにいた早季が台本とポーチを抱えているのを見て、


「きぃちゃん、次出番なの?」


 と桜が言葉をかけると、


「うん。だからセッティング待ちー」


 とややダルな返事が返ってきた。


 カメラや照明の配置が整う合間、早季は準備の邪魔にならないように隅に寄ると、ポーチから携帯灰皿を取り出し煙草に火を点けた。

 ぷぅと吐く外国産の紫煙が風に流れ、カポックを抱えた桜の体にまとわりついた。


 ちょっとクセのある独特の薫り。



 この匂いを嗅いで、桜は、あっ、と気付いた。



 秋彦のシャツに微かについていた移り香。

 秋彦のベッドで感じた違和感。


 それは、仄かな煙草の匂いだった。



 この、


 ちょっとクセのある――




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